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プロローグ(了):CHAPTER3 「赤い空の下で」

「あのさ、」

 俺は、言い訳をしなければならなかった。

「ここんとこ非常にグロテスクな超人バトルを夢で見るんだが……それが本当にバイオレンスというか、刺激が強くてな……」

 いや、言い訳だけで終わらせてはならない。言い訳は、単なるきっかけとする。

「そうなんですか?」

「そうなんです。で、ここんとこ不眠症だったり、昼夜逆転だったりして体調も酷くてな……」

 こうやって、少し事情を分かって貰い、同情させたところで事実を打ち明け、最終的には許されなければならない。

「可哀想。大丈夫ですか?」

「これが全く大丈夫じゃないんだ。……まぁ、何が言いたいかというと、そのせいで今日は何も用意とか――」

「あっ……これ初めて見る! 先輩、こっちの缶も空けて良いですか?」

「――ああ、どうぞどうぞ」

 クリスマスに続いて、誕生日のお祝いまでもが、結局いつも通りの酒飲みになってしまっていた。東京タワーで夜景を見たり、綺麗なレストランで食事したりとか、そういったカップルらしいことは何一つしていない。

 ならば今日、俺は自分の恋人と一緒に一つ屋根の下に居ながら、何をしていたのだろう。それは勿論、"ただケーキ食ってお酒を飲んでいただけ"だ。無駄に大きかったバースデイケーキは食い切れず、既にその残骸は冷蔵庫の中。その後は延々と、俺達は酒を飲み続けている。素晴らしいことに、食ったものがスナック菓子とかではなくケーキだということ以外、何一つとして普段との違いが見つからなかった。

「あ、そこにあるビールの山は全部秋山先輩からのプレゼントだったりする。あとケーキも三分の一は彼が出費してます」

 そして、食ったケーキ、飲んでいる酒すらも自分一人で買ったものではないのだ。恐ろしいことに。

 情けない。彼女の前でなければ泣き叫びたかった。

「そ、そうなんですか? 今電話したら起きてますかね、アキ先輩。ちゃんとお礼言わなきゃ……」

 いそいそと、彼女はハンガーで後ろの壁にかけてあった彼女の上着から携帯電話を取り出し、我らがサークルの長である秋山マナブの電話番号を探し始めた。

「――あ、もしもし? 良かったぁ、まだ起きてたんですね。さっき部長からのプレゼントのことを先輩から聞いたので、お礼が言いたくて電話したんですけど……いえ、私忘れっぽいですから」

 それから数秒の内にあっさりと電話は通じたらしく、慣れ親しんだ仲であるはずなのに随分とかしこまった言葉づかいでプレゼントのお礼を述べる彼女。

 律儀な奴だと思った。それに比べて、自分という男は一体何様のつもりなのだろう、とも。

 今、彼女に贈られた酒を彼女よりも先に飲んでいる男は、今日という日まで自分の彼女の誕生日を忘れていた男でもあり、彼女の誕生日に安いケーキの三分の一しか財産を削っていない男でもあった。

 もし、アルバイト先の同僚であるコウシロウくんが帰り際になって「あ、そういや兄貴。今日ここへの道中で兄貴の彼女とばったり会ったんすけど、誕生日ですってね。おめでとうございます」などと言わなければ、彼女と会うことすらしなかったはずだ。

 そんな男のことを、世間ではろくでなしと呼ぶのではないか。もしそうなら、俺は立派なろくでなしということになる。

 死にたい。……後に遺されて悲しむ人間が居ないなら。

「――はい、ではまた活動日に……あ、そういえば来週の水曜が発表会ですよね? ええ……あ、それじゃあ私、月曜も部室に行きましょうか? 大丈夫ですよ、検診は午前中にして貰いますから」

 彼女が秋山と通話している内に、今一度己に問う。いったい、俺は彼女の何なのか。いったい、彼女は俺の何なのか。

(簡単だ)

