君を自由にしたくて婚約破棄したのに
「婚約を解消しよう」
十四歳の時だった。
幼い頃に決められた婚約者であるルーシー=ファロウにそう告げると、何故か彼女はショックを受けたように身体をこわばらせ、顔面が蒼白になった。
でもそれは一瞬のことだった。
「わかった、クラン。両親には私の方から伝えておく」
なんでもないようにすぐにそう言って彼女はくるりと背を向けた。
その顔はいつもの淡々としたものだった。
だけど彼女が一瞬見せた顔が頭から離れなかった。
彼女は自由になりたがっている。そう思ったから苦渋の決断をしたのに。
もしかしたら私は何か思い違いをしていたのではないか。
そう思った私の頭の中に、走馬灯のようにこれまでの彼女との思い出――おもに観察記録――がぐるぐると蘇った。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
ルーシーはいつも不可解な行動ばかりだった。
父親同士の仲が良く、私とルーシーの年が近いことから、ほとんど生まれてすぐ婚約が決まった。
だから私は幼い頃からその突飛な行動をよく見ていた。
彼女は何故か侍女だけを連れてよく我が家へ遊びに来ていた。
そこで普通は年も近く、婚約者である私と遊んだりお茶をしたりするものだと思うのだが、彼女は挨拶だけ済ませると、さっさとどこかへ行ってしまう。
気づいたら我が家にいることもある。
何をしに来るのかと心底から疑問だった。
それで二階の窓や建物の陰に隠れてそっと観察していると、彼女はよく使用人たちや出入りの業者と話していた。
明るい栗色の髪は日に透けてキラキラと光り、まん丸の碧の瞳はいつも好奇心に彩られていた。
フリルの少ないシンプルな服ばかり着ているのは、動きやすいからか。
ルーシーを観察するようになってから、私も装いを極力シンプルにした。
不意に建物の陰に隠れたり、草むらに飛び込んだりする彼女をいつでも追いかけられるように。
奇行の始まりは、彼女が火打石を求め始めたあたりだろうか。
「どうやって火をつけるかって? そりゃあ、火打石を使うんですよ。こう、カチッと石同士をぶつけると火花が散って、簡単に火をつけることができるんですよ」
ほうほう、と感心したように頷くと、ルーシーは律儀にぺこりと一礼し、たたたっと駆け去って行った。
どうするのかと興味をひかれ、後をついていくとルーシーは花壇に向かっていた。
土を掘り返し新たな花壇を作っていた庭師の服の裾をちょんちょん、と引っ張ると、背の高い庭師を見上げるように首を曲げ、身振り手振りで何かを必死に説明していた。
「石ですか? いいですよ、好きなだけ持って行って。でも危ないですから気を付けて遊んでくださいね」
ルーシーは再びぺこりと一礼し、庭師が掘り返しては捨てて端に積んでいた石を何個か見繕うと、たたたっと駆けだした。
向かった先は、誰もいないだだっ広い庭園の石畳みの上だった。
そこで持ってきた掌ほどの大きさの石をごろごろと転がすと、二つ手に取り、カチン! とぶつけ合わせた。
びりびりびり、と両手が痺れたように身体を震わせた彼女は、難しい顔をして両手の石を何度も見回すと、決意を込めたようにもう一度ぶつける。
同じように衝撃が走ったらしいが、堪えるようにしてもう一度、もう一度とぶつけ合わせる。
しかし何事も起きず、火花が散ることもない。
むう、と口を尖らせた彼女は、思いついたように一つを石畳の上に置くと、もう一つをしっかりと両手で握り締めた。大きく上段に振りかぶり、力いっぱいに振り下ろす。
ガツン、と大きな音がして、石畳の上に置かれた石は真っ二つに割れた。
――そうじゃない。
とでも言わんばかりに割れた石を悲しそうに眺め、ルーシーは何度か同じことを繰り返した。
しかし思う通りにならなかったようで、口をむにゅっと引き結び、すべて割れてしまった石の欠片を見つめた。
それから再び意を決したように表情を改めると、割れてしまった石を拾い集めて広げたハンカチで包み、庭師の元へ戻った。
そうして石の山に粉々になったそれらを戻すと、再び庭師の服の裾をちょいちょいと引いた。
