1話 いつもと違う森
◇◇◇
ーーまたあの夢か。
あれは私の過去なのか、できすぎた単なる妄想なのか。
十年前から数ヶ月に一度見るこの夢は、体験するたびにゾッとする。
妄想にしては良く出来すぎている。
なぜならば、私の左腕にはあの夢のように"継ぎ目"があり、"彼女"としての記憶があるのだから。前世と呼ばれるものなのかもしれない。ただし、継ぎ目とは言ってもミミズ腫れのようなもので、先程の夢と違うのは腕から先の色にあった。それは当時とは違うところだった。
あんなところであんな死に方をしただなんて認めたくない。しかも、記憶にある限り、私たちに非などなかった。
あんな非人道的な扱いを受ける筋合いなど、ある訳がなかったのに。
あの世界で、私は両親と双子の姉と共に暮らしていた。父母は小さな古物商を営んでおり、裕福ではなかったけれど、大好きな人と物に囲まれて幸せな日々を過ごしていた。
そう、あの時までは。
あいつが国のトップになり、事態は急変した。突如私達の人種は迫害の対象になり、仲間は次々にその場で射殺されたり、収容所に送られたりした。私とその家族もついには捕らえられた。父母とは収容所で別れてしまった。私と姉はおぞましい"実験体"になった。双子という理由で、部位の”交換”をさせられ、無残に死んでいった。
そう、私の左腕は、姉のもの。
大好きなお姉ちゃんの、、、
まぁ、今世ではあくまでも私の腕なのかもしれないし、そうでないかもしれない。
いくら考えても答えなど出ないし、ましてやここは全く別の世界。
前の世界大きく違うのは、一部の人間しか使えないものの、魔法が存在しているということ。そして、魔法を発動させるのに不可欠である"魔素"が空気中に存在しており、それが世界の常識の一つとして捉えられていること。
前の世界ではいわゆる"おとぎ話"と呼ばれる世界で何故か生まれ変わってしまったようだ。
最初に全然らしき記憶が蘇ったのは4歳のときで、いろんな知識が一気に流れ込んできたため発熱したりしたけれど、気が触れるようなことはなかった。少し前は精神年齢を偽るのに苦労したけれど、14歳になった今、そこまで気にならなくなってきた。前の人生が16歳で幕を閉じたので、ほとんど誤差のところまで来た。この10年で精神年齢が10歳分成長したわけではなさそうである。
なにはともあれ、今の私は私で様々な問題を抱えている。
もしも神様がいて私を生まれ変わらせてくれたのならば、きっと性格が悪いに違いない。
なぜ私はこんなにも数奇な運命を辿らなければならないのだろうか。
まったく感謝をしていないわけではないけれど、もう少し普通の人生を歩ませてくれてもいいのに。
それにしても今回の夢はやけにリアルだった。気持ち悪いーー
◇◇◇
3の月21日目のこと。
少女はゆっくりと目を覚ました。
部屋の薄暗さが、朝が訪れる前であることを示していた。
少女は動悸と気持ち悪さと頭痛に顔をしかめ、こめかみのあたりを両手で押さえた。
しばらくすると、いつものように気持ち悪さはおさまり、どうにか動けるようになった。
ベッドから上体を起こした、アメジストのような青紫色の大きな瞳を持つ可憐な少女。その特筆すべきは二つ。一つは真っ白な肌。シミなどひとつもなく、キメの整った、白磁器のようである。彼女が目を擦って欠伸さえしていなければ、生きているのを疑ってしまうほど生気を感じさせない肌色をしていた。
そしてもう一つ。それは、肌と同様に色素を感じさせない美しい銀髪。背中に届く長さの、緩いウェーブのかかった艶のあるそれは、生糸の柔らかさと天蚕糸の透明感のいいとこ取りをしたようなものだった。
彼女の名はライナ・イーリス。ラヴィーネ大山脈の山あいにある小さな村に住む14歳の少女である。
ラヴィーネ大山脈とは、このゾッケン大陸の北部に位置する大陸一の規模を誇る山脈のことで、死の山脈と恐れられている。そんな山々の中に村があるなどと、言われた誰もが信じないだろう。
なぜこの地に村があるのか。
彼らはどうやって生活しているのか。
それを知るのは、この世界でもごく限られた人間だけなのである。
上体を起こした後、ライナは静かに瞳を閉じていた。ズキズキと刺されるような頭の痛みを忘れるために、意識を遠くに巡らせようとしていた。