 俺は、彼女の恋人だ。交際を始めてから既に一年半も経っている。

 が、それにしては余りにも、俺の振る舞いには欠陥が多過ぎる気がしてならない。今日などが良い例だ。

 バイト先で偶然知り合いから教えてもらい、その帰りに慌てて何かプレゼントを用意しようにも、とっくに近辺のそういったものを取り揃えている店は閉店済み。どうにか知り合いの店に駆けこみ、ケーキを発見するも金欠。友人二人の助力の結果どうにか入手した訳だが、とどのつまり、結局自分の力ではない。

 ずっと前に教えて貰ったきり何も言われず、いきなり今日知ったというのならまだ情状酌量の余地もあるかもしれないが、残念ながらそうではなかった。きっちりと彼女本人からの予告をほんの数日前に受けた上で、この失態なのだ。

(何なんだ、俺は)

 本当に俺は、彼女のことが好きなのか。いや、好きだ。どこがと言われれば出来る限りの最速で全部だと応えられる。――だったらどうして、

「それでは明日の4時頃、部室の方にお邪魔させていただきますね。ではでは……――先輩、ちょっとお酒飲むの止めて貰ってもいいですか?」

「ど、どうした」

 永遠に続く後悔のスパイラルが彼女の声で不意に断ちきられた。それに対し、何も考えずに呆けていたようなふりをして受け答える。

「明日なんですけど、急遽部長のお手伝いをすることになったんです。ほら、コンテストがもう来週の水曜日ですし」

「あ、あー、そういやそんな時期か。『テッケン』が唯一必死になるという……」

 テッケンというのは、俺達の所属するサークルの略称である。正式名称は鉄甲機研究会であって、実は鉄道研究部とは何の関係も無い。ちゃんと説明しないと100パーセント誤認されるので注意が必要だ。

 その活動内容を簡単に説明すれば、怪しげなロボットを皆で協力して完成させ、それをたまに開催されるコンテストで発表したり、展示するというもの。ただ、これはあくまで簡潔な説明であって、実際の活動は非常にマニアック且つ地味で部員も非常に少ない。

 コンテストが予定されていなければ活動も殆ど無いので、在籍しながら活動には殆ど参加せず、部室でだべっているだけの役立たずも稀に居る。俺なんかが良い例だ。退部させようにも、人数によって支給される活動費が増減する仕組みなので、黙認せざるをえないらしいが。

「知らなかったんですか。バレたら殺されますよ。部長に」

「そりゃ二ヶ月はサボってたしなぁ。ケーキ買う時に会ったけど、終始凄い目で見られた」

 それでも、持ち合わせが無かったせいで何もプレゼントを買うことが出来なかった俺に、「勘違いするなよ! 可愛い後輩を、お前なんかのせいで悲しませない為だからな!」などと言いつつ幾らか融資してくれた訳だが。

 あの男も彼女と同じぐらい、とても義理硬くて良い人間だと思う。確実に変人ではあるが、その点で言えば俺も人のことを言えた義理ではない。……激しい劣等感を覚えた。

「寂しいんですよ、部長。何だかんだで先輩と話している時が一番楽しそうですし」

「そ、そうかぁ。あれ楽しそうに見えるかぁ。あれ、でも明日って……午後に検診があるんじゃなかった?」

 なんとなく気恥ずかしさを感じて、元の話題に戻す。

「あ、そうそう、その話をしたかったんですよ!」

 完全に頭からそのことが抜け落ちていたらしく、パチンと両の掌を合わせながら彼女が言う。成績は良いし、礼儀も正しい為優等生に見られがちな彼女だが、その実普段は色々と忘れっぽかったりする。だからだろうか、何となく彼女を一人にしておくのは憚られた。

 今日の俺が言えた立場では全くない訳だが。

「診察は午後の予定だったんですけど、もしその時間に来られないようなら午前中に来てくれても良いと言われてるんですよ。という訳で……」

「へぇ、何時頃行けば良いんだ?」

「9時から11時半までならいつでも良いそうです」

「そうか。なら――」

 病院は彼女の家からは近いが、俺の家からはそれなりの距離があり、余裕をもって行くならば、到着したい時間よりも1時間は前に家を出る必要がある。

 車でもあればもっと早く行けるのだが、残念ながら所持している免許は原付免許のみ。そして原付は二人で移動する手段としては適当ではない。

 となると、ここから徒歩で15分程の芝谷駅から電車に乗っていくのが一番早いことになる。彼女の地元でもあり、目的地である茎川町駅まで電車に乗って15分程度。降りてから目的地に到着するまでの歩行時間も同じく15分。ちょうど1時間前に家を出れば急ぐ必要も無さそうだ。

