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黒猫のような君と、僕の物語  作者: 日暮 絵留
3/3

後編2

『三年後』

        麻友1

         1

 わたしは墓石の前にかがんで手を合わせ、黙祷した。

 お線香を上げたお墓には、花屋で見繕ってもらった花と、彼がたまに飲んでいた独特な風味の炭酸飲料を供えた。

 お通夜、お葬式はもちろんだけど、一周忌や、去年の三回忌にも参列させてもらった。

 たった数ヶ月程度の付き合いしかなかったわたしにはとても光栄なことだと思う。

 それとは別に、個人的に、月命日にはできるだけお墓参りをするようにしていた。

 割と近場に墓地があるお陰で、気軽に(という言い方は不謹慎かな…?)訪れることができる。

 今日は、三回忌後、初の祥月命日に当たる日だ。

 静謐とした空気の中にお線香の匂いが漂っていて、それだけで、この場所が日常と切り離されてしまったかのような気がした。

 まるで時間がゆっくり流れているような…そんな優しさに満ちている。

 わたしはこの場所の、こういう雰囲気が嫌いではなかった。

「………」

 彼と一緒にいる時間もいつもこんな感じだったな…。

 天国の彼に祈りを捧げながらそんなことを思った。

 わたしは目を開けて立ち上がり、墓誌に刻まれた彼の名前を見つめると、

「君が亡くなってから、もう三年にもなるんだね…」

 もうこの世にいない人に対して、声を出して語りかけた。

 三年かぁ…。

 在り来たりな表現だけど、この三年間は、長かったような気もするし、あっという間だったような気もする…。

「わたしはあれから無事に高校を卒業して、今は大学生だけど、君もそっちの大学に通っているのかな」

 彼とは生前「同じ大学に行けたらいいね」なんて話をしたことがあった。

「僕の学力じゃ、君と同じ大学なんて、とてもじゃないけど無理だよ」

 わたしの通う高校の名前を聞いた彼はそう言ったけど、

「勉強ならわたしが教えてあげるよ」

 というわたしの言葉に、

「じゃあ、頑張ってみようかな…」

 なんて、満更でもなさそうに言ってたっけ……。

 彼が亡くなった日は、ひどい大雨が降っていたけど、今日は天気が良くて何よりだ。

 上空には抜けるような真っ青の世界が広がっていて、そこに一筋の飛行機雲が伸びていた。

「わたしね―――やっと、新しい恋人ができたんだよ」

 君が亡くなってから、人を好きになることへの恐怖はもっと大きなものになっていたはずなのに不思議だよね。

 でも、人を好きになるって、そういうものなのかもしれないね。

 わたしに恋人ができたこと、君はどう思うかな…。

 君の事だから、きっと「良かったじゃないか」って、言ってくれる気がする。少し素っ気ない感じでね。

 そしたらわたしは「あれ? もしかして焼き餅かなぁ?」とか言って君のことをからかうんだ。

 君は真っ赤な顔をして「そんな訳ないでしょ。君に焼き餅なんて有り得ないよ」なんて言うんだろうな…。

 わたしとしては、

「ようやく乗り越えられたんだね」

 って、褒めてくれたら最高に嬉しいな―――。


 …君はこういう話はあんまり好きじゃなかったよね。


 ごめん。


 でも、君がわたしを置いて遠くに行っちゃったのがいけないんだぞ。


「わたしね、毎月ここに来るのは―――今日で最後にするよ…」

 一周忌か三回忌を一つの区切りにしようと思っていたけど、結局、わたしは今でもこうしてここに訪れている。

 でも、いつか、わたしなりの方法で区切りをつけようって、ずっと思ってて…。

 色々考えた結果、わたしに新しい恋人ができて、そのことを君にちゃんと報告できたら、それを区切りにしようって思ったの。

 実はね、その人と付き合い始めてから、もう一年くらいになるんだ…。

 ずっと秘密にしててごめんね。

 でも、中途半端な日には報告したくないと思って、祥月命日である今日まで待ってたんだよ?

 その方が、わたしもけじめがつけられるかなって。

 だから。

 来月からは、ここには、もう、来ないね。

 それでも、恋人に事情を話して、許可がもらえたら―――ううん。きっと許可してくれると思う。

 そしたらさ、

 七回忌とか、十三回忌とか、節目になる時だけは、来てもいいかな…?



         2

 お墓参りの後、わたしはコウくんと初めて出会った場所を訪れていた。

 滅多に人が来ない『裏山』は今日も静けさに包まれている。

 久しぶりに来てみたけど、ここはあの頃から何も変わらないな…。

 季節は何度か巡ったけど、流れる空気はずっと残留し続けてたんじゃないだろうか…。

 そんな風に感じるほど、何もかもが同じに思えた。

 季節もちょうどあの頃と同じくらいだから、余計にそう感じるのかも。

 まるでタイムスリップしたような感覚だった。

 あまりにも何も変わらないものだから、今にもコウくんの声が聞こえてくるんじゃないかと思って、

「コウくん…」

 呼びかけてみたけど―――当然、返事はなかった。

 わたしは鞄の中から、くしゃくしゃになった一通の封筒を取り出した。


 そこには『遺書』と書かれている。


 コウくんと初めて会ったあの日―――わたしは死のうとしていた。



         3

 幼稚園や小学校低学年の頃のわたしは、外で遊び回るのが大好きな、明るい性格の女の子だった。

 物心がついた時には既に、おままごとや人形遊びなどには興味がなく、近所の空き地で男の子に混じって野球やサッカーをしたり、泥だらけになりながら虫やカエルやザリガニを捕まえたりしていた。

 特に好きだった遊びはドッジボールで、当時のわたしは、攻守ともに、エース級の男の子にも引けを取らなかった。

 その証拠に、その男の子とわたしは常に違うチームになることが暗黙のルールで、実質的なチームリーダーのようなものだった。

 小学校に上がると、男子たちが休み時間にドッジボールをするのがブームとなった。

 一方、女子の間ではあやとりがブームになっていて、休み時間には教室で談笑しながら毛糸を指に絡める女子の姿が見受けられた。

 わたしは当然のようにドッジボールに混ざった。

 ある年頃になると男子と女子の間には一定の距離ができるもので、最初、わたしのことをよくしらない男子からは、「女のくせに混ざってくんなよ」と邪険にされたりもした。

 大人の世界であれば『男女差別』という言葉が当てはまる状況かもしれないけど、子供の世界というのは、往々にしてそういうものだ。

 でもそれも、わたしの腕前を目の当たりにすると、「黛って、女なのにすげぇな」というものに変わり、わたしはすぐに受け入れられるようになった。

 そうなると、今度は逆に、わたしは男子たちの間で一目置かれる存在となっていく。

 当時のわたしにはその自覚は全くなかったけど、いつの間にか、人気が急上昇していたらしい。

 後から人づてに聞いた話だと、男子の間で「好きな人がいるか」という話題になった時、クラスのほとんどの子がわたしの名をあげたのだとか。―――真偽は分からないけど。

 たぶん、結構な尾ひれがついてると思うし、かなり眉唾物だと思う…。

 とにかく、その男子の中には、クラスの女子から一番人気のある子も含まれていた。

 その話がどこからか伝わって、

 わたしはクラスの女子たちから反感を買うことになったんだ…。

「麻友ちゃんってさ、ちょっと可愛いからって調子に乗ってるよね」

「そんなに男子にモテたいのかな?」

「いつも男子にぶりっこしてて馬鹿みたいよねー」

 朝のホームルームや休み時間の度にひそひそと―――でも確実にわたしに聞こえるようにささやく声が聞こえた。

 最初のうちは反論したりもしたけど、それが火に油を注ぐ行為だということに気付くと、わたしは黙って耐え続けることしかできなくなってしまった。

 こういう時、女子というのは驚くほど狡猾、かつ、陰湿なもので、いわゆる“いじめ”に当たるような行為を大人たちに気取られないように行うことに関しては天才だった。

 また、男子というのは「触らぬ神に祟りなし」を貫くもので、なんの頼りにもならない

のだった。

『今は周りの空気が変になっているんだ…。

 エーコちゃんも、ユウナちゃんも、その空気に飲まれてるだけ…。

 何か別の話題で盛り上がりでもすれば、わたしの悪口を言ってたことなんて、そのうち忘れちゃうはず…

 だからきっと、こんなことは、すぐに終わるよね…               』

 わたしの中に蟠り(わだかまり)は残るだろうけど―――それさえ気にしないようにすれば、前みたいな学校生活が送れるようになる。そしたらまたドッジボールができるんだ…。

 そう、信じるしかなかった。

 でもそれは甘すぎる考えだった…。

 心無い言葉を浴びせられる日々が何日か続いたある日のこと―――。

 わたしたちの通う小学校では二時限目と三時限目の間に『業間休み』という少し長めの休み時間があった。

 その時間、男子のほとんどは校庭でドッジボールをする。

 早く行かなければ、場所もボールも他のクラスに取られてなくなってしまうので、チャイムが鳴ると同時に男子は一斉に駆け出す。

 以前のわたしは男子に混じって駆け出していたけど、クラスの女子に目の敵にされるようになってからは、それもできなくなっていた。

 その日、業間休みの始まりを告げるチャイムが鳴ると、男子が教室を出る前に、いきなり一人の女子が教壇に立った。

 その子は、最近のわたしが置かれている芳しくない状況において、率先してわたしを陥れようとしている子の一人だった。

 クラスの全員が「なんだなんだ?」といった感じでその子に注目する。

 …この日、わたしは朝から嫌な予感がしていた―――。その子がずっとそわそわしていることに気付いていたからだ。

 業間休みになったら何かしようと企んでいたのだということが分かって、わたしはゾッとした。

 その子はまるで新しいオモチャを見つけた幼い子供のように目を輝かせていた。

 早く言いたくて仕方がないといった様子で口火を切ったその子は、一体どこでそんな知識を得たのか、こんなことを言った。


「ねぇ! みんな知ってる? 麻友ちゃんみたいな子のこと、『いんらん』って言うんだよ!」


『淫乱』なんていう単語は、当時小学生だったわたしたちにとって、全く無縁のものだった。

 当然、わたしも意味は知らなかったけど、当時のわたしの置かれていた状況から、それが良くない言葉だということは容易に想像できた。

 それは他の子たちも同じだったと思う。

 教壇に立っている子と、席について縮こまっているわたしに、クラス全員分の好奇の目が向けられる。

 やがて男子の誰かが間の抜けた声で「いんらん?」と話の続きを促すと、教壇に立っている子は嬉々とした声で言った。

「そう! いんらんッ!」

 まるでわたしが『いんらん』であることを宣言するかのような口調だった。

 今度は女子の誰かが質問する。

「いんらんって、どういう意味?」

 自分しか知らない『難しい単語』の知識をひけらかすことが、気持ち良くて堪らないといった様子でその子は言った。


「すぐに男の人と“いやらしいこと”をする子って意味だよ!」


 わたしは愕然とした。

“いやらしいこと”の内容なんて当時のわたしたちが知る由もないけど、今まで言われてきたどんな言葉とも違う、圧倒的な絶望を孕んでいるように感じられた。

 案の定、教室内に満ちていた好奇の視線が、徐々に軽蔑のそれへと変わっていく。

「麻友ちゃん、ふけつなんだぁ!」

「ちがうよ! 麻友ちゃんはいんらんだよ!」

「麻友ちゃんは……いんらん」

「いんらん!」

「ねぇ。いんらんって、うつったりしないよね?」

「えっ、うつったらどうしよう…」

「私、こわい…」

「いんらんは病気じゃないから、うつったりしないよ!」

「なんだぁ…。よかったぁ」

「いんらんなのは麻友ちゃんだけだね!」

「いんらん!」

「麻友ちゃんは、いんらんッ!」

 みんなは何がそんなに楽しいのか、ろくに意味も把握していないくせに、口々に『いんらん』と言い続けた。

 その時のわたしには“ただ、覚え立ての難しい言葉を言いたいだけ”にしか見えなかったけど…

 今思えば、あの時、みんなは子供ながらに『淫乱』という言葉が持つ淫靡な響きに興奮、或いは、陶酔していたのかもしれない。

 とにかく、このような経緯で、


 その日から、わたしのあだ名は『いんらん』になった―――。


 こうして男子からも本格的に避けられるようになったわたしは、ますますクラスで浮いた存在となり、口数も極端に減っていった。

 そしていつしか一日に一度も口を開かない生活がわたしの日常となった…。



         4

 中学に上がると、それまで他の小学校に通っていた子たちが増えて、生徒数は一気に倍にまで膨れあがった。

 それでもわたしの通っていた小学校の生徒が半数近くを占めていて、他校の子たちの間に噂が広まるのは時間の問題だった。

 部活動などでわたしの小学校と関わりのあった子の中には、もともと知っていたという子も多かったと思う。

 よって、わたしの立場は依然、芳しくないものだった。

 むしろ、より悪化していたと言うべきかもしれない…。

 思春期真っ只中という状況で貼られた『淫乱』というレッテルの持つ意味の重さは計りしれなかった。

 しばらくは鳴りを潜めていた噂話が再燃すると、噂が噂を呼び、みるみる尾ひれがついていく。

 そのすべてが耳に入ってくる訳ではなかったけど、わたしが聞いた限りでも、相当酷い言われようだった。

 再び孤独な毎日が始まった。

 その頃の学校での人間関係と言えば、ごく稀に、噂を聞いたらしい名前も知らない男子生徒が「誰とでもヤラせてくれるって本当?」などと言ってくるのを無視することくらいだった。

 そういう人たちが向けてくる嫌らしい視線が嫌で嫌で仕方がなかった。

 大抵は侮蔑するように一瞬向けられる程度だったけど、中には無遠慮にジロジロと見てくるような人もいた。

 唯一の救いは、当時わたしが休み時間などに入り浸っていた図書室には、そういう人が訪れることが少なかったということだ。

 外で遊ぶ機会も、教室で笑う権利も、何もかも失ってしまったわたしには、図書室という場所は恰好の逃げ場だった。

 本には興味がなかったということと、今後の、ある『野望』のために、わたしは毎日、図書室そこで勉強をしていた。

 これでも一応、もともと、勉強は好きな方だった。

 いつもほとんど生徒のいない図書室に、いつもいる生徒は、ほぼ同じ顔ぶれだった。

 なるべく目を合わせないようにしていたから、顔まで覚えている生徒は一人もいないけど…。

 図書室なのだから当然かもしれないけど、わたし以外の“いつもの顔ぶれ”たちも、基本的には「他人とは関わらない」というスタンスのようだった。

 ただ、一人だけ例外もいた。

 わたしはよく視線を感じることがあった。

 さっきも言ったように、顔は確認していないけど、座っている場所などから、いつも同じ人物であることは間違いなかった。

 何より、その視線に混じる独特の色のような、匂いのような―――とにかく、感覚的な“何か”がいつも同じだった。

 それは、普段わたしに向けられているような侮蔑のものとは明らかに違っていて、嫌な気持ちになったりすることはなかった。

 もし嫌な気持ちになっていれば、その人物からは見えない場所に座るようにしていたと思うし、それでも駄目であれば、わたしは図書室という逃げ場所を失っていただろう。


 わたしは断じてそんな人間なんかではない―――


 本当は、声に出してそう反論したかった。

 でもそれが無駄なことだとしっているわたしは、やっぱり黙って耐え続けることしかできなかった。

 わたしは誰とも一切口をきかず、また、わたしに声をかけるてくるような生徒も(今言ったような例外以外)いなかった。

 わたしは中学に上がって間もない頃から、地元の人があまり通わないような遠方の高校を目指そうと思っていた。

 わたしのことを知っている人がいない土地に行けば、この悪夢のような呪縛から逃れられる。『淫乱』ではなく『黛麻友』として新しいスタートラインに立てるのだ。

 今、自分が置かれている悪い状況は義務教育を終えるまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、ただただ静かに時が流れるのを待った。