彼女の耳に届くはチュンチュンという小鳥のさえずりや、少し遠くにいる鶏たちの朝の挨拶。
どれほどそうしていたか、部屋が明るくなってきた頃、ライナはふらつく足でベッドから立ち上がり、よろよろと歩き始めた。そして、自室の窓にかかるカーテンを開けると、彼女の目にキラキラとした光と庭木の新緑が目に飛び込んできた。彼女はたいそう眩しそうにして窓を開け放った。
気が引き締まる爽やかな早朝の風が室内を駆け巡っていく。
早朝のひんやりとした風がライナの頬をなで、髪を乱した。それを彼女は左手で耳にかけ直した。
その手は、他の部分とは大きく違っていた。キメの細かさなどは同じものの、濃い小麦色をしている。
その肌色の境は例の継ぎ目にあった。
風に当たるうち、先程までの気持ち悪さが少し解消され、彼女の顔色は少しだけ良くなった。
少々回復したライナは風で乱れた銀髪をくしで整え、肘まである黒く長い手套を左腕にはめて部屋を出た。
隣部屋からは人の気配は感じるものの、部屋主はまだ活動していないようだった。
"そっか、今日はめずらしく私のほうが早いものね"
そう思った彼女は足音を立てないように静かに一階に降り、ダイニングを目指した。
「おはようライナ。あら、顔色が悪いわ」
そう言いながら心配そうにキッチンから顔を出したのはライナの母マチルダだった。
暗いグレーの長い髪に金色の瞳を持つ小柄な女性である。
ライナは大丈夫、と小さく言うとよろよろと食卓についた。
マチルダは用意しておいた温かい牛乳をライナに手渡した。
「ありがと、お母さん」
ライナはほほえみながらそう言うと、ふぅふぅと冷ましながら牛乳に口をつけた。
ほんのりと甘いのはハチミツが入っているからであり、ライナの朝はこの一杯から始まる。
「ティオよりも早いなんて珍しいじゃない。しかも休日に。また例の夢?」
マチルダはライナの向かい席に腰掛けながらそう言った。
ライナはコクリと頷いた。
ライナが定期的に見る悪夢は、何かに追いかけられる夢、ということになっている。前世だの血だのという話をして気狂いだと思われたくないのでそのように説明しているのだ。
「追いかけられる夢ってことは、何かに追われてるってことよね。勉強のしすぎなんじゃない?」
「勉強は好きでやってるんだもの。目標のためにはしっかりやらないと」
「あぁ、私に似て本当によかったわね」
「そうね。ふふ、今頃お父さん、くしゃみしてるかも」
ライナとマチルダは笑い合った。
気が紛れたためか、ホットミルクのおかげか、ライナの頭痛と気持ち悪さは収まってきた。
そんなとき、階段を降りてくる音が聞こえてきた。
「おはよう。ライナが早起きしてるなんて、今日は槍でも降るんだろうな」
琥珀色の目をこすりながらそう言ったのは、焦げ茶色の癖毛の少年だった。少年は欠伸を一つするとライナの隣の席に座った。
「おはよう、ティオ。今日はきっと快晴よ。残念だったわね」
ライナはふふっと笑いながら返した。
ティオと呼ばれた少年ははいはい、と適当に返すとふっと笑った。
ティオはライナの兄で、歳は15になったばかりである。ライナよりもだいぶ背丈はあるものの、少年らしさを残した、どちらかと言えば可愛らしい見た目をしている。そんなティオは、ライナの顔色を確認すると少し心配そうな顔をした。
「早く起きててその顔色ってことは、そういうことだろ。今日は出かけないほうがいいんじゃないか?」
「ううん。今日は薬草を取りに行かないと。おばあちゃんに頼まれてるし、大切な小遣い稼ぎだし」
「相変わらず守銭奴だな。体調のほうが大切だろ」
「もうだいぶ回復したもん」
「わかった。でも、無理するなよ。なんかあったら頼れ」
ティオはワシャワシャとライナの頭を撫でた。
ライナはくすぐったそうにしながら表情を緩めた。
マチルダはそんな兄妹のやりとりを微笑みながら見届けると、キッチンに戻り、朝食の仕度の続きを始めた。
「ありがとう、やっぱり持つべきは素敵なお兄様だね」
「棒読みじゃなければ嬉しいひとことなんだけどな」
二人はクスクスと笑い合った。
そんな声につられたのか、二人より小さな少女が眠そうな目をこすりながらダイニングに来た。少しウェーブがかった黒髪と大きな茶色の瞳を持っている。