「明日は俺が送るよ。8時には家を出よう」

「有難うございます。でも、駅は近いですし、先輩不眠症なんでしょう?」

 確かに、夜中ならまだしも、治安の良い日中では俺が一緒に行く意味は無いかもしれない。だが、そこには別の目的があった。

「いや、駅までじゃない。病院まで」

「え?」

 それを聞いた彼女は、少し困惑したように見えた。

 俺が病院までついていった所で、診察にはかなり時間がかかるらしい。終わるまで暇を潰せるような場所も無いので、俺が彼女の病院に顔を出したことは一度もない。一番近くて、検診が終わる頃に茎川街駅前で待ち合わせていたはずなのに、いきなりどうして――ということだろう。

「今日の埋め合わせ――のようなことをしたくて、さ。空いた時間使って、どっか行きたい所あれば連れてく、し……何か食べたいものあれば、食べさすし……みたいな」

 気の迷いが言葉のテンポを著しく悪くさせたが、どうにか最後まで言い切ることが出来た。決死の散財宣告である。

 それが実現すれば、絶対に人並みの生活ではないと自負出来る程度に切り詰められていた生活費を更に抑えなければならなくなることは容易に想像がついたのだが、背に腹は代えられなかった。このまま何もしてやれないまま何事もなく飲み会でやり過ごし、生き恥を晒すよりは死を選ぶ。

「埋め合わせ?」

「あ、ああ。怒ってるだろ? さっきから何事もなくガンガン酒飲んでるのは怒ってるからだろ?」

 が、予想に反して彼女の反応は釈然としない。

 こちらとしてはてっきり、せっかくの誕生日を当日の夜まで完全に忘れていたことや、申し訳程度のお祝いも全て友人たちにセットしてもらったことすら見透かされているものだと思い込んでいたのだが。

「いえ、私がお酒飲むのは美味しいからです……けど――え、私気がつかない内に先輩に何かされましたっけ?」

「いや、寧ろ何もしていない。それが問題だ」

「えぇっ、全然分からな――あ……」

 神妙な表情で熟考モードに入りかけたその時、ようやく思い当たる節を見つけたようだった。

 対する俺はというと、数秒後には事実に気付くであろう彼女から咄嗟に距離をとる。

 実力行使から逃れる為――だが、余りにも遅かった。数秒どころか1秒も経ったかどうかも分からない内に、細く、しなやかな指が、不釣り合いな程の握力をもって俺の肩を締め上げていた。

「ふふふ、日付変わるまでには貰えるだろうなー……とか、待ってる内にお酒で忘れかけてたんですけど……勿体ぶってるだけ、ですよね?」

「申し訳ないが、朝日が昇っても誕生日プレゼントはありません。実は今日の夕方まで今日が何の日か忘れ――痛い、痛いです」

 迂闊だった。

 プレッシャーに動揺したせいか、ついうっかりして言わなくても良いことを暴露してしまった気がする。彼女のことを傷つけず、そして何より彼女から傷を受けずに済むような、もっと良い言い訳も出来ただろうに。

 これでは何をされた所で文句が言えない――だが、少し待ってほしい。本当に反省しているからこそ、潔く嘘偽りのない弁明をしたという見方をしてやっても良いのではないか。

 あくまで個人的見解ではあるが、この期に及んで嘘を並び立て、言い逃れようとする方が人間として醜いと、俺は思う。かの有名なワシントンだって、少年時代に恐らくは今の俺と同じような状態の下で、同じような結論を導き出した。そして、彼は許されたのだ。

