3.
コトコト、コトコト。
目覚めてすぐ、彼女が認知したのはその音でした。
遠くで小鳥が、餌の入った木箱をつついているような。
絶え間なく聞こえる、そのわずかな音のありかを探ろうとして、意識はだんだんと明瞭になり──身体を覆うあたたかさに気付いた彼女は、とあるひとつの疑問が弾けて、横たえていた身体を跳ね起こします。
(……ここは、どこだ?)
戸惑う彼女の鼻梁をかすめたのは、野菜と肉を煮込んだらしき匂い。途端に唾液がじゅわっと口内を熱くして、くっつきそうな背中とお腹に挟まれた胃が、ぐうぅと切ない鳴き声を上げました。
彼女は、一人掛けの椅子を四つ並べてクッションを敷いた、即席の寝台に寝転がっていました。身じろぎすると、まろやかな柑橘の匂いが椅子から香り立ちます。ずり落ちた膝掛けは、おそらく誰かが彼女に掛けてくれたもの。一体、誰が──
「あっ、気が付きましたか?」
声のした方へ彼女が視線をやると、そこには黒いエプロンを身に着けた、線の細い青年が──リュリュが、厨房に立っていました。片手には、玉杓子。彼はそれで、火に掛けた片手鍋の中身をかき混ぜました。さきほど聞いたコトコトという音は、どうやら鍋の中身が煮える音だったようです。
「担いだ時に見た限り外傷はなかったですし、すごくお腹が鳴ってたから、単純に空腹で倒れたのかなって思って、とりあえず横に寝かせたんですけど……どこか痛かったり、おかしかったりするところはないですか?」
「……腹減った」
女性にしてはいささか低い声で、力なく彼女はこぼします。
特に空腹以外で困ったことはなさそうだと判断したリュリュは、「もうすぐ食事ができますから、座って待ってて下さい」と笑顔で言い残して、煮炊きしている鍋に向き直りました。
彼女はのそりと起き上がり、言われた通りに椅子に腰かけます。愛刀がいつも通り腰帯に差さっていることを確認して、ずれていた黒いベレー帽を被りなおして。
帽子の下から覗くのは、癖の強い檸檬色の髪。根元と毛先は橙の色へと濃くなっていて、熟した柑橘を思わせます。左目は豊かな髪に隠れて見えませんが、猫目がちな右の瞳は、午後の斜陽に照らされて透き通り、まるで紅水晶のような薄桃をしていました。引き締まった頬と鼻筋には、薔薇色のそばかすが散っています。年の頃は、リュリュより少し年上でしょうか。
彼女は弱々しい瞳で、ぼんやり店内を見回します。
「なぁ、ここはどこなんだ。私は確か、三区を歩いてて……それでえーっと……」
「ここは三区の食堂、アナグマキッチンです。あなたはこの店の前で倒れてたんですよ。僕はここの調理師のリュリュです」
さ、できあがりましたよ。そう言葉を結んで厨房から出て来たリュリュは、彼女の前にテーブルの一卓を引き寄せて、一枚の皿を乗せました。その皿は深みのある白いスープ皿で、なかにはあたたかな粥が盛りつけられています。アナグマキッチンで一番人気のオニオンスープに米を加えて炊いたのち、ふわりと溶いた卵を落とした、お腹に優しい粥です。
彼女は、ごくりと生唾を飲んで──テーブルに匙が添えられるや否やそれを持ち、粥をすくって口へと運びました。
一口ほおばると、あたたかな米の熱が口内に広がります。鼻先がツンと熱くなって、彼女は自分の身体が冷え切っていたことを知りました。
ほっと息をつく間もなく、次にじゅわりとしみ出てきたのは、汁に溶け出た玉ねぎの旨味。
「……っ!」
そのあまりのおいしさに驚いて、彼女はぱっちりと目を見開きます。
急き立てられるようにほどよい弾力を残す米を噛むと、今度は米の甘味と、鶏肉と卵の旨味が舌に沁み込みます。頬が痛くなるほどのおいしさに、彼女は無言でもぐもぐと咀嚼を続けました。
そうして一口を味わい尽くして、やっとごくりと飲み下し、食べ物を待ちわびていたお腹へと送ります。小さな太陽が体の中心へと落ちるように、あたたかな塊が食道を広げて、お腹を内側から熱で満たしました。
もう一口。さらにもう一口。
だんだんと匙の動きが早くなっていきます。最初は懸命に食具を動かしていた彼女でしたが、やがてもどかしさに耐えきれず、片手で皿を持ち上げて、じかに口をつけて粥をかきこみ始めました。熱々の食事に彼女はときおり荒い息継ぎをして、しかし休むことなく食べ続けます。
最後の一口を啜り終わった彼女は、すっかり血色の良くなった薔薇色の頬を満足げにゆるめ、ぷはぁっ、と大きく息を吐きました。
「なんだこれ、めちゃくちゃうんめええぇぇ! おかわり!!」
「……え?」
破天荒な大声と、勢いよく目の前に差し出された空の皿に、リュリュはぽかんと口を開けました。