「え? ああ、火打石を探してたんですね。それなら、どの石でもいいわけじゃないんですよ。どこに行けば買えるかって……ファロウ伯爵家にだってあるでしょう。ははは、そうですよね、伯爵家のお嬢さんがそんなものを見たこともないのは当たり前ですよ。ああ、なるほど、将来伯爵夫人として家のことを管理するためのお勉強ですか? ならお教えしますが、どこの家も大抵出入りの業者から必要な物は取り揃えていますよ。うちはファーガン商会が主ですね」
ふんふん、と頷きながら聞くと、彼女はまたぺこりと一礼をして、たたたっとその場から走り去った。
ほほえましそうにそれを見送った庭師が作業を再開した背後で、ルーシーは勝手口へと回った。
ここまで来たら最後まで見届けたい。
後をつけていった私は、彼女が絶望する顔を見た。
「火打石ですか? 危ないですから、それをルーシー様にお譲りするわけにはまいりません。いえ、お金の問題ではないのです。そんな勝手なことをして何かあったら、私が旦那様とファロウ伯爵に怒られてしまいますから」
分けて欲しいとねだったのか、断られて肩を落とした彼女は、とぼとぼと帰っていった。
後を付け回さなくても、何がしたいのか直接聞いてみれば早かったのでは? と気が付いたのは数日経ってからだった。
だから次に彼女が我が家を訪れたときは、思い切って聞いてみた。
「ねえ、ルーシー。先日は火打石を探していたみたいだけど、どうしてそんなものが欲しいの?」
「火を起こしたいから」
端的に答えた彼女は、さも「私、忙しいので」というように歩き去って行った。
聞いてもわからない。
だから私はまた彼女の後をつけた。
向かった先は、再び我が家の勝手口だった。
厨房で下ごしらえをする使用人たちをぶらぶらと見て回ったり、話したりしながら、彼女はしきりにちらちらと勝手口を窺っていた。
誰かが来るのを待っているように。
やがていつもの年老いた商人が食材やら何やらを運んで来ると、ルーシーはそれを少し離れたところから見ていた。
そうして商人が出て行くと、その後をたたたっと追いかけた。
外で商人をつかまえた彼女は、またもや困った顔で首を振られていた。
「なんだい、お嬢ちゃん。火打石? そんなものは頼まれてなかったが……。いやいや、お嬢ちゃんに売ってくれと言われても。お使いかい? お金は持ってきたのかい?」
はっとしてパタパタと服を叩くもお金が出てくるわけもない。
ルーシーはしょんぼりとうなだれて、それから気が付いたようにおもむろにハーフアップに結い上げていた髪に手を伸ばした。
水色のリボンをしゅるりと解くと、それを商人に差し出す。
「これと交換かい? うーん、これはもっといい物じゃないかねえ。火打ち石とじゃつり合いが取れないよ」
ルーシーは食い下がるように何事かを商人に言い募った。
ややして商人は、うーん、と唸りながら、了承した。
「わかったよ、それじゃあ今度来たときに縄も渡そう」
ルーシーは火打石を受け取ると、そっと抱え込み、嬉しそうに破顔した。
「ははは、それじゃあまたなあ、お嬢ちゃん」
絆されたのか、年老いた商人は弾んだ足取りで駆け去っていくルーシーを孫娘でも見るように見守っていた。
私はルーシーがあんな風に笑うのを見たことがなかった。
私が父にルーシーと引き合わされるときはいつも固い表情ばかりだったから。
なんだか悔しいような、だけど知らない一面が見られたことが嬉しいような、複雑な気持ちだった。
だけどそれよりも、私の中では疑問ばかりが膨らんでいった。
「結局、あの火打石、何に使うんだろう」
その答えが知りたくて、私はルーシーの観察を続けたのだ。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
火打石に縄、それから干し肉を物々交換で商人から手に入れた彼女は、今度はそれらの使い方を使用人たちから学び始めた。
「いきなり薪に火が付くわけじゃないんですよ。火打石の傍に燃えやすい物、たとえば木くずなんかを置いて、火種を作るんです。それを細く割った木の棒に移して、だんだん火を大きくしていくんですよ」
「縄が簡単に解けないように結ぶのは何歳くらいになればできるかって? 子供だってできますよ。力じゃないんです、縛り方があるんですよ」
「干し肉は確かに日持ちはしますがそのまま食べるのではなく、火で炙って食べた方がいいですよ」