「お兄ちゃん、ミリー、仲間はずれ?」
その大きな茶色の瞳がうるっと揺れる。
「あー、ティオが可愛い可愛いミリーを泣かしたー」
「やめろ、俺じゃない!違うよな、ミリー!」
ティオは必死にミリーに語りかけたが、彼女はキッチンにいる母親の方を向いた。
「お母さん、お腹すいた。ごはんまだ?」
さっきまで潤んでいた瞳にもう涙はなかった。
「スルーなのか?なんなんだ妹たちよ」
ガクッと少年の肩が落ちた。
ミリー。彼女はイーリス家の末っ子で、7歳の少女である。
「お兄ちゃんをからかうのはやめなさい、二人とも。からかっていいのは私だけ」
キッチンからパンとスープを持ってきた母親が話に参戦する。そこにはいたずらな笑みが浮かんでいる。
「母さんまで、、こんなとき父さんが出張じゃなければ!!!」
「無駄ね。お父さんはお母さんに弱いもの」
「ですよねー」
ここでガクッと肩を落としたティオを見て、女性陣はクスクスと笑ったのだった。
「はい、みんな。ご飯にしましょ」
マチルダの一言に、ミリーも自席についた。
こうしてイーリス家の一日が始まったのだった。
◇
「そういえば、この前ティオが作ってれたパン焼き器なかなかいいわ」
マチルダはティオに声をかけた。ライナもミリーもうんうんと頷いた。
「たしかに、中はふんわり外はさっくりね」
ライナはそう言うとパンを頬張った。
「まぁ、まだ試作品だし、動力源は父さんに頼まないといけないし課題は多いな。あー、俺が魔力をコントロールできたらな」
ティオは金色の瞳を少し伏せた。
「お兄ちゃんがまほう使えたら、ミリー、お兄ちゃんに会えなかった」
ミリーはしょんぼりする。
「たしかにそうだな。ごめんよミリー、俺が悪k」
「お兄ちゃんで遊べなくなるのイヤ!」
「だと思ったよ!」
ティオのツッコミとともに、にぎやかな食卓はしばらく続くのであった。
「今日はユキワスレを取りに行くのよね?」
マチルダがライナに尋ねた。
ライナはコクリと頷いた。
「北の森よね?わかってると思うけど西と南はダメよ」
「はーい。学校の先生たちにもうるさく言われてるもの」
村は東西南北をぐるりと森に囲まれている。そして、村の決まりで西と南の森には立ち入ってはいけないことになっているのだ。それは彼女が小さい頃から両親にも先生達にも言われ続けている。
その理由は一つ。
地下迷路につながる入口があるのだ。
地下迷路とは、神代の技術で造られたと思われる古いもので、ラヴィーネ山脈の外と繋がっているのだ。西の森には魔族の国イズールと、南の森には人族の大国リズニアと繋がる入り口がある。
これは村人であれば誰もが知りはするものの、迷路の攻略の仕方は一部の村人のみが知る。
ライナの父ウルマーはリズニア側の地下迷路を攻略できる数少ない人物であり、リズニアとの交易を任されている立場にある。
西と南の森には一般の村人たちが入り込まないよう、境となる木々はロープで繋がれ、ところどころに赤い布がくくりつけられている。そして、地下迷路の入り口には村の警備隊と呼ばれる組織の人間が交代で番をしており、万が一に村人が迷い込まないよう注意を払っているらしい。
らしい、というのは、ライナ自身その森に入ったことがないからである。
「暗くならないうちに帰ってきてね」
「俺もついていこうか?」
母の言葉の後、ティオが心配そうに提案するが、ライナは首を横に振る。
「ううん、たまには一人で羽を伸ばしたい」
「邪魔者で悪かったな」
ティオはムスッとした。ライナはその様子にフフッと笑みをこぼした。
「あ、その代わりあの"試作品"貸してよ」
「わかった。ほんとに気をつけろよ」
ティオは、仕度が済んだら部屋に取りに来いよ、と付け加えたのだった。
◇
"この季節の森は清々しいから楽しみ。体調も良くなってきたし、栄養も補給したし"
ライナはお気に入りである膝丈の淡い若草色のワンピースに着替え、黒い手袋を左手にはめ直した。そして、ビオラの砂糖漬けがいくつか入った小箱や麻の袋を数枚、斜めがけカバンに入れた。
