プロローグ:CHAPTER2 「ある夜の夢」
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郷河町2丁目。地元民しか寄りつかぬような店ばかりが立ち並び、人通りも少ないという何処にでもあるような田舎町の閑静な住宅街。数年前まではだだっ広い土地に幾つか農業を営む世帯があるだけだったのだが、駅周辺で行なわれる予定だった大規模な都市開発計画に伴い、新たに越してくる住人をターゲットに据えての強引な再開発の末、今のような近代的で無機質な住宅街として生まれ変わった土地である。
尤も、その目論見は失敗に終わっていた。市が様々な施設をその場所へ誘致しようと話を進めていたところ、何処からともなく唐突に、上からの「待った」が掛ったのである。
突然過ぎる計画の撤退は当然ながら物議を醸した。だが結局は、十分な説明も無いまま郷河町は不便な田舎に逆戻りすることになり、後には近代的な住いと僅かに残った農地が混在した土地だけが残った。
21時を回った頃だろうか。そんな人気のない場所を派手な大型バイクが走り抜けていく。ただ単に"走っている"と形容するには余りにその騒音は荒々しく、速度もまた凄まじい。おまけに、制限速度は勿論、標識なども全く意に介していないようだ。最早暴走と呼んで差支えない異常な運転である。
この近辺には電灯や、その代わりになるような明かりも少ないはずだ。道も入り組んでいるので視界の確保は非常に難しい。暴走族などいわずもがな――特別な訓練を受けた警官でさえ、事故も無しに最高速を維持したまま通過することが出来る人間は一握りも居ないだろう。
だが、そのバイクはそれを難無く遂げている。とんでもない速度でコーナーに突っ込んでいったかと思えば、不自然なほど凄まじいグリップ力が車体を道から外さぬよう抑え込み、そして無理矢理に、だが確実に曲がり切っていく。
曲がり切るには余りにも急過ぎるカーブを、曲がり切るには余りにも早過ぎるスピードで、曲がり切るには余りにも大き過ぎる車体を以て制するこの芸当は、傍から見ても既に技術でどうにかなる芸当ではなかった。これを異常と言わずして、何を異常と称すのか。
だが、今この時、この場所でだけは、そんな存在が珍しくも無いほどに、ありふれていた。
何かを目指し、住宅地を走り抜ける異形の鉄塊を、遥か遠方――上空より見下ろす者が居る。
"それ"は浮いていた。何も無いはずの空間で静止し、風を受けても全く揺らがないでいる。少なくとも、鳥の類でないことは確かだろう。
"それ"は翼を持っていた。鳥が持つそれとは比較するのも馬鹿馬鹿しくなる程、巨大な翼を背に4対――合わせて8つ。そこに鳥のような柔らかい羽毛は無く、代わりにあったものは鋭利な刃。暗雲の切れ間から僅かに射す月光を反射し、銀色の輝きを放つ、芸術品の如く精巧に模られた凶器の羽である。荘厳なる8つの翼は、それら全てが鋭利な剣により構成されていた。
ならば、何故飛べる? 何故、しなやかに羽ばたくことが出来るのか? ――全て、無駄な問いである。"それ"にとって「浮遊する」という行為は特別なことでも、ましてや異常なことでもなく、当たり前のことなのだから。
だから、なのだろう。"それ"は自身と同様に世の理に縛られないバイクとその乗り手を視界に捉えても、別段驚く様子は見せなかった。
そう、その眼に驚きはない。ただ、その代わりに、そんな突発的な感情など比較にならないほど深く、激しく、そして昏い感情が"それ"の眼には宿っている。
『見つけた』
たった一言だけ、フィルターを被せたような奇妙な声で、その異形は人間の言葉を呟いた。すると、それに呼応するかのようにして、光が――赤い血のような光が、夜空全体に迸って全体を染め上げていった。
血よりも尚赤い光が"それ"の姿を暴く。
全身は、翼を構成する無数の刃と同じような質感をもつ、鎧のようなもので覆われている。が、何かが鎧を纏っているにしては、余りにもその外見は生物染みていた。
表面には隆々とした筋骨が浮き出ている上、血管のようなものまで時折脈動しており、まるで、その装甲自体が皮膚であるかのようで――
『もう、逃がしはしない』
赤い空の中で悠然と佇んでいた八つの翼をもつ"それ"が、突如としてその浮力を失い、真っ逆さまに大地へと堕ちていく。
墜落などではない。その異形が下界へと降り立つ為の急降下。血の海のように赤く染まった空から堕ちてくる"それ"の姿はとてつもなく禍々しく、同時に神秘的でもある。
まるで、巨大な胎盤より生み落とされた天使の赤子のように。
赤く染まった空の下、二つの異形が今宵、出会おうとしていた。
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常識から外れた加速性を誇示するかのように、唸り声にも似たエンジン音を轟かせている鉄塊は、じゃじゃ馬などという段階を超えて怪物だった。
「これがバイクというやつか。……本当に? ”人間の移動手段”と聞いたが、幾らなんでもこれは違うだろ」
桁が違う、常識を外れている。移動手段にしては余りにも過激なこのマシンをバイクなどという、人間の為に人間が造りだした乗り物に当て嵌めても良いのだろうか。
今まさに“それ”の手綱を握り、支配下に置いているはずの男でさえ、内心震えが止まらなかった。常に集中していなければ放り出されてしまいそうなスピードと振動。吸った空気が喉元で詰まり、呼吸がスムーズに行えない。
(危なっかしくて見ていられないわね、"D1"。"ばいく"の扱い方、きちんとその足りない脳みそに叩き込んでおけと、私はちゃんと言ったわよね?)
極限の集中を常に強いられている最中、突如彼の頭に直接、何者かの“声”が響き渡った。よく透き通った、女性の――少女の声である。
「……頭に入っているのは確かなんだが、どうもマニュアルとは随分と食い違う。それでも、十分にやれている方だとは思うがね」
D1という名で呼ばれた彼は、その珍妙な現象に対して微塵も驚いた風もなく、自然に返答する。
(この程度で「やれている」などと満足するようでは、ただでさえ低かった私の期待を裏切ることになるわね。やっぱり、高貴な私には到底見合わないクズだったのかしら。希少品だと思って拾ったんだけれど、ただ単に不良品だっただけかしら。ねぇ、今すぐそこの車輪に首を突っ込んで、その醜い顔を挽肉にする気はない?)
「本当にやられて困るようなことは、冗談で言うことだな」
楽しそうに物騒なことを口走る少女の声とは対照的に、D1は面倒くさそうに応じた。
(私がどうして困らなきゃいけないの? 困るどころかとても愉快な気持ちになれるんだけど。赤とピンクのグチャグチャになった貴方を想像するだけで――くすっ)
極めて愛らしい声で、淀みなく紡がれる少女の言葉には一切冗談など含まれてはいなかった。本心から彼――“D1”が落車して車輪に頭から突っ込み、ミンチと化した頭をアスファルト上にぶちまける様を見たがっている。
「変態め」
彼もそのことは承知していたが、特に気にしたりまともに取り合うこともせず、淡々と受け流してバイクの運転に集中していた。
(その不快そうな返答が可愛いから、最後の言葉は聞かなかったことにしてあげる。……それにしても、こんな私によく残りの寿命全てを譲り渡せたものだわ。そんなにしてまで"奴ら"を消したいの?)
「自分なりに考えた結果だ。水を差してくれるなよ。それより、この……バイクに近い何か物凄い兵器のことなんだが」
挑発的な少女の声を受け流し、D1は視線を眼下のマシンへと落とした
(言っておくけど、間違いなく"ばいく"の一種よ。それが何かしら?)