「――あはは、いいんですよ全然気にしなくて。完全にすっぽかすような物凄く酷い人たちに比べたら――でも、でも、でも……言ったじゃないですか……5日前と4日前にしつこく、わざとらしいかなぁ、と心配になるぐらい念を押したじゃないですか……なのに、なのに」

 許したい、でも許せない――そんなどっちつかずなようで一向に覆らない感情が、破壊的なパワーを生み出している。痛い。笑いが止まらなくなるぐらい、痛かった。

「あはっ、あははっ、痛い。凄く、痛――痛っ、痛ったぁ!? 待て、待てってば!」

 残念ながら、今は蒼歴2012年。インターネットで正直者という語を検索すれば、予測検索キーワードに高確率で「バカをみる」が加わる時代だ。国や時代が変われば人間の考え方というものも変わっていくということだろう。

 そして、時代の流れが変わるのと同じように(?)俺達の触れ合いというか関係性というか繋がりというか、厭らしい言い方をするならば肢体の絡み方も徐々に、しかし確実に変わっていく。

 眼頭すら熱くさせるほどの、見事な間接の極め方だった。男女の身体が完璧に絡み合っているというのに恐るべきかな、厭らしい要素など皆無。

 貧弱な俺など逃げようが無かった。

「わ、悪かった! 悪かったから……ちょっと待て! なんだこの体勢っ――ぃぁぅっ!」

 嫌な音と共に、肩の関節が緩んだ気がした。



 ひとしきり暴れ終わった彼女は、酒の影響なのか、糸が切れた人形の如き唐突さで眠りについてしまった。

 酒を調達してくれた秋山とコウシロウにはいつか寿司を奢ることと、ありったけの土下座で礼を済ませてはあるが、改めて二人への感謝と、返礼の義務を強く胸に誓う。あれ以上活動されていたら片腕だけでは済まなかったはずだ。

「……運ぶか」

 明日は早い。すぐに眠れることは良いのだが、このまま何も無い場所で寝かせて風邪を引かせる訳にもいかないので、敷いた布団の上まで輸送してやる必要があった。

「――んん……」

 ズルズルと引きずられながらも、彼女は尚乱れの無い安らかな寝息を立て続けている。――それが、実に重い。聞き咎められれば緩んだ間接を捩じ切られそうではあるが、自分から全く動こうとしない人間の身体の扱いというものは難しいのだから仕方がない。

 なので、引きずるというぞんざいな扱いをしてしまった訳だが、流石に寝かし付ける段階では出来る限り慎重な扱いを心がけた。どうにか彼女の身体を抱き上げ、部屋の片隅にあらかじめ敷いてやっていた布団の上にゆっくりと降ろす。

「任務完了。意外に重かったぞ、お前。隠れ肥満って知ってる?」

 一仕事終え、全く起きる様子の無い少女に向かって意識がある時には言えない言葉を投げかけてやる。元はと言えば自業自得な上に、自己満足ではあるが、ささやかな――というか寧ろしょうもない――仕返しのつもりだった。

「――細い方……だよな。チビだし」

 起きる様子が無いのを良いことに、その場から立ち去らずにじっと彼女の身体を観察してみる。……やはり華奢な身体だ。どうやら、彼女が重いというよりは自分が非力なだけらしい。バイト先でもそれで相当苦労した覚えがある。

「だが、それなりに肉付きはよろしいようで」

 俺は先ほど自らの腕で抱きかかえた際の感触を反芻し、無意識に感想を口走っていた。たしかに彼女は小柄で、他人の関節をいとも簡単に破壊出来るとは想像も出来ないほどに痩せている。ならば、あのビール太りは必至とも思えるほどの吸収物は一体何処にいくのだろう。

「……お約束通りならば……」

 すぅすぅと寝息を立てる度に僅かに上下する胸に目を向けた。

「――ところがどっこい普通なんだよなぁ」

 コメントに困る微妙な起伏を確認、そして数秒ほどで眼を逸らした。それ以上は怪しい行動も自重し、そっと毛布を上にかけてやった後、眠りを妨げないようにしてその場から離れることにする。