ふんふん、といろんな人から情報収集をした彼女は、早速それを実践したくてたまらないようにうずうずとして見えた。
次に父に連れられファロウ伯爵家にお邪魔した時、彼女は相変わらず姿を見せなかった。
父親たちは話が弾んでいたので、私はルーシーを探しに行くと告げて散策に出た。
ルーシーはすぐに見つかった。
思った通り、裏庭にいた。
何故わかったのかというと、廊下を歩いていたら窓の外に煙が立ち上っているのが見えたからだ。
厨房からも遠いそんなところから煙が見えるのはおかしい。
窓から下を覗きたいけれど私の背では見えなくて、慌てて外に走り出した。
ルーシーは手に入れた火打石で薪に火を起こし、干し肉を炙って食べていた。
ふうふうと口をすぼめて焼きあがった肉を冷ますと、そっと口に運ぶ。
もこもことしばらく噛みしめると、ほうっとうっとりするように頬を緩めた。
なんともおいしそうに食べるものだ。
いつもの食事には飽きてしまったのだろうか。
彼女は次々と焼けた肉を口に運んでは、もくもくとそれを噛みしめた。
興味と鼻を刺激するいい匂いにそそられ、「何をしてるの?」と声をかけると「肉を食べているの」と答えが返った。
見たままだった。
「食べる?」
棒に突き刺したそれを差し出され、おずおずと受け取る。
干し肉なんて、食べたことがない。
けれどさっきのおいしそうに食べる彼女の顔を思い出し、ぱくり、とかぶりついた。
思ったよりも固くない。
ぷりぷりしていて、噛みしめるほどにうまみがじわじわと出てくる。
「おいしい……」
思わず呟くと、ルーシーがにやりと笑った。
「食べたんだから、共犯ね」
初めてそんな顔を向けてくれたことに驚いて、嬉しくて、ルーシーと二人もくもくと食べた。
いつの間にか夢中になっていて、ガチャガチャンと繰り返し鳴り響くやかましい音と「キャー!?」という悲鳴が聞こえて初めてはっとした。
「何? 何の音?」
「ちっ。鬼婆が来た。逃げて、早く」
「ええ? ルーシーを置いて逃げられるわけないよ!」
「クランがいたら後で私がやばいことになるから。早く行って」
共犯だと言いながら私を逃がしたルーシーに後ろ髪を引かれながら、慌てて建物の陰に隠れた。
その後すぐにいくつかの足音がやってきて、「ルーシー」と硬い声がかけられた。
やってきたのは侍女を引き連れたファロウ伯爵夫人だった。
後妻で、ルーシーとは血が繋がっていないと聞いているけれど、いつもにこやかで、優雅な人という印象だった。
だから聞いたこともない硬い声を聞いて、私はどきりとした。
「ルーシー。ここで何をしているの?」
ルーシーは答えなかった。
ファロウ伯爵夫人は目に見えてぴくり、と眉を吊り上げた。
けれどすぐに誰かの視線を気にするように窓の方に目を向け、眉を戻した。
「ルーシー、中で話をしましょう。二人はここを片付けてちょうだい。今はお客様がいらしているんだから、匂いも残らないように、完璧にね」
侍女に平静な口調で言いつけたファロウ伯爵夫人の後を、ルーシーは大人しくついていった。
その後すぐに、再びカチャンカチャンという音と「ギャー!! もう……!!」と怒りを吐き捨てる声が聞こえた。
足音が聞こえなくなってからそっと見に行くと、木と木の間に縄が結ばれていた。
大人のすねの高さで、間にはスプーンがいくつもぶらさげられていた。
先程のやかましい音は、ファロウ伯爵夫人がこれに足をひっかけて鳴ったものなのだろう。
ルーシーは誰かの接近を知らせるためにこんな罠を仕掛けたのに違いない。
ファロウ伯爵夫人がまさかの復路まで引っかかったことを思うと笑い出しそうになってしまったが、それだけ怒りで冷静さを失っていたのかもしれない。
ルーシーは大丈夫だろうか。
心配だったけれど、ファロウ伯爵夫人が激昂するところなど想像できない。
邸の中は静かで、窓が開けられた廊下からは使用人たちがお喋りをしながら通り過ぎていく声だけが聞こえていた。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
またしばらく経ってファロウ伯爵邸に連れられていくと、今度はルーシーは庭園にいた。
よくわからない行動ばかりとるルーシーだったが、女の子らしく花を愛でたりもするのだな……と思った。のだが、よくよく見ればルーシーは時折にやり、と笑っている。