「正直に言わせてもらうとだな、お前から渡された"ゲンツキ"とかいうバイクのマニュアルは、俺が現在使用中のバイクを操る上で全く役に立っていないんだが」
闇夜の中にあっても尚不気味な輝きをたたえているブラックメタルの装甲、D1の知るどんな音よりも過激なエンジン音。それだけでも十分な異質さを醸し出していたが、単純な外観の面でも明らかに、D1がバイクという乗り物について知っている範囲の常識からは外れていた。
まず車体の長さがとんでもなく長い。前輪と後輪の距離が離れ過ぎている。逆に車高は低く、ギリギリ手が届くハンドルをしっかり握るには、上半身を車体上面に完全にへばりつかせる必要があった。酷く滑稽な体制だ。
(あら? マニュアル通りの品物が良かったのかしら? でもそうなると、貴方が走るのよりずぅっと遅いし、使う意味なんか無いわよ。わざわざジャンクの山から掘り出してあげたんだから、文句なんか言うもんじゃないわ。本体はきちんと動かせているのだから、それで良いじゃない)
「役立たずの説明書を覚えさせといてゴミクズ呼ばわりとは流石だな。当てに出来るのは自分の勘だけだよ。……あと、この趣味の悪い装飾品の数々は何なんだ」
D1が最も理解に苦しんだのが、細長い車体のあらゆる箇所をびっしりと覆い尽くす"刃物"の数々だった。凶悪な切れ味を秘めた紛れもない凶器。刃のサイズや形状は様々。大きく目立つものから、ナイフのように小さく、伸縮・変形ギミックを備えているものまであり、駆動系にギリギリ干渉しない箇所を覆い尽くしていた。
しかも、数十本などという数ではない。小さなものが多いとはいえ、少なくとも百数十は取りつけられている。中でも、フロントフェイスから真っ直ぐ前方へと伸びる、長く分厚い2本の大剣の象徴性は高く、獰猛な獣の牙を彷彿とさせた。
病的と言わざるを得ない狂気に満ちたデザイン。これらの装備を使う状況を考えるだけで寒気がする。少なくとも、ただ移動する為の乗り物ではないはずだ。
(私は知らないわよ。何が起こるかは――そろそろ近くなってきたみたいだし、色々試してみればいいじゃない。壊した場合はきっちり償って貰うつもりだけど。いつもの代償でね)
少女の声が意味ありげな喜色を帯びる。
D1を乗せたバイクは住宅街を抜け、比較的広い駅前広場に出た。一般的には田舎とされている郷河町の中では最も人の出入りが激しく、比較的賑わっているはずの空間である。
だが、そんな場所でも今や見る影もない。空は赤黒く染まり、アスファルトの上には人間の腸を思わせる、柔らかい管が木の根のように這っていた。ブロック塀からは黒い蛆虫のようなものが滲み出し、正常な箇所へと侵食を広げていっていく。
既に人間の住めるような場所ではなくなってしまっていた。魔界だとか地獄だとか――そんな呼称の方がしっくり来るというほど、禍々しい有様になり果ててしまっている。
("メルト・ダウン"、今回はまた一段と派手ね。注意しつつ、そのまま前進なさい。あと、リミットの確認も忘れないように)
「分かっているよ」
D1は2輪のスピードを緩めながら、右腕に巻かれた腕時計のような機器に視線をやった。そのディスプレイもデジタル時計に近いデザインではあったが、画面上では数字や英語でもなく、奇妙な形をした記号が刻々と変化し続けていた。
その奇妙な記号から何かを読み取ったD1は、再び異形のバイクを加速させた。走り抜ける異形の鉄塊は、臓物をぶちまけたような路面を蹂躙し、その度に巻き上がる血煙りを纏って疾走する。
侵されていたのは駅前だけではなかった。進めば進むほど、狂気を孕んだ風景はその歪みを増していく。
軟体と化した電柱が捻じれ曲り、雑草はせわしなく蠢くミミズのようなものへと変貌を遂げ、民家には謎の肉塊と脈打つ血管が張り付いている。狂気の芸術と呼ぶに相応しい景色である。
「妙だな」
狂った情景に視線を走らせながら、D1が呟いた。
(大物が居るわね。少なくとも2体以上は。危うくなったら、迷わず"クロガネ"を――)
「……あれには頼りたくないが、いざという時には、な」
心底楽しそうな少女の声を遮った男の声は、心底忌々しげな感情を帯びていた。
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「先輩、どうして、こんなこと……」
水瀬ユリは、苦しんでいた。
腹部に走った激痛が一瞬にして全身に広がり、満足に悲鳴を上げることさえ出来なくなる。大量の蟲を腹から注ぎ込まれ、全身を食い破られているようなおぞましい感覚。そして、どういう訳か鮮明さを保ち続けている意識が、それを余すことなく受け止めていた。
『どんなことでも受け入れると言ったのは、君だろう』
大好きな人と全く同じ声をした醜悪な化け物が、優しく耳元で囁いた。
「痛い! 痛いからっ、もう――」
化け物が笑い、微笑みのようなものを醜悪な形相に浮かべる。微笑みを浮かべながら、先端が鋭く尖った触手を何本も伸ばし、ユリの身体のあらゆる箇所を拘束し、串刺し、抉るのだ。
おぞましい悪夢としか思えなかった。こんなことが、現実であるはずがない。
ユリは自分の腹に穴が空いていないことを確かめる為に、痛みに顔を歪めながら覗き込み――最悪の光景を見た。夥しい数の触手が、自分の腹を貫通し、背中から吐き出され、うねうねと蠢いている。
感触が余りにも生々しい。それが伸縮と拡張とを繰り返す度に、傷口から激しい痛みが走り、口の中が鉄の味でいっぱいになった。
それでも、まだ自分が壊れない。ここまで弄ばれれば、とっくに壊れてしまってもいいのに、未だ意識や感覚ははっきりと今自分がどのような目に遭っているのかを把握している。
生々しい痛みが、嘔吐が、恥辱が――被虐の限りが蓄積されていく。どこまでもどこまでも、高く高く、積み上げられていく。
(もう、いやだ!)
ユリは救済よりも崩壊を望んでいた。
耐えられない。こんなに苦しいのが続くというのなら、自我など早く壊れてしまえばいい。
だがそんな願いさえも嘲笑うかのように、化け物が行うのは凌辱であって、破壊ではなかった。獲物の鮮度を保ったまま、何もかもを徹底的に踏み躙っていく。
全てを徹底的に奪い尽くす、この下劣にして邪悪な行為――化け物にとって、それは遊戯同然であった。
何故、どうして――地獄の苦しみの中にあって尚、機能を続ける脳が同じ問いを繰り返す。誰に対してでもなく、”何故”と繰り返し続けた。だが、今この場で唯一その問いに答えることが出来たのは、醜い姿の化け物ただ一匹しか居ないのだ。
『だったら、思い出して"見せろ"』
醜い貌が視界いっぱいになるぐらいまで迫ってきて――気が付くと、嘘のように苦しみが消えてしまっていた。
どこも痛くなかった。全く傷つけられていない身体と心が、戻ってきている。幾ら見渡しても化け物などいない。全てが元通りの世界に、私は戻ってきていた。
夢、だったのだろうか、あれは。だとしたら、余りにも行き過ぎた悪夢だ。あんな狂気に満ちたイメージを、果たして常人が生み出すことが出来るとは思えない。ただの夢で片づけるには、余りにも――
『確証が無くて不安なら、記憶を閲覧すればいい。人間の得意分野だろう』
そうだ、まずは整理しよう。記憶がこんがらがっている。ここで目覚めるまでの道筋を辿れば、自分の身に何が起こったかを把握出来るかもしれない――助言をくれた"誰か"に、感謝しつつ、一つ一つ記憶のカケラを拾い集める作業を開始した。
今日は私がずっと楽しみにしていた、18歳の誕生日だった。
楽しみだったのは、ただ自分の誕生日だからというだけではない。
両親や友人たちから祝ってもらえることだって、非常に楽しみなことではあったけれど――当日は、実の姉である水瀬ユミが2年ぶりに海外から帰ってくる日でもあったのだ。
水瀬マイという3つ上の姉は私にとって理想であり、目標でもあった。綺麗で、賢くて、優しくて、面倒見がよくて……何でも一人でこなせる強さと逞しさを併せ持ちながら増長せず、常に周囲との協調を重んじる、何処までも完璧な女性。
『興味深い。もっと詳しく』
そんな人が私の姉だということ。そんな姉の背中を追い続けるということ。
ただそれだけで、私は強くなれた……はずだ。姉のようになりたいが為に文武両道を心がけてきたし、醜い者たちが寄ってたかって一人を貶める低俗な行為にも、その標的が他者であろうが自分自身であろうが、決して怯まずに立ち向かってきた。
そして、そんな自分に満足することも無く、ひたすら完璧な姉と比べることで妥協を打ち消してきた。家族だというのに、その存在が遠く感じられるほどの完璧さに、追い求めるだけの価値を見出していたのだ。
『素晴らしい。もっともっと詳しく』
だから私は、姉が父の研究所に勤めることになり、突然海外へ旅立ってしまった時、家族の誰よりも姉が居ないことを寂しがった。どれだけ自分が彼女に依存していたかを初めて自覚したのも、この時だったかもしれない。
姉に会いたかった。だから、今日は授業が終わったら真っ直ぐ下校するつもりで居た。仕事と授業に忙しい姉はメールも電話もする暇が中々とれなかったようで、実際に会ってのんびりと姉妹で話せるのは2年ぶりということになる。