 でも問題もあった。

 遠ければ当然通うのは大変だろうし、通学費だって馬鹿にはならない。

 さすがに両親の許可が必要だった。

「世間体も考えて、せめて高校くらいは出ておきなさい」とは両親の談だけど、意味も無く遠方の学校になど通わせてもらえる訳がない。

 わたしは全国的にも有名な偏差値の高い進学校を目指すことでその問題をクリアした。

 幸か不幸か、わたしには勉学に励む時間が腐るほどあった。

 帰宅部(という名前があった訳ではないけど)だったわたしは、他の子が部活で青春の汗を流している時間も図書室や家で勉強をした。

 みんながカラオケで騒いでいる時も、ゲームセンターのクレーンゲームに百円玉を注ぎ込んでいる時も、わたしは勉強をした。

 友達同士が学校帰りにファストフード店でハンバーガーを頬張っている時も、わたしのやることは同じだった。仲の良い男女が映画を見に行ったり、ソフトクリームを食べている時だって…それは変わらない。

 とにかくひたすら勉強をする毎日だった。

 それでも、目標に向かって夢中になれている分だけ、小学生の頃に比べれば楽で幸せな毎日だった。



         5

 努力の甲斐あって、わたしは目標にしていた難関校に進学することができた。

 ちなみに女子校である。

 その高校では入試の成績によって最初のクラスが割り当てられるのだけど、わたしは成績中位者クラスであるB組の、ほぼ真ん中くらいの成績だった。

(不純な動機だったかもしれないけど)あれだけ勉強してこの順位なのだから、やはり上には上がいるものである。

 噂では、成績が極端に落ちたりすると下位のクラスに落とされることもあるんだとか。…実際に目の当たりにした訳ではないから本当かどうかは分からないけど。

 教室には、地味で真面目そうな子が多かった。

 全然オシャレじゃない、度のきつい眼鏡をかけている子が何人もいた。

 最初のうちは授業について行くだけでもやっとのことで、それこそ、勉強以外にうつつを抜かしている暇などなかった。

 それでも二週間も経つと徐々に授業のペースに慣れてくる。

 教師ごとの教え方の癖なども分かってきて、授業の受け方…と言うか、要点の押さえ方みたいなものが分かってくるのだ。

 そうなると、だいぶ余裕が生まれてきて、ようやく勉強以外のことに目を向けられるようになる。

 他の子たちも大体同じだったようで、B組のクラスメイトたちは、遅ればせながら、友達としての関係を築き始めたのだった。

 わたしも当然のようにその輪に加わった。

 注目されたことがきっかけで仲間はずれの標的になった過去の経験と、最初にクラスメイトたちに抱いた「地味で真面目そう」という印象から、わたしもなるべく目立たないように努めた。


 でも、ほんの少しでもいいから、以前の、本来の明るい性格の自分を出したい―――


 だから、少しだけ明るい感じで。

 あくまでも自然に。控えめに。

 出しゃばりすぎない。

 そんな風に心がけていた。

 今思えば(わたしにも色々事情があったにしても)結構計算高いと言うか、腹黒いと言うか…。あんまり良くないことだったような気もする…。

 ともあれ、わたしは無事にクラスに馴染むことができた。そして多くの友人ができた。

 当然のことだけど、クラスの約半分はわたしよりも成績の良い子だった。

 正直、わたしはそれまで、クラスのみんなのことを、「いかにもガリ勉そう」で「勉強以外のことには興味がなさそう」などと思っていた。

 これは後から知った話だけど、上位クラスであるA組の子たちは、まさにそんな感じだったそうだ。

 その成果が通称『特待クラス』と呼ばれるA組に籍を置くことへ繋がるのだろう。

 下位のクラスであるC組は、A組から『落ちこぼれ』と揶揄されることがあり、A組に対しての対抗心が凄まじかったらしい。

 中学時代には学年でトップクラスだった子たちが、いきなり落ちこぼれ扱いされるのだから、プライドが傷つくのも仕方のないことだと思う。

 そのため、ある意味ではA組よりもピリピリした雰囲気だったという話だ。

 わたしが在籍していたB組は、良くも悪くも、他のクラスや教師たちから注目されることが少なかった。

 彼らからしたら、わたしたちB組は可もなく、不可もない、という存在。―――要は中途半端だったのだ。

 でもそのお陰と言ってはなんだけど、B組の雰囲気は良い意味でゆるかった。

 いざ友達になって話をするようになると、最初に思った「勉強にしか興味がなさそう」という印象が全くの的外れであることが分かった。

 休み時間や放課後には進学校らしく勉強の話をすることも多かったけど、それ以外にも様々な話題が教室中を飛び交った。

 前日に見たバラエティー番組の話。

 新作コンビニスイーツについての話。

 芸能人のスキャンダルの話。

 好きな漫画やアニメの話。

 俳優の誰々がカッコイイとか、アイドルグループのなんとか君が最高だ、などと議論を交わすこともあった。

 そして、いわゆる『恋バナ』だって。

 好きな男性のタイプや、今までの恋愛の経験談。

 今現在好きな人がいるかどうか。

 もしうちの学校の男性教諭から恋人を選ぶとしたら?

 男子生徒がいないのを好いことに、際どい下ネタで盛り上がったこともある。

 …わたしだって高校生にもなれば、授業で教わる性教育とは別の“そういう行為”に多少なりとも興味はあった。

 今までそのような話をする機会など皆無だったわたしにとって、それはとても刺激的なもので、内心どきどきが止まらなかった。

 クラスでスマホを持っていないのはわたし一人だけだった。

 今までのわたしには必要のないものだったし、正直、欲しいと思ったこともなかった。

 クラスの子たちには「両親が許してくれないから」ということにしてある。

 友人たちとの関係は良好だったけど、少しだけ残念に思っていたこともあった。

 それは平日の放課後や、休日に、どこかへ遊びに行くような時間がなかったということだ。

 高校に入って、もし友達ができたら、その友達と学校帰りのファストフード店でハンバーガーを食べながらおしゃべりをする―――というのが、わたしの夢の一つだった。

 でもわたしのように遠方から通っている子も多かったし、そもそそも帰るべき方角がばらばらだったので、意外と叶えるのは難しそうだった。

 学生寮に入っている子たちは外出すらもままならないという状態で、余計に無理そうだった。

 もっとも、仮に今言ったような理由がなかったとしても、夢を叶えることはできなかったかもしれない。

 自宅に帰ってからの予習・復習、自主勉強は、当然どのクラスの子もやっている。

 教室であれだけ弛緩し切っているわたしたちB組にとって、放課後の自主勉は生命線とも言えるものだった。

 そこで本気を出せなければ『落ちこぼれ』の仲間入りになる可能性すらあるのだ…。

 だから、教室の良い雰囲気を維持するためにも、放課後は勉強に全精力を注いだ。

 なんとなくだけど、クラスのみんなも暗黙の了解でそうしているような気がした。

 …だから、もし遊びに行くような時間ができたとしても、その分を更に勉強に充てただけだと思う…。

 でも、そのような事情はあったものの、高校生になってからの生活はとても充実したものだった。

 そして、毎日が充実していた理由は、実はそれだけではない…。


 生まれて初めてできた恋人という存在が、わたしの人生に、より一層の彩りを加えてくれていたのだ。


 毎朝のように電車で見かけるその人は、わたしの知らない高校の制服に身を包み、いつもドア付近の壁に寄りかかりながら文庫本を読んでいた。

 わたしは車内では参考書を読んでいたのだけど、その合間に「あの人は今日もいるな」と確認をするのが、ちょっとした日課になっていた。

 そんな風に視線を向けてしまう癖がついていたので、自然と目が合う回数が増えていった。

 最初のうちは直ぐに視線をそらしていたし、その人も「気のせいだろう」と思っていたようだった。

 不思議そうに首を捻るのを何度か見たし、後日(付き合うようになってから)確認したところ、わたしの考えに間違いはなかった。

 そのようなことが何回も続くと、お互いの存在をなんとなく意識し始めてしまうもので…

 わたしが「真面目で誠実そうな人だな」と気になり出していた頃―――、彼は彼で「ひょっとして僕に気がある? …いや、そんな訳ないよな…」などとモヤモヤしていたらしい…。

 そのモヤモヤに耐えきれなくなった彼は、ある日、いつものドア付近の壁から離れて、わたしの側までやって来た。

 そして玉砕覚悟で声をかけてきたのだ。

 もちろん、いきなり「付き合って下さい」とか、そんな急展開だった訳ではない。

 それでも、もし勘違いだったり、相手わたしにその気がなければ、ただの赤っ恥だけでは済まない。今のご時世、たったそれだけのことでも痴漢や変質者の疑いをかけられる可能性が十分有り得るのだから…。

 そしたら、下手をすれば立派な前科一犯だし、そうならなかったとしても、次の日から乗る車両を変えるか、電車自体を一本早めるなどの処置をしなければならないだろう…。

 そんな危険を冒してまで行動を起こすというのは、きっと相当の勇気がいると思う。

 わたしがその時点で彼にどのような感情を抱いていたのかは、正直、微妙なラインだった。

 少なくとも悪印象は持っていなかったけど、彼のことを好きになったのが“いつ”なのかは、今でも明確には分からない。

 その後も、話す機会は朝の電車内だけだったけど、少しずつ二人の距離が近付いていくのが分かった。

 そしてごく自然な成り行きで「付き合おう」ということになった。

 付き合うと言っても、相変わらず電車内での交流だけだったし、実はその後直ぐに別れることになってしまうので、恋人らしい行為―――つまり、手を繋ぐ…とか、ハグをする…とか、キスをする…とか、―――は何もできなかった。