完全に企んでいる。
うずくまっているルーシーの傍に行き、「何をしてるの?」とそっと声をかけた。
「罠。」
ただ一言答えたルーシーの手元を見れば、通路に生えていた草と草をつなげて結んでいた。
よく見るとあちこちにある。
そう言えば、先日うちに来ていたときに使用人からまた何やら聞いていたことを思い出した。
『罠、っていうと、兎とか猪とか、そういうのを捕まえるやつか? え? 猪が捕まるような罠? それはちょっと物騒だし、特別な道具も必要になるからなあ。兎なら、そこらの草と草を結んでおけばいいさ。勝手につまずいて転ぶから見てな。だけどお邸に兎も猪も出やしないだろう? 何のためにそんなこと聞くんだい』
ルーシーがなんと答えていたのかはわからない。
ただ、こうしてファロウ伯爵邸の庭園でこんなものをこしらえているということは、兎が出るのだろうか。
「あ。そろそろ来る。隠れるよ」
ぱっと何かに気付いたルーシーは、私の手を掴んで走り出した。
温室の陰に隠れると、ルーシーはそっと目だけを出すようにして罠の辺りを見張った。
私は突然走ったのと、手を掴まれたので二重にドキドキしてしまい、心臓の音が聞かれませんように、と祈りながら同じようにしてルーシーの視線の先を探った。
やってきたのはファロウ伯爵夫人で、また侍女を二人引き連れていた。
またか。
正直私はそう思った。
夫人は見事に罠に嵌まり、「きゃああっ!」と悲鳴を上げ、つんのめった。
「もうっ、なんなの?! ちゃんと手入れをしておきなさい!」
辛うじて転倒はせずに済んだものの、苛立って声を荒らげた夫人に、付き従っていた侍女たちはおろおろと頭を下げた。
しかししばらく歩いてまたつんのめる。
「ちょっ……、誰?! わざとね?!」
夫人は苛立たしげに足元を何度も見たけれど、絶妙な加減で結ばれていた草はぷちりと切れていて、ルーシーの悪だくみの跡は見当たらなくなっているようだった。
夫人は重そうに膨らんだドレスの裾で足元が見えなかったのだろう。
「ルーシー……、また、あの子の仕業ね……?」
冷たい声がわなわなと震えて、キッと周囲を睨み渡した。
そこまでを見届けたルーシーはさっと頭を引っ込め、私の手を掴んで再び走り出した。
温室沿いをくるりと回って邸の中へと入ると、私はお茶を飲みながら談笑を交わす父の元へと送り届けられた。
「おお、どうしたクラン。ルーシーと遊んでいたのか?」
「はい。クランは私が花摘みをしていたのを手伝ってくれたのです。楽しい時を過ごせました」
そう言って淑女の礼をとると、ルーシーは私を置いてそのまま退室して行ってしまった。
もしかして、体よく追い払われたのだろうか。
この後彼女がどうするつもりか気になったけれど、さすがに追いかけるわけにはいかない。
「いやあ、ルーシーはあまり周りに心を開かなくて心配していたが、やはり年の近い者同士だと話も弾むのだろう。久しぶりに楽しげなあの子を見たよ」
私にはあまりいつもと変わって見えなかったが、あれで楽しい顔をしていたのだろうか。
ファロウ伯爵の言葉に、私は内心で思わず首を傾げてしまった。
企んでいる時の方が、よほど楽しそうだったから。
他にも彼女はいろいろな物や情報を我が家で仕入れては持ち帰り、試していた。
彼女が何かしているのを見かけると、私は声をかけるようになった。
何のためにそれをしているのかわからないまま手伝っていると、大抵それは罠で、そしてまた何故か必ずと言っていいほどファロウ伯爵夫人が引っ掛かった。
その度に『大人の女の人が怒ると本当は怖いんだな』と思い知らされた。
いつの間にか観察と言うよりは傍で手伝ったり見守ったりするようになっていたけれど、相変わらず彼女はよくわからないままだった。
けれど、その目的についてはやっとわかった。
火を自分で起こして干し肉を食べる。そして数々の罠。
それらを合わせて考えれば、おのずと答えは導き出された。
旅に出るための準備をしているのだ。
ルーシーは冒険者になりたいのだろう。
いたずらそうに笑うあの顔を見れば、なお確信が深まる。
そう思っていたのに、だんだんとルーシーの奇行は見られなくなっていった。