加えて、個人的なことではあるが、一つだけ……どうしても姉から詳しく聞きたいこともあったのだ。
『待て、聞きたいこととは、何だ?』
ホームルームのあと私は、隣町まで遊びに行くつもりらしい友人たちに挨拶して別れ、すぐに教室を出た。まず最初に何を話せばいいだろうか。第一声は何だ。そんなことを考えていると、特に慌てる必要がなくても自然と足が早まる。
『答えろ。"聞きたかったこと"とは、何だ?』
が、まだ生徒の姿も疎らな校門を抜けようとしたところで、よく見知った"先輩"とばったり会ってしまい、その足は止まった。
『無視か。なら、もういい。お前は打ち切りだ』
せっかく苦しみから遠ざかりかかっていた意識が、化け物の声で一気に引き戻された。痛みは全く消えてはいない。意識もはっきりと保たれていた。
「私の中が……覗かれて?」
痛みが引いていたせいか、途切れ途切れになりながらも何とか声を絞り出すことが出来る。が、それもほんのひと時のこと。安定した状態は長くは続かなかった。
徐々に、総身を出鱈目な方向に捻じ曲げられているかのような感覚が自身の内側で成長し始めていることに気付き、ユリはほんの少しだけ先にある未来を恐怖した。
『舌を噛むなよ。"リンク"した後の反動は、少々刺激的なんだ』
「――ぁ!?」
突如、これまで以上に凄まじい痛みが全身を襲う。あらゆる神経が引きちぎれていくような感覚である。それも、ただ力任せという訳ではない。ゆっくりと、慎重に、少しずつ音を立てながら――じわじわと、痛みだけがどこまでも広がっていく。
『痛いか。痛いよな。でも、我慢するしかないよ』
痛い。剥かれた目が、崩れた顔が、抉られた身体が痛い。その痛みの過程で、視界が消えて無くなっていく。真白でも、真っ暗闇でもなく、ただ消えてなくなってしまった。視力を失っても、壊れるどころか気絶さえも出来ない。意識も痛覚も、機能し続けている。
苦痛に苛まれ、それでも絶叫を上げることすらままならない少女の耳元に、化け物は自らの貌をそっと近づけた。
『なんたって、君が望んだことなんだから』
耳元で囁かれる優しげな声。好きで好きで堪らなかったはずの先輩の声が、無慈悲にも、生きることを強要してくる。ユリに出来ることと言えば、掠れた声で慈悲を乞うことぐらいしか残されてはいない。
「違っ、私は……――ッ!?」
やっとの思いで紡いだ僅かな願いさえも、最後まで口にすることは許されなかった。唇を、化け物の顔に付いている"何か"で無理矢理塞がれたからだった。
「――ひ……ぃっ……!?」
おぞましさと、腐臭しか感じられない。……そうでなくてはならないはずなのに、不思議な安心感を感じてしまっていた自分に、ユリは戸惑った。
『体裁の取り繕いはお終いにしようか、ユリ。大丈夫、今の俺は他のどんな人間よりも……君自身よりも君のことを深く理解している。――それだけではない。俺は、君の望む通り、君だけを――』
化け物が先輩と同じ、優しげな舌使いで口づける。同じ声で、自分に向かって「――している」と言う。同じだ。先輩と、全く同じだった。声質も、緩急の付け方も、口調も、何もかもが同じ。
『ほら、理解する気になってきた。分かるだろう? こんなにも醜い姿ではあるが……それでも俺は、俺のまま――いや、俺は俺でも、君が望んだ俺……君が欲した、最も素晴らしい俺なんだよ、今の俺は』
自身の最も欲したもの。それを思うと、苦痛の果てに空前の灯火と化し、今にも消え去ろうとしていたはずの意識が僅かに回復し始める。どんなに努力しても届かなかったものだ。水瀬ユリにではなく、その姉に向けられていた特別な感情。それを今、手にしている。
彼は私に向かって言ってくれたのだ。おまえだけだ――と、先輩に必要なのは私だけだと。どれだけ待ち望んでいた言葉だったか。その言葉を疑いなく信じて、ユリは全てを受け入れた。姉への罪悪感など、これっぽっちも無いままに。
『そうだ。姉のようになりたいというのも、下心に裏打ちされた嘘だった。姉のように愛されたかっただけ、なんだ』
絶対に気付きたくはなかった事実を聞かされて、それに気付いてからはほんの少しの時間すら必要としないまま、ユリは自ら望んでいた崩壊を快く受け入れた。
それは、ようやく訪れた救いに他ならない。
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『玩具としては楽しかったが、生き物としては余りにも世界の為にならないクズ女が。そのまま腐って死ぬのがお似合いだなぁ』
少女がロクな返答も出来ない状態になってしまってからは、先ほどまでの優しげな語りなど化け物には不要でしかなかった。今では、侮蔑の視線だけを呉れてやりながら、適当に損傷させることを暇つぶしに充てているだけだ。
涙と血で塗れた顔も、先ほどまでは揺さ振りをかける度に深く深く歪んでいったというのに、今では何の反応も示してはくれない。
ただぼんやりと、緩んだ顔をこちらに向けながら男の名を愛しげに呼ぶだけで、泣き叫んだりは全くしなかった。これでは人形そのものだ。こんなものを弄んだところで、あの興奮は得ることができない。
『さて、ゲームの続編を始めるとしよう』
化け物は、今しがた"リンク"により瀬川ユリと共有した記憶を脳内で閲覧することが出来た。彼女が、この世に誕生した瞬間に見た光景から、最も敬愛していた人物に騙され、全てを搾取されるまでを、化け物は鮮明なイメージとして見ることが出来た。
それを利用し、何かルールを設ける。……何故か。それは、一重に「面白くないから」である。
ただ手当たり次第に無力な少女を襲って回ったところで、何も面白くない。そんなものはゲームとは言わない。
だから、今回の戦利品である情報から、何か次の遊びのアイディアは無いかと探す訳だが、すぐに思い当たったのが、彼女の尊敬の対象にして恋敵でもあった、姉の存在だった。
瀬川ユリから引き摺り出した情報からして、姉の方もかなり遊び甲斐のある人材のように感じられる。この強情な娘が敬愛するほどなのだから、更に屈服させ甲斐があるというもの。
まだ辛うじて息のある妹の身体にも、利用価値がある。
今回のゲームで最も面白いシチュエーションは、今化け物が器としている男を巡っての三角関係だった。これを利用しない手はない。先ほど妹から搾取することが出来た記憶は、自由に第三者の頭に流し込むことが出来る。上手くそれを活かせば、最高の愛憎劇を演出出来るかもしれない。
『やべぇな。久々のゲームがこんなにもワクワクするものとは思わなかった』
次の遊びの趣向が、段々と定まってきたところで、再びユリに眼を向けた。時折、うわごとのように「先輩」だとか「お姉ちゃん」だとか呟いてはいるものの、眼は焦点を失っている。頭の中もさぞカオスなことになっていることだろう。
こうなってしまっては、リンクしても得られるものが殆どない。全てが壊れてしまっている証拠だ。……彼女が姉に一つだけ聞きたかったものが何なのかが気になったが、その記憶も既に回収不可能となっている。
何とか引き出せた情報によれば、姉の家は少し遠いらしい。が、その方が助かる。ここら一帯の"メルトダウン"は随分と深刻だったからだ。もしこの近辺に住んでいたのなら、既に生きてはいないだろう。例え生きていたとしても、この世のものとは思えない醜悪な姿でのたうちまわっているはずだ。それは生きているとは言えないのかもしれないが。
『しっかし、ここまで大規模に開放しちまって良いものかね。"依り代"が全部腐っちまうだろ、これじゃあ』
ブロック塀の隙間からは巨大な蛆虫が湧き、あらゆる植物が目玉と肉を得て、無数の血管がアスファルトの上を這い、全てを覆い尽くそうと拡大を続けている。化け物はその細長い指に巨大な蛆虫のような生物を纏わりつかせながら嘆息した。
ここまで酷いメルトダウンの最中では、殆どの人間は正常に生きることが出来ない。たちまち浸食され、同化されてしまうはずだ。瀬川ユリのように囚われ、延命措置を施されない限りは。
『さて、次のターゲットは向こうの方角……ん、なんだ? あれは』
化け物は何となくそちらへ目を向け――そして、その目を疑った。
何かが、遠方より血飛沫を撒き散らしながらやってくる。アスファルト上の血管を踏み拉きながら、こちらへと迫ってきている。
赤い土煙のようにも見える血飛沫。その向こう側で、どういう訳か、何かのライトが眩い光を放っている。巨大な二つの車輪が進路上の血管を潰しているのも徐々にはっきりと見えてきた。あれはバイク、だろうか。
ありえない。これだけ浸食の凄まじいメルトダウンが起こっている中で、この世界のものが機能を損なわないはずがないのだ。
『おまえか』
心当たりが一つだけあった。それを胸に、化け物は醜悪な形相を更に歪め、接近してくる何かに対して身構える。同時に、背中の触手が戦慄き、それらの矛先を一斉に標的の方へと向けた。
相手の接近をわざわざ待つ必要はない。次の瞬間、触手が猛スピードで異形のバイクへと向かっていく。放たれた触手は合わせて5本。それぞれが縦横無尽に駆け巡り、路地を粉砕しながら目標へと高速で迫る。
それに気付いたのか、車体を左右に振り回す目標のドライバーの姿が確認出来た。