そんな彼の反応に、すっかり生気を取り戻した瞳をくるりと向けて、彼女は大きな口をにいっとつり上げて笑います。
「ん、聞こえなかったのか? 足りねえ! おかわり!!」
「…………えーっと」
満面の笑顔でおかわりを催促する彼女に、リュリュはどう返すべきか迷います。
「……空腹のときに突然たくさんの食べ物を入れると、胃がびっくりしてしまいますよ? それを考えて、消化のいい粥にしたんですが」
「私の腹はそんなにやわじゃねぇ! とにかくこれじゃ足りねぇから、おかわり!」
こちらの気遣いもお構いなし。
三度目のおかわり宣言に、リュリュは途方に暮れました。そもそもおかわりと言われても、彼が作ったのはこの一皿分の粥だけだったのですから。
もちろんもう一度作ることはできますが、
(……おかわりって言ったって、そもそもお金持ってるのかなこの人)
そんな懸念もどこ吹く風。言葉を返さないリュリュに、彼女は怪訝そうに眉を潜めます。
「ん、ひょっとしてもう無いのか? もっと作っとけよ。どう考えてもこれじゃ足りねえだろ……って、お前はこれでちょうどよかったりすんのか? そんな小食だから細いんだよ!」
背中をバンと強く叩かれて、リュリュは呆気にとられました。
せっかく粥を作って食べさせたのに、お礼の言葉もなく、量が少ないだとか体が細いだとか、文句をつけられてばかり。開いた口がふさがらないとはこのことです。
けれど彼女は空の皿をテーブルに置いて、なおも唇をとがらせて説教を続けました。
「もっといっぱい作って、ついでにいっぺんで食べられるようにグワッと盛りつけろよ。グワッと」
グワグワと鳴きながら手のひらで、皿の上に食べ物を盛った時の大きさを表す彼女ですが、どう考えてもそれは、ゆうに三人前はあります。もはや小山です。
この傍若無人かつ不遜極まりない態度に、それでも腹立たしさをぐっと抑えるリュリュ。我慢することには慣れているだけあって、笑顔すら浮かべています。
ええ、今日店を引き継いだばかりなのに、怒ってしまって悪評でも立てられたら、先行きが不安ですしね。そういう思いもあって、彼は棘を包み隠した口調で、穏やかに反論しました。
「あの、グワッと盛りつけろって言いますけど……見た目も考慮して、その量で注いだんですよ。ぱっと見た時に食欲が沸くように」
「え? そんなの食べりゃ一緒なのに」
ぴしり。
……空気が凍ってひび割れる音が聞こえたのは、きっと気のせいではありません。彼女は今平然と、彼らの工夫を無駄だと言い切ったのですから。
『何言ってやがるんだ、ふざけるな! オレの料理に文句があるなら出ていけ!』
前のアナグマキッチンの店主なら、きっとそう怒って、さっさと彼女を追い出していたでしょう。しかし、リュリュはそうしませんでした。
彼女の言葉に腹を立てなかった訳ではありません。温厚そうに見えるその実、リュリュの本性は激情家です。活火山の奥で躍動する熔岩のように、彼の奥底では怒りが煮えたぎっています。
「……わかりました。そこまで言うなら、好きなものをなんでも言って下さい。味も見た目も量も、絶対に満足いくように作りますから」
語気に力を込めて、きっぱりと鋭く言い切るリュリュ。その口調には、仕事を馬鹿にされたままでは終われないという、調理師としての矜持が燃え盛っています。口ではなく、最高の料理で黙らせる。それはいかにも彼らしい、質実とした果たし状の突きつけ方でした。
ところがその言葉で、彼女のまわりの空気がパアッと華やぎます。
「え、好きなものをなんでも? まじで? やった! それじゃあえーっと、ハンバーグだろ、エビフライだろ、ミートスパゲッティにピラフ、あとプリンと……」
「ち、ちょっと待って下さい! そんなに!?」
いくつも料理を挙げはじめた彼女に、リュリュはたまらず静止の声を上げました。どうやら彼の言った「好きなものをなんでも」という言葉を、「好きなものをなんでも、いくらでも」という意味で受け取ったみたいです。
慌てるリュリュの声に、彼女はくるりと彼に向きなおって、猫目を数度しばたたかせ、心底不思議そうに首を傾げて、一言。
「え? 自分でなんでもって言ったくせに、できねえの?」
ぶっちん。
……ああ。ついにリュリュの頭の血管が切れる音が聞こえてしまいました。
怒りのあまりわなわなと震える手を、リュリュはぎゅっと硬く握りしめます。
この暴君をこの店から追い出す。それが最良なのは、リュリュもよくよく分かっています。けれど侮られたままでは癪に障る──ええ、彼は調理師の矜持を持ち合わせた激情家でしたね。だからつい、
「……できます! 少し待っていて下さい!!」
売り言葉に買い言葉。勢いよく、そう言い切ってしまったのです。