家にこもることが多くなり、そのうち邸の中でもあまり見かけなくなった。
あんなに実験や罠づくりにのめりこんでいたのに、何故だろう。
けれど少し考えればわかることだった。
そもそもルーシーは伯爵令嬢だ。
どんなに突飛な行動をする子だったとしても、準備をしたとしても、冒険者になんてなれるわけがない。
許されるわけがないのだと。
そんなことはわかりきっていたはずなのに、楽しそうに企むルーシーを見ていたら、彼女ならなんでもできそうな気になってしまっていた。
そしてある日、ファロウ伯爵家にお邪魔していた私は不意に聞いてしまった。
「あなたは本当にダメな子ね。将来タスクード伯爵家に嫁ぐっていうのに、そんな我儘聞けるわけはないでしょう」
我が家の家名を持ち出されたお説教に、私は全身が冷えるような思いだった。
そうだ。
彼女の自由を奪っているのは、何より私との結婚なのだ。
そのために淑女たれと、いたずらな彼女は封印させられているのだ。
日に日に元気を失うルーシーを見ていられず、私はついに彼女に婚約解消を申し出た。
それが十四歳の時だった。
思えば私は幼すぎたのだ。
彼女が何を考え、何と戦っていたのかなんて、全く知りもしなかった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
彼女のためにと婚約解消を告げたのに、ショックを受けたような顔が見えて、私は考えに考えた。
ルーシーは喜んで自由を受け入れると思ったのに、そうじゃなかった。
私は何を間違えたのだろうか。
すぐに表情を消してあっさりと了承を告げた彼女はくるりと背を向けた。
私は慌ててその腕を掴んで引き留めた。
「待って! ごめん。ちゃんと説明するからもう一度話を聞いてほしい」
栗色のハーフアップの髪に必死に言い募っても、ルーシーは振り返らなかった。
そっと回り込んでその顔を覗き込めば、大きな瞳からはぼろぼろと涙が零れていた。
「大丈夫。問題ない。この婚約は親同士が仲が良かったからという理由だけで決めたもので、利益が絡んでるわけじゃない。だから私たちがうまくいかないのに無理強いはしないはず。言えば受け入れられるわ」
言っていることは冷静だ。
しかし彼女の顔はぐしゃぐしゃだった。
えぐえぐとしゃくりあげるルーシーに慌て、私はおろおろと彷徨う手を栗色の頭にそっと置いた。
「ごめん。唐突過ぎた。僕も一人で思い詰めてしまったようだ。最初からきちんと話してもいい? ルーシーの気持ちも聞かせてほしい」
ルーシーはもう聞きたくないというようにふるふると首を振り、その度に涙が舞った。
私はどうしたらいいかわからなくなり、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
ぐいぐいと胸を押し返し暴れていたものの、やがてルーシーは大人しくなった。
それから私はそっと体を離し、その顔を窺い見た。
その頬は赤らんでいて。
泣かせすぎてしまったと、私は心から反省した。
「ルーシーを傷つけるつもりはなかったんだ。ルーシーのために婚約解消した方がいいと思ったんだ。君は冒険者になりたいんだろう?」
そう告げると、ルーシーはぴたりと動きを止めた。
そして、何の表情も浮かんでいないその顔で、ただ一言返した。
「はあ?」
考えてみれば、私の思い込みはあまりにも幼かった。
彼女の『何言ってるの?』という至極もっともな目線にやっと我に返った。
私は恥を忍び、改めてこれまでのルーシーの行動から旅に出る準備をしているのだと思ったことなどを話した。
ルーシーは何の表情もないまま、ただじっとそれを聞き終えると、大きなため息を一つ吐き出した。
「別に冒険者になりたくてしてたわけじゃない。最終的な自立としてはその道もありかもしれないけど、さすがにそこまで夢見がちじゃない。貴族の身でそんなものになれるとも思わないし、そんな簡単なことだとも思わない」
「だったら今までのは……」
「ただのイタズラだよ」
そう言って、肩をすくめて見せた。
イタズラというにはどれも懸命だった気がして、私はもっと話を聞こうと言葉を重ねようとした。
しかし、はっと何かに気付いたルーシーは、「ごめん、急ぐから。またね」と言って壁にぶらさがっていたものに手をかけた。
ん?