暗闇の中、高速で迫る触手に気付き、一応の反応を示していることは驚きだったが――しかし、それも無駄なこと。こちらの狙いは正確にして臨機応変。道は狭い上に、5本の触手は標的に許される数少ない逃げ場を完全に塞ぐことが出来る。
対する標的のバイクは、こちらの攻撃に気付くまで進路の変更など頭に無かったはずだ。今更になって避け切れるはずがない。
五つまで用意された必中にして必殺。その初撃が、標的を仕留めることは確実と言えた――だからこそ、その後の展開に理解が追い付くまでに、多少の時間を要することとなる。
『何を、した?』
バイクの乗り手を正面から直接狙う、正確無比を自負していたそれはあっさりと"薙ぎ払われ"、標的を刺し貫くはずだった先端部分を奪われていた。
いつの間にか標的であるバイクの乗り手は、右腕一本で巨大な車体を制御している。ハンドルから離れた左腕には一振りの、とても長い剣が握られていた。それで触手を斬り払ったのだろうが、しかし今までそれを何処に収納していたのかが全く解せない。
とはいえ、動揺するには程遠かった。正面からの馬鹿正直な一撃など、相対する存在が本当に化け物の心当たりだとすれば、防がれたところで不思議ではない。
ならば、残りの全ての触手で一斉に迎撃の及ばぬ箇所を破壊し尽くす。標的の行く先に回り込ませていた2本と、両脇からそれぞれ一本ずつ接近させていた触手を下方に潜り込ませた。
まず最初に狙ったのは前輪部。またしても、それを察知した乗り手が剣を握っている左手側より襲い来る触手を即座に切り払い、そして防ぎ切る。
それだけでは終わらない。左側からの襲撃を防いだ後も全く体勢を崩すことなく、反対側から襲い来る触手に対しても恐るべき速さで反応していた。長剣の余りにも長い刀身はハンドルに携えられている右腕を跨ぎながらも、その動作を全く妨げることなく、容易に右手側からの一撃をも防ぎ切る。全くもって、想像を遥かに絶した恐ろしい状況対処能力と言えよう。
しかし、背後より同時に襲い掛る残りの2本はどうか。
元は標的から見て正面――こちら側から放たれたものであるが、立て続けにそれぞれ違う方向より迫った3本の触手を囮として利用しながら、それら2本は長剣による迎撃が及ばぬルートを通りつつ背後へと回り込むことに成功していた。
加えて、そこから後輪を狙う為に触手が通るのは極めて低空。これを討つとすれば、ハンドルから手を放して後ろを向かなければならない。そうなればこちらの思う壷だ。
あの速度から飛び降りれば、例え可能だとしても着地時に必ず隙が出来る。その瞬間ならば、例え先端を斬り裂かれてはいても、意のままに動く触手で捉えることも可能。
『次はどう切り抜ける!?』
バイクの速度を遥かに超えた速度で迫り、今正に後輪を刺し貫こうというその刹那――だが、標的が背後を振り向くことはなかった。その代わりに、長剣を後方に向けて投擲する。
成るほど、確かにそういった反撃は想定に含まれてはいなかった。が、先ほどの超人的な斬り払いに比べれば、放り投げられた長剣が触手へと向かう速度は余りにも遅く、牽制にすらならない。故に2本の触手はそのコースを全く変えることなく、最低限の動きで投げ捨てられた剣を打ち払いながら、標的に対して更に接近を続けることが出来た。
万事が思惑の内。だというのに、化け物が愉悦を感じることはなかった。……完全に捉えていたはずの標的が、妙な動きを見せ始めていたからだ。
気付けば、剣を捨て徒手空拳となった標的の腕が再びハンドルに添えられている。剣を振るう為に起こされていた上体は車体へと深く沈み込み――その瞬間、強烈な爆音が大気を震わせた。
『馬鹿な――』
爆音とともに、標的のバイクは驚異的な加速を得る。その加速は後方より迫っていた触手を一瞬にして引き離し、その一瞬だけで化け物との距離を凄まじい勢いで減少させている。
化け物が得ていた幾つかのアドバンテージが、標的が一瞬にして4倍以上の速力を得たことで崩壊していく。迎撃に放った触手は既に遥か後方。尋常でない速度で前方より迫る鋼鉄の塊は、それらの触手を手繰り寄せるよりも圧倒的に速い。
最早、牽制どころではなくなっている。一先ず避け、体制を立て直すしかないと考えた化け物は、咄嗟に右上方へと跳躍し、迫る鉄塊から逃れようと試みた。
『な……!?』
上空へとその身を投げ出してしまえば、取り敢えずその場での安全は確保されるものだと思っていた。敵の頭上を取り、あわよくば無防備な背中を自分の方へと向けながら通過するであろう標的に一撃くれてやろう、などと考える余裕すらあった。例え外したとしても、その時はその時。あの体制からの反撃はあり得ない。
その目論見は余りにも甘かった。そのことに気付いたのは、真下を通りぬけるはずだと確信していた鋼鉄の塊が、化け物の跳躍に追随するようにして跳ね、激突しようというその時だった。
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半狂乱になりながら反撃に転じた化け物をかわしながら、D1は勝利を確信していた。大量の出血に動揺し、決着を焦っているのが手に取るように伝わってくる。
『貴様っ、貴様貴様貴様あっ!』
最初の余裕は何処へいったのか。化け物は出鱈目に触手を振り回しているが、その無計画さはせっかくの手数の多さという利点を殺してしまっている。
このままでは、一定の間隔で自ら生んでいる隙に気付くこともなく、悪戯に体力を消費し続け自滅してしまうはずだ。
しかし、それを待つまでもなかった。見出した僅かな、しかし致命的な隙の中へとD1が踏み込む。
『なッ……!?』
突如として目の前に現れた敵の姿を前にして、化け物の動きが鈍った。全方位をカバーしていたはずの連撃を、全てかわされたかのように見えたのかもしれない。が、違う。絶え間のない全方位攻撃の中には、致命的な隙が――カバーされていない安全な空間は確かにあった。
こちらが"生身のまま"でいることは、奴からして見れば相当の屈辱なのだろう。掠りもしない連打に、化け物は相当な焦りを見せていたはずだ。焦りは戦いの中に"パターン"を生み出し、それに気付き、隠そうとする状況判断能力をも衰えさせてしまう。
この時生み出されるパターンは、幾つかの打撃を組み合わせることで" 技"として昇華されたものとは違い、何の意味も持たない単発の連打である。無意識に選別された攻撃方法の中から、無意識に決められた順番で放たれる、無意味な組み合わせに過ぎない。綻びを誘発することなど造作もなかった。
D1が飛び込んだ空間は台風の目の中に居るような、とても静かな空間だった。そして目の前には、恐怖を目に宿したまま何も反応出来ないでいる化け物の胴体。D1の右足が、隙だらけのそれを抉った。
「よし」
何かを押し潰し、砕く感覚が足先から伝わるのを確認してから、D1は素早く手を後ろに回した。
『ッ……!!』
骨と内臓を押しつぶされた化け物が呻く。血とそれ以外の汚物を、昆虫と獣をかけ合わせたような口からまき散らしながら大きく後退する。
だが、受肉しつつあるアスファルトを砕きながら踏み止まった化け物の、その眼には一層強い敵意が灯り、目の前の無防備な標的を視界に捉え続けていた。
『旧式のっ、ファーストダイバー如きがっ!』
化け物が咆哮し、汚猥な口がいっぱいに開かれる。上あごは昆虫の牙、下は何とも形容し難い、獣の牙。そして、それらの奥から迫る何か。
(口内より刺突武器、来るわよ)
「見えている」
確認――補足。対するD1の察知は圧倒的に早く、加えて、それよりも早い段階で腰の後ろへと伸ばされていた両手にはナイフが――見ているだけで目を回しそうなぐらい複雑な構造をした分厚いナイフが、それぞれ一振りずつ握られていた。
D1が乗り捨て、遥か後方で倒れ伏してしまっているバイクを覆っていた刃を剥ぎ取り、予め組み合わせておいたものだ。パーツの組み合わせ次第で、数えきれない程の変形パターンを持つギミックソード。それが真の用途である。
対する化け物の口内より高速で飛来する何か。その正体は刃のように鋭く長い、舌であった。それは寸分のブレもない正確さと音速に限りなく近い速さを以て、D1の心臓部へと真っ直ぐに向かっていく。
ところが、正確無比の筈だった一撃が到達を果たしたのは標的の肉体ではなく、行く手を阻むようにして交差されたナイフ……その丁度中央。二振りの刃が集中した部位でしかなかった。
『なっ! 貴様っ、やめっ――』
驚きに化け物の眼が大きく見開かれ、捕らえられたまま伸び切ってしまっている舌を、自身の牙で傷つけそうになるのもお構いなしに静止の声を紡ごうとする。
それが聞き入れられるはずもない。両の刃に絡め取るようにしつつ、身体の内側に向けて一回転。そうやって、D1は躊躇なく化け物の舌を断ち切った。
『オッ――グァッ!?』
鮮血を吐き散らし、絶叫を上げた化け物は大きく上体を揺らしながらも距離を取った。D1はその場から動かず、自身の命を救った二振りのナイフを見やり、ただ二言呟く。
「次だ。頼む」
(はいはい。貴方ってば、えぐいわねぇ)
少女の返答と共に、両手のナイフが耳障りな金属音を響かせながら、所々が細かいパーツに分解されていき――かと思えば、再び別のパーツ同士で結合し、全く違う形へと姿を変え始めた。