「おやすみ、ユリ」



 彼女を布団まで輸送してから1時間経った。もうすぐ時刻は深夜2時を回ろうとしている。

 明日が早いのは彼女だけではない。今日怒らせてしまった分を少しでも清算してやるつもりならば、自分も早く眠りにつかなければならないはずだ。だが、

「……っ」

 眼を閉じる度、得体の知れない怪物どもによって心身共に弄ばれた挙句、血の海の中で笑い転げる、俺のよく知る彼女……瀬川ユリの姿が脳裏を過り、安眠することが出来なくなっていた。

 あれ以上の悪夢など、想像する気すら起こらなかった。自分が何かに追われ、殺害されるだけならば全く構わない。きっと、殺害された後で目覚めた俺は、その悪夢が現実でなかったことを、死ななかったことに安堵することが出来るはずだ。

 例えば、俺が幼少時代に経験した中で最も印象に残っている悪夢と言えば、暗い夜道でゼットルに追い掛け回される夢だった。

 ゼットルというのは、その頃の俺が親も呆れるほど気に入っていた特撮ヒーロー番組に出てきた怪獣の名称で、最終回に於いて主役であるスペリオルマンを1兆度の炎で炎上させ――スペリオルマンのスーツごと本当に燃やしていた――俺を含むヒーローに憧れていた子供たちにトラウマを植え付けた印象深い存在である。

 ある日の夜、まだ少年だった俺が目覚めると、枕元に問題のゼットルがビデオで見た姿のまま佇んでいたのだ。

 当然、俺は絶叫しながら窓ガラスを蹴り破り、外へと逃げ出した。その後は当然、走る。ひたすらに走り、時々後ろを振り返り――だが、その度にゼットルが視界に映り込む。『ゼッ、トル……ピロロロ……』という不気味な鳴き声が今でも忘れられない。――という夢だ。

 それ以上の展開は全く覚えていない。もしかしたらその後、俺はゼットルに捕まったのかもしれないし、1兆度の炎で背後から焼かれ、即死したのかもしれないが、その結末については何一つとして覚えてはいなかった。

 夢などというものは得てしてそういうもので、よほど努力しない限り、その内容を長い間頭に留めておくことは難しい。

 ただ、一つだけ確かな記憶がある。それは、俺が夢から帰還した後、両親の部屋へ滑り込み、号泣しながら泣きついたということ。

 怖かったから……というのも勿論あるが、一番の原因は安堵だった。

 俺が生きていること、両親が傍に居ること、ゼットルが現実には存在しないこと――その安心感に比べれば、とうに過ぎ去った悪夢など、恐れるに足らぬ記憶の一片に過ぎなかった。

(でも、今回のは、違う)

 ところが、最近になって俺がほぼ毎日見てしまう悪夢ではそうもいかない。何故なら、あの中に俺という存在が何処にも居なかったからだ。

 あの夢に出てきたものは、望まずともゼットルなどとは比べ物にならない程鮮明に思い出すことが出来る。黒い悪鬼と、銀の天使、黄土色の汚物、血肉を得た無機物……そして、

「――ビールがいっぱい……むにゃ」

「……夢の中でも飲んでるのか?」

 今は幸せな夢の中に居るらしき彼女、瀬川ユリ。

 あの夢は俺が見ている夢のはずなのに、俺に該当する視点が何処にも存在しなかった。神の視点とでも言うのか、俺はただの傍観者に過ぎず、傷つけられていくユリの姿に胸をどれだけ痛めても助けてやれないことを嘆き――


(本当にそうか?)


 今でこそ、あの痛々しい姿を思い返すだけで血の気が引くような感覚に見舞われるが、果たして俺は、夢の中で事態を傍観しながら、今と同じ気持ちを胸に抱くことをしただろうか。壊れていくユリを目の当たりにして、助けられはしなくとも、自身の無力さを呪う程度のことは、果たして出来ていたのか。

 否。俺は何も思わなかった。少なくとも、俺らしいことは何も。

 当然だ。俺は、あの世界に存在してさえいなかったのだから。存在が無ければ、涙を流したり、悲鳴を上げることは勿論のこと、何かを嘆いたりすることすら出来ないではないか。