とそのぶら下がっているものを見れば、それはシーツのように見えた。
それは二階の窓から垂れ下げられていた。
シーツとシーツをつなぎ、結び目で足を引っかけられるようにもなっている。
何故そんなところにこんなものが、と思う間もなく、ルーシーはためらうことなくそのロープを掴み、器用に壁をよじ登っていった。
「嘘だろ……?!」
思わず呟いた時にはルーシーは窓から部屋の中へと入りこんでいた。
ロープを手繰りよせ回収しながら、ルーシは小さな声で言った。
「今日は久しぶりに会えてよかった」
え、と思った時には窓は閉められていた。
次の日も私はファロウ伯爵家を訪ねたけれど、ルーシーに会うことはかなわなかった。
ファロウ伯爵夫人は、「風邪を引いて寝込んでいるの。ごめんなさいね」といつも父に見せるように優雅に微笑んだ。
あの窓の下へ行ってみたけれど、窓はきっちりと閉められていて、ロープが垂れ下がってくることはなかった。
ここまで来て私はようやく気が付いた。
ルーシーが姿を見せなくなったのは、ファロウ伯爵が二か月前に領地へと旅立ってからのことだ。
ファロウ伯爵夫人はルーシーと血が繋がっていない。
いつもルーシーに冷たい声で苛立ちを向けていた。
けれど私や父、ファロウ伯爵の前では、とてもそんな姿は想像できないような穏やかな仮面をかぶっていた。
ルーシーは義母に虐げられているのではないか。
あんなにおいしそうに干し肉を炙って食べていたのは、食事をもらえなかったから。
乾パンや保存のきく食べ物を我が家の商人から買い込んでいたのは、閉じ込められたときの食糧にするため。
数々の罠は、ルーシーの意趣返し。
我が家の使用人から情報と物を仕入れていたのは、自分の家の使用人たちではファロウ伯爵夫人に伝わってしまうからなのではないか。
冒険者になりたいのだろうという推測よりも、よほどしっくりくる。
けれど、真実は本人に確かめてみなければわからない。
また「はあ?」と言われてしまうかもしれない。
だから、明日確かめてみよう。
彼女の部屋に、乗り込もう。
そう決めて、私はファロウ伯爵家を後にした。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
再びファロウ伯爵家を訪ねると、ファロウ伯爵夫人は困ったような顔で出迎えた。
「ごめんなさいね。今日もまだルーシーの風邪は治っていないようなの。お見舞いに来てくれたのは嬉しいのだけれど、うつってしまってはタスクード伯爵に申し訳が立たないわ」
「そうですか。では、お大事にとお伝えください。それからこの花束を」
色とりどりの花束を渡すと、ファロウ伯爵夫人はにっこりと笑んで受け取った。
「ありがとう。きっとあの子も喜ぶわね」
「では、回復した頃にまたお伺いします」
そう言って帰ったふりをした私は、邸の建物沿いをくるりと周り、勝手口へと回った。
途中、あの窓の下を通ったけれど、今日もまたロープが垂れ下がってくることはなかった。
いきなり勝手口から現れた私に使用人たちは驚いたが、あの奇行を見せるルーシーによく付き合っている婚約者だからか、理由も聞かずすんなりと通してくれた。
また二人で何か企んでいると思っているのだろう。さらりと流してしまう辺りがルーシーへの慣れをよく表している。
邸の中は慣れていたが、ルーシーの部屋がどこにあるのかは知らない。
けれど、ロープが垂れていたのは確か二階の西から三つ目の部屋だった。
――ここだ。
扉の前に立ち、辺りを窺っていると中から「うっ」という声が聞こえた。
躊躇いは一瞬のうちに消えて、私は扉をがばりと開け一気に踏み込んだ。
「ルーシー! 大丈夫か!」
扉を開けたそこには、ベッドに上半身をもたれ、呻くルーシーの姿があった。
絶望にも似た気持ちでルーシーに駆け寄ると、ルーシーは胸を拳でドンドンと叩いていた。
「うっ……苦しい……詰まった」
ルーシーの手には、固く焼しめた保存用のパン、つまりは乾パンが握り締められていた。
ん?