それだけではない。道路の中央で横倒しにされていたバイクにも異変が起こり始めている。車体を覆い尽くし、異形のシルエットを生み出していた凶器の幾つかが剥がれ、真っ直ぐD1の手もとへ飛翔し、めまぐるしく進行していた剣の結合に加わり始めた。それぞれのパーツが1秒ごとに分離と結合を繰り返し、大きさや形状、性能さえも変化させていく。
荒唐無稽にして、余りにも都合の良い変形機構が、その場の状況に於いて最も都合の良い刃を作り上げる。繰り返される結合と創造は全て、効率のよい破壊の為だけに行われていた。
『ガ、ァ……ァァァ!』
対して、閉じられた口からも尚鮮血を滴らせている化け物も、その動きに変化を生じさせていた。
何度も切り裂かれ、殆ど武器としては見る影も無くなていたはずの触手が次々とうねり始めたかと思えば、次の瞬間にはそれら全てが元の状態にまで再生を遂げている。
更に、それらを一本に束ね、右腕で引き抜いてみせた。
『殺じで、やる』
一本に結合された触手がビキビキと音を立てながら、急速に硬化する。それに留まらず、徐々にその形状をも変化させていき、一瞬のうちに鋭利な長剣となって化け物の右腕に握られていた。
奇怪な武器だ。全体が汚らしい黄土色で、金属らしさはこれっぽちもなく、ところどころに眼球がつき、せわしなく動き、瞬きを繰り返している。
(趣味の悪い"骸装器"ね。ねぇねぇ、そろそろ"クロガネ"使わない? 使わせてあげるわよ)
「黙ってろ。――来る!」
『ガアァァッ!!』
化け物が吠えた。一気に距離を詰めるべく、残された全ての力を燃やすかのような勢いでD1に肉薄する。奇怪な形をした長剣が、風を裂きながら迫る。
慎重さの欠片も無かった無計画な攻撃とは全く違う。先ほどまでとは比較にならない速度と正確さだった。容易く隙を見出すことなど出来ない。
(まずいんじゃないかしら。早く私にお願いした方が良いんじゃない? クロガネ使わせて、って)
確かに、迂闊だったかもしれない……とD1は思い始めていた。これまでの敵は"生身のまま"でいたこちらを、完全に舐めきっていたらしい。
それが分かっていたならば、もっとその隙に付け入ることも出来たのではないか。今、本気で殺しにかかってきている敵の動きは驚愕に値するもので、攻撃の正確さも速さと両立させられている。
十分過ぎるほどの脅威。それでもD1はどうにかかわし、距離を取る。しかし足りない。危険から逃れ切るにはまだ、これでは距離が近過ぎる。
『ハハッ! 死ね! 死ねぇ!』
「っ!」
どうにか掻い潜るようにして第4斬から逃れたD1は、更に後方へ飛び退こうとすぐさま身構えた。そして、敵の巨躯が目前に迫った瞬間、屈めた身体全体をバネのように駆使し、踏みしめていた地面を全力で蹴る。
凶刃がその身に届くその寸前、D1は後方へ大きく跳躍していた。元居た場所よりも数十メートル離れたアスファルト上に着地し、更に数メートルを余分な勢いを殺す為、滑るようにして後退する。
その間に体勢を完全に立て直し、手元にて構築中の巨大な剣を構え直し、切っ先は遠方の目標に向けたまま動かさない。並ならぬ集中力は、常に目の前の脅威へと注がれ続けていた。
「先、輩? それとも――」
だからこそ、そのか細く、今にも消えてしまいそうな声を聞くまで、その存在に気付くことができなかった。
骸と見間違うほど破壊され尽くした少女の身体と、消えかけた命の灯。そこに倒れていた血まみれの少女の身体は酷く、無残な状態だった。腹を抉られ、片方の目を潰され、ありとあらゆる箇所を侵食され、それでも意識を保たされたまま強制的に生かされている。
ほんの一瞬、その光景にD1は心奪われていた。その悪行の証に、惨さに、儚さに。こんなにも哀れで救われないものを、何故、奴らは平然と生み出すことが出来るのか――
(へぇ、凄いわね。"アレ"を目の前にして感傷に浸る暇を作れるなんて。……馬鹿なの?)
脳裏に冷たく響いた少女の声がD1の思考を巻き戻す。敵へ注がれていたはずの注意が、一瞬とはいえ完全に途切れてしまっていた。
ほんの一瞬。だがその一瞬は、"たった数十メートル"の距離を一瞬で詰めることが出来る異形の前では永遠に等しく、余りにも致命的な時間である。
『ハハッ! D1! D1! 死ね! 死ね!』
武器の変形は完了していた。一直線に飛び込んでくる敵を一刀両断する為の長剣がD1の右腕には握られている。が、間に合わない。余りにも長かった数秒の不覚が、後方へ飛び退いた際の計算と間合いを完全に狂わせてしまっていた。
既に、ようやく完成した得物の使い時は逸している。となれば、もう一度、せめて斬撃を回避する為に距離をとり直す必要があった。先ほどのようには上手くいかないだろうが、このままではどの道真っ二つにされてお終いだろう。
D1は足元の少女を拾い上げてから、敵に対して向き直る。
(そんな暇があると思ったのかしら)
再び、頭の中で少女の声――冷然とした失望の声が――が響く。
彼はその時、目の前の脅威に背を向け、息絶える寸前の少女を救出しようと懐に抱き、そのまま跳躍しようとしていた。
しかし、その行為は、数秒の隙が生死を分かつ戦いに於いて、あまつさえ、それにより危機を招いたばかりの人間にとっては、愚行以外の何物でもない。振り下ろされた敵の剣が風を切る音と、あっけなく叩き斬られた右肩の肉が弾け飛ぶ音は殆ど同時だった。
ズルリと、必殺の一撃を繰り出すはずだった長剣が、それを握る右腕を携えたまま、冷たいアスファルトの上に落ちた。繋がったままの右腕から滲み出る鮮血と、D1の肩口から吹き出た鮮血がそれを濡らす。
「ぐっ……ぁ!?」
敵を目の前にして、この傷は致命傷。被害は右腕を失っただけでは済んではいない。肩を貫いた衝撃はD1の運動機能を一時的に麻痺させている。
跳躍はおろか立ったままでいることも出来ず、無様にもその場で膝をついたまま、僅かに身体を動かすことすら出来ない。
『テメーは欠陥付きだったと聞いていたが、なるほどね。理解したよ』
「……っ」
背を向けたまま、膝をつくD1の首に化け物の奇剣が押し当てられた。一振りで骨ごと右肩から先を奪い去っていった刃が、少しずつ首筋の肉を裂いていく。
『テメーはすばしっこいが、脆い。主に皮膚が……ついでに心ってやつも、な』
打つ手がない。化け物が頸動脈を断つには、あとほんの数ミリだけ剣を動かせば事足りる。こちらが如何に行動を起こそうが、それが逆転に結びつくよりも先に、確実に首を撥ねられる。
万事休すか。この勝機を、逃す手などあるはずがない。首に押し当てられた刃が横に流れて首を切断するまで、1秒もかからない……そのはずだ。少なくとも、立場が反対ならば。
なのに"終わり"は一向にやってこない。もう既に5秒は経っているというのに。
『なぁ、どんな気分だ?』
抗う力を無くし、無様に跪く獲物に向かって、化け物が問いかける。愉悦と侮蔑を孕んだ声からして、己の勝利が確定していることを信じきり、これっぽっちも疑っていないのが窺えた。
「貴様こそ、どんな気分だ」
問いには答えず、D1は逆に問い返した。
右腕を失い、地に膝をついてから10秒近く。叩き斬られた肩口はおろか、大量に失われた血液のせいで、下半身さえ思うように動かない。
『はぁ?』
化け物が嗤う。侮蔑と、それ以上の愉悦を含んだ嘲りだった。
短時間とはいえ"生身の状態で"自身を――不完全とはいえ" 骸装化"済みの化け物を――圧倒せしめた奇怪な敵が、取るに足らない矮小な存在と化し、目の前に跪いていることが堪らなく愉快なのだろう。
『ああ、そうかそうか』
なるほどねぇ、と化け物は更に嗤いに含んだ愉悦を強め、大袈裟に頷く動作をした。
意図してのことなのだろうが、そのオーバーなアクションはD1の首元の刃を僅かに揺らす。たったそれだけのことでもD1の首筋を巡る幾つかの血管は裂けていた。飛び散る鮮血が、肉塊と化したアスファルトに広がる血だまりに波紋を描く。
『悔しいのか。そりゃーそうだなぁ? 自分の10分の1も生きていないような糞ガキにとっつかまって、今じゃそこに転がってるユリちゃんと同じような玩具だもんなぁ……』
ユリ――それが今、D1の血だまりの中で横たわっている少女の名前なのだろうか。
「玩具か。成るほど」
散々に弄ばれたことが窺える少女を霞みゆく視線に捉えながら、D1は呟く。
「これ以上に哀れを催すものを、俺は知らない」
その呟きにはありったけの侮蔑と、それ以上の憐みが籠っていた。
『意見が合うとは嬉しいね。まぁ、でも死ね』
「喜んでるところすまんが、お前に向かって言ったつもりだ。畜生め」
『くひひっ! テメーは、ほんと俺を苛つかせるのが好……――っぁ!?』
D1は跪いたままだ。奇剣には毒でも塗ってあったのか、傷口は時間の経過と共に酷くなる一方で、流血も止まる様子がない。そんな子供でも楽に殺せるような死に損ないを前にして――何の前触れもなく、化け物はたたらを踏み、その手にあった剣を取り落としていた。
『何っ、何がっ……』
化け物が喚く。既にその声色からは余裕など消え失せていた。
無理もない。背中から突き刺さり、腹を貫通してその切っ先を覗かせている剣が計6本。そのどれもが、満身創痍のD1がそうなる前に使用していたものと、形は違えど同質のものだった。