ライナはティオの部屋を訪ね、例の"試作品"を受け取るとカバンに入れた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「気をつけろよ。なんかあればすぐに使え。使い方は」
「この前聞いたから大丈夫。もう、心配性なんだから」
ライナは笑顔でヒラヒラと手を振り、彼の部屋を後にした。
一階に降りると、ライナは母親から人参が数本が入ったバケツを受け取り、玄関に掛けてあった焦げ茶色のやや厚手の外套を身に着け家を出た。そして裏の畑に回り、小さな馬小屋に顔を出す。ライナは小屋に入ってすぐに置いてある干し草をバケツにいれた。馬小屋にはニ頭の牡馬がおり、ライナを見ると嬉しそうにしっぽをばたつかせた。馬はどちらとも艷やかなこげ茶の体で黒い立派な鬣を持っている。二頭の違いは額から鼻筋に白いダイヤのような模様があるかないかである。
「ライ、ジン、おはよう。ご飯だよ」
ライナは踏み台に上がり、干し草を何回かに分けて与えていく。ちなみにダイヤの模様がある方がライ、ないのがジンである。
「ふふ、ふたりともよくお食べ。今日は人参ももらってきたよ」
ライナは二頭の額を優しく撫でる。どちらも嬉しそうにうっとりと目を細めた。
「ハルとルカはお父さんと今日戻るらしいから。楽しみね」
ハルとルカは薄茶色の牝馬たちであり、今は父親ウルマーの仕事に付き合っている。イーリス家にいる四頭の馬たちは、生活に欠かせない労働力であるのと同時に大切な家族でもあるのだ。
ライナは最後に人参を与えた。二頭はムシャムシャと頬張り、嬉しそうにヒヒーンと鳴いていた。
じゃあいくね、と彼女が言うと、二頭はブルブルと口を震わせ彼女を見送った。
◇◆◇
新緑に向かう季節、村に活気が戻り始める。
村を覆っている深い雪が少なくなり、様々な制限が解除されるからである。
日陰にはまだだいぶ積もっているものの、多くの地面からは春の草花が顔を出している。
ライナはすれ違う村人と挨拶を交わしながら村の北側の森へ向かった。
牧場の横を通ったとき、牧場主のシュタイナーと顔を合わせた。
シュタイナーは三十半ばの男性で、栗色の髪に暗い琥珀色の瞳をしている。彼はライナに優しく微笑みかけた。
「おはよう、シュタイナーさん」
「あぁ、ライナ、おはよう。今日は北の森かい?」
「うん。薬草を取りに行くの」
「気をつけるんだよ」
二人は短い会話を済ませ、ライナは森へと足を踏み入れた。
村の標高より高いラヴィーネの山々の頂きにはまだ多くの雪が積もっており、空の青と雪の白と森の新緑がキレイなコントラストをつくっている。
"ハッカとカノコソウは北側、ユキワスレの群生地はその少し西側だったよね。たしかこっちの道を左に行って、、"
森では村より更に新緑が眩しく、木漏れ日の中を吹き抜ける風が気持ちいい。まだ雪がだいぶ残っているからか、風はまだ少しばかり冷たさを帯びている。
ライナはハッカとカノコソウを麻の袋に詰めると、ユキワスレの群生地に向かった。
ユキワスレはこのラヴィーネ大山脈の中でも一部にしか生えていない薬草で、使い方次第で様々な効果を引き出せる万能薬である。焙煎して飲めば精神安定や皮膚トラブル、風邪などに効くとされ、そのまま刻んで塗布すれば外傷に効く。強い苦みがあるものの、村の大切な薬でもあり、外貨を獲得する大切な資金源でもある。
ライナは祖母に頼まれこのユキワスレを収穫しに来たのだ。
ちなみに、村人であれば誰でもユキワスレの選別や収穫は出来るのだが、焙煎の技術は一部の村人しか知らない。ライナの祖母、そしてライナ自身は数少ない焙煎技術を知る者なのである。
ユキワスレは北の森のやや西側、最高峰の山頂へ続く登り口付近に生息している。ちなみに、この時期に山頂へ向かう村人はいない。そんなのは自殺行為だからである。
ライナはカバンから折りたたんだ麻の袋を取り出し、丁寧にユキワスレの新芽を摘んでいく。取りすぎてしまうと次の分がなくなってしまうので1袋分と決めているのだ。
麻の袋が十分膨らんだころ、ライナは異変に気が付きふと空を見上げた。
あんなに晴れ渡っていた空はどんよりと雲を蓄え、今にも雨が降り出しそうになっていた。気温は低くはないので、雪ではなく氷雨、もしくは霙になりそうである。
山の天気は変わりやすい、というのはこの地にも通用する話である。