 それでも、

 例え短い期間だったとしても、彼はわたしの心の支えだった。


 とてもとても大きな支えだった―――。



         6

 折角恋人ができたのだからスマホを持とう思った。

 でもクラスのみんなに「親が許可してくれない」と誤魔化していた手前、いきなり持つようになったら不自然だ…。

 それに出来れば、先にスマホに彼の写真を保存しておいて、「実は彼氏ができましたー」と、サプライズでみんなに報告したい。

 スマホを持つようになるためのきっかけになるような出来事が他にないかと考えた結果、わたしは間近に控えていた学期末テストに照準を合わせた。

「テストの結果が良ければ許可してもらえる約束なんだ」

 うん。これなら自然。

 そう思ったわたしは実際に両親にそのような約束を取り付けた。

 今までスマホを欲しがらなかったわたしのことを、「友達がいないのかもしれない」と心配していた両親は快く承諾してくれた。

 …今までは実際そうだったんだけど。

 でも今は違う。

 友達どころか恋人だってできちゃったんだから。

 しかも、わたしのあずかり知らないところで両親が感じていた心配事も解消されるなんて、一石二鳥とはこのことだ。

 わたしは俄然スマホが欲しくなった。

 ただ、一つ問題もある…。

「こりゃ、テストまでの残り時間は少し気合いを入れるしかなさそうだよ…」


 …そんなことを考えながらいつも以上に勉強に励んでいたある日のこと―――。

 クラスメイトたちの間で「中学校の卒業アルバムを持ち寄って見せ合おう」という話が持ち上がった。

 思えばこの日が、わたしの幸せな高校生活の“終わりの始まり”だった…。

「麻友も明日『卒アル』持ってきてね! ね?」

「中学時代のマユちゃんかぁ…。今と変わらず可愛いんだろうなぁ…」

「て言うか、麻友、どこ中だっけ?」

 そう言ってきた友人たちに、わたしは言った。

「みんな、ごめん…。わたし『卒アル』持ってないんだ」

 中学時代に良い思い出が何一つなかったわたしは、アルバムなど一度も開かずに処分してしまった。

「えっ、持ってないの? なんで! なんで?」

「マユちゃん、実は小卒だったりして。…通りで可愛い訳だよねぇ」

「んな訳ないでしょーが」

 そのやり取りを、わたしは、ひどく遠くの世界―――或いは、深い水の底で聞いているような感覚だった。

「まさか無くしちゃったとか?」

 友人の一人が言ったその言葉に、わたしは「実は…」とだけ答えた。

「あっはは。麻友も結構おっちょこちょいだね」

「どんまい! どんまいだよー?」

「マユちゃんは可愛いから許される!」

 友人たちに少しドジだと思われるくらいで済むのなら、どうと言うことはない。事情を話すよりはよっぽどマシだ…。

「一応探してみるけど、期待しないでね」


 それでこの話題からは解放されるはずだった―――。


 ところが友人の一人、上原夏美うえはらなつみだけは、どうしても見たいと言って聞かなかった。

 小柄で童顔な彼女はクラスの妹的な存在で、トレードマークのお団子ヘアが可愛らしい。

 元々人懐っこい性格の子だけど、何故かわたしのことが甚くお気に入りのようで、よく抱きついたりしてくるような“困った子”でもあった。

 あだ名は「ユリ原ユリ美」。

 女性同士の恋愛のことを「百合」と表現する(らしい)のが、その由来だ。

 わたしは普通に「上原さん」と呼んでいるけど、みんなからは、あだ名を更に縮めて「ユリリ」と呼ばれている。

 本気で同性愛者な訳ではない(と思う)けど、そう呼ばれるほど、わたしにべったりという訳である。

 彼女が駄々をこね続けていると、それを遠巻きに見ていた一人の生徒が「やれやれ…」といった様子で歩み寄ってきた。

 山野葵やまのあおいさんだ。

 山野さんはショートボブの黒髪と、いつもかけている黒縁のメガネがよく似合う子で、少しクールな印象が強い。

 例えば、クラスのみんながはしゃいでいるような時、彼女は積極的にその輪に加わるようなタイプではない。

 でも誰かがお馬鹿なことを言ったり、やったりすると、少し離れたところから的確なツッコミを入れてくる。

 そんな独特の距離感でクラスに馴染んでいる山野さんは、何事においても、いつも的確だ。

 授業で分からない箇所があった場合、休み時間に山野さんに聞けば、大抵は解決する。

 入試の成績がB組で6位という頭脳の持ち主である上に、説明やアドバイスの出し方が実に的確で分かり易いからだ。

 山野さんに悩み事を相談したお陰ですんなり解決できたという子もいる。

 上原さんとは対照的に、頼れるお姉さんのような存在で、クラスのみんなが彼女に一目置いていることは間違いない。

 そんな山野さんが上原さんに言った。

「そんなに言うなら、あたしのネット仲間の“つて”で、麻友と同じ中学出身の子、探してあげてもいいよ」

 上原さんは一瞬きょとんとしたけど、山野さんが「もし見つかれば、アルバムくらいなら借りられるかもしれないし」と続けると、物凄い勢いで詰め寄った。

「えっ、ヤマノちゃん、それ本当っ!?」

「絶対とは言い切れないけど。たぶん、なんとかなると思う…」

 なんでも、インターネットを介して遊ぶゲームや、チャットを通じて、全国に知り合いがいるのだとか…。

 それを知った時の上原さんの喜びようったらなかった。

「ありがとう! ヤマノちゃんは私の命の恩人だよっ!」

「命の恩人って…。言っとくけど、まだ約束はできないからね?」

「お礼に、ヤマノちゃんを、マユちゃんの次に好きな子に認定してあげるっ!」

「おい、人の話を聞けよ…」

 漫才のような二人のやり取りにクラスの雰囲気が和む。

 山野さんはわたしの方に向き直り、

「とりあえずそういうことになったんだけど、麻友、中学どこだっけ?」と聞いてきた。

 この流れでアルバム探しを拒否することは不自然に思えた…。

「えっと―――」

 わたしは自分の出身中学を伝えながら、不安を抱かずにはいられなかった―――。


 それから何日か経ち、山野さんから「なんとか借りられそう」という報告があると、上原さんは「楽しみ過ぎて死んじゃいそうだよぅ」などと宣っていた。

 わたしは内心ではひやひやしながらも、山野さんにお礼を言っておくことにした。

「山野さん、わたしがアルバム無くしちゃったばっかりにごめんね。でも借りられそうで良かったよ。…ありがとう」

「うん…別に」

 山野さんとは、もともと、そこまで深い交流があった訳ではない。けれど、わたしはこの時の彼女のよそよそしい態度が妙に気になった―――。


 更に数日後、山野さんがついに“それ”を持って登校してきた。

 休み時間、上原さんを筆頭としたクラスメイトたちが、わたしの席を取り囲んでいた。

 山野さんはいつも通り、少し離れた自分の席から、こちらの様子を伺っている。

 わたしの机に置かれたアルバムはまだ閉じられたままだ。

 高級そうな装丁が施された深緑色の表紙に目を落とすと、金糸で「希望」という言葉が刺繍されている。

 わたしは手が震えないように気をつけながら表紙を開いた。

 最初に校舎の写真と共に校歌が紹介されている。

 まだわたしとはなんの関係もないページなのに、誰からともなく「ほおぉー」という歓声が上がった。

 ゆっくりとページを捲っていく。

 わたしが何組だったのかは事前に話していたので、一つ前のクラスが終わる時、みんなの期待が一気に高まるのを感じた。

 そしてついに、そのページに辿り着いた。

 集合写真と共に一人一人の顔写真が掲載されている。

 顔写真は男子と女子が交互に配置されていた。

 クラスメイトは男女合わせて四十名。

 そのうちの十九名が女子生徒だった。

 ずらりと並んだ顔写真の中に“わたし”を見つけることは簡単だった。

 おそらく、みんなも、真っ先に“そこ”に目がいっただろう。

 わたしの顔写真には黒のマジックか何かで目線が書き足されており、まるで犯罪者のように顔が隠されていたのだ。

 そして写真の周りの空いたスペースには「ブス」とか「死ね」といった、いかにも稚拙な悪口と、口に出すのもはばかれるような卑猥な単語がびっしりと書かれている。

 教室内に沈黙が走った。

 山野さんとわたし以外の子たちは理解が追いついていないみたいだった。

 やがてみんなが事態を把握し、目に映ったものを“確かにあるもの”として受け入れ始めると、さきほどまでの満面の笑みが嘘のように不快の色に染まっていく。

「えっ…」

「なに…これ…」

「最悪」

 みんなはそれぞれ怒りや悔しさを顕わにしている。

 ふと、上原さんの様子を伺うと、彼女は泣きそうな表情で歯を食いしばっていた。

 みんな、この理不尽な仕打ちに対して、本気で憤りを感じてくれていた―――。


 それだけで、わたしは、十分だった。


 アルバムの持ち主が分からない以上、みんなの感情の矛先は、必然的に山野さんに向かうことになった。

「こんな酷いことする人から『卒アル』を借りるなんて…信じられない」

「山野さん、持ってくる前にちゃんと確認しなかったの!?」

「マユちゃんが可哀想だよぅ…」

「マジ最っ低!」


 わたしには、なんとなく、分かっていた。

 この後、どういう展開が待っているのか。


 山野さんほどの人なら、万が一にも間違っていたりしないように、必ず中を確認してから持ってくるはずだ。

 そして落書きに気付いた彼女が、アルバムの持ち主に対して抗議をしてくれたことも容易に想像がつく。

 その上で、山野さんがこのアルバムを持ってきたのは何故か―――

 それはきっと“アルバムの持ち主から、わたしの酷い噂話を聞き、それを信じてしまった”ということに他ならない。

「…最低なのは麻友の方だよ」

 山野さんのその一言でみんなの声はぴたりと止んだ。

 わたしはまるで他人事のように「嗚呼、やっぱりな…」と思った。


 わたし、やっぱり、また孤独な学生生活に戻るんだ―――


 山野さんはみんなに事の経緯を話して聞かせた。

 わたしは呆然とした状態で聞いていたので、正直、あまりよく覚えていない…。

 一つ言えるのは、わたしが立てた仮説は概ね間違ってはいなかったということだ。

 ただ、山野さんはわたしの酷い噂話を聞かされた時、すぐには信じなかった。そして、ここからが彼女の凄いところなのだけど、山野さんはわたしと同じ中学出身の子を他にも何人か探し出し、その子たちに事実確認を行ったというのだ。

 たぶん、山野さんは、わたしを信じたいからそういう行動を取ったんだと思う。

 …でも、それが逆効果になるということは明白だった。

 中学時代の誰に聞いたって、わたしのこを

良く言う人などいないのだから…。

 山野さんはわたしの過去の行い(すべて事実無根だけど)自体よりも、わたしが今までそれを隠し続けていたということがショックだったと言った。

 そんな卑しい人間が、今まで何事もなかったかのように平然と友達面をしていたということが許せないのだと。



         7

 公開処刑の日から何日か経った。

 やはり、と言うべきか、わたしの立場は日に日に芳しくないものになっていった。

 中学の頃に比べると、あからさまに避けられるような感じではなかったけれど、みんなどこか余所余所しい。

 クラスでも圧倒的な存在感と発言力を持つ山野さんに目をつけられてしまったのだから、こうなることは目に見えていた。

 でもそんな中、上原さんだけは今まで通りにわたしと接してくれようとしていた。

 わたしは彼女のその気持ちに心から感謝した。

 たまに抱きつかれるくらいで“困った子”などと思っていたことを申し訳なく思った。

 今は、むしろ、わたしから抱きしめて感謝の気持ちを伝えたいくらいだ。

 でも―――

 いや、違う。

“だから”