一体、何処のどいつが――その疑問に答えたのは、猛々しく唸るエンジン音。遠方より高速で迫る重2輪。出会い頭にD1が乗り捨て、そのまま放置されていたはずのものが、今やその身に携えた幾本もの凶器を射出しながら、乗り手も無しに疾走している。
『うっ……ウオオオァァァ!!』
一度ならず二度までも、あの鉄の塊はこちらの想定を越えた動きでこちらを翻弄する。それが堪らなく憎かった。
その鉄塊の主は、化け物が今怒りの矛先を向けているのとは逆の方向で跪くD1なのだが、いつでも処理することが出来ると判じたのか、それとも怒りで正常な判断力を失っているだけなのか。いずれにしろ、化け物はD1に背を向け、乗り手の居ない異形のバイクへの方へと向き直った。
そして、突っ込んでくるバイクとそれ以上の速さで射出される凶器を前にして、手負いとは思えぬ脚力を発揮し自ら距離を詰めていった。浸食され、腐肉と化し始めたアスファルトを蹴って、化け物が駆ける。
『骸っ……装ォォ!』
叫び、駆けながら、握られた右の拳を開かれた左の掌に打ち付けた。猛烈な勢いで打ち付けられた右拳は左の掌を陥没させている。それは無論、単に手を重ね合わせただけでも、単なる自傷行為でもなかった。抉られた左手から飛び散った体液が右拳にこびり付き、膨張し、凝固していく。
粘液が個体として形成されるまでに、1秒とかからなかった。左手に埋まった右手が徐々に引き抜かれていくと、そこには先ほど取り落としたはずの奇剣が握られていた。
『ハッ――』
得物を再び手にした化け物と、その前方より猛スピードで迫る無人のバイクが互いに距離を詰めていく。
まず化け物が対応しなければならなかったのはバイク本体ではなく、それが射出していた数本の短剣の方だ。こちらに向かって突っ込んでくる本体の速度を、更に上回る弾丸が数発、それも一点に集中している訳ではなく、標的の逃げ場を防ぐようにして放たれていた。前進しながらの完全回避は至難の技。
例え化け物が並外れた機動性を持っていようと、一瞬のうちにその速度を抑え込んで方向転換することは不可能だ。ならば――と、足を全く止めることなく、半ばまで露出していた刀身を一息に抜き放ち、それをそのまま斬撃として最も最初に自身へ到達しようとしていた短剣へとぶつけた。――結果、短剣は綺麗に両断され、その欠片はあらぬ方向へと飛んでいく。
まだ、終わりではない。居合によって振りぬかれた右腕は伸び切ってしまっていて、抜刀時に利用された勢いも殺し切れていない。これでは切り返しにも時間を要す。
だが、動揺はなかった。寧ろ予定通りだとでもいうのか、至って淀みなく、高速で腐肉の大地を踏みしだきながら運動していた脚の、その片方だけを唐突に緩める。これでは途端に歩幅が合わなくなり、間抜けにも踏み違えた脚は絡み合うことに――
『ふぅっ……!』
――ならなかった。踏み違えたかのように見えた脚が軸となり、化け物の向きが反転。それだけではただ単に敵に対して背を向けただけなのだが……足を踏み違えて行き場を失った加速力と、未だ死んでいない居合の勢いが加われば話は別になる。
恐らくは本命の、2本連なって飛来した短剣。それを同時に叩き落としたのは、意図的に崩された体制より放たれた、神速の斬り返しだった。
『残りはぁ、そこかぁ!』
放たれていた短剣は全て叩き落とした。残りの数本は化け物が避けた場合の進行方向へ放たれた予測射撃。進行ルートを変えなければ何の脅威にもなりはしない。
苦し紛れに第二射を放とうとするバイク。だが、既にその位置では手遅れだ。余りにも距離が近い。既にそこは近接戦闘の間合いだ。第二射に先んじて、相対する刃が閃いた。
ギン、と甲高い金属音が響き渡る。先の斬り返しによって右斜め上方まで跳ね上がった剣をすぐさま反転させ、そのまま左斜め舌へと一閃、高速の袈裟斬り――それだけで、バイクの分厚い装甲は前輪ごと両断されていた。そのまま余剰した速度で後方へとバラバラに自壊しながら吹っ飛んでいく。
『あー、スッキリした。……さて』
巨大な鉄塊を正面から斬ったというのに刃こぼれ一つ無い得物を撫でながら、化け物がゆっくりと、後方へ残していた獲物の方へと振り返る。腹に突き刺さった6本のナイフは既に抜け落ち、傷はふさがっていた。
その動作に余裕があるのは、獲物が絶対に逃げられないという確信があったからだ。化け物の奇剣には毒が塗られている――というよりは、常にそれを分泌している。その効能は全身を麻痺させるだけではなく、切断跡を徐々に、しかしこの世から完全に消え去るまで永遠に溶解し続けるというものだ。これを喰らえば、天地がひっくり返ったって末路は変わらない。
化け物が思っていた通り、D1は未だ動くことが出来ないでいた。必死で立ち上がろうとしているのが分かるが、それも無駄な努力だ。毒の浸食も右肩を完全に溶かし、胴体にまで及んでいた。身体のバランスなど、とうに崩れてしまっているはずだ。
『ん?』
だが、たった一つだけ、妙な変化が獲物に生じていた。D1の残された左腕に握られている、バイクが射出したものと同じナイフ……いつ、手にしたのだろうか。
『あれは、さっきの……』
先ほど、着地後の隙を突こうとバイクが繰り出した予測射撃。相手にもせずに回避したのだが、確かにその先にはD1が跪いていたようだ。とうに激痛と毒に全身を蝕まれているはずだというのに、何という執念か。
その執念深さは素直に評価しながらも、化け物が余裕を崩すことはなかった。剣の峰で肩を叩きながら、化け物はゆっくりとD1へ歩み寄る。どんなに時間をかけようと、獲物が一歩も動けないまま、地獄の苦しみを味わいながら溶け落ちることを確信していたからだ。そんな状態で握ったナイフ一本に、どれだけの脅威が宿るというのか。
『……何をするつもりだ』
だが、次の瞬間にD1が見せた奇行が、ようやく化け物に警戒心を抱かせることになった。左手のナイフに関しては、きっと最後の抵抗をするつもりなのだろう、と化け物は思っていた。刺し違えてでも討ち果たすつもりなのだと。D1という獲物は諦めが悪く、最後まで足掻き続ける類の敵だと、そう決めつけていたからだ。
ならば何故、その刃の矛先がこちらではなく、自分自身の心臓なのだろうか。負けを悟って自害でもするつもりなのか、と一瞬考えるが、すぐに思い直す。そこまで往生際の良い相手とは、どうしても思えなかった。
生じた疑念が、化け物の足を少しずつ速めていく。D1の意図が読めた訳ではなかったが、全く不可解であることが逆に脅威に感じられたからだ。
現在の距離は30メートル程度。常人が斬りあうには遠い距離ではあったが、それも異形の化け物にとっては目と鼻の先でしかない距離だ。そしてそれは、D1にとっても同じなはず。だというのに、D1がナイフをまともに構えようとする様子はない。その刃先は引き続きピタリと、自らの急所へと向けられている。あのナイフ、並の切れ味ではないはずだ。軽く一突きすれば、あらゆる筋骨を裂いて心臓へ到達することだろう。
『何をするつもりかは知らないが……』
距離が縮まる。それでも尚、D1の体制に変化は無かった。が、ほんの僅かではあるがD1の口元が小刻みに動いているのが見て取れる。何を呟いているのかは判別できない。まさか、本当に気が触れただけだとでもいうのか。
化け物はあらゆる可能性を疑ってはいたが、自身の剣――"骸装器"――を防ぐ手立てを、満身創痍で片手を持ち上げるのがやっとのD1が備えているとは考えられない。万が一秘策があったとしても、講じられる前に無力化してしまえば良いのだから。
『ふっ!』
化け物が地面を蹴り、踏み込んだ。それにより、一瞬にして攻撃の有効範囲内にD1を捉えることに成功。そして、ここまで接近を許したにも関わらず、D1に戦闘の意思は見出せない。
やはり、D1は諦めていた。何という惨めさ。自害すら己の意思では出来ないまま、真っ二つにされて死ぬのだ。
素早く、しなやかな一閃を生み出す為に柔らかく片手で握られていた柄に左手を添え、両腕で握り直し、そのまま上段に構えた。このまま振り被るだけで、驚異的な脚力が生む速力と、全体重を掛けた重い一撃を、化け物は放つことが出来る。それを喰らえばD1は――いや、この世界に存在する全てのものが両断されるはずだ。化け物の内部で生成された溶解液に耐えることが出来るのは、その化け物自身の肉体のみなのだから。
化け物は、迷いなくその両腕を振り下ろした。
#
徐々に速度を上げながら、一撃必殺が迫ってきている。対するD1は、その場からただの一歩も移動することが出来ないでいた。
感覚の無い四肢、骨と共に溶け、流れ落ちていく身体の一部。正に満身創痍。立っていられること自体が不思議だ。それでも尚、身体は生きることに貪欲だったらしい。感覚が無いはずの左手にしっかりと握られているナイフが証拠だ。
突如として自律機動を開始し、D1を窮地から救ったバイク。それが遠方より何本かを化け物に向けて射出したのだが、その中の幾つかは目標から逸れ、動きを封じられていたD1の元へと飛来した。その内の一本を、D1は死に物狂いで掴み取っていた。
(受け取ってくれたみたいね。その為に"ばいく"を壊されてしまったけど……どうしてくれる?)
