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どこからともなく漂う料理の匂いに、胸がぎゅっとしたことはありますか?
例えば、風に乗って届いた煮物の香り。お母さんの料理そっくりの匂いに、瞬時に記憶はあの頃へ。幸せな食卓の思い出に、じんわり心がほどけていって、肩に力が入っていたことに気付いたり。
例えば、食堂の裏口から漏れる煙。火で食べ物を炙る香ばしい匂いと一緒に、調理人たちの話し声、皿が触れあう音が届いて、おいしいものが目に見えるよう。あぁお腹が空いたなぁ、早く帰ってあたたかいものを食べたいなぁ。知らず急ぎ足になって、帰り道を辿ったり。
私たちは食べずには生きていけません。
それはおそらく善人でも悪人でも、どの世界に住むどんな人たちでも同じ、普遍のこと。家族と、あるいは一人で、時には友人知人と食卓を囲んで食事を摂り、そうしてそれを繰り返して、私たちは齢を重ねていきます。
これからお話するのは、皆様が住む世界とはまた別の世界軸のお話。とある一人の青年が、とある荒れ果てた都市に辿り着いてしばらく。そこから物語は始まります。
察しの良い方はお気付きでしょう。そう、この物語の主人公である青年は、その手で理を料り美味を紡ぐ食の担い手──調理師なのです。