 わたしは自ら、上原さんを遠ざけることにした。


 このままでは、きっと、この子までクラスで浮いた存在になってしまう。

 妹のような存在であるこの子に、あんな―――中学時代のわたしのような、辛く、苦しい孤独など味わわせたくなかった。

 それにはわたしとの関わりを断つ以外に方法はない。

 しかし、そんなわたしの思いとは裏腹に、上原さんは以前にも増して積極的にわたしに絡もうとしてくる。

 心を鬼にして酷い言葉を浴びせようとも、冷たくあしらおうとも、彼女はそのスタンスを頑として変えなかった。

 罪悪感に押し潰されそうになっていたわたしは、ついに最後の手段に打って出ることにした。

 放課後、いつものように上原さんがわたしの席に近付いてくると、「みんなが帰ってから話したいことがある」と小声で伝えた。

 ほどなくして教室内はわたしと上原さんだけとなる。

 窓の外から陸上部のものらしき「ファイ、オー、ファイ、オー」という声が聞こえていた。

 そんな、ごくありふれた日常の一コマが、わたしには、どこか遠くの世界の出来事のように感じられた。

「マユちゃん…話って……何…?」

 しびれを切らした上原さんが不安そうな表情で聞いてきた。

 わたしは席を立つと、教室の後ろ側のドアまで歩き、振り返った。

 上原さんの目を真っ直ぐ見据える。

 覚悟を決めて、言った。


「山野さんが言ってた話は“大体”本当のことだよ」


 これだけは言いたくなかった。

 あんな根も葉もない酷い噂話を認めるなんて、絶対に嫌だった。

 まるで自分で自分を穢してしまっているような気がした。自尊心を傷つけてしまっているような気がした。

 この瞬間、わたしは自ら、自分自身を辱めたのだ。


 ―――けど、構わない。


 上原さんがわたしを嫌ってくれるのなら。…そして彼女がこれまでと変わらない学生生活を送ってくれるのなら。


 わたしが誰にどう思われようと構わない―――


 そう思っていたはずなのに…


 この期に及んで、わたしは「“全部”本当のこと」とは言えなかった…。

 やっぱり本音では“少しでも嫌われずにいたい”んだと痛感した―――

 わたしは踵を返し、上原さんが嗚咽する声を背中に受けながらドアを開く。

『ごめんね…上原さん』

 わたしの心の声と呼応するように、

「ごめんね…マユちゃん」

 上原さんの声が聞こえた。

 わたしは一度も振り返らずに教室を出ると、後ろ手でドアを閉じた。


 果たして、彼女の「ごめんね」が、何に対するものだったのか―――

 この時のわたしには分からなかった。



 こうして、わたしは再び友達と呼べる存在を失ってしまった。

 中学の頃のような『酷いあだ名』で呼ばれるような事態には陥らなかったけど、あの頃のような、孤独な学生生活がまた始まったのだ。

 正直、そういう境遇には慣れたつもりだった。また以前のように大人しく勉強に打ち込んでいればいいだけだと思った。

 でも、現実はもう少しだけ厳しかった。

 下手に一度普通の高校生活を手にしかけていた分、わたしの心は脆くなっていたのだ。

 その脆い部分は、以前なら特に気にならなかったような些細なことで簡単にえぐられる。

 例えば、休み時間に教室に響く、「元・友達」たちの楽しそうな声。

 ほんの少し前まではその輪の中に自分もいたのだと思うと、泣きたくなった。

 授業でつまづくことがあってもクラスメイトには頼れない。

 職員室まで足を運ぶのが、ここまで憂鬱になるなんて思わなかった。

 もともと難しそうだと思っていた「帰り道に友達とハンバーガーを食べに行く」というわたしの夢は到底叶うはずもなかった。

 学校では今まで以上に辛い気持ちで過ごしていたけど、その分を帳消しにしてくれるほどの大きな存在が、わたしにはあった。

 中学時代にはなかった、『恋人』という存在。―――その存在は、わたしにとって唯一の救いであり、心の支えだった。


 彼の通う男子校は、わたしの学校とは距離がある。よっぽどのことがない限りは、わたしの悪い噂を耳にすることもないと思う。

 もちろん、絶対とは言い切れないけど…。

 むしろ、そうなる前にわたしの方から話しておくべきなのだろうか…。

 山野さんはわたしが隠し事をしていたことがショックだと言っていた。

 確かに、友達や恋人(そして家族)には、できるだけ隠し事は少ない方がいいように思う…。

 ―――でも、わたしは、こうも思うのだ。

 友達や恋人だからと言って、何でもかんでも話さなければいけないのだろうか。

 思い出したくもない辛い記憶や、なかったことにしてしまいたい過去の失敗の一つや二つ、誰にだってあるのではないだろうか。

 すべてを包み隠さずに話すことだけが、本当に正しいことなのだろうか…。


 そんな風に葛藤していた日々の中で、わたしは、唯一の心の支えであったはずの恋人ととも別れることになってしまう―――。



         8

 ある日の朝、電車で彼と会えないことがあった。

 それは人身事故の影響で大幅にダイヤが乱れた金曜日のことで、乗る車両や時間が、うまく噛み合わなかったのだと思った。

 こういう時に連絡の手段がないのはやっぱり困る。

 まだスマホを買う予定であることは秘密にしていたので、月曜日に会った時に打ち明けようと思った。

 土日に会うことは、もともと無かったけど、その週は更に金曜日にも会えなかった。

 たったそれだけで、なんだか、とても長い期間会っていないような気がした。

 会えない期間が恋を育むという話をどこかで聞いたことがあるけど、それは、果たして本当だった。

 何故か無性に会いたくなった。

 早く声を聞きたいと願った。

 未だ未経験の行為を体験したいと思った。

 手を繋いだり、腕を組んだりしてみたい。

 抱きしめ合ったり、キスをしたり…

 それ以上のことにだって、興味は、ある。

 お姫様だっことか、壁ドンなんかは、さすがに現実的ではないと思うけど、ちょっとだけ憧れるなぁ…。

「どっちにしても電車内では何もできないん

だけどね…」

 スマホを手に入れたら、まずは、デートの約束をしよう。

 そんなことを考えながらも、週末は、間近に控えるテストのための勉強に明け暮れた。


 週が明けて、待ちに待った月曜日。

 未だかつて、ここまで月曜日を待ち遠しく思ったことはなかったと思う。

 久しぶりに(たかだか三日ぶりだけど)彼に会える。

 浮き足だった気持ちでホームで電車を待っていると、電光掲示板に『列車が参ります』と表示された。

 それだけで心臓がばくばくと早鐘を打ち、一気に緊張の波が押し寄せてきた。

 電車がホームに滑り込んで来た時には、もう、どうにかなってしまいそうだった。

 なんだか妙に恥ずかしかったので、わたしはうつむき加減で車内に乗り込んだ。

 ドアが閉まる。

 まだ顔を上げられないまま、いつも彼がいる場所へと向かう。

 電車が動き出すのと同時にわたしは顔を上げた。

 彼はいつもの場所で文庫本を読んでいて、わたしが近付いていくと本を閉じ、笑顔で迎えてくれる。


 ―――はずだったのに…。


 この日もわたしの好きな人の姿はどこにも見当たらなかった―――。


 そういう日が一週間ほど続き、やがて試験期間となった。

 わたしは「彼に嫌われるようなことでもしたのだろうか」「怪我や病気などしているのだろうか」と気が気じゃない心境で試験に臨んだ。

 当然だけど、試験はわたしの都合などお構いなしに滞りなく進み、あっという間に終わってしまった。

 わたしにとっては本当に「いつの間にか終わってしまった」という感じだった。それだけ試験に集中していなかったということなのだけど…。

 でもそれが逆に幸いしたのか、自己採点した限りでは、かなり“手応えあり”だった。

 もちろん、普段の勉強と試験前の追い込みがあってのことなのは言うまでもない。


 試験期間が明けて、再び月曜日。

 返された答案用紙を見て、わたしは両親からスマホを買ってもらえることを確信した。

「スマホ、手に入れてからの報告になっちゃうかも…。でも、もともとはそのつもりだったんだし、そっちの方がサプライズ感もあっていいよね」

 彼とはしばらく会えていないし、心配もある。

 でも、とりあえずの目標を達成したということにわたしは安堵した。


 あっという間に一週間が過ぎ、土曜日の昼間。

 わたしはスマホを買うために、母親と一緒に携帯ショップに来ていた。

 両親が使っているスマホと同じメーカーのお店だ。

 店内をざっと見回すと、様々な機種のスマートフォンが所狭しとディスプレイされていた。

 母と談笑しながら、その一つ一つを手にとって眺めたり、いじったりしてみる。

 すると、ここぞとばかりに店員さんが近寄ってきて色々教えてくれた。

 こちらから聞いた訳じゃないとは言え、散々説明してもらっておいてなんなんだけど…。

 別に多くの機能を必要としている訳でもないし、機種にも特にこだわりはなかった。

 結局、両親と同じ、最もポピュラーな機種を選んだ。

 最新型ではなく、一つ型落ちしたモデルなので、思った以上に安く買えてラッキーだった。

 買ってもらうとは言っても、あまり高額だったら申し訳ないので、内心ひやひやしていたのだ。

 ちょっとだけ面倒くさい新規の契約を済ませると、美人で笑顔が素敵な店員さんが初期設定をしてくれた。

 こういうところの店員さんって、なんか、かっこいいなぁ。

 受け取ったスマホは思っていたよりもズシリと重かった。

 メーカーのロゴが入った紙袋を下げ、母と一緒に店を出た後、近くのファミレスに寄ってお昼ご飯を食べた。

 パスタを頬張っている時も、スプーンでいちごパフェをすくっている時も、誰からも連絡など来るはずのないスマホを常に視界に入る位置に置いていた。

 家に帰ると、説明書を読んだり、実際にその操作をしたりして過ごした。

 自分のテンションが思っていた以上に上がっていることに少し笑ってしまった。

 買う前はさほど興味がなかったはずなのに、我ながら現金なものである。


 新品のスマホをスカートのポケットに忍ばせて迎えた月曜日の朝。

「あの、すいません。黛…麻友、さん?」

 いつも彼がいるはずの場所に知らない男子学生がいて、わたしと目が合うなり声をかけてきた。

 怪訝に思いつつも、その人が彼と同じ制服を着ていたので、彼からわたしのことを聞いているのだろうと思った。

「そう、ですけど…」

「俺、啓介の友達で、柴田って、言います」

 啓介というのがわたしの恋人だ。

 やっぱり何か聞いているらしい。

 柴田と名乗ったその人は、おそらくわたしに聞こえない声量のつもりで呟いた。

「マジかよ…。本当にこの車両で一番美人な子じゃないか……」

 空気を読んで聞こえないふりをして、用件を確かめる。

「なんのご用でしょうか」

 彼は一瞬、逡巡したようだったけど、意を決したように口を開いた。

「伝言があります…啓介から」

「伝言……ですか?」

「はい。でも、電車内ここで話すのは、ちょっと…」

「えっ…」

「申し訳ないんですけど…今日、学校サボれませんか? 次の駅で降りましょう」

 はっきり言って滅茶苦茶な提案だった。

 例え相手が恋人の友達だとしても、普通だったら絶対に取り合わないだろう。

 むしろ友達だということすらも怪しいくらいなのだ。

 変なことに巻き込まれる可能性だって十分ある。

 それでもわたしは彼に従うことにした。

 きっとこの人は悪い人じゃない。

 ついさっき、わたしのことを『この車両で一番美人な子』と評した時でさえ、この人は笑っていなかった。

 もし下心などがあるのならば、もっとへらへらしたり、にやにやと下卑た表情を浮かべたりするものではないだろうか。

 この柴田という人の目は、今までわたしが散々向けられてきた不快なものとは明らかに違っていた。

 だからきっと大丈夫…。

 甘い考えだとは自分でも思う。

 事件を起こす人間がもちろん一番悪いけど、巻き込まれる方にだって責任がある場合も少なからずあるとわたしは思う。

 これはきっと、その状況だ。

 でもそれを承知で付いて行くのだから、何かあっても自己責任だ。

 その時は大声を出して全力で逃げる努力くらいはしよう…。



         9

 まさかスマホで初めてかける電話の番号が学校のものになるとは夢にも思わなかった。しかも体調不良のふりをしてサボるためだなんて…。

 学費のことなどを考えると両親に対しての罪悪感を禁じ得ないけど、今回だけは大目に見てもらおう…。

 電車を降りた後、わたしは柴田くんと一緒に反対側のホームに停車していた電車に乗り込んだ。

 どうやら引き返すらしい。

 停車中の車内でも、走行し始めた後も、わたしたちの間に会話はなかった。

 この人は彼からどのような伝言を頼まれたというのだろう…。

 どうしても気になって、「あの…」と話しかけてみても、「後でちゃんと話しますから、今はとにかく俺を信じて付いてきて下さい」と言われただけだった。

 わたしの最寄り駅を通り過ぎる。

「電車代は俺が払います」

「別にそこまでして頂かなくても…」

「いえ、払います。啓介に後で何言われるか分かりませんから」

 この言葉を聞いた瞬間、何故か胸の奥がズキリと痛んだ気がした。

 最寄り駅を過ぎてから、だんだん知らない駅名が車内アナウンスから聞こえてくるようになる。

 目的の駅がどこなのかは、なんとなく察しがついていたけど、その駅まで後どれくらいなのかが分からない。

 さすがに少し不安だった。

 事前の下調べもなしに遠出をすることなどないわたしにとって、今のこの状況は、前人未踏の未開の地に足を踏み入れているようなものだった。

 車内アナウンスから次の停車駅の名前が聞こえてきた。

 聞いたことのある駅名だった。

「次で降ります」

 柴田くんがそう言った。

 やはりと言うべきか、当然と言うべきか、次の駅は啓介くんの最寄りの駅だった。


 その駅は、前に啓介くんから聞いていた話の通り、とても大きな駅だった。

 通勤・通学の時間帯はとうに過ぎていたからあまり人はいなかったけど、ピークの時間帯に大勢の人でごった返す光景が容易に想像できた。


 駅を出た後はバスに乗り(バス代も柴田くんが出してくれた)割りと大きな総合病院の前の停留所で降りた。

 啓介くんがどういう状況なのかはまだ分からなかったけど、おそらく、わたしが抱いていた悪い予感のうちの一つが当たってしまったことは間違いなさそうだった―――。



         10

 目の前のベットには啓介くんが寝かされており、かけられた真っ白な羽毛布団がわずかに上下していた。

 彼は意識不明の重体だった。

 一見、穏やかな表情で眠っているようにしか見えないけど、依然、予断を許さない状態らしい。

 そんな状態の本人を前にして、柴田くんから伝えられた伝言の内容は至ってシンプルなものだった。


 別れよう―――


 聞いた瞬間、涙が溢れた。

 そこが病室であることを忘れて泣きじゃくった。

 わたしの中にある様々な感情が次々と涙になって流れ落ちていく。

 たぶん、そうすることで、わたしは無意識のうちに心の均衡を保とうとしていた。

 どれくらい泣いていただろう…。

 しばらくすると、だいぶ落ち着きを取り戻し、涙もおさまってきた。

「もう…大丈夫、です」

 わたしが落ち着くまで病室の外で待っていると言ってくれた柴田くんに声をかけた。

 柴田くんが中に戻ってくると、わたしは彼にお礼を言った。

「ありがとう。…ここに、連れてきてくれて。啓介くんの気持ちを、ちゃんと、伝えてくれて…」

「別にお礼を言われるほどのことはしてないです」

「ううん。そんなこと、ない」

 もし、電車内で「別れよう」という伝言だけを伝えられていたとしたら、わたしは絶対に誤解していた。今まで恋人らしいことを何一つできなかったことなどが原因で愛想を尽かされたのだろう…と。

 仮に事情を説明された上で伝言を聞かされていても、たぶん、半信半疑だったと思う。

 この病室で“啓介くんを目の当たりにした状態で”聞いたから、なんの疑いもなく話を聞くことができた。

 なんの疑いもなく聞くことができたから、「別れよう」という、本来ならばネガティブな意味合いの強い言葉に込められた“啓介くんの本当の気持ち”に気付くことができた。

 そのたった五文字の言葉には、啓介くんの、わたしへの想いがすべて集約されている。

 きっと柴田くんもそのことに気付いていたのだろう。だから、わざわざ病室ここまで連れてきてくれたのだ。

 彼には感謝しなければいけないことがいくつもある。

 ここに連れてきてくれたこと。

 啓介くんの伝言を伝えてくれたこと。


 そして、あの日、啓介くんの身に何が起きたのかを教えてくれたこと。


 人身事故でダイヤが大きく乱れたあの日、柴田くんは、啓介くんが中年の男性に突き飛ばされるところを目撃していた。

 その時、ちょうどホームに電車が入ってきて、啓介くんは車体の側面に激突したのだそうだ。

 電車はまだ結構なスピードが出ていたらしく、啓介くんの体は凄まじい勢いではじき飛ばされた後、ぴくりとも動かなくなった。

 少しでもタイミングが早ければ、おそらく、啓介くんはそのままホームに落ち、電車に轢かれて即死だっただろうとのことだ。

 駅構内は一瞬で騒然となった。

 柴田くんは『死』という最悪の事態を想像しつつも、彼の元へと駆け寄った。

 おびただしい量の出血により真っ赤に染まった啓介くんは、それでも、わずかに息をしていた。

「啓介! 大丈夫か! おい! しっかりしろ!」

 柴田くんが呼びかけると、啓介くんは苦しそうに呻いた後、少しの間だけ意識を取り戻したそうだ。

「し…ばた…。すま…な…い……けど、でん…ご…ん、を…」

「伝言?」

「…た、のむ…。ぼ…くの、彼女……に」

「彼女…。いつも言ってる黛さんのことだな?」

 啓介くんは力なく首肯した後、ふと笑ったそうだ。

 そして伝言の内容を告げた後、彼は再び意識を失った。

 それから今日こんにちに至るまで、彼が目を覚ましたことはない。

 後に柴田くんが新聞やネットのニュースなどで知った情報によると、相手の男性とはその少し前から口論になっていたらしい。

 複数の目撃情報から、啓介くんは一方的に因縁をつけられていたということが分かっている。

 事件直後に男性は駅の係員によって取り押さえられ、現行犯逮捕となった。

 その後の裁判などについては、よく調べていないので分からないと言われた。

 本当に調べていないのか、それとも、調べた内容に納得できずに話したくないだけのか、真意は分からない。

「啓介の伝言は確かに伝えましたけど、俺は正直、このまま啓介と別れるなんてしてほしくないです」

 柴田くんはどこまでも真っ直ぐな目をしてそう言った。



 あの後、どうやって家まで帰ってきたのかはよく覚えていない。

 眠ったままの啓介くんに「うん。分かったよ…。別れよう」と告げ、病室を後にしたところまでは覚えている。

 本当は別れたくなんてかった。

 啓介くんの回復を願っているし、それまで待ち続けたいと思っていた。

 それでも結局、わたしは柴田くんから提示された「啓介くんと別れない」という選択を断った。

 他にも思うところは色々あったけど、主な理由は二つ。

 まず、啓介くんの意思を尊重したかったということ。

 なぜ、あのタイミングで、あのような伝言をわたしに残したのか―――。

 わたしには彼の気持ちが痛いほどよく分かった。

 だからその意思を汲んであげたいと思ったのだ。

 もし、それだけが理由だったのならば、たぶん、わたしは彼の意思よりも自分の意思を尊重し、わがままを押し通したと思う。

 柴田くんにも「最初から、別れるつもりなんてありません」と言い切っただろう。

 でも二つ目の理由がそれをさせなかった。

 そもそも、彼の意思より自分の意思を尊重する権利など、わたしにはない。

 わたしは上原さんに対して同じことをしているのだから…。

 つまり、こういうことだ。

 啓介くんがわたしに「別れよう」と言ったことと、わたしが上原さんを遠ざけようとしたこと―――それらはきっと、同じ理由で行われた。


 相手のことが好きだから。大切だから。


 だからこそ、関わるのを止めなければならなかった。

 きっと啓介くんは意識を取り戻した僅かな時間で、この先、自分がただでは済まないということを悟ったのだろう。

 もしかしたら『死』を覚悟していたのかも知れない。

 そしてそんな状況にも関わらず、彼は「黛さんの重荷にはなりたくない」と考えた。

 だから、敢えて別れ話を持ちかけて、自分のことを忘れさせようとしたのだ。

 咄嗟にそんなことを考えるなんて、とても彼らしいと、わたしは思う。

 もちろん、わたしはそれで『重荷』だなんて、これっぽっちも思わない。

 あの時の上原さんも同じ気持ちだったのだと思う…。

 彼女は、例えクラスのみんなに相手にされなくなっても、わたしと友達でいたいと本気で思っていてくれたのだ。

 当時のわたしには分からなかった、あの時の「ごめんね」の意味がやっと分かった気がする―――。

 あれはきっと、“わたしのためにそこまで言わせちゃって”「ごめんね」だ。

 今更そんなことに気付いても、もう何もかもが遅かった。

 上原さんにしてしまったことを考えると、わたしは、啓介くんの意思に反することなどできなかった―――。



         11

 啓介くんに別れを告げた日から大体一年くらいが経過した頃―――わたしは、ふと思った。


 死のう、と。


 それは本当に唐突で、本当に何気ないことのような思いつきだった。

 例えるなら、暇だから本屋に行って立ち読みでもしてこよう、みたいな発想だった。

 その一年間は目的も楽しみも一切なく、なんとなくで勉強をするだけの毎日が続いていた。

 一年前、学校に仮病の電話を入れて以来、スマホを使うことはほとんどなかった。

 それでも一応充電がなくならないように、週に一度か二度、ただただ作業的にコンセントに繋ぐだけとなっていた。


 わたしの何がいけなかったというのか。


 どこで人生の歯車が狂ってしまったのか。


 何に対して憤りを感じればいいのか―――


 わたしには分からなくなっていた…。

 不思議と、誰か(例えば、小学生の頃にわたしを陥れた子)に対しての恨みや憎しみといった気持ちは薄れてしまって、ほとんど感じなかった。

 たぶん、どうでも良くなっていたのだと思う…。

 上原さんの件に関しては、後悔が全くないと言えば嘘になってしまうけど、彼女がわたしのような立場にならずに済んだことは本当に良かったと思っている。

 啓介くんとのことに後悔は一切ない。

 後悔なんて、してはいけないと思う。

 人にどう思われようとも、わたしたちなりに心が通じ合えたと信じている。

 後はここまで育ててくれた両親に対する申し訳ない気持ちがあるくらいだった…。

『遺書』は五分で書き終えた。

 大学ノートのページを切り取ったものに、「冷蔵庫にプリンが入ってるので食べて下さい」くらいの気軽さで両親への謝罪を綴っただけのシンプルな遺書だった。

 他に遺しておきたい言葉など、わたしには何もなかった。

 どうせ一人で死ぬのなら、ひっそりと逝きたい。

 できれば緑に囲まれたような落ち着く場所で、なるべく静かに人生を終えたい…。

 そう思った。

 子供の頃に何回か行ったことがある『裏山』が打って付けだと思った。

 昔は子供の遊び場になっていたりしたけど、ある事故がきっかけとなり、今はほとんど人が近寄らなくなったと聞いている。

 わたしのために泣いてくれるような友達はいない。

 上原さんは泣いてくれるかもしれないと思うけど、わたしたちは、もう、“友達ではない”のだ。

 だから、友達の代わりと言ってはなんだけど、せめて自分で自分の死を悼んであげようと思った。

 こんなわたしでも、今まで自分なりに頑張ってきたのだから、それくらいはしてあげてもいいんじゃないだろうか。

 そんな風に思った。

 本当は喪服を着て裏山に行きたかったのだけど、さすがにその格好で出歩く勇気はなかった。

 本気で死ぬつもりだったはずなのに、世間体を気にしていたなんて、今思うと滑稽な話だと思う。

 わたしはなるべく黒い服を着ることで喪服に見立てることにした。

 クローゼットから適当に引っ張り出したので、ファッションセンス的にはアウトだったかもしれないけど、それなりに“っぽく”なっていたと思う。

 荷造りなどに使うビニール紐を近所のホームセンターで購入すると、わたしは裏山に向かった。

 まるで遠足にでも行くかのような軽やかな足取りだったのを覚えている…。


 裏山に着くと、わたしはなるべく奥まった場所へと歩みを進めた。

 鬱蒼とした森のような景色がずっと続いていたけど、ふいに、木が生えていない小さな空間が現れた。

「ここにしよう…」

 そう思って、ポシェットに入れておいたビニール紐を取り出そうとしたその時―――

「にゃー」


 にゃー?