霞みがかった頭の中に、ため息混じりの少女の声。こちらを心の底から見下していることを、隠そうともしていない。
「あのまま、トドメを刺してくれれば楽だったんだが」
動かすのも億劫な唇をゆっくりと動かしながらD1は応じる。
(冗談。あんな手駒じゃ隙を突くのがやっとだわ。で、どうしてくれるの? その贈り物、何に使うか、分かっているでしょうね?)
「ああ」
震えた声で答えると、D1は素早く左手のナイフを半回転させた。刃を身体の内側に向け、心臓の手前でピタリと静止させる。両目を閉じ、ガクガクと震える脚を少しだけずらし、出来る限りの範囲で体制を整え、僅かな力を振り絞って踏ん張りを利かせた。
「結局、これに頼ることになるか……情けない」
切っ先を、数センチほど胸の中央部に突き入れる。その痛み自体の度合いは、現在進行形で溶かされている半身と比べれば気にする程のものでは無さそうだった。異物を心臓に突き入れる不快感は当然無くならないが、数秒程度なら意識を保つことが出来るだろう。そして、その数秒だけが必要だった。
「――っぁ……ぐっ!」
一瞬の躊躇いも無く、己の心臓を正確に貫き、更に抉るD1。
激痛が奔流し、それ以外の全てを押し流そうとする。押し寄せる痛みと夥しい失血に何度も視界が揺らぐが、その度に奥歯で頬の内側を噛み締め、食い破り、意識を覚醒させた。
そうしなければ、意識を保つことさえ困難だ。どれだけ身体が血を流そうが、意識の喪失だけは食い止めなければならない。準備が整うまでは。
「う、ぐっぅ……!」
鋭利な刃が完全に心臓へと沈み込み――それで準備は完了された。震える左手で胸から突き出ている柄を握り締め、血を吐きながら、叫ぶ。
「骸鬼装!」
叫びと共に、左胸からナイフが引き抜かれた。その傷口からは夥しい血液が吹き出し、D1の全身を赤く染め上げていく。胸から噴き出る血液の色は紛れもなく赤い。
痛みは、既に消えていた。代わりに、それとはまた別種の不快感が全身の臓器を満たしていく。その苦しみの中、D1は叫ぶ。
『クロガネッ……!』
黒の魔物が、そこに顕現する。
#
ズブズブという湿った音は、全体重を掛けたが為に、浸食され大地にめり込んでいく軸足の音だろう。少し遅れて、聞き慣れた、刃が風を裂く音がする。
そこまでは良かった。いつもの流れだ。だが、その後が違う。それらに必ず追随するはずの、肉を裂く感触と、骸装器から分泌された毒液が肉を溶かす時に発生する心地よい芳香が、全く感じられない。
代わりに響いたのは不快な金属音。更に、今まで感じたこともない衝撃と痺れが化け物の両腕をじんわりと覆っていた。
突然、自らの胸に刃を突き入れたD1に向かって、容赦なく引導を渡してやったはずだ。なのに、何故――何が起きたというのか。
僅かに後ずさりながらも、痺れの残る腕に目をやった。……震えている。ガタガタと震えて、自由に動かすことが出来ない。これ以上に無いほどの無様。
屈辱だ。身に余るほどの屈辱だった。が、それさえも意識の外へ追いやられる程に衝撃的な現実が、痺れの残る腕だけに止まらず化け物の思考や動き、その全てを静止させている。
『お前は、何なんだ』
化け物が持つ骸装器は、非常に優秀な代物であるはずだ。
その刀身でせわしなく動く眼は、化け物が苦労して採集した寄生生物。メルトダウンで溶解された人間達が、メルトダウン下の環境に適応する為に変化した姿だ。彼らは唯一人間だった頃のまま残されている眼球で獲物を発見し、物質や生物を溶かす毒液を分泌し、獲物を溶解しながら吸収する。
勿論、刀剣としての斬れ味も申し分ない。最も理想的なバランスで維持された柔軟性と硬度を併せ持ち、それに毒液が加われば断てぬ物など存在しないはずだ。それが、折れている。砕けている。
『――!?』
呆然自失、全くの無防備だった化け物の首元を、強靭な"右腕"が締め上げた。鋼鉄の爪が首に突き立てられ、幾つかの血管を裂いていく。鮮血が吹き散り、浸食されて腐肉と化したアスファルト上に降り注ぐ。
『貴様ぁ! いったい……なんっ――』
化け物は掠れた声を、万力で押し潰されていく喉から何とか絞り出し、D1を――否、D1だったはずの、今や自身の天敵となった存在を、薄れゆく視界に収めた。
黒い魔物がそこには存在していた。全身は黒い鋼の皮膚で覆われているが、その体表には鋼特有の無機質的な艶のある質感が全く存在しない。血の通った、生物的なフォルム。何より印象的だったのは、顔に当たる部位の造形だった。亀裂のように鋭く細長い深紅の眼には敵意の炎を灯し、辛うじて原型を留めた口の中には、無理矢理詰め込んだとしか思えないほど大量の牙をビッシリと生やしていた。
悪鬼の如く醜悪……その表現が、今のD1には相応しい。
『――化け物めぇぇ!』
自身が叩き斬ったはずの右腕に向かって血反吐を吐きかけた直後、化け物の首は容赦なく粉砕された。
#
(ああ、なんて素敵なの……私の骸装鬼。いつ見ても惚れ惚れする造形だわ。ずっとその姿で居れば良いのに)
『……冗談』
化け物の首を脊髄ごと胴体から引き抜いた直後、陶然とした賞賛の声がクロガネ……D1の脳裏に響く。だが、特に感慨はない。彼の胸を占めていたのは、途方もない疲弊だけだった。
それでも、同族であったはずの骸を、D1はクロガネの姿のままじっと見つめていた。無残な姿だ。原型を留めてはいるが、それだけに、元は今の自分と同じ存在だったことを容易に連想することが出来る。
『クズめ』
侮蔑の一言を吐き捨ててから、クロガネは化け物の死体に背を向け、ゆっくりと歩き出した。行く先は、ほんの数メートル先。今はもう動かないそれに全てを弄ばれ、廃人同然と化していた少女の元だった。
(ねぇ、D1。私のクロガネで、あまり下らないことをしないで貰いたいんだけど)
あからさまな不満の声を無視しながら、メルトダウンの影響で受肉したアスファルト上に倒れ伏していた少女の前まで来ると、そこで動きを止めた。
少女の外傷は、その殆どは既に自然治癒の影響で完治している。血に塗れていることを除けば、暴虐の限りを尽くされた形跡はまるでない。だが、それこそがもう既に手遅れであることの証だった。普通の人間は、ほんの数分で抉られた臓器や皮膚を再生することなど出来ないし――まともだったら、腐った肉と化したアスファルトの上で、笑い転げられるはずがない。
「どうしたんですかぁ……クス、あははっ……」
(中途半端に同期されたみたいね、この娘。薄気味悪いわ……始末するなら早く終わらせてくれないかしら)
『黙れ』
嘲るような声に苛立たしげに答えると、足元に転がっていた剣を拾い上げた。右腕ごと斬り落とされた時のまま、柄はしっかりとD1の右腕で握られている。それを、復元された"新しい右腕"で拾い上げた。生身の時と違って、クロガネを纏っていると筋力も大幅に増強されているのか、全く重量が感じられない。
「くす、くすくす……あなたは、先輩……ですか? それとも、お姉ちゃんでしょうか」
生気の感じられない眼をクロガネへと向けながら、ユリという名前だったらしい少女が笑う。狂った玩具のような、笑い声。
異形の姿を前にしても尚、無邪気に笑い続ける少女を見据えながら、クロガネは大剣を右肩で担ぐようにして構えた。柄の握りは、切っ先がぶれず、取り落とさない程度に柔らかく。確実に自重が刀身へと伝わるよう、脚の動きも意識しつつ、クロガネの鎧で増した重量に流されないことも考えた立ち位置。
『俺は……』
一泊置いて、後ろに配した左足に力を込めた。
『取るに足らない、ただの害虫だよ』
その言葉が自分に向けられていることすら知覚していないのか、にこやかに笑い続ける少女に向かって、クロガネは大剣を振り下ろす。踏み込みの力も加えた、骸装鬼の一撃。少女の身体どころか、地盤ごと粉砕するほどの威力と重さ。幾ら再生能力を備えた身体といえど、痛みを感じる間も無いはずだ。安楽死とは程遠いだろうが――
(D1、後ろ!)
