第3章 県境
汽車はほどなく板野駅に停車する。ここでほとんどの乗客が降りてしまった。新たに乗ってくる人はいない。汽車の中には我々を含め乗客は3人だけが残った。列車はそのあと阿波大宮駅にも停車したが、ここでは降りるものも乗るものもいなかった。これが徳島県最後の駅だった。汽車は大坂山トンネルにさしかかる。
大坂山――別名大坂峠は古くから阿波と讃岐を結ぶ峠道の一つであった。阿波と讃岐の間には讃岐山地が横たわっており、阿讃の連絡には峠道を超える必要があったのである。最も東にある峠道が大坂峠越えであり、その昔阿波勝浦に上陸した義経公が屋島の平家を攻撃するため讃岐入りした際もこの峠道を使用している。それくらい歴史ある道であり、88番大窪寺から1番霊山寺へとお礼参りに向かう巡礼者はこの峠を越えたという。
我々もこの道を超えることを考えたが、夏の盛り、ここで無駄に体力を浪費するのは得策ではないと思ったのである。幸いなことに、昭和8年に高徳線の大坂山トンネルが開通して以来峠越えの必要性はなくなった。高松自動車道もまた大坂山を隧道で山を貫き、国道11号線は讃岐山地の東端が播磨灘に没せんとするその海岸沿いに道を開いて大坂山を迂回している。我々はこの文明の恩恵に与ったのである。
県境のトンネルを抜けると香川県であった。目の前に夏の朝日をかげて輝く青い海が広がった。讃岐相生駅に汽車が止まった。
汽車の扉が開くと、制服を着た二人の男が乗り込んできた。それぞれ、入県審査官、税関職員だと名乗った。
入県審査官は我々の身分証とビザを確認する。切符を持っていなかったことは咎められなかった。板東駅に券売機はなかったし、ワンマン列車であるから、降りるときに運転席横の運賃箱に現金を投入すればよいのである。
審査官は我々の顔とビザを見比べて判を押しながら、大窪寺に行くのですか、と尋ねた。竹内氏は、そうですと言った。審査官は、では、志度駅で降りるのがよろしい。そこからなら乗合がある。それで大窪寺に行くことができます。そう言った。
我々は彼に礼を言うと、今度は税関職員の取り調べを受けた。香川への持ち込み禁止品がないかどうか確認するのである。そもそも県境で関税がかかるのはおかしな話であるが、規制品の持ち込みを見逃す代わりに官吏がわいろを強要しており、それがいつしか関税と言われるようになったという噂である。私はカメラが見つかった時に備えてある程度お金を準備していたが、職員はカバンの中をちらりと見ただけで何も言わなかった。我々と一緒に乗っていた残りの1人も税関職員に見咎められることはなかったので、噂の真偽はついぞわからなかった。
我々と一緒に乗っていた人物はどうやら医学者であるらしかった。神奈川県から来たといい、三豊市にある小児科病院に乞われゲーム依存症の治療更生について研究に当たるため香川に向かうのだという。
香川ではですね、反体制勢力が裏でゲームを流通させているんですよ。そう彼は言った。ゲームに触れた子供は皆夢中になってしまい、廃人になったり、犯罪者になってしまうのです。ゲームをすると脳が破壊されることが、海外の研究でもわかっています。すばらしくもゲームを禁止している香川でこんなことが起こっているのは由々しき事態です。治療法を研究し、ゆくゆくは全国に普及させたいのです。
我々は相槌をうっていたが、しかし彼の言っていることは荒唐無稽に思えた。ゲーム依存症などという病気が本当に存在するのかどうか私は知らない。しかし、伝え聞くところでは娯楽がうどんを食べることぐらいしかない香川県でゲームなどというものが手に入れば、それに夢中となるのは仕方あるまい。それを病気だというのはいささか因果関係がおかしいのではないだろうか。
もちろん私はそんなことは口に出しては言わない。せっかく入県したのに、すぐ送還されてはかなわないからだ。
汽車は我々を乗せて走り出す。香川県内に入ってからスピードは落ち、徐行運転となっていた。後で知ったがこれは香川県内では電波を使うあらゆるものが規制されており(もちろん例外もある。たとえば県下の2局のテレビ局は電波放送を認められている)、鉄道無線もその例外ではなく、目視でのみ安全確認をしているからだという。タブレットなどによって閉塞がうまくいっても、電力事情から踏切の警報器も機能しておらず、安全のためにはスピードを落とさざるを得ないのだ。
そのため、かつては30分もかからなかったという讃岐相生~志度間は1時間半かかった。我々は運賃を支払って降りた。通貨はもちろん日本円が流通している。これが香川県の策であり、勝手に通貨を発行し通貨法違反などに問われるなどという事態を避けたかったのである。
改札を出て、駅舎の外に出る。まぶしさに思わず目を閉じそうになった。
志度駅に降り立った我々を出迎えたのは、すでに空高くなりかんかんと照り付ける真夏の瀬戸内の太陽と、その光を受けて金色に輝く広大な麦畑であった。