プロローグ:CHAPTER1 「いつかの夜」
初投稿作品です。本作は私の多大な妄想の塊になると思われますが、それでも読んでくださった皆様から頂いた貴重なご意見は是非とも参考にさせてください。
どんな感想・批評でも涙が出るほど嬉しいです。鼻につくような表現もあるかもしれませんが、どうか生肉のような温かさで見守ってあげてください。
鏡の向こうに奇妙な生物が写り込み、こちらをじっと、微動だにしないまま凝視している。
余りにも未知の存在である。その体表は爬虫類の鱗を思わせる艶と質感を持った皮膚で覆われており、背中や肘、そして額……全身の至る箇所からは悪魔を思わせる歪な形をした角が何本も伸びていた。
見るからに凶悪な姿。人間とは全く異なる生命体だということが一目で分かる。が、その猛獣もかくやといった外観に反して、こちらに向かって襲い掛かってくるような様子は、少なくとも今のところは見受けられない。濁った赤色の目をこちらに向けたまま、何をするでもなく、ただこちらをじっと見続けているだけで、全く動こうともしないのだ。
それは恐らく、喜ぶべきことだ。もし目の前の生物が見た眼通りの獣だったなら、非力な人間など抵抗する間もなく餌食になっていたはずである。
しかし、この均衡がいつまでも保たれるという保証は何処にも無かった。逃げるなら、今がチャンスだ。奴がこちらに敵意を向けておらず、鏡の向こうから這い出す様子の無い今、この瞬間ならば……。
逃げる、だと――
人間としては極自然な行動。それを実行に移そうとしていた時のことだった。
突如として、自身の内側から強烈な怒りが湧き上がり、こんな未知の化け物と対面してしまっている人間としては最も常識的であるはずの「逃げる」という発想を一瞬にして淘汰しまった。
この、化け物め――
気づけば、ありったけの怨嗟を込めて、目の前の"そいつ"のことを罵っている自分が居た。理由も、出所さえも分からぬ怒りではあったが、その行き場ははっきりとしている。この醜い化け物のことが、その存在が、たまらなく目障りで苛立たしく感じられるのだ。
しかし、化け物に反応はない。そいつが持つ亀裂のような、細長い深紅の眼は瞬きすらしなかった。そしてそのことが、どういう訳が気に入らない。先ほどまで抱いていた畏怖にも似た感情は消え去り、鏡の向こうの異形に対する、計り知れないほどの嫌悪感が心中を満たし始めているのが分かる。
なんて醜いツラだ――
辛うじて人間と同じ形をしている口の中には、無理矢理詰め込んだとしか思えないほど大量の牙を生やしているのが見えた。それらを全て納めるには、人間に近いその口は余りにも窮屈過ぎる。狭すぎる口内を埋め尽くす、余りにも巨大且つ多過ぎた牙は、常に万力の顎により食い縛られていた。
そんな姿では、きっと誰からも憎まれる――
気がつけば、自分の口から発せられているはずの暴言を、どうしても止めることが出来ないでいた。いずれ、奴はこちらに向かって襲いかかってくるかもしれないというのに、その危険さえ無視出来てしまうほどに、醜い化け物を貶めることが爽快に感じられる。
お前はきっと、誰からも責められる――
よくよく見れば、その化け物の姿はこちらを畏怖させるにしては余りにも不憫で仕方がない。あんな口では、まともに飯を食うことも出来ないだろう。少しでも口を開ければ、途端にあの頬はビリビリと裂けていくのだから。そうならぬように、あの化け物は常にああやって牙を食い縛っているのだろうが、そうまでしても、口元からは常に血が滲み出てしまっている。
なんという痛々しい姿。直視することさえ躊躇われるほどに醜く、哀れな化け物ではないか。恐れるほどではない。どうせ、人間の喉を食い破る度胸も無いのだから。
そんなお前が、どうしてここに居る――
そんな奴が、自分の姿の代わりに鏡に映っているということが、とても我慢ならなかった。全く容認出来ない。今鏡に映っていいのは、人間の姿だ。鏡を覗けば必ずそこに映し出されるはずの、自分自身の姿。それに代わりなど存在するはずがないのだ。ましてや、こんな化け物など冗談にもならない。
だから、消えてしまえと、鏡に向かって思い切り拳を叩きつける。
違う――
破片が突き刺さり、焼けるような痛みが拳に纏わりつく。人間なのだから当然だ。皮膚は簡単に裂けてしまうし、血だって普通に流れ落ちる。……なのに、痛みは全く気にならない。
自然治癒の速度はおぞましいほどに迅速だった。普通の人間とは桁外れの速度である。
俺は違うよな――
赤い血液の張り付く、砕けた鏡の破片に向かって呟いた。先ほどまでの威勢は既に枯れ果て、恐れに満ちた問いかけを掠れた声で紡ぎ、見慣れない自身の鏡像へと投げかける。
それの返答はすぐに返ってきた。ただし、それは言葉ではなく事象として体現される。傷口を塞ぐ為に不気味な変化と増殖を開始した細胞の不快な感覚が、既に自分が人の身ではないことを思い出させるのだ。大量のウジ虫が傷の中でうねっているような感触と、嫌でも視覚に刻み付けられるグロテスクで卑猥な肉体の変化が、自身の肉体に発現している全ての現象が、現実から目を背けての逃避を阻み、逃がそうとしない。
これが自分。このおぞましい肉体こそが、死ぬまで捨てることの許されない、唯一無二の器なのだと。
違う――
認めるわけにはいかなかった。真っ当な人間であるはずがない、この醜い化け物が……。こんなものが、今の自分だということを。それだけは、断じて認めたくなかった。