1.
「……うん、うまい」
厳めしい表情から一転、眉間の皺をゆるめた男の一声。その表情と言葉に、側にいた青年の緊張もゆるみます。ほっと安堵の溜め息をついて、青年は「ありがとうございます」とお礼を言いました。
「いや、オレが作るオニオンスープの味、そっくりそのままでびっくりした。これなら常連の客だって、誰も文句は言わねえだろうさ」
さきほど口をつけた汁の入った小皿を、太い指でコトリと調理台に置いて、男は感じ入ったように数度うなずきます。
禿げあがった頭、穴熊のようにずんぐりとしていて大きい体、毛むくじゃらの太い腕。一見野蛮とも取れる男の風貌は、しかし胸元に穴熊の刺繍が入ったエプロンを身に着けていることで、不思議と愛嬌を感じるものになっていました。
「それなら良かったです。特にこのオニオンスープは、根強い人気メニューですから」
男の側にいた青年は、そう言ってにこりと微笑んで、火にかけた寸胴鍋の中身を掻き混ぜました。鍋の中身は、刻んだ根菜と鶏肉の出汁、それからたっぷりの玉ねぎをじっくり長時間煮込んで、秘伝の香辛料で味を調えたオニオンスープです。琥珀色のさらさらとした汁を混ぜるたびに、鍋のなかで透明な玉ねぎが躍ります。ほわりとした湯気と共に、どこか懐かしく食欲をそそる匂いが厨房に漂いました。
黒縁眼鏡を曇らせながら調理を続ける青年は、すみれの花の色の髪と、よく晴れた青空を思わせる瞳の持ち主でした。まるみを帯びた頬が、まだいとけなさを残すようにも見えます。が、黒のエプロンを身に着けていることから分かる通り、彼は立派な調理師。歳は19、名をリュリュと言いました。
リュリュは一週間前、荒廃都市と呼ばれるコンコルディアに、姉のソワイエと一緒に引っ越してきたのです。生活の足掛かりとして、リュリュが住み込みで働き始めたのが、コンコルディア三区の食堂、アナグマキッチン。その食堂の主である、穴熊そっくりのこの男から、リュリュはもうすぐ店を貰い受けます。
「……味を引き継げたのは嬉しいですけど、店主さんがいなくなるのは……やっぱり寂しいですね」
「はは、しんみりするのは明日の見送りの時にしてくれや。どうもこう、湿っぽい空気ってのは馴染みがなくていけねぇ」
店主はからりと笑って、リュリュの細い背中をバンバンと叩きます。よろめいて、ずれた眼鏡を直しながらも、リュリュも店主に笑みを返します。
親子ほど年の離れたこの二人は、出会って間もないながらも、料理という太い縁でしっかりと結ばれていました。それに、豪胆な店主と謙虚なリュリュ、異なる性格が意外にも上手く作用して、お互いの足りないところを補い合っていたのです。
仕込みを終えた二人は、カウンターに並んで座って朝食を摂って、開店前に一息入れます。メニューは、焼きたてふかふかの丸パン、カリカリに焼いたベーコンと、とろりとした半熟の目玉焼き、しっかり洗って下ごしらえを済ませたグリーンサラダ、それからさきほど店主から太鼓判を貰った、リュリュが作ったオニオンスープです。
店主が娘夫婦の住む街へと旅立つのは明朝。これが二人で食べる最後の朝食でした。
まだ洋灯をつけていない店内は、それでも明るさに満ちています。それは灯り取りの窓から差し込む、生まれたての朝の光のおかげでした。
磨き上げた真鍮の調理道具が朝日を受けて、まばゆく輝くさまを眺めながら、二人は一緒に作った料理を頬張ります。いずれ客で賑やかになる食堂の、ほんの一時の静けさを味わう。このひとときを、彼らはとても愛していました。
「なぁ、リュリュ」
スープにひたしたパンを飲み下して、店主は口火を切りました。
二人のいつもの話題は、店のことや味付けに関することでしたが──この日は少し違いました。
「お前さんは、本当にそつがなくて器用だ。店の引き継ぎに充てた一週間だって、店のどこに何があるか覚えて、客の流れを把握するだけで、正直なところ手一杯だろうって思ってた。オレの味は……まぁ、引き継ぎを期待するだけ野暮だなって、そう考えてたんだよ。だが、どうだ」
店主は皿の上に落としていた視線を持ち上げて、隣に座るリュリュに向けました。その眼には賞賛の色がありありと浮かんでいます。
「お前さんは、オレの味をほとんど再現できるようになった。この短期間で、だ。本当にすげえことだよ。そんなことをやってのけたってのに、お前さんは少しも思い上がったり、疲れたそぶりを見せねえ。本当にできた奴だ」