 だが――知っている。あの光景と、得体の知れない化け物たちが抱いていた感情を、知っている。欲望、怒り、信念、悦び――まるで当事者の如く鮮烈さで、それらが頭に焼き付いて離れない。

「……俺は、違う」

 一瞬浮かんだ"当事者"という言葉が堪らなく気に入らなかった。

 そんなことは、例え夢であったとしても、許されないことだ。ユリを玩具同然として扱い、挙句には殺そうとしていた恐ろしい化け物ども……その内の一体たりとも、俺であってはならない。もしそうだとしたら、そんな願望が俺の内で眠っているという可能性に結びついてしまう。そんなことは、決してあってはならないのだ。

(疲れているだけさ……きっと)

 それ以上は考えることを止めた。そろそろ眠らなければ、明日彼女に付き添うことが出来なくなる。眠ったまま殺されるかもしれない。

 そう思って、ポケットに仕舞ってあった携帯電話を取り出し、時間を確認しようとすると――新着メールが一件届いていることに気がついた。見たことも無い、怪しげなアドレスが送信元となっている。それ自体は今のご時世、別に珍しいことではない。問題は、タイトルと文面だ。


『あなたはだぁれ』


 勧誘目的とは思えない、単なる問いかけの一文。それがタイトル。そして本文はというと、


『今日のお空は何色?』


「薄気味悪いな」

 それが感想。思わず窓から首を出して見上げてしまったが、何の変化も見受けられなかった。ただいつも通り"赤黒い"だけの、何の変哲もない夜空がそこには広がっていた。

(ああ、でも……そういえば)

 悪戯メールがきっかけというのは乗せられている気がして少々悔しいが、昔の夢のことを思い出していたせいで、ほんの少しだけ空の色について思うところがあった。

(スペリオルマンが飛んでいた空は、青かったっけな……)

 今の空は薄い赤色が基本で、夜は赤黒い。突然何の前触れも無く色が変わったらしく、それに関しての科学的な説明も何度かテレビで耳にした覚えがあるものの、どれも小難しくて理解出来なかったし、どの意見にも反論がついて回っている。

 はっきりしているのは色が変わっただけで何の害も得も無いということのみ。だが、それで十分だった。過激な宗教団体が騒いだりしているということをテレビで幾度も見かけるが、実際に遭遇した限りでは少なくとも俺達にとっては無害な連中。関わらなければ良いし、関わり合いになるような状況にも直面することはないだろう。

 青かろうが、赤かろうが、どちらでも良かった。寧ろ、今では空が赤いということの方が共通認識となっている。同世代にもなると、一々気にしているような人間の方が稀だった。

(ただ、)

 あの夢に出てきたような――普段見慣れている赤空など比較にならないほど濃度の高い、血のような色となれば話は別だ。

 "あれ"は、皆の共通認識通りに一応赤色をしてはいたのだが、その濃度が異常なまでに濃く、禍々しいとさえ感じられるほどに濁り切っていた。

 思い出すだけで動悸がする。あんなものの下で平然としていられる人間など居ないはずだ。

「……って、アホか、俺は! 悪戯メールごときに!」

 いつの間にか打ち切ったはずの考察を再開していた俺に、自らツッコミを入れた。

 携帯電話のディスプレイに表示されていた時刻は着々と午前3時へと近づいている。もういい加減に寝るべきだ。

 不気味なメールは迷わず削除し、受信拒否にも設定しておいた。

 どんな意図がそこに介在していたのかは知る由もないが、わざわざ深読みして真意を模索しようとするほど俺も酔狂な人間ではない。どうせ、気になって返信してしまうと出会い系サイトに登録されたりとか、最近流行りの新興宗教団体への勧誘メールだとか、そういう仕組みに決まっている。

 俺はそれ以上、何も考えずに布団の中へと潜り込んだ。

 不眠症だったのは本当のことだったが、それでも今日はアルバイトが終わるなり慌ててユリの誕生日の為に奔走したことで疲れ切っていたらしく、睡魔は思っていたよりもずっと早くやってきた。


 結局、俺は再び悪夢を見た。

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