第8話 アジト
長らくお待たせして申し訳ありません。
車は次第に山の中に分け入っていく。気が付けば1.5車線、いやわずか1車線のすれ違いも困難な山道を車は走っていた。私はだんだん不安に駆られてきた。
もしやこの人たちは私たちを消すつもりなのではないか、香川解放戦線というのは我々を安心させるための嘘で、本当は香川県の公安舞台なのではないか。このままどこかの山奥に埋められてしまうのではないか。そのようなよくない未来がが頭をよぎる。
なお竹内氏はというと、そわそわしている私をよそに、なんというか完全に落ち着いている。よっぽど香川解放戦線というものを信用しきっているのであろう。何なら安心しきって鼻提灯を作っているくらいだ。もしかしたらこちらが今度は提灯のように吊るされるかもしれないというのに、である。
やがて車は止まった。小川女史は、さあ、アジトに着きました、と言って降りるように促した。
そこはやはり山の中であった。目の前にあったのは、朽ちかけた廃ホテルである。
ここはですね、昔はリゾートホテルがあったのです、小川女史はそう言った。ですが、今の香川県にとってリゾートなどという遊び、楽しみは忌諱すべきものなのです。幸福になることは唾棄すべきことなのです。幸福追求権、そういうのが日本国憲法にはありますよね、ですが、ここ香川県ではそんなものは認められてはいません。幸福を求めてはいけない、それは現在の生活に不満がある証拠である、基本的人権は県が保障しているのに、それ以上何を求めるのか、ということなのです。ここでは、ささやかな楽しみを求める事すら、権利のうちではないのです。さあ、立ち話もなんですから、中に入りましょう。
廃ホテルに歩み寄ると、当然というべきか、鍵がかかっている。小川女史は鍵を持っていない様子である。どうやって入るのかと思っていると、建物のうちより、
「松山の波の景色は変らじを」
などという声がする。すると小川女史は
「かたなく君はなりましにけり」
と答える。するとやや間があって、がちゃりと鍵の開く音がして、ぎぎぎと扉が開いた。なるほど、符丁であるか、それにしてもどこかで聞いたことあるような、と思っていると、はっと思いだした。
「ここは五色台ではないのですか」
五色台は高松市と坂出市にまたがる、瀬戸内海に突出した山である。私はその山の中ではないのかと小川女史に尋ねた。意外と言うべきか、彼女はそうだとあっさり認めた。そして言うのだった、よくわかりましたね。
ええ、だって先ほどの歌は山家集、西行法師のものでしょう、私は答えた。西行法師が、五色台にある白峯陵――崇徳院の御陵に詣でた時のものでしょう。
ええ、その通りです、と小川女史は答えた。崇徳院の御霊が、我々を守ってくださっているのです、そう彼女は付け加えた。
宜なるかな、と私は思った。彼らは、この地で無念にも崩御した崇徳院と、そして無念にもこの地で死んでいった自由――それを重ね合わせているに違いない。私も、歌に歌われた、その波の寄せる、海の方を見ようとした。木々にさえぎられて見えなかった。
そんなことをしている間に竹内氏は先に建物に入ってしまっていた。私も追いかけるように中に入る。後ろで扉が閉まった。
ホテルのエントランスホールを抜けて階段を上がる。小川女史は、年季の入ったゼンマイ式の時計――電池も滅多に手に入らないここではゼンマイ式が主流なのである――を取り出すと、そろそろ時間ですね、とつぶやいた。
何の時間なのですか、と私が訊ねると、見れば、いや聞けばわかります、そう答えて一室へと案内する。中にいたのは白衣を着て丸い眼鏡をかけた高校生くらいの少女であった。
同志、調整は本日も万全です、少女はそう言った。見ればそこにはスピーカーがある。そしてスピーカーからは、かすかに音声が流れているのである。
驚いた私は声を上げた。いったいどういう事だ、香川県では電気の供給は制限されているのではないのか、その音はどうやって、と。すると少女は部外者である私を訝しそうに眺めた。同志、この者は何なのですか、そう小川女史に尋ねると、心配はいりません、県外から来たジャーナリストです、香川県の悲惨な実情を世界に伝えてくれるのです、と答えた。
少女はそれを聞くと私の方に向き直った。おい、ジャーナリストと言ったか、と睨むように言う。ジャーナリストというものは存外物をよく知らないらしい、いいか、これは鉱石ラジオだ。電源を必要としない、電波だけで作動するラジオだ。これで電気がなくても、我々は外から情報をできることが出来きるんだよ。
なんだ、この横柄なガキは、そういうふうな苦々しい顔を竹内氏はした。私は、しかしここで彼女たちの機嫌を損ねてよいことはないので、むすっとしながらも、できるだけ穏やかに答える。そうですか、それは失礼しました。
こら、お客さんにそんな言葉遣いをしてはいけませんよ、と小川女史は少女を窘めた。少女は別に謝りもせず、不機嫌な顔をしたままだ。ごめんなさい、と小川女史が言った。彼女は滝川エレキテル、我々の無線電波技師です。ああ、もちろんコードネームですが。彼女は、周波数の調整を行っていたんです。もうすぐ流れてきますよ。
流れてくるって、何がですか、と私は尋ねた。
岡山からの通信です、と小川女史は答えた。さあ、時間です。
彼女が時計を見て言うのと同時であった。スピーカーから、トン、トン、ツー、トン、と音が流れ始めたのであった。