2.
花冷えの夜を越え、満開に咲き誇った春。
その残花が、街の石畳に落ちる頃。初夏を迎えるために、木々が若草色の新芽を伸ばす頃。そんな季節の移り変わりの朝に、アナグマキッチンの店主はコンコルディアの街を後にしました。
薄曇りの霧がかった天気は、まるで店主を見送る人たちの心模様を映したかのよう。
そうです。早朝にも関わらず、たくさんの人が店主の見送りに集まってくれていたのです。常連客はもちろん、仕入れ業者や隣人や、商売敵や他の区の人たちまで。店主はその一人一人に話し掛け、握手をし、抱擁して、別れの言葉を口にしました。彼らしく、天気と違ってカラリとした陽気さで。
「元気でな。後はまかせたぞ!」
リュリュにもいつもの調子でバンバンと背を叩いて、店主は発破をかけました。彼は餞別が山ほど詰まった背嚢を背負い、乗合馬車に乗り込みます。
御者が馬の手綱を引いて、車輪が轍を作り始めると同時。集まった人たちは各々喚声を上げて、店主との別れを惜しみます。店主もそれに応えて、太い腕をちぎれるほどに振りました。
そうして馬車の蹄の音は遠くなり、やがて物音ひとつ聞こえなくなった頃。店主を見送っていた人々も、ぱらぱらと馬車駅から立ち去って行きます。「頑張れよ」や「しっかりな!」といった、激励の言葉をリュリュに掛けながら。
最後に一人残ったリュリュは、青い気配のする春の終わりの空気を、胸いっぱいに吸い込みました。早朝のひんやりとした空気と胸のなかの空気を、そっくり全部入れ替えます。
深呼吸を終えた彼は笑顔を引っこめて、何かを覚悟するような厳しい面持ちでアナグマキッチンに戻って、おごそかに食堂の扉を開きました。
ギィ、ときしむ音を立てながら、扉は開きます。眼前に広がるのは、いつもの見慣れた、朝の光に包まれた食堂と厨房。けれど今日からリュリュがこの店の主であり、あたたかく時に厳しかった前の店主はもういません。今日から一人きりで、この店を切り盛りしていくのです。
(緊張するけど……これから精一杯頑張ろう。僕に食堂を託してくれた店主の分まで)
みずからを奮い立たせるように拳を握り、リュリュはエプロンを身に着けて、さっそく厨房に立ちます。店主は旅立ちの日の食堂を臨時休業にしてくれましたが、明日から一人でやっていくことを考えると、料理の下ごしらえや準備には、たっぷりと時間を掛けるべきだと、そうリュリュは考えたのです。
一人になって扉を開けた時の食堂は、どこかよそよそしい顔をしていました。まっさらで、どこかピンと張りつめていて、緊張する空気。
けれど湯を沸かして野菜を刻み、いつもの物音で食堂を満たしながら動き回っているうちに、食堂はいつもの慣れ親しんだ雰囲気に戻り、リュリュは普段の調子を取り戻しました。毎日繰り返した作業に体を委ねるうちに、心が落ち着いていくのが分かります。
『受け継いでくれたのは嬉しいけど、オレの味に固執しなくていいからな。お前さんの店になったのに、オレとまったく同じ食堂なんてつまらないだろ? 内装を変えたり、新しい目玉メニューを考えたり、お前さんの好きに、自由に店は変えていけばいい』
店主が残してくれた言葉が脳裏によみがえって、でも、とリュリュは心のなかでつぶやきます。
(まずは常連のお客さんに認めて貰わないと。新しいことを創めるのは、きっとその先だ)
基本に忠実に。リュリュはいつもそうしていたように、肉や魚や野菜を捌いて、水や油、調味料や香辛料と絡ませて、漬け込んで、焼いて、煮ていきます。粉に水を加えて捏ね上げ、ちぎり、丸めて、次々とパンや麺類の種を作って。前もって味付けするものには、頭の引き出しから店主の味を取り出して、想い比べながら慎重に。
そうして丁寧な下準備が終わり、リュリュが調理台から顔を上げた時には、陽はいつの間か一番真上まで昇りきっていました。ぐうぅ、と空腹を訴えるお腹に、我に返ったリュリュは、下ごしらえした料理で簡単な昼食を済ませます。
前は二人分だった食事の音が一人分になったのに、やたらと大きく響いて聞こえるのはなぜなのでしょう。じっと座っているとやっぱりそわそわと落ち着かなくて、リュリュはパスタを啜りながら、次にやるべきことに頭を巡らせます。
(せっかくだから、掃除もしておこう。このテーブルも艶がなくなってきているし。檸檬油は……まだあったかな)
食事もそこそこに、リュリュは木製家具を磨きにかかります。店主が手入れに愛用していた檸檬油は、まだ掃除用具入れのなかの硝子瓶に残っていました。たぷんと瓶のなかで揺れるミモザ色の油は粘度が低く、それをリュリュは使い古した布に染み込ませ、汚れをふき取っていくことにしました。
檸檬油は、机や椅子の汚れや埃を綺麗にぬぐって、木目の艶をよみがえらせてくれるもの。おまけに柑橘の香りが爽やかで、店の中全体が良い匂いに包まれます。
ぎゅっぎゅっと力を入れて油をすりこませながら拭いていくと、食堂のテーブルがしっとりとした艶を帯びて、洋灯の光をやわらかく照らし返すようになりました。
すべての机と椅子を磨き終え、床を拭き清めたリュリュは、ふぅと息を吐いて、汗ばんだ額を襯衣の袖でぬぐいます。疲れが溜まった腕と手を軽く揉みほぐしながら立ち上がり、一息つこうと厨房へと向かいました。
小さな手回しの豆挽。把手を握り、ガリガリと小気味良い音を立てながら挽くのは、香ばしく焙煎された珈琲豆。それを湯通ししてあたためた三角錐のフランネル布に入れ、あらかじめ沸かしておいたお湯で、じっくりと珈琲を抽出します。
おやつにピーナッツバタークリームが挟まれた、市販のビスケット(箱におまけとして入っている、色々な国の小さな旗を集めるのが、最近のリュリュのひそかな楽しみです)をかじりながら、ほっと一息つくはずだったのですが──
(……入り口の植え込みも整えておこうかな。ハーブが道にまで伸びてるかもしれない)
──ええ、勘の良い読者様ならすでにお気付きでしょう。今のリュリュはあきらかに、落ち着きに欠けています。
小さいながらも、初めて一城の主になった。その緊張からでしょうか?
確かに動けば考えごとはしなくて済みますし、緊張もほぐれるかもしれません。でも、今からこんな調子では、明日の朝には働きすぎてくたくたになってしまいます。なんとか彼を落ち着かせる方法はないものでしょうか。
気を揉むこちらの気持ちも露知らず。リュリュはお茶の時間もそこそこに、剪定鋏と籐籠、金雀枝でできた箒と錻の塵取りを持って、食堂の扉を開けました。
──そうしてそのまま、彼は扉に手を掛けたまま、ぽかんと口を開けて固まります。
この荒廃都市では、ままあること。この街に来た日に、アナグマキッチンの常連であるレディやクラップもそう言っていましたし、店主も珍しくないとぼやいていた覚えがあります。けれど、リュリュがそれに遭遇するのは初めてで──幸か不幸か、先ほどまでの逸る気持ちなど、どこかへ吹き飛んでしまいました。
昼下がりのアナグマキッチン。
その真ん前で、一人の人間が行き倒れていたのです。