突如、頭の中に響いた警告。それと共に、クロガネの骸装甲を通して肌身に感じたおぞましい程の殺意。
『何っ!?』
完全に虚を突かれていた。振り下ろしている最中の剣の軌道を逸らしながら、どうにか背後に身体を向けようとするが、間に合わない。
次の瞬間、非常識な切れ味を備えた剣をまともに受けながら、容易くそれを圧し折ったはずのクロガネの装甲に大きな衝撃が走り、軋むような音を立てながら砕け始めていた。歪むクロガネのフレームが、生身の身体を圧迫する。
『ヌッ……――おぉっ!』
危うく崩れ落ちそうになりながらも、渾身の力を振り絞ってその場に自身を留まらせ、背後から不意を突いてきた襲撃者に対して反撃を喰らわそうと、クロガネは背後を振り向きながら全力で剣を振るう。それは持ち得る能力をフルに活用した、現状では最速の反撃法だった。
が、その一撃は正体不明の敵を仕留めるどころか捉えることすら出来ずに、腐った肉の大地に突き刺さることになる。背後へと向けられた視界からも、一切の敵影を確認することさえ出来なかった。そこにはたった今、自ら路面に穿った大きな傷跡が残されているだけで、他には何も――敵が居たという痕跡すら見つけることができない。
『こんな、馬鹿なことがっ――ぐぅっ!?』
二度目の衝撃が、今度こそクロガネの装甲をグシャグシャに歪ませ、その一部を生身の身体ごと引き千切る。抵抗する間もなく戦う力を失った骸装鬼・クロガネの中でD1は、自身の再生されたはずの右腕が、滅茶苦茶に拉げながらすっ飛んでいくのを、ただ崩れ落ちながら見送ることしか出来なかった。
ありえない。あってはいけないのだ、こんなことは。クロガネの力に頼ってはいけない、などと散々戒めておいて、それを破りながらこの有様。このような事態が現実に起きているなどと、容易に受け入れられるはずがなかった。
(た、立ちなさい、D1。奴に報いを……ッ!?)
『どうした、リン。応答を――』
自身の宝をコケにされたことで怒りを感じているのか、常よりも更に冷たい声色で、左足を根元から再生しなければ立てない状態にあるクロガネに対して、無理難題を押し付ける少女の声。しかし、それが突如、何の前触れもなく消えて無くなった。
『申し訳ないが、あの魔女との回線は切らせてもらった』
"遥か頭上"より、男の声。それも、クロガネや化け物と同じように、フィルターを被せているかのような奇妙な声。
その場から動くことすら出来ないクロガネは、首だけを上方へと動かしながら男の姿をどにか視界に入れようと無様にもがく。軋む身体に鞭を打ち、肘から下を無くしてしまった両腕さえも支えにして、両の眼球が白目に限りなく近くなるまで引き攣らせながら――上空に居るはずの敵を、その視界に入れようと、ひたすらもがく。
『なんて無様な。とても俺の知る貴方とは、思えない』
無様な行為は無駄だった。D1が見上げるまでもなく、"それ"は降り立つ。緩やかに――空から降り注ぐ赤い光をその身に受け、紅の輝きを燦然と纏った銀色の"それ"が、血で染まった空と肉で浸食された大地の狭間に降り立った。
『おまえ……は、まさか――』
銀色の"それ"は、四肢を無くして大地にその身を這わすよりも以前のクロガネと、寸分違わぬ造形をしていた。が、漂わす雰囲気は全く違う。殆ど同じ姿をしているというのに、クロガネの醜さはそこには存在していない。代わりに美しさがあった。クロガネには無かった荘厳なる翼と、輝く装甲板が醸し出す、華があった。
『分からないだろうな、どうして俺がこんな姿になったのか。自分のやっていることを絶対だと妄信しながら、正しいと思って俺の大切に思うもの全てを踏み躙った貴方には、分からないのだろう』
『何故、お前が……"シロガネ"を纏える!?』
光を受け、哀れな落人を見下ろす、銀色の骸装鬼。自力では影から抜け出すことも出来ないまま、ただ圧倒的な存在を見上げることしか出来ない黒い骸装鬼。シロガネ、クロガネ――それらは対照的で、優劣も明らかな存在だった。
『貴方が知る必要はない。貴方は、ここで終わることになっているのだから』
血を吐きながらの問いは拒絶され、無機質な声が容赦なく処刑を宣告する。その次の瞬間には既に、銀色の鉤爪がクロガネの首を捕らえ、装甲板ごと潰しにかかっていた。
『っ!? がっ……ぁ』
血を吐くどころか、絶叫を上げることすら出来ぬまま、首を覆う装甲板がひしゃげていくのを強烈な圧力の中でD1は体感する。縮まっていくクロガネの装甲に首が押し潰されていき、意識は白に染まっていく。抵抗しようという意志はあった。が、手段がない。四肢を奪われ達磨にされてしまっては、手段がない。
『とはいえ』
両の眼球が飛び出しそうになった時、不意にその圧力が弱る。
『あくまで俺個人の意思ではあるが……まだ貴方には、終わってほしくない』
銀の骸装鬼が突然その両手を放し、支えを失ったクロガネは赤い大地の上へと仰向けに転がされた。かつての化け物じみた威圧感は既に無く、浸食されたアスファルトにめり込んでいくその姿は、まるで打ち捨てられた廃棄物のようだ。
そんな無残な姿には見向きもせず、銀の骸装鬼はその場で空を仰ぎ見るようにして首を上空へと向けた。月もなく、星もなく、雲すら消え去り、ただ血のように濁った赤色だけが広がる夜空をさも愉快そうにして見上げ、そのままクロガネには目を向けることなく語りかける。
『そこからならば、貴方にも見えるはずだ。あれが俺の――いや、俺達の空だよ』
『……な』
その言葉に気をとられる余り、クロガネは気付くことすら出来なかった。白銀の骸装鬼が一瞬にして振り向いたことにも、そのまま首を掴まれていたことにも、伸ばした右腕が更に短く切り詰められていたことにも――何の反応すら示せない。
『あれを、落とす、だと?』
しかし唯一、銀の骸装鬼が淡々と語った言葉には驚愕をもって応じた。それ程までに、その言葉はクロガネの心を大きく揺さぶっていたのだ。
『正気か!?』
『――ははっ……』
いつでも首を捻り折られてもおかしくない状況で、クロガネが叫ぶ。対して、銀の骸装鬼は一瞬の嘲笑で応じた後、喜悦にその貌を歪ませながら答えた。
『先に正気を失ったのも貴方なら、俺から正気を奪ったのも貴方なのだが――』
これまで淡々と紡がれてきた言葉が、徐々に感情を帯びていた。何処までも深く、そして暗い感情を。
『まぁ、恐れることはない。さっき言っただろう? 俺は、このまま貴方に終わって欲しくはない、と』
『何を――くっ!?』
恐るべき速さで伸ばされたシロガネの右腕がクロガネの胸部装甲を突き破り、生身の肉体にまで到達する。そして何かを探すように抉り始めた。
グチャグチャと臓器が掻き分けられる度に、鮮血が飛び散り、激痛を催す。しかしそれでも、D1の生命が絶たれることはない。少なくとも、クロガネが機能している限りは。
『あった』
突然、引き抜かれたシロガネの腕。
『……!?』
さしものD1でさえ、愕然とせざるをえなかった。
自らの体内より引き抜かれた白銀の腕は、ドクドクと脈を打ち続ける赤黒い器官を――D1の心臓をガッチリと握り締めている。
『これより、賽は投げられる』
白銀の掌が急激にその圧力を高め、少しずつ内部の心臓を押し潰していく。クロガネ――D1は、それを目の当たりにしながら、しかし何の抵抗も出来ずにそれを見届けることしか出来なかった。
そして、湿った破裂音と共にD1の心臓はあっさりと破壊される。その質量からは不釣り合いなほど大量の鮮血が吹き出し、辺り一面に紅の飛沫を浴びせた。
『ガ――ハッ』
それが引き金となったのか。
クロガネの装甲が不意に軋み始めた。全身を覆っていた漆黒も徐々に色褪せていき、まるで長い年月をかけて老朽化していく過程を数百倍速に速めているような形で、確実に崩壊が進んでいく。
最後まで果たそうとしていた生命維持装置としての役割さえも放棄されていた。これでは、もう装着者であるD1が助かることはない。何せ、心臓を摘出された挙句に握り潰されたのだから。
『……ぐ、あ、が……!』
だというのに、D1は未だ意識を保っていた。常人ならば精神に異常を来すことはまず間違いないと言えるような激痛に苛まれ、このまま放っておけば数十秒と待たずに骸となるのだろうが、とにかく即死はしていなかった。
その悶え苦しむ様を鑑賞しながら、銀色の骸装鬼――シロガネはゆっくりと歩き始めた。
『苦しいか。苦しいよなぁ。……ふふ』
シロガネの中から響く声は、酷く感情的な震えを帯びている。計り知れないほどの喜びから生れし、歓喜の震え。
『……貴方は死なない』
ゆっくりと歩行を続けながら、既に意識があるかどうかも怪しいクロガネの上半身へと囁きかける。
『だって、貴方は永遠の――ヒーローなんだから』
不意に、シロガネが移動を止める。
そこにはどういう訳か、喉を潰され生命を失った黄土色の化け物の亡骸と、
「あはっ――」
その亡骸から毟り取った眼球を、愛しげに見つめる少女の姿。
『ヒーローは、不滅でなくちゃいけないだろ』
直後、濁りを増し続ける赤い空の下で、クロガネの頭部が脊髄ごと引き抜かれていた。
書いてて思ったのが、知ったかぶることの難しさです。
殺陣をもっと読みやすく、理解しやすく、そして正しく書けるように善処したいと思います。