手放しで褒められたリュリュは、耳を赤くして店主と合わせていた視線を落とします。無理もありません、店主がこんな風にリュリュを褒めること自体、初めてなのですから。
……けれど、店主の話の要点は、そこではありませんでした。
「だからこそ、心配なんだよ」
ぽつりと落ちた店主のつぶやき。それは今までの声色とは違って弱々しいもので、しかしリュリュにとっては、背中に落ちた氷柱の一雫のように、驚きを誘うものでした。
羞恥もどこへやら、弾かれて上げた視線が、店主と噛み合います。店主は苦々しいものを無理やり舌に乗せる表情で、歯切れ悪く、のろのろと続きを口にしました。
「いや……店がじゃなくて、お前さんがな。心配なんだ。いつもニコニコしてて優しくて、誰に対しても親切で丁寧だ。オレにも、客にも、肉親のソワイエにだって。弱音は吐かねえし、愚痴だって言わねえ。──それは立派なことだが、お前さん必要以上に自分を殺して、無理してねぇか?」
「そんなこと──」
リュリュは否定しかけて口をつぐみました。そう、彼は幼い頃から自分を殺すのが当たり前になっていたのです。それが普通のことすぎて、無理なんてしていないと否定したくなるほどに。
「……責めてるわけじゃねぇんだ。立派なことだ。だけど、お前さんが客に気を配りながらもオレの調理の手元をしっかり見てたこと、オレの味を覚えるために、洗いに回した鍋の底にこびりついてたソースをこっそり舐めてたこと、店を閉めてまかないを作る時ですら、思考錯誤してオレの味に近付けようとしてたこと……オレはお前さんの努力を知ってる。けど、何も知らない奴からしてみれば、涼しい顔をしてるお前さんは、器用で才能がある奴だからって一言で片付けられる。下手するとやっかまれる。優雅な白鳥が水面下で、どれだけもがいているか知らずにな」
だから苦労を少しは顔に出せと、店主はそう言いたいのでしょうか。
いいえ、店主が心配しているのは、やっかみだけではありません。辛いとか、苦しいとか、そういった負の感情をまったく表に出さずに溜めこみ続けたら──いずれ、内側から壊れてしまうのではないか。リュリュにはそういったあやうさを感じさせる、ある種の完璧さがあったのです。
「……心配してくれて、ありがとうございます。けど──」
「お前さん、人から嫌われるのが怖いんだな」
包み隠していた真実。
リュリュの言葉を遮って放たれた店主の一言は、いともたやすくそれを射抜きました。心を暴かれたリュリュは心臓に杭を打ち込まれたかのように、目を見開いて身じろぎひとつ取れません。
長年一緒にいる姉すら知らない恐れ。それを一週間で見抜くとは、店主の観察眼は客商売の一言で片付けがたいものがあると、リュリュは初めて彼に畏れを抱きました。まるで、何もかも見透されてしまうような──
「──いや、そんな顔するなよ! オレが悪かった! 勝手に深入りしすぎたな。すまねぇ。だからどうしろとか、お前が変わらなきゃとか、そういう話じゃないんだ」
リュリュの表情に気付いた店主が、慌てて声音をいつもの明るいものに変えて、ほつれた空気を繕います。けれど一度裂かれたそれは、もとには戻りません。
食事の手を止めてうつむくリュリュに、店主はさらに何か言おうとして──けれど結局言葉を飲んで、「ほら、せっかくのスープが冷めちまうぞ」と背中を叩いて、自身も食事の続きに戻りました。
食具と皿が触れあう音ばかりが大きく響いて、二人は沈黙を食べ続けます。
リュリュがやっと言葉をこぼしたのは、手作りの調味汁がかかったグリーンサラダを食べ終えた頃、唇から肉叉を離すと同時でした。
「自分でも、分かってるんです。でも、どうすればいいのか……分からなくて」
幼い外見に逆らうように、大人びた立ち振る舞いをしていたリュリュ。その彼の、年より上でも下でもなく、年相応の素顔をやっと垣間見た気がして、店主は相好を崩しました。もちろん、思い悩んでいるリュリュに気付かれないうちに咳払いをひとつ、すぐに表情を引き締めましたが。
「お前さんのことだ。色々考えて足掻いて、それでも結局答えなんて出なかったんだろ? なぁに、いずれどうにかなるさ、そういうのは」
「……なるでしょうか?」
「そんな疑り深い顔するんじゃねぇよ。こういうのはな、巡り合わせなんだ。そうさな、例えば──」