とは思いながらもその背中をトントンと叩くと、やがてルーシーは大きく息を吐き、ぜえはあと呼吸を繰り返した。
「あ、ああ、死ぬかと思った。ありがとう」
げほごほとせき込んだルーシーに、部屋の中を見回し水の入ったコップを手渡す。
ごくごくとそれを飲み干し、ぷはっと息を吐くと、ルーシーはまさに生き返ったというように「ふ~」と息を吐いた。
「ルーシー? なんとなく何があったか読めたんだけど、聞いていい? 何があったの?」
「乾パンが詰まった」
「うん。そうだよね」
思った通りの答えに頷いてから、再びはっとした。
扉が開けっ放しになっていたことに気が付き、慌てて閉めに走る。
それからルーシーに向き直ると、今度は乾パンをコップの水に浸していた。
なるほど。
それならもう喉に詰まってしまうこともあるまい。
なるほどだが。
「ははははは! 本当にルーシーって強いよね! 格好いいよ、惚れ惚れするね」
そう言って笑い出すと、ルーシーはきょとんとして私を見た。
「どうしたの、急に」
水でひたひたになった乾パンを食べることをやめないルーシーに怪訝な顔で見られるのは遺憾だったが。
「ねえ、ルーシー。ファロウ伯爵夫人に閉じ込められているの? いつも食事を抜きにされているの?」
直球で問えば、ルーシーはふるふると首を振った。
否定が返ったことに驚いてまじまじとルーシーを見ると、再び乾パンをコップの水に浸しながら空っぽになった口を開いた。
「籠城してるだけ。非暴力抵抗運動」
籠城? と口の中で繰り返すと、ルーシーはこっくりと頷いた。
「入学先を巡って親子の争い中」
私は思い切り首を傾げた。
ルーシーは乾パンのひたひた具合を確認しながら、続けた。
「お義母様は貴族の令嬢のみが通うモリイユ学院へ行けと。でも私は、王立学院に行きたいの。だから冷戦中」
王立学院は優秀な者すべてに門戸が開かれている、学業と芸に秀でたもののための学院だ。
「クランも王立学院に行くでしょう? そうなったら私との接点がますます増える。だから別の学院に行きなさいというのがお義母様の主張」
「それは何故? もしかして私はファロウ伯爵夫人に嫌われている?」
「逆。結婚前に私のことがいろいろ知られると婚約解消されてしまうから、お義母様はなるべく私とクランの接点をなくしたいの。実際一昨日婚約解消の申し出もあったし、お義母様の主張は正しかったことになるけどね」
「いや、だからそれは違うんだって説明しただろう。ルーシーを嫌いになったわけじゃない。大切だからこそ、苦渋の決断をしたんだ。でもどうしてルーシーはこんな籠城までして王立学院に行きたいの?」
ファロウ伯爵夫人に対する単なる反抗だろうか。
訊ねれば、何故だかルーシーはむぅっと口を閉じ、頬を赤くした。
「だから。逆」
「逆って?」
「お義母様の逆」
「反抗してるだけってこと?」
「違う」
言われて、考えた。
ファロウ伯爵夫人は私とルーシーの接点をなくしたいと言っていた。
ということは。まさか。
「私と同じ学院に行きたいから?」
訊ねれば、ルーシーはふやふやになりすぎた乾パンを慌てて口に詰め込んだ。
あっという間に口の中で溶けて、空っぽになったのか、うろうろとあたりを見回し、新たな乾パンを手に掴む。
私は慌ててその手を掴んで止めた。