 下から猫の鳴き声が聞こえてきた。

 足下に視線を巡らせると、いつの間にか一匹の猫がいる。黒猫だ。

 いつからいたのかは分からないけど、踏んづけたりしなくて本当に良かった…。

 見上げるような格好でわたしと目が合った猫は、わたしの足にすりすりとすり寄ってきた。

「にゃー」

 すりすり。

 くすぐったい…。

「にゃー」

 すりすり。すりすり。

 とてもくすぐったい…。

「にゃー」

 す―――

「こらぁ、くすぐったいよぅ」

 堪らず、かがんで、猫ちゃんに訴える。

 猫ちゃんはどこ吹く風といった様子だ。

「お返しだっ☆ このこのぉ~☆」

 …なで回した。

 野良猫かとも思ったけど、こんなに懐いてくるし、とても綺麗な毛並みをしているから、飼われているのかも。

 どうやら雌猫のようだ。

 彼女は気持ち良さそうに、わたしにされるがままになっている。


「ふふっ」


 それはごく自然に出た笑みだった。

 こんなに自然に笑ったのは、いつ以来だろう…。こんなに幸福な気持ちになったのは、いつ以来だろう…。

 死を覚悟していたはずのわたしが、幸福な気持ちに包まれて、自然と笑みを零している―――

 それがとても愛おしいことのようにわたしには思えた。

「ねぇ、猫ちゃん。わたしは、どうすれば良かったのかな…?」

「にゃ」

「そっかぁ。分からないかぁ」

「にゃー」

「わたしね、友達も、恋人も、いなくなっちゃったんだ…」

「にゃー」

「猫ちゃんがお友達になってくれる…?」

「にゃ」

「えぇー、駄目なのぉ?」

「にゃー」

「じゃあ、他に誰か、わたしと友達になってくれる子を紹介してくれない?」

 などと言いながら、しばらくの間、猫ちゃんと戯れていた。

 好き放題にこねくり回していると、やがて満足そうに「にゃー」と一鳴きした猫ちゃんは、わたしから離れてしまった。

 彼女はそのまま背中を向けて歩き出す。

 わたしには、その猫らしいきまぐれさが、とても自由なものに見えて羨ましかった…。

 もし、わたしに次の『生』があるのなら、あの子みたいな猫になって、今よりももっと自由に生きてみたい…。

 そんなことを思った。

 もっとも、猫には猫なりの大変な『猫生』があるのかもしれないけど。

 立ち去る猫を見送った後、わたしは自分がここに何をしに来たのかを思い出した。

 黒いポシェットの中にはビニール紐が入っている。当然だ。先程までと何も変わっていない。

 なのに、どうしてだろう…。

 わたしは急に怖くなった。


 自分がしようとしていたことが―――。

『死ぬ』ということが―――。


 涙が浮かんだ。

 景色がぐにゃりと歪み、視界が不明瞭なものとなる。

 零れ落ちた滴が頬を伝うと、まるでそれに呼応するかのように、わたしの中で様々な記憶がフラッシュバックする。

 わたしがこれまで体験してきた出来事が、走馬燈のように浮かんでは消えていく。

 その多くは学校での嫌な思い出と、孤独なだけの毎日だった。

 だけど。

 それでも。

 僅かに良い思い出もあるということに、わたしは気付いた。

 例えば、小学生の頃―――。

 まだクラスで浮いた存在になる前は男子に混じってドッジボールをしていた。校庭に向かう時、或いは、校舎に戻る時、途中にある中庭で花壇に咲いた花を見るのが楽しみだった。

 例えば、ほんの一年前までの充実していた高校生活―――。

 勉強に明け暮れながらも、常に会話のネタになるような出来事を探していた。友達との会話の仕方を忘れていたわたしにとって、それはとても難しく、でも、とても楽しいものだった。

 人生初の恋人だってできた。

 電車内だけで逢瀬を重ねるようなわたしたちの関係は、一般的には恋人と呼べるようなものではなかったかもしれない。けれど、周りの迷惑にならないように常に小声で会話をするのがわたしは好きだった。二人だけの秘密を共有しているような感じがして、より親密になれた気がしたんだ。

 それらは、もう、すべて失われてしまった。―――そしておそらく、今から元の状態に戻すことはとても難しい。

 でも、だからと言って、そうなる以前の充実した毎日が夢幻ゆめまぼろしだった訳では決してなかった。それらは嘘偽りなく、確かに存在していた日々なんだ。

 ついさっきまで、わたしはそのことを忘れていた。

 自分の人生には良いことも、幸せなことも、何一つなかったと思っていた。きっとこれから先もそうなのだと絶望していたから、生きる意味を見出せなくなっていた…。

 ―――でも。そんなことはなかったんだ。

「わたしの人生に幸せがなかったなんて、大間違いだ…」

 ついさっきだって、あったじゃないか…。

 猫ちゃんと戯れながら“こんな幸福な気持ちになったのは”って思ったじゃないか。

 思い返せば、そんな、何気ないけど、素敵な瞬間はいくらでもあった。

 最近なら、母親と携帯ショップでスマホを買って、帰りにファミレスで食事をした、あの日だ。

 母と二人で出かけるのなんて本当に久しぶりで、少しだけ気恥ずかしい気持ちもあった。でも、母はとても嬉しそうにしていたし、わたしもちょっとだけ親孝行ができた気がした。そして確かに思ったんだ。―――たまにはこういうのも…いいものだなって。

 きっと、そういう何気ない幸せに気付くことができたから、わたしは急に『死』というものが怖くなった…。

 そんな簡単な―――だけど、とても大切なことを、まさか猫ちゃんに教えられるなんて…。

 この時、わたしの中で何かが吹っ切れた。

 まるで自分が別の誰かになったかのように清々しい気分だった。

 ううん。ちょっと違うな。

 別人になったんじゃなくて、きっと、本来の自分に戻ったんだ。まだ悩みなど何もなかった頃の自分に―――

「あの猫はわたしの恩猫だね…」

 今の自分なら、上原さんや、山野さん、その他のクラスメイトたちとも向き合える気がした。

 次に教室に行った時にちゃんと話をしてみよう…。

 それでどうなるかは分からない。

 事態が悪化する可能性だって十分ある。その確率の方が高いんじゃないだろうか。

 でも、例えそうなったとしても、このまま何もしないでいるよりは、よっぽどマシな気がした。

 もう、さっきまでの『死ぬつもりだったわたし』は、いなくなっていた。

“彼女”がわたしの一部であったことは決して忘れてはいけない。

 そう、わたしは肝に銘じた。

 ふいに気配を感じたので、俯きがちになっていた顔を上げ、ゆっくりとそちらを向く―――

「!」

 声や表情には出さなかった(と思う)けど、わたしは内心、かなり驚いた。

 男の子がいたのだ。

 知らない男の子。

 わたしのことをジッと見つめている。

 どういう訳かは知らないけど、固唾を呑んで見守っている―――そんな様子だった。

 なんで裏山(こんな所)に人が…?

 ここに足を運ぶ人なんて皆無だと思っていた。

 一番有り得そうなのは、土地の所有者(の家族)とか…?

 わたしが立っているこの場所を含め、裏山が、多少なりとも手入れされていることは分かる。今日はその手入れのタイミングだったのかもしれない。

 もしかしたらこの少年―――たぶん、わたしと大して変わらない年だと思うけど―――この人が“わたしの第一発見者”になっていたかもしれない…。

 小説などで聞くような別の世界パラレルワールドというものが、もし本当にあったとしたら、わたしが死んだ世界の彼は、今日、わたしを発見したことでどんな思いをするのだろう…。

 そう思うと心が痛んだ。

 どんな『死』にも、決して、人と関わらずに済むということはないのだ。

 それにしてもこの少年は何者なのだろう。

 もし仮に土地の関係者だったら、わたしを注意するなりなんなりすると思う。

 他に考えられそうな、こんなところに来る理由―――

 まさか、さっきまでのわたしと同じ目的…ではないと思うし、思いたくもない。

 そうなると…うーん。

 うーん、うーん…。

 ―――あっ!

 はたと閃いた。

 ひょっとして、

 さっきの猫ちゃんが本当にわたしのお願いを聞いてくれたんじゃ…


『猫ちゃんがお友達になってくれる…?』

『にゃ』

『えぇー、駄目なのぉ?』

『にゃー』

『じゃあ、他に誰か、わたしと友達になってくれる子を紹介してくれない?』


 我ながら、有り得ない馬鹿みたいな考えだと思う…。

 でも―――

 そんな馬鹿みたいなものに賭けてみたいと思った。


 ちなみに、後から聞いた話では、この時、コウくんは追いかけていた“黒猫”を見失ってしまい、散策しているうちにわたしを見かけたらしい。

 だから“彼女”がコウくんを連れてきてくれたというのも、あながち間違ってはいないのかもしれなかった。

 もちろん、この時のわたしは、そんなこと知る由もないのだけど…


 よし、思い切って声をかけてみよう。

 …

 ……

 ………

 と、覚悟を決めたのはいいものの…。

 もし本当にさっきの猫ちゃんが紹介してくれたのだとしたら、

『この人、普通の人間なのかな…。実は猫が人の姿に化身してたりしない?』

 …ただでさえ有り得ない馬鹿みたいな考えなのに、いくらなんでも飛躍し過ぎてる…。

 そう思っていても、心のどこかでは考えちゃうんだ。

『もしも、本当にそうだったとしたら…?』

 どうしよう…。

 この人はこの人で、なんだか知らないけど、さっきからちっとも動かないし…。

 とりあえず、このまま沈黙が続くのは良くない気がする。

 って言うか、普通に気まずい。


 よ、よし。


 とにかく挨拶してみよう。


「にゃあ」


 ―――って、

 まさかの“猫設定”の方で挨拶しちゃったわたしは、なんて愚かなんだろうッ!

 しかも、全然猫っぽくなく、はっきりと「にゃあ」って発音しちゃったし。

「………」

 さっきまで張り詰めたような表情だった少年は明らかにポカンとしている。

 ええいッ! ままよッ!

「にゃあ」

 わたしは自分のしでかした失態を失態でなくするために、強引に押し切る作戦に出る。

 少年は呆気にとられた表情のまま言った。

「…えっ、何?」


 ですよねー。


「だから、にゃあ。だってば」

 その後、「そっちがわたしのことを猫の化身だと思ってたはずだ」と、罪(?)を擦り付け、勢いで自己紹介までしてしまった…。

 ちなみに、この時の自分と学校での自分との間に、だいぶギャップがあるように感じるけど、さっきも思ったように、たぶん、こっちが本来の“素のわたし”だ。

 その証拠の一つが、この時になって自然に口をついて出た「えへん」だ。

 実はこの言葉は、子供の頃のわたしが大好きだったフレーズであり、口癖でもあったのだ。

 まだわたしが小さかった頃は、夏休みなどの長期連休の間、両親の仕事の都合もあって、親戚の家に預けられることがあった。

 当時のわたしにはそれが普通であり、そのこと自体にはなんの不満もなかった。

 ただ、年の近い親類がいなかったため、少し退屈であったことは事実だ。

 それを察した親戚のお兄さんが、ある時、DVDでアニメを見せてくれたことがある。

 当時のわたしには難しくて、正直、内容はよく分かっていなかったけど、わたしはそのアニメのヒロインが大好きだった。

 いつも明るくて、みんなを笑顔にさせるような素敵な女の子で、わたしも大人になったら、こんな人になりたいと思っていた。

 確か青い髪をしていて、『ユリカ』という名前の子だったと記憶している。

 そのヒロインの女の子がアニメの第一話の中で言った「えっへん!」というフレーズがお気に入りだった。

 お兄さんにお願いして、そのシーンを何回も見せてもらったのを覚えている。

 最初は言い方を真似しているだけだったのが、徐々に日常の会話の中でも使うようになり、やがて口癖となった。

 後にコウくんに指摘されたように、意味は関係なく、ただ、言いたい時に言っていたという感じだ。

 自己紹介をする流れで自然と出た「えへん」だけど、それでもやっぱり、子供の頃のように無邪気には言えなかったみたい…。

 高校生にもなれば当然だと思うけど、心のどこかに羞恥心があったようだ。

 その結果、(自分では実際にどうなっていたのかは確認できないけど)たぶん、表情が変になったりしたのだろう。

 それをドヤ顔だと思われていたことが判明するのは、もう少し経ってからの話だ。



         12

 あれから本当にコウくんとの交流が続くなんて、わたしにとっては奇跡としか言いようがなかった。黒猫ちゃんがくれた奇跡。



         13

 コウくんのことは、我ながら、だいぶ振り回しちゃって申し訳ないと思っている。



         14

 神社でのゴミ拾いの一件は、コウくんに出会った日から「いつか必ずやろう」と思っていた。もちろん、ゴミ拾いだけが目的じゃなくて、参詣の方がメインね。

 あの日、わたしが神様に伝えたかったことは二つ。

 一つ目は言わずもがな。

 黒猫ちゃんとコウくんに出会わせてくれたことへの感謝の気持ち。

 そして、二つ目は、謝罪。―――自分の人生を一度は諦め、愚かにも、自尽という道を選ぼうとしたことに対する謝罪だ。

 わたしは特に信心深いという訳ではないけど、大抵の人がそうであるように、自分にとって都合の言い時、もしくは悪い時にだけ、一時的に神様の存在を信じることがある。

 普段は神様なんて意識すらしていないはずなのに、神頼みをしたり、何か嫌なことが起きると、つい、神様のせいにしたりするような信心(という言い方は適切ではないと思うけど)は、誰でも持ち合わせているのではないだろうか。

 世の中にある様々な宗教において、自殺というのは大罪に当たる。…らしい。

 だとすると、神様は、もう少しで罪を犯すところだったわたしを怒っているかも知れない…。

 もうそんなつもりは一切ないのだということをちゃんと伝えたい。謝りたい。

 そして、ただ謝るだけではなく、何か行動で示したいと思った。

 それで思いついたのが、神社の周辺と境内の清掃活動だったという訳。

 そんなことをしたところで、単なる自己満足にしかならないということは分かっていたけど、結果、やって良かったと思っている。

 自分の中では“けじめ”をつけられた気がするし、何より、やってて楽しかった。気持ち良かった。

 付き合わせちゃったコウくんには悪いことをしたけど、思っていたよりも悪い気はしていないようだった。

 あの時社務所でもらったお菓子は、今まで食べたどんな御馳走(と言うほど御馳走を食べる機会もなかったけど)よりも美味しく感じられたなぁ。



         15

 コウくんと映画を見に行った。

『イマジナリー』という映画だ。

 実はあの作品自体が特に見たかったという訳ではなくて、“男の人と二人だけであの作品を見る”ということが重要だった。

 啓介くんと別れることになったあの日、彼の親友である柴田くんから「何かあった時のために一応」という申し出があり、連絡先を交換しておいた。

 その後、特に連絡を取るようなことはなかったけど、啓介くんとの決別の日から半年ほどが過ぎた頃から、柴田くんから頻繁にメールが届くようになった。

『黛さんにもう一度会いたいです』とか『良かったら二人でどこかに行きませんか?』といった類いの内容で、わたしはそれらの誘いの一切を断り続けていた。

 そんなある日、彼からこんなメールが届いた。

『うちの高校で流行ってる『イマジナリー』っていう映画があるんですけど、良かったら見にいきましょう』

 わたしはいつものように誘いを断った。

 断れば、柴田くんはいつも案外あっさり引いてくれる。あまり「しつこい」とは思われたくなかったのだろう。

 ところが、何故かこの時は引き下がってくれなかった。

 誘いと断りのやり取りを何回か繰り返すうちに、わたしはつい『実はもう先約があるんです』と言ってしまった。

 そして、この機会にキッパリ諦めてもらおうと思ったわたしは、『相手は新しくできた彼氏なんです』と嘘を重ねてしまったのだ。

 そのメールに対する柴田くんの返信は、『たった半年かそこらで新しい彼氏なんて…』というものだったけど、わたしを口説こうとしているであろう彼にそれを言われる筋合いはなかった。