"げ、雨?!きっとティオがあんなこと言うからだわ。最悪、、、"
ライナは森を駆けた。が、その努力は虚しく数分後にはポツリポツリと雨が降り始め、すぐにまとまった雨になってしまった。氷雨が容赦なくライナに打ち付けていく。
「薬草が濡れちゃう。早く帰らないと」
ライナは外套のフードを被り、麻袋を外套の中に引き込んだ。麻袋についた水滴でワンピースが濡れ、気持ち悪いが致しがない、と諦めながらも、村に向かいながらどこか雨宿りできそうな場所を探した。
そうしているうちに雨は土砂降りになり、視界が一層悪くなった。
比較的慣れていた道とはいえ、視界がこうも悪くては自分の位置がわからなくなる。
彼女は気が付かないうちに、北の森と西の森の堺まで来てしまった。
本来であれば、木々にロープが張り巡らされているので立ち入ることはない西の森。
しかし、古びたロープの一部がちぎれており、ライナはそれに気が付かず、その中に足を踏み入れてしまった。
ライナは道に迷ったこと、そしておそらく西の森の領域に来てしまったことを悟った。本来であればこんなに歩いていれば森を抜けていてもおかしくないのだから。
"お母さんに怒られちゃうな。でも、ロープなんかなかったし"
ライナは母が仁王立ちして鬼の形相浮かべる姿を思い浮かべながら肩を落とした。それよりも何よりも寒くなってきた。急な雨で気温も随分と下がり、自身の体温も大幅に奪われているようだった。
とにかく雨宿りしなくては、とライナは目を凝らしながら進んでいった。
すると、山肌がむき出しになっている部分があり、大きな岩で大部分が塞がれた空洞を見つけた。入り口は少々狭いが、中は広くて奥行きがありそうである。
"暗いしジメジメしてそうだけど、しょうがない"
その洞窟に入った瞬間、ライナの左腕に痛みが走った。とっさに左腕の縫い目を押さえる。
"痛っ、、"
その感覚は、今までに感じたものより強く、ズキズキと激しいものだった。
彼女の腕はある一定の条件下で痛む傾向があるのだが、この日のそれは今までのものとは比べ物にならなかった。
それが意味するもの。それは。
ライナは表情を引き締めると、洞窟の奥を見つめた。よく目を凝らすと、十数メートル先にほのかにオレンジ色の光を感じた。
ライナは手探りでカバンから細長い円柱状の金属棒のようなものを取り出した。長さは10センチ、太さは2センチほどである。その側面を軽くなぞるとスッと直方体の先に小さな火が灯った。
「やっぱりお兄ちゃんは天才だ。たしか10分くらいしかもたないって言ってたっけ?」
それは、ティオが開発した魔法道具だった。魔法を使わないオイルランプはこの世界で普通に普及しているけれど、それよりも軽く小さい。ライナの前の世界で"懐中電灯"と呼ばれるものに似ていた。似ているのは当然で、ライナがさりげなく彼にアイディアを伝えたところ、1週間もしないうちに試作品を作り上げてしまったのだ。
視界が開けると同時に、ライナはあるものを見つけ、目を見張った。
血痕や、それを踏んで付いたと思われる靴跡が洞窟の奥へと続いていたのだ。
しかも、決して軽症とは思えないほどの量である。
靴跡の種類からすると、負傷者以外にも複数人いるようだった。奥に見えたオレンジ色の光はおそらく彼らのものなのだろうとライナは悟った。
意を決して奥に進んでいくと、空気に血の匂いが混じってきた。朝の夢がフラッシュバックし、鼓動が激しくなる。ライナは震えを抑えながら、一歩ずつ奥を目指した。
"助けなくちゃ"
彼女の頭にはそれしかなかった。
ここがもしかしたら地下迷路の入口かもしれない。そうなれば、この血の主は警備隊の誰かだろう、彼女はそう思っていた。警備隊には顔なじみが何人もいた。彼らに何かあったのなら、、そう考えると震えが酷くなる。
ライナは腕の痛みに耐えながら、一歩一歩奥へ進む。すると、空洞が左に曲がっており、オレンジ色の光はその先から漏れていた。
ライナはそっと、光の漏れる空間を覗いた。
「あっ、、」
ライナはその光景に声をあげてしまった。
『誰だ?!』
ライナの存在に気づいた一人が振り返り様に声をあげた。
その瞳の鋭さに、ライナは身動きが取れなくなった。