「待って。また喉につまらせるよ。それよりもねえ、さっきの私の問いは、合っている?」
答えはなかった。
けれどルーシーは耳まで真っ赤になり、乾パンをむむむと睨んでいた。
なるほど。
答えはわかった気がする。
ほっとしたからか、余裕が出たからか、私は聞きたかったことを訊ねた。
「ファロウ伯爵夫人からは不当な扱いを受けているとか、そういうことはないの?」
じっと見つめて答えを待てば、ルーシーは首をかしげるようにしながら口を開いた。
「そりは合わない。だからお互いの主張が折り合わないっていうことは、よくある。そもそもいきなり我が家にやってきて、『今日から私が母よ。亡くなったお母様に代わって私がしっかりとした大人の女性に導くわ』って言われたら、引くでしょ? 逃げるでしょ。怖いでしょ」
「あー……。まあ……。つまりは、よく喧嘩してる、ってこと?」
「そう。気にくわないことがあるとよく『食事抜きです!』にされるから、それなら自分で食糧を調達しようと」
だから干し肉を炙って食べていたのか。
「そうやって私がお義母様のお仕置きから逃れていることを知ると、ものっすごいお説教が始まって二時間とか立ちっぱなしにされるから、腹が立って仕返しをしたり」
だから罠を仕掛けていたのか。
私は一気に力が抜けて、その場にへたり込んだ。
「なあんだ。ルーシーは辛い目に遭ってるわけじゃなかったんだね」
虐げられていたわけではなかった。
敵はいなかった。
そのことがわかって、安堵して。
気づけば私は笑っていた。
きょとんとした顔のルーシーがそれを見て、それから、むにむにと口を動かした。
「ごめんね? 心配かけて」
「いや。本当のことがわかってよかったよ。昨日は心配で夜もよく眠れなかったから」
笑いながら言うと、ルーシーはしゅんと顔を俯けた。
「私がこんなだから、婚約解消されるのは時間の問題だってお義母様が」
「まさか。そんなことしないよ。私はルーシーを見ているのが楽しいんだ。そもそも、数々の罠を共に仕掛けた共犯者だしね? 怒られるなら私も一緒に怒られるべきだ」
「呆れてない?」
「むしろ、もっとルーシーを知りたいと思うよ。ファロウ伯爵夫人に罠を仕掛けるのはもうしないけど、これからも傍にいるよ。いや、いさせてほしいと思っている」
私はもう既にルーシーのいない人生など考えられなくなっている。
癖になってしまったのだろう。
微笑む私に、ルーシーがそっと顔を上げた。
「本当に、いいの? 私で」
「むしろ、ルーシーがいい」
そう言ってルーシーをぎゅっと抱きしめた。
やっぱり胸を押し返して暴れていたけれど、でもすぐにそれはやんだ。
これが、十四歳の時の私と婚約者であるルーシーの話。
そして十八歳になった私とルーシーは、夫婦となった。
大人になってもルーシーは時折様子を見に来たファロウ伯爵夫人に怒られていた。
ただで帰すわけもなく、ファロウ伯爵夫人の背中に舌を出して見せたりしていたのが懐かしい。
それから現在。
互いにおじいちゃんとおばあちゃんとなった私達夫婦は、孫のかわいいいたずらに悩まされていた。
反動なのか、娘も息子もそのようなことはなかったのに、どうやらここにきてルーシーの血が騒ぎだしたらしい。
それを思い知るたびに私達は顔を見合わせ、そして先達として笑っていたずらを受けるのである。