 話はそれだけでは済まなかった。

 柴田くんは有ろうことか、わたしの新しい彼氏を見るまでは納得しないと言ってきたのだ。

 柴田くんからのメールを拒否するとか、登録自体を削除するという措置も考えた。

 でも彼とは朝の電車で鉢合わせする可能性もある。「無視」に当たるような行為は悪手であると思った。

 引き下がれなくなったわたしは、咄嗟にコウくんに協力してもらうことを思いついた。

 わたしたちは二人とも恋愛に対しては消極的だ。

 詳しい内容は省くけど、コウくんは過去に恋愛で苦い思いをしていて、それが影響している。わたしがそうなった理由は言うまでもないだろう。

 映画に誘って変に気を遣わせてしまわなくて済むのはコウくん(かれ)くらいだった。そもそも男の子の知り合いなんて他にいないのだけど。

 とにかく。

 コウくんと二人で映画を見に行けば、端から見ればデートに見えるはずだ。

 利用するようで申し訳ない気もしたけど、背に腹は替えられない。あくまで友達として映画に誘うのであれば何も問題はないだろうと割り切った。

『デートの邪魔だけは絶対にしないでほしい』と断った上で、柴田くんに場所と日時を伝えた。

 肝心のコウくんとは約束する前なので不安しかなかったけど、先約があると言ってしまった以上、日程が決まっていないとは言えなかった…。

 もしコウくんに断られるようであれば、その時は別の手を考えるしかなかった。

 いざコウくんを誘う時にはとても緊張した。彼が了承してくれた時、ほんの少しの罪悪感もあったけど、わたしはこれ以上ないくらいの安堵を覚えた。

 裏ではそのような事情があった『映画デート』の当日―――

 最初の方こそ、どこかで柴田くんが見てるかもしれないと思うと気が気ではなかった。

 でもそんなことは、コウくんと一緒にいるうちにすっかり忘れてしまい、わたしはいつの間にか本当に『デート』を楽しんでいた。

 実際、柴田くんがどこからどこまで見ていたのかは分からない。

 もし、一部始終のすべてを見ていたのだとしたら―――さすがにちょっと引くかも…。

 とりあえず、夜にメールが来て、わたしのことは諦めると言ってくれたので、見ていたことは確かみたい。柴田くんがどこに住んでいるのかなんて知らないけど、真相を確かめるために結構な遠方から来ていたのだろうから、ご苦労なことだと思う。

 この日を境に柴田くんからのメールはぴたりと止んだ。果たして彼は粘着質なのか、潔いのか、わたしにはさっぱり分からない…。そして探偵か何かになればいいと思った。

 本当に素敵な思い出となったあの日、わたしにとって特に良かった出来事は、

 コウくんとのデートを満喫できたことと、柴田くんとの関係を整理できたこと。

 あと二つある。

 一つ目はデート中にハンバーガーを食べたこと。

 シチュエーションはだいぶ違うけど「友達とハンバーガーを食べたい」という夢は叶えられたと言っていい。

 コウくんは特に考えもなくファストフードを選んだのだろうけど、わたしは内心、かなり舞い上がっていた。

 コウくんの真似をして頼んだテリヤキバーガーはとても美味しかった。たぶん、それ自体の美味しさ、プラス、わたしのテンション分の美味しさが上乗せされていたと思う。

 慣れていないわたしには、食べるのが結構難しかった。おそるべしテリヤキバーガー。

 悪戦苦闘するわたしに、コウくんはやけに上機嫌だったように思う。馬鹿にしたりするような感じではなかったけど、一体何を思っていたんだろう…。

 本人に聞いたことはないから、今も、そしてきっとこれからも謎のままだ……。

 残る一つの良かった出来事は、全く予想だにしていないものだった。

 なんと、コウくんの妹さんである、神崎ゆうかさんとメル友になったのだ。

 まさに青天の霹靂。寝耳に水である。

 フードコートの近くにあるドーナツ屋さんでアルバイトをしていた彼女は、わたしとコウくんがデートをしているのを偶然見かけ、コウくんが席を外した隙に声をかけてきた。

 ゆうかさんに言われた通り、ドーナツを買いに行こうとすると、コウくんは、ドーナツが苦手だと言って同行を断った。

 妹さんには知られたくなかったみたい…。わたしはちょっとだけ寂しかった。

 それでも「待ってるから一人で行ってきていいよ」と言ってくれたコウくんは優しいと思う。とても。

 ちなみに、後からゆうかさんに聞いた話では、コウくんは本当はドーナツが大好きらしい。

 余ったドーナツをお土産に持って帰ると、「ゆかがドーナツ屋でバイトしてることには心から感謝している」などと、冗談交じりに言われると言っていた。

 ゆうかさんのレジ打ちのもと、いくつかのドーナツ(セール対象外のものもあったけど、お友達価格で安くしてもらった)を購入したわたしは、休憩に入るという彼女と一緒にイートインスペースに向かった。

 その時はコウくんを待たせていたのであまり長くは話せなかったけど、まさかの、連絡先を交換するという流れになった。

 コウくん本人とも交換していなかったのに、なんだか不思議だった。

 その後、彼女とは少しずつメールのやり取りをするようになって、その関係は今でも続いている。

 わたしは、ゆうかさんはどことなく上原さんに似ていると思っている。わたしを慕ってくれているのがよく分かるし、本当に妹みたいに感じているからだ。


 あの映画デートが良いことずくめだったかと言うと、実はそうではないこともあった。


 あ、いや。別に嫌なことっていう訳ではないんだけど…ただ、なんていうか―――ごにょごにょ。

 うん。誤魔化し切れないよね。知ってた。

 えー、こほん。

 簡単に言うなら、一つ誤算があったんだ。

『イマジナリー』は、少しは見たことがあったけど、実際、そこまでちゃんと見ていた訳ではなかった。勉強しながらだったり、眠気と戦いながらだったから。

 しかも、わたしが見ていたのは、いわゆるゴールデンタイムに放送された“テレビ用に編集されたもの”であり、お子様が見てはいけないシーンのほとんどはカットされていたらしい…。

 この事実は後で知って愕然となったのだけど、映画デートの時には、そんなこと、つゆとも知らなかった。

 色っぽいムーディーな雰囲気から徐々に情熱的になっていったとはいえ、まったく予期していなかった“イケナイシーン”に、わたしはなんとも説明できない変な気持ちになっていた。

 何気なくテレビを見ていたら、ちょっとえっちなシーンが流れて、家族との間に微妙な空気が流れたという経験はあるだろうか。

 少なくとも、その感覚とは明らかに違う気持ちだった。

 すぐ隣に男の子(恋人ではない)がいる状況で、突然あの場面を見せられたら、どうしたって意識してしまう。

 わたしの脳内では様々な疑問や憶測が飛び交い、それはもう、大騒ぎになていた。

 コウくんはこういうシーンがあるって知ってたのかな。わたしも知ってたと思ってるのかな。その上でわたしがこの映画が好きで彼を誘ったと思われるのは少し恥ずかしい。コウくんはわたしと見ることに抵抗とかなかったのかな。ほんの数分程度のシーンだったけど結構すごかったよ? R18指定にした方がいいんじゃないかと思うほどだったよ? なんであれでR15指定なんだろう。恋愛に消極的とは言ってもコウくんだって男の子なんだから願望くらいはきっとあるよね。そういうシーンを女の子と一緒に見てなんとも思わないのかな。相手がわたしだからなのかな。わたしのことを女の子として見てないってことなのかな。確かに恋愛感情がないのはお互い分かってることなんだけど。コウくんはわたしのことをどう思っているんだろう。わたしとあんな情熱的なことをしたいって思ったりするのかな。それともまったく興味がないのかな。そもそもわたしはどっちと思われたいのだろう。そしてわたしはコウくんのことをどう思っているのだろう―――。

 ―――というようなことを考えていたので、自分がどのような態度で件のシーンを見ていたのか、正直、全然記憶にない。口を半開きにしてぽかーんと見ていたのかもしれないし、前のめりになって食い入るように見ていたのかもしれなかった。

 なんでR15指定なのかは未だに謎だけど、柴田くんの学校(男子校)で流行る理由の一つなんだと思った。



         16

 コウくんの家に行く約束を(半ば強引に)取り付けた。

 彼が以前話してくれた、庭にあるという置物を見せてもらうためだった。

 見るだけという約束だったので、遊びに行くのとは違うけど、男の子の家に行くなんてやっぱりちょっとドキドキした。

 そのことをゆうかさんにメールで報告すると、ゆうかさんは『偶然のふりして鉢合わせしちゃいます?♪♪♪』と、メールでも伝わるほど楽しそうに提案してきた。

 その提案にはさすがに悪戯心が疼いたけど、「君が早く帰らないからだ」などとコウくんが不貞腐れてしまうかも知れないし、

『ゆうかさんのことは、お兄さんからキチンと紹介してもらいたいな』

 と思ったので丁重に断らせてもらった。

『確かにそうですね♪ ちなみに、麻友さんのことは『彼女』って紹介されたいですw』

『そうなるといいかもね』

『あれ? やっぱり、結構脈ありですか?』

『あはは。どうかなぁ。どっちにしても、お兄さんの方には、その気はなさそうだよ?』

『私、ときどき思うんですよ。お兄ちゃんは

馬鹿なんじゃないかなってw』

『お兄さんにはお兄さんなりに思うところがあるんじゃないかな』

 コウくんから指定された日の前日にはそのようなメールのやり取りをした。

 他にも色々と話しているうちに結構な時間になっていたので、そろそろ寝なきゃという流れになった。

『それじゃあ、お休みなさい。PS:もし明日、本気で鉢合わせちゃったとしたら初対面な感じでよろしくお願いしますねw』

『そっか。その可能性もあるんだね。うん。その時はよろしくね。お休みなさい』

 返事を打ちながら、ゆうかさんが本当の妹になったらどんなにいいだろうと思った―――。

 次の日。約束通り、庭と建物の外観を見ただけだけど、庭の隅っこの方にあったワニの置物はTシャツにプリントしたいくらい最高に可愛かったし、わたしとしては大満足だった。

 もしかしたら、ゆうかさんがいつもより少し早めに帰ってきたりするかもしれないと思っていたけど、彼女と鉢合わせすることはなかった。

 帰路の途中でスマホに届いたメールによれば『結構な勢いでニアミスでした…(泣)』らしい。

 ゆうかさんの残念がる表情を想像して思わず笑みが零れそうになった、まさにその時―――

「ッ!!!」

 突然、腹部に激痛を感じ、わたしは道ばたにうずくまってしまう。

 幸いにも、近くを歩いていたおばさんが声をかけてくれた。そして脂汗だらだらで痛みを訴えるわたしのために救急車を呼んでくれた。



         17

 検査の結果、盲腸と診断された。

 抗生物質で炎症を抑える(「薬で散らす」というらしい)か、もしくは入院して手術をするかを選べる、と先生に言われた。

 前者の場合は完全に治る訳ではなく、再発の可能性もあると言われたけど、わたしの一存で後者を選ぶ訳にもいかなかった。正直、手術が怖いという気持ちも少しはあった…。

 ―――のだけど。

 病院の公衆電話から両親に連絡をすると、即決で入院→手術コースとなった。

 バタバタと入院の手続きと準備をして、さっそく翌日に手術をすることになった。

 わたしの心境は次のようなものだった。

 えっ…明日?

 待って待って!

 いくらなんでも早過ぎない?

 だって手術だよ! 手術!

 まだ心の準備ができてないよっ!


 しかし、そんなわたしの心の叫びは届くはずもなく、手術は一切の滞りもなく終わるのだった…。


 入院期間は一週間くらいとのことだった。

 体の一部を切除してるのに、たったそれだけで済んじゃうものなんだなぁ…

 あれだけ(心で)叫んでいたわたしも、あっけらかんとそんなことを思っていた。

 学校の方には親から連絡がいってるはずだからいいとして。

「コウくんに心配かけちゃうなぁ」

 わたしたちは付き合っている訳でもないし、お互いが気の向いた時に裏山あそこに行っているだけなのだから、一週間くらい音信不通になったとしてもどうってことはないと思うんだけど…。

「でもなぁ…」

 最悪、ゆうかさんから伝えてもらえばいいとは思うけど、そんな形で、わたしたちが既に知り合いだったってことがバレるのは、なんか嫌だなぁ。

 ちなみに、ゆうかさん自身にもまだ連絡はしていない。盲腸で入院って、なんだか、ちょっとだけ、恥ずかしい気がして…。


 結局、ゆうかさんにも内緒にしたまま三日が過ぎた…。

 その間は病院の『携帯電話使用可能エリア』で、何事もなかったかのようにゆうかさんとのメールを続けていた。


 四日目の夜。

『もしかして、お兄ちゃんと喧嘩でもしましたか?』

『えっ? ううん。そんな事ないけど? どうして?』

『なんか、お兄ちゃん最近ちょっと元気ないかもって思って。麻友さんは何か気付きませんか?』

『ごめんね。最近ちょっと事情があって、裏山には行けてないんだ』

『そうなんですか? じゃあ、麻友さんに会えないから元気がないってことですねw』

 心配かけておいてなんだけど、もしそうなんだとしたら…ちょっとだけ嬉しい。かも。

『そうかなぁ』

『絶対そうですって! きっと、次に会った時には寂しさで募った気持ちが抑えきれなくなって…ついに告白ですね♡』


 六日目の夜。

『お兄ちゃんのこと、本当に嫌いになってたりしないですよね?』

『そんなことないよ。裏山には明日から行けそうだから、心配しないで』

 明日の午後には退院の予定だ。

『良かった~! 家でのお兄ちゃんのしょぼくれ方がもうハンパなかったんですよ~w』

『心配かけちゃってごめんね』

『いいえ。いいんです♪ でも、実は麻友さんの事情っていうのはちょっと気になってます…』

 ちょっと恥ずかしいけど、結構心配かけちゃったみたいだし、ちゃんと話しておいた方がいいかも…。

 そう思って『明日の午後には退院なんだけどね』と遅すぎる報告をした。

 返信が来るまでの間、わたしは少しだけ不安だった。

「今まで黙ってたこと、許してくれるといいんだけど…」

 受信したメールを見ると、全くの杞憂だった。

『私、いいこと思いついちゃいました♪』

『えっ? いいこと? なになに?』

『ぬっふっふ~♪ ヒ・ミ・ツで~す♡』

 後で聞いた話では、この時のゆうかさんのいいこととは、つまり、実の兄であるコウくんと、わたしの距離を縮める手助けをしようというものだった。

 具体的な内容はこうだ。

 まだ何も知らないコウくんには、わたしが入院しているということを、少し大げさに伝える→当然コウくんはわたしのことが心配で不安になる→でもその気持ちが、わたしという存在の大切さを改めて知るきっかけになる…はず→好きです。→付き合って下さい。→そして結婚へ。

 本当に大切なものは失ってから初めて気付く―――の、一歩手前みたいなものだね。

 かなり単純な作戦だけど、確かに効果はあるかもしれなかった。

 もちろん、コウくんがわたしのことを本当はどう思っているのかが鍵だけれど…。


 この、ゆうかさんの起こした行動がまさか“あんな結果”に繋がるなんて、この時は夢にも思っていなかった―――



        ゆうか1

         1

 お兄ちゃんの様子がおかしい。

 ここ最近はずっと上機嫌だったはずのに、今日は明らかに沈んでいる…。

 機嫌が良かった理由は麻友さんと仲良くなれたからだろう。本人に言っても絶対認めないと思うけど。

 それが急にこの世の終わりみたいな顔をしているのだから、その理由も麻友さんが関係していると考えるのが普通だよね。

 私は麻友さんに何かあったのかメールで聞いてみることにした。

 何通かの送受信を繰り返すと、お兄ちゃんが不幸のどん底の住人みたいになっている原因が分かった。

 単刀直入に言うと、最近、麻友さんに会えていないから。


 もう三日になるらしい。


 ―――って少なッ! さみしがり屋かッ!


 お兄ちゃん、どんだけ麻友さんのこと好きなのよ…。

 そのくせ、お兄ちゃんのことだから、きっと、麻友さんの前ではそういうのを見せずにクールぶってるに決まってる。―――むしろ、ただのヘタレなだけかもしれないけど。

 告白どころか連絡先すら聞いてない始末だしなぁ…。


 二日後、洗顔クリームで歯を磨こうとしているお兄ちゃんを見て、私は、念のためにもう一度麻友さんにメールを送ることにした。

 それにしても、我が兄ながら情けないと言うかなんと言うか…。

 麻友さんは明日からまた裏山に行くと言ってくれた。

 お兄ちゃんのことを嫌いになってしまったのかもしれないという心配は、取り越し苦労で済んだみたい。ほんと超良かった。

 実は麻友さんが裏山に行けない事情というのがちょっと気になっていたので、ついでに聞いてみた。

 話しを聞いて色々と納得した。

 確かにちょっと恥ずかしいと言うか…なるべく人に知られないで済めば、それに越したことはないと思う。

 相手が男の人なら尚更だろう。

 それでも麻友さんは『心配かけちゃってるみたいだし、一刻も早くゆうかちゃんから伝えてあげて。後でわたしからもちゃんと言うけどね』と言ってくれた。

 私としては、正直、伝えるべきではないような気もする。なんとなくだけど、お兄ちゃんが麻友さんに失礼なことを言いそうな気がするから…。

 あれで意外とデリカシーがない(私=妹にだけかも知れないけど)からなぁ。

 だからむしろ、前もって私から伝えちゃって、よく釘を刺しておく方がいいのかも。

 明日の午後には退院って言ってたから、もし伝えるのなら、少しでも早い方がいい。

 ………んっ?

「待てよ…」

 我ながら超いいこと思いついちゃった!


『えっ? いいこと? なになに?』

『ぬっふっふ~♪ ヒ・ミ・ツで~す♡


 麻友さんとお兄ちゃんの恋のキューピットに、私はなるッ! 海賊王にはならないッ!


 具体的な作戦はこう。

 まだ何も知らないお兄ちゃんには、やっぱり前もって話そうと思う。

 た・だ・し!

 私からは“詳しいことは分からないけど、入院しているらしい”としか言わない。盲腸だということも、明日、無事に退院するということも教えない。

 すると、お兄ちゃんはどうなるか。

 たぶん―――いや、絶対に麻友さんのことが心配になる。


『病気なのか、それとも事故なのか。

 容態は?

 彼女はいつまで入院しなければならないのだろう。

 手術が必要なのかも知れない。

 今、彼女は意識のある状態なのだろうか。

 重い病に罹っていたらどうしよう…

 一生消えないような重大な傷を負っていたとしたらどうすれば…

 せめて命に別状がなければ、いい…  』


 不安というのはどんどん膨れ上がる一方で歯止めが利かないものだ。やがて最悪の事態を想像してしまうのも時間の問題だろう。


 もし死んでしまったら―――


『嫌だ。彼女が死ぬなんて絶対に嫌だ。

 僕は彼女を失いたくない。

 だって…。

 だって、僕は彼女のことが好きだから!』


 ―――と、ま、こんな感じ。

 ドラマとか映画だったら、ここでテーマソングが流れることは間違いないね。

 名付けて、

『本当に大切なものは失ってから初めて気付くんだよ大作戦ッ!』

 今回のは、

『その一歩手前で気付かせてあげるんだから感謝してよねッ!版』ってとこかな。

 作戦自体は超シンプルだけど、お兄ちゃんが少しでも麻友さんに好意を抱いているのなら効果はあるはず。

 …実の兄をそこまで不安にさせるのは気が引けるんじゃないかって?

 私はそうは思わない。

 いつまでもグジグジと悩んでいるお兄ちゃんには、それくらいの荒療治が必要だと思うから。

 言わば、お兄ちゃんのためを思っての、愛のムチなんだから。

 兄妹だからこそできる、愛のムチ。


「まったく。世話の焼けるお兄ちゃんだ」


 これを機に、少しは自分の気持ちを認めて、もっと真剣に麻友さんとのことを考えてくれればいいんだけど…



        麻友2

         18

 おっと、いけない。

「そろそろ行かないと約束の時間に遅れちゃうな…」

 昔のことに思いを馳せていたら、いつの間にか結構な時間が経っていた。

 久しぶりにコウくんとの思い出の場所に来たものだから、感傷にふけっちゃったな。

 この後は友達と久しぶりに会うことになっている。

 もちろん、女の子だよ。

 わたしにはもう新しい恋人がいるんだから。えへん☆

 ただ、その子はただの友達じゃないんだ。

 言うなれば、親友。

 運命の伴侶―――ソウルメイト。

 某・ガキ大将風に言うなら、「おお! 心の友よ!」だね。

 ちなみに、会うのは結構久しぶりだったりするから、楽しみ過ぎて、昨日はいつもよりちょっとだけ眠れなかった…。

 本当はもっと会えればいいんだけど、地元も大学も違うから仕方がないんだぁ…。

「ふふっ」

 年下みたいに可愛らしいその子の笑顔を思い出すだけで、自然と頬が緩んじゃう。

 普段、メールや電話でのやり取りをしている時も、たまに、にやけちゃってることは彼女には内緒だよ?

 本当に本当に大好きな親友。

 彼女も同じように―――ううん、きっとそれ以上に、わたしのことを大好きだと言ってくれる。

 今日はたくさん話をしよう。

 次に会えるのはまたしばらく経ってからになるかも知れないのだから。今日のうちに目一杯、彼女との時間を楽しまなきゃね。

 もし出会い頭に抱きつかれたら、わたしも彼女をギュッてするんだ。

 前みたいに“困った子”だなんて、決して思わない。


「マ・ユ・ちゃ~んっ♡」

 わたしと目が合った瞬間、ぽてぽてと駆けてきた夏美は、駅前で結構人がいるということを物ともせず、わたしにダイブしてきた。

 うん。予想通り。えへ―――

「あふんっ」

 夏美の頭頂部のお団子がわたしの鼻付近に当たって変な声が漏れてしまう。

 前言撤回。予想以上だったね。うん。

 夏美は頭上のことに気付いていないのか、そのまま、すりすりしてくる。

 当然、お団子もうりうりと当たっている。

 くすぐったい。

 でもシャンプーの良い香りがする。

 でもやっぱりくすぐったい。

 鼻がふがふがする…。

 やばい、くしゃみ…が……

 ―――出ちゃっ

「へっくしょいっ!」

 かろうじて顔を反らして夏美の頭上に色々なものを飛ばすのだけは防いだ……と思う。

 驚いた夏美が顔をあげる。

「ほえ?」

 ほえ?じゃない。

「夏美のお団子が鼻に当たってたのっ」

 いたずらを叱るような調子でそう言ってみたけど、もちろん、怒る気持ちなんて全くない。

 ただ、お返しはするけどねっ!

 悪びれる様子もなく「ごめんねぇ」と言っているこの子には、『こちょこちょの刑』くらいが丁度良いかな。

 よぉし…

「お返しふぁ」

“だ”と言い切る前に、またお団子でうりうりされた。

 わたしはあっさりと反撃の意思を失い、その後はもうされるがままだった…。

 なんだかんだで、わたしはこの子には敵わないのだ。えへん☆

 女の子同士でハグなんて変な目で見られるかもしれないと思ったけど、案外、誰も気にしている様子はなかった。

 わたしたちが好きでしていることなのだから、どう思われようとも関係ないけどね。

 周りに迷惑をかけるような行為でなければ、大抵はそれでいいのだとわたしは思う。

 やがて一通りわたしを堪能した夏美が満面の笑みで言った。

「会いたかったよ! マユちゃん♡」

 わたしたちはそのようにして久しぶりの再会を喜び合ったのだった―――。



         19

 夏美とは、クラスのみんなともう一度向き合おうと決めた日の数日後に仲直りを果たした。

 その日の昼休み、わたしはいつかのクラスメイトのように、学食などへ向かう子たちが教室を出る前に教壇に立って声を上げた。

「みんな聞いて!」

 クラス中の視線がわたしに向けられる。  そのほとんどが、久しぶりに授業以外で声を出したわたしに対して、戸惑いや、訝るような色を湛えていた。

「信じてもらえる自信がなくて今まで言えなかったけど―――わたしは、潔白だよ!」

 みんなの顔色が様々に変化する。

 困惑の色が濃い印象だ。

「あんな噂は全部嘘だッ!」

 しんと静まりかえった教室で、わたしはあの日思ったことを思い出していた。


『次に教室に行った時にちゃんと話をしてみよう…』


 それでどうなるかは分からなかった。

 事態が悪化するかも知れない。

 その確率の方が高いようにも思えた。

 でも、例えそうなったとしても。

 このまま何もしないでいるよりは、よっぽどマシな気がした…。

 仮にも、わたしは『死』すら覚悟したことのある身なのだから、それ以上に怖いものなんてそうはない。一度は捨てたはずの人生なのだから、今更何があったって、後悔なんてある訳がない。

 あの時、わたしの代わりにいなくなった『もう一人のわたし』の分まで、精一杯、やれることをやるんだ。

 だから、わたしは自分の主張を止めなかった。

「今更だっていうのは分かってる。でも。でもやっぱり! わたしはみんなのこと、大切な友達だって思ってる! …だから、仲直りしたい…」

 頭では怖くないと思っていたつもりでも、目には、いつの間にか涙が滲んでいた。

「本当はあの時、すぐに否定するべきだった…。でも…。前にも信じてもらえなかったことがあったから…それが、怖くて。みんなに信じてもらえない怖さを味わうくらいなら……何も言いたくないって。そう、思って…」

 言葉と涙が堰を切ったように溢れ出してくる。そのことにわたしは戸惑っていた。

「でもッ―――」


「もういい。もういいんだよ」


 続きを言いかけたところでわたしの言葉は遮られた。

 わたし以上に涙で顔をぐしゃぐしゃにした夏美がわたしを優しく抱きしめ、

「ナツは最初からずっと信じてた」

 と言って、小さいけど温かい手でわたしの背中をさすってくれた。

 彼女のぬくもりと、その言葉に、わたしは救われた。

 ずっとそうしていてほしいと思ったけど、夏美はわたしから離れてしまう。

 目が合う。

 すると夏美は、

「おかえり。マユちゃん」

 そう言って笑ったのだった―――。


 その後、クラスのみんながわたしを改めて受け入れてくれたのだけど、もちろん、全員が全員とはいかなかった。

 相変わらずギクシャクしたままの子もいたし、高校を卒業するまで一言も会話を交わさなかった子もいる。…山野さんのように。

 わたしはその子たちのスタンスが間違っているとは思わないし、非難できる権利も資格もない。むしろ夏美のように、前と変わらず接してくれるようになった子たちの方が優しすぎるんじゃないかな…。とすら思うのだ。

 とにかく、ある種の“破れかぶれ”で起こした行動の結果にしては万々歳だったのではないかと思う。



         20

 夏美のお団子にうりうりされまくってから約一時間後。

 わたしたちはファミレスで軽食を取りながらガールズトークに花を咲かせていた。

 大学での授業の様子や変な癖の教授の話。

 サークル活動についての話。

 好きな音楽やファッションの話。

 他にもたくさんの話をした。

 一通り盛り上がった後、夏美の親戚に赤ちゃんが生まれたという話を聞いた。

 だっこさせてもらったら、今、結婚願望がハンパないらしい。

 そこから恋人が欲しいという話になり、更に飛び火して、今はわたしの恋人について夏美が根掘り葉掘りタイム中。―――出来れば、なるべく早く別の話題になってほしいのだけど、その気配は一向にない…。

 それどころか、「彼氏さんを芸能人で例えるなら?」とか「彼氏さんの一番好きなところは?」とか「結婚の予定はあるの?」などと、しばらく質問攻めにされたのだった―――。


「へぇー、結構素敵な出会いだったんだねぇ」

「う、うん。まぁ、そうかな」

 ―――ふぅ。

 話が一段落したところで、ふと気付いたのだけど、そう言えば、夏美にはまだ恋人の名前を言っていない気がする…。

 単に聞かれないからってだけで、別に秘密にしている訳ではないよ?

 でも、普通は早い段階で聞くものなんじゃないかなぁ…。

 そんなことないのかなぁ…。

 それに、もしわたしが逆の立場だったら真っ先にお願いするであろう、「写メ見せて」も、まだ言われてないんだよね…。

 色々と聞いてきた割には夏美はどこか抜けてるなぁ…。

「ところでマユちゃん。彼氏さんの写メとかないの?」

 わたしの恋人の話はもう終ったものだと思っていたけど、そうじゃなかったみたい…。

 まるでわたしの心の内を見透かすような内容に少し驚いた。

「半年以上も付き合ってるんだから、ないわけないよねぇ♡」

「そりゃ、まぁ…」

「見せて見せて!」

 くりくりお目々を輝かせる妹のような夏美に悪戯心を刺激されたわたしは、ちょっとだけ意地悪をしてみたくなってしまった。

「んー、どうしよっかなぁ…」

「えー、いいじゃーん。見せてよぅ」

「そんなに見たい?」

「見たい見たい!」

「でも、見ても面白くないんじゃないかな。彼、“ザ・普通の人”って感じの人だもん」

「面白くなくてもいいの! 見たいの!」

「本当にイケメンでもなんでもないよ? さっきも言ったけど、ドラマの通行人とかにいそうな人だよ?」

 ちなみに。全部。本心。えへん☆

「それでも見たいの♪」

「そこまで言うのなら…」と(最初から見せる事自体に躊躇いはなかったけど)写メを表示させたスマホを夏美に渡す。

「おおぉぉぉおおぉお! こっ、これが…マユちゃんの彼氏さんっ♡ ナツからマユちゃんを奪った諸悪の権化だッ!」

 そういうことを言ってるから、ユリ原ユリ美なんてあだ名を付けられるんだぞぅ。

 って言うか、諸悪の権化って…。

「ね? 普通でしょ」

「うん。想像以上にふつーだね。ふつーに“いい人”そう。でもナツはそれが一番だと思うな」

 さすが夏美。わたしもそう思う。

「この写メ、ナツのスマホに送ってよぅ」

「それはだ~め」

 夏美からスマホを取り上げる。

「ちぇっ、マユちゃんのけちぃ~」

 口を尖らせて抗議した夏美が何かを思い出したようにハッとする。

「そう言えば…」

「んー?」

「彼氏さんのお名前はなんていうの?」


 …ようやくそこに思い当たったらしい。

 わたしはスマホに表示されたままの彼の画像を見ながら夏美に言った。


 神崎浩一かんざきこういちくん、だよ―――



        浩一1

         1

 非常に中途半端なところだったけど、僕は読んでいた文庫本に例の味付け海苔の栞を挟んで閉じた。

「駄目だ。集中できない」

 理由は分かっている。たぶん。

 今日、僕の恋人である黛麻友―――以前は心の中ではそう呼んでいて、実際には「君」と呼んでいた―――が、高校時代の友達に会うことになっているからだ。

 ちなみに今は「麻友さん」と呼んでいる。

 さすがにいつまでも「君」では格好がつかないし、なんと呼べばいいのか本人に聞いてみたところ、以下のような不毛なやり取りがあった。

「んー? なんでもいいよ」

「それが一番困るよ。具体的な例を挙げてみて」

「じゃあ、まゆゆ?」

 …ドヤ顔が腹立つわ。

 でも。悔しいけど。やっぱり。可愛い…。

「他には?」

「まゆりん」

「他」

「まゆまゆ」

「………」

「ま―――」

「おっけー。参考になったよ。ありがとう」

“まゆまゆ”に聞いた僕が間違ってた。

 よし、改めて一人で考えよう。

「素敵な呼び名を期待してるよー☆」

 何か聞こえた気がする―――けど、気にしない。気にしない。

「まゆゆ」や「まゆりん」「まゆまゆ」は……まぁ、論外として。個人的には好きな女性のことを呼び捨てにはしたくない。

 普通に「麻友ちゃん」とかでいいのかな。でも「ちゃん」っていうのが、なんか違うんだよなぁ…。だったら「麻友さん」?

 恋人なのだからファーストネームで呼びたいとは思うけど、一応、名字の方でも考えてみるか…。

「黛さん」………他人行儀!

「黛ちゃん」………業界人!

「まゆちゃん」………名前じゃん!

「まゆさん」………やっぱり名前じゃん!

「ずみちゃん」………しっくりこないっ!

「ずみさん」………アレだ。気象予報士。

 あれこれ考えた結果、やっぱり「麻友さん」が一番いい気がする。

 ある程度の敬意は払いたいと思うし、“さん付け”くらいが丁度いいだろう。

 早速そのことを報告すると、当の本人は「ふっつー!」と言いながら、何故か笑い転げていた。

「でも、コウくんらしくて“いい”と、わたしは思いますっ。えへん☆」

 そう言われなければ、つまらない奴と思われたと思って、軽くショックを受けたかもしれない。まぁ、もともと、別に面白い奴とも思われていないだろうけど。

 それでも二人の関係性が変わったのだから、少しは気にするというものだ。

 ちなみに、僕は「コウくん」もふっつーだと思う…。彼女には言わないし、笑い転げたりもしないないけど。

 こうして無難に「麻友さん」と呼ぶことになったけど、いくら普通の呼び方とはいえ、最初のうちは結構照れくさかった。

 最近になってようやく自然に呼べるようになったくらいだ。

 今日はその麻友さんが友達と会っている。 ただそれだけのことで、こんなにも落ち着かないなんて…僕はかなりの心配性―――或いは、焼き餅焼きだったのだろうか…。

 相手は高校時代の親友だと聞いている。

 麻友さんの通っていた高校は女子校だった。だから当然女の子だ。

 麻友さんがいくら美人だとはいっても、何も心配する必要なんてない。

 いや、そもそも、相手が誰であろうと心配する必要なんてないんだ。

 心配になるということは、多少なりとも疑っているということに他ならない。

 彼女には疑わしいところなど何もないのだから、信じるのが当然であって、心配になるのは筋違いだ。

 逆に、疑わしいところがあるのに盲目的に「信じる」というのは、ただ現実と向き合う勇気がないだけの「逃避」であって、この上ない「愚行」だと思うけど。

 そう言えば、友達に会う前にお墓参りに行くと言っていたっけ。

 元カレの。

 前に恋愛の話をしたことをきっかけに二人の距離が近付いた気がすると言ったけど、その時に聞いた、元カレだ。

 確か「ケイスケくん」という名前だったはず。

 僕が覚えている範囲では、電車の事故に巻き込まれた彼は、意識不明の重体で生死の狭間を彷徨っていた。

 彼が意識を失う直前に友人に託した“別れの意思”を麻友さんは尊重し、受け入れることにしたという。

 そして、その二日だか三日後に、彼が亡くなったという連絡があったと聞いている。

 最期はとても穏やかな表情で、眠ったまま静かに息を引き取ったそうだ。

 麻友さんに彼の意思を伝えた友人は、「きっと黛さんとの別れが済んで、思い残すことがなくなったんでしょう」と、泣きながら微笑んだとのことだ。

 僕も恋愛で苦い思いをしていて、数年間、そのことがトラウマになっていた。

 でも、麻友さんの話を聞いた時、それがどれほどちっぽけなものだったのかを思い知った。

 そんなちっぽけな話を麻友さんはまるで自分のことのように真剣に聞いてくれた。

 思えば、この時には既に、麻友さんに(同情のような感情も含めてだけど)ひかれていたのかもしれない。


 いや、違う…。違うな。


 僕は最初から彼女にひかれていた。

 初めて彼女を見かけた瞬間、僕は思ったはずだ。

 何て綺麗な女性ひとなんだ―――と。

 その、艶めかしくも可愛らしい唇からは、果たして、どのような美しい声が紡がれるのだろうかと思った。

 是非、声を聞いてみたいと思った。

 そしたら彼女が言ったんだ。

「にゃあ」と。

 あの時の衝撃は今でも忘れない。

「感動を返せ」なんて思ったふりをして誤魔化していたけど、僕はすっかり『物凄い美人なのに、ちょっと変で、残念な子』の虜だった。

 また彼女に会えるかも知れないという期待を込めて裏山に通い続けた。

 もともと読書スペースとして利用していたベンチではなく、初めて彼女と出会った、七~八畳ほどの空間へ―――。


 いや、違う…。これも違うな。


 本当はもっと以前から、僕は、彼女のことが好きだった。

 あれはまだ僕らが中学生の頃―――。

 当時、学年中で、ある一人の女子生徒が話題になっていた。悪い意味で……。

 今の自分の大切な人のことだし、詳しい内容は言いたくないけど、簡単に言うなら、とても卑猥な噂だ。

 僕はそんな噂は信じていなかったし、正直、興味もなかった。

 同じクラスになったこともなく、彼女の顔も、名前すらも知らなかった。(名前に関しては、彼女がひどいあだ名で呼ばれていたためだ)

 中学の頃は、お昼の休み時間に図書室で本を読むのを日課にしていたのだけど、そこでよく見かける女子生徒に、僕は密かに恋心を抱いていた。その子はいつも辞書や参考書などを机いっぱいに広げていた。

 読書家という訳ではないらしく、黙々と勉強をしている様子だった。

 そしてその表情からは常に意思の強さを滲ませていた。

 僕は、きっとあの子には何か目標があって、それに向かって必死になっているのだろうと推察した。

 単純に試験の成績を上げたいのかも知れないし、もしかしたら既に志望する高校を見据えているのかも知れない。

 ただ、

 なんとなくだけど、必死過ぎるというか…どこか追い詰められているようにも、僕には思えた。

 彼女の纏う、あまりにも張り詰めた雰囲気は、ちょっとしたきっかけがあれば簡単に折れてしまいそうな、脆さ、儚さを孕んでいるように見えたのだ。

 毎日のように様子をうかがっているうちに、僕は次第に彼女にひかれていった。

 初めて見た時から美人だとは思っていたけど、彼女が時々見せる物憂げな表情はとてもミステリアスな感じがして、なんて言うか…その、凄く…色っぽかった。

 それが麻友さんだったということを知ったのは、彼女自身の口から過去の話を聞いた時だった。

 記憶を辿ってみれば、顔も、髪も、骨格も、ぷっくりとした唇も―――何もかも、確かに麻友さんそのものだった。

 それでもすぐには気付けなかったほどに、当時と今とでは、決定的な“何か”が違っていたんだ。

 言うなれば“纏っているもの”だろうか。

 当時は化粧も何もしていなかったはずだから、その差も僅かにはあるだろうけど…。

 当時の僕には、好きな女の子にアピールできるような勇気も根性も魅力もなかった。―――それは今も同じか…。

 図書室の古くさい本を読みながら、チラチラと彼女の顔を見られれば、僕はそれだけで満足だった。―――これはさすがに「キモイ」と思われるかもしれないな…。

 そんなある日、普段は絶対に図書室になど近寄らないクラスの男子が、僕を探してやってきた。どうやら担任の先生に呼ばれていたらしい。

 二人連れだって教室に戻る途中、そのクラスメイトが呟いた。

「それにしても、なんで『―――』が図書室あんなところにいたんだ…? 『―――』は『―――』らしく、体育館裏辺りで男にまたがってりゃいいのによ…」

 彼の言う『―――』というのは、例の『噂になってる女子生徒』のことだったはずだ。

 僕は噂には興味がなかったから詳しくは知らないけど、最初はもう少しマシなあだ名だったらしい。(それでも十分最低なものなのだけど…)それがいつしか、より最低な、今のあだ名に変わったのだという。

 僕は、僕が思いを寄せているあの子が噂の女子生徒なのだと知った。

 でも、それを知ったところで、僕の行動に何か変化がある訳ではなかった。

 例えば「あの子はそんな風には見えない」と友達に吹聴することで、多少なりとも彼女の悪評をフォローしてあげることはできたのかもしれない。

 その程度で、彼女に対するひどい扱いが変わる可能性は限りなく「ゼロ」に近かっただろう…。

 それでも、もし僕が何かしらの行動を起こしてさえいれば、「ゼロ以上」にはなっていたはずなのだ。

 でも僕は何もしなかった。

 僕がそんなことをするのは、お門違いだと思ったからだ。

 少しだけ探りを入れてみたところ、彼女は小学生の頃からひどい扱いを受けながらも、不登校になることはおろか、学校を休んだことすらないのだそうだ。

 僕にはそんな彼女がとても気高く思えた。

 勝手な推測だけど、そうすることで彼女は、自分が潔白であることを証明し続けているのだと思ったのだ。

 そして、そんな彼女に僕は、より一層、心を奪われてしまったんだ―――。

 その後も結局、僕たちが言葉を交わすことは一度もなく、やがて、中学を卒業する日を迎えてしまった。

 あの日、堂々たる立ち居振る舞いで登壇し、彼女の置かれていた立場など微塵も知らぬであろう校長先生から卒業証書を受け取る、その『誇り高い女子生徒』を見て、僕は目頭が熱くなった。

 きっと、もう二度と会うこともないのだろうと思った。

 せめて、彼女の進む先に待っているものが、これまでの惨憺たる人生を清算できるような、そんな素晴らしいものであるといい…。

 そう、願わずにはいられなかった。


 そうだ。これが、間違いなく、僕が彼女を好きになった最初のケースだった―――。


 その後、『黒猫の奇跡』が起きて、僕たちは裏山で出会った。

 僕は彼女に一目惚れをした。

 その子が実は“あの時の子”だったことを知って、より一層、想いが募っていった…。

 でも、僕は好きじゃないふりをしていたんだ…。

 人を好きになるということが、怖かったから―――。


 そんな僕に改めて彼女の大切さを教えてくれたのは、妹のゆか―――いや、『ゆうか』だった。

 僕と麻友さんが今の関係になれたのは、間違いなく彼女のお陰なのだから、感謝はもちろんしている。

 でも、いささか荒療治が過ぎたんじゃないだろうか…。とも思う。

 なんせ、あのことがきっかけで、僕は麻友さんに、告白どころか、“プロポーズまでしてしまった”のだから―――


「黛さんが入院したんだって…。詳しいことはよく分からないけど、もしかしたら結構ひどい状態かも知れないって…」

 今にして思えば、非常に胡散臭い話しだし、少し考えればおかしな点はいくつもある。

 まず、情報が少ない上に曖昧過ぎる。

 きちんと“設定”を作り込んでいないことが丸わかりだ。

 そしてあの時、僕は確かに、ゆかが麻友さんのことを知るはずがないという考えに至っていたのに…。(実際には既に二人は知り合っていたけど)

 僕はゆかの言葉を完全には拭い去ることができなかった。

 たぶん、きっと、自分が思っていた以上にパニクっていたのだろう。

 ゆかが口にした総合病院へと僕は走り出したのだ。

 降りしきる雨の中、周りのことなど目に入らないくらい無我夢中だった僕は、道中で危うく交通事故に合いそうになった。

「馬鹿野郎ッ! 死にてぇのか!」

 という、およそ非現実的なセリフを、まさか実際に聞くことになるとは思わなかった。

 一瞬、何が起きたのか分からなかったけど、徐々に恐怖と安堵が入り混じったような感情が沸き上がり、僕は呆然となってしまった。

―――ので、実はこの後のことについては、正直、記憶が少し曖昧だ。

 どうにか病院に辿り着いた僕は、受付やナースステーションで麻友さんの病室を聞き出し、彼女の元に向かったのだと思う。

 複数の病院関係者に「院内では走らないで下さい」という注意を受けた気がする…。

 そんなどうでもいいことは何故か覚えているんだよな…。

 彼女にあてがわれた病室は個室だった。

 他の人がどう思っているのかは分からないけど、僕の勝手なイメージでは、個室に入院するのは、それだけ重篤―――或いは、長期化する場合が多い、―――という印象があった。

 後で聞いた話では、単に大部屋に空きがなかったというだけなのだけど。

 勢いよく病室に駆け込んだ僕は、彼女の姿も確認せずに、カーテンで仕切られたベッドに寝ているであろう麻友さんに向かって叫んだ。…らしい。

 何を叫んだのかは麻友さんから散々聞かされたし、ゆかにもいじられまくって把握はしてるけど―――。

 まぁ、その…なんだ。

 要するに、僕を一人にしないでほしい…とか、君がいない人生なんて嫌なんだ…とか、ずっと一緒にいてほしいんだ…みたいなことだ。

 恋人として付き合うようになってからは、変に彼女のことをからかい過ぎたりすると「わたしは悲しいよ…あの時『黛麻友のことが好きなんだっ! 一生だっ! えへん☆』って言ってたのにさぁ~」という反撃を受けるようになった。ほぼ間違いなく「えへん☆」は言ってないと思うけど。

 …他の部分は、きっと、言ったのだろう。

 だって―――それらは全部、本心だから。

 そして、これは自分でも不思議なんだけど、この直後のことは逆に鮮明過ぎるほどハッキリと覚えている。

 まくし立てるように一通り叫んで、少し落ち着いた僕は、勢いよくカーテンを開けたんだ。

 そこに彼女はいた。

 ベッドに腰掛けた状態で「はわわ…」とか言いながら両手で顔の辺りを扇いでいる。

 その顔はゆでだこのように真っ赤だった。

「………へっ?」

 僕はそれしか言えなかった。

 視線を上げた彼女と目が合う。

 その瞬間「ボンッ!」という“彼女がショートする音”を聞いた気がした。

 目を回した彼女はベッドに仰向けになるように倒れ込んでしまった。

 両手で顔を覆っているけれど、耳まで真っ赤なので隠し切れていない。

 どうしていいか分からなかった僕は、とりあえず、彼女の隣に腰掛けた。

 仰向けのままの彼女は、顔を隠したまま、こちらを向き、一瞬だけ指の隙間を開いて僕を見た。目が合う。また直ぐに隙間を閉じてそっぽを向いてしまった。

「コウくん、びしょ濡れだね…。雨、すごいもんね」

「あ、うん。座ったからシーツまで濡れちゃったかも。ごめん」

「ううん。大丈夫。そこのバッグに綺麗なタオルが入ってるから使って」

 そう言いながら足でバッグの位置を示すのは行儀が悪いと思うけど、折角のご厚意は受け取っておこう。

「ありがと」

「ん」

 彼女の足下にあったバッグから桜色のタオル―――変な動物のイラスト付きの―――を取り出して、ありがたく使わせてもらった。

 綺麗なタオルと言うからには洗濯済みなのだろうけど、ほのかに彼女の匂いがした気がした。

 彼女が上半身を起こし、居住まいを正す。

 その際、彼女は少しだけ僕の方に近付いて座り直した。触れてはいないのに体温が伝わってくるほどの距離だった。

 やっぱり、いい匂いがする。タオルとは比べものにならない、とてもいい匂い。

 その後は二人とも無言だった。

 ただ―――彼女がどう思っていたかは分からないけど―――少なくとも僕にとっては嫌な沈黙ではなかった。

 確かに何を言ったらいいか分からないというのもあったけど、僕が黙っていた理由はそれだけではなかった。

 僕にはその沈黙の時間と、空間が、この上なく幸せなものだったのだ。


 だって、


 僕の隣に腰掛けているのは、紛れもなく、僕が好きになった女の子だったのだから。



        麻友


 プロポーズされてしまった!


 まさかまさかの展開にわたしの頭はパンク寸前―――ううん、完全にパンクして、わたしはベッドに倒れ込んだ。

 昨日、ゆうかさんがメールで『いいことを思いついた』と言っていたことを思い出す。

 彼女はそのメールで『麻友さんには明日、何かいいことがあるかも知れませんよ♡』言っていた。

 …きっとこれだ。

 コウくんがわたしの病状について何か勘違いしているっぽいのは、ゆうかさんの仕業だと思う…。

 確かに、サプライズでプロポーズされるというのには憧れるけど…サプライズにもほどがあるよ!

 わたしたち、まだお付き合いすらしていないのに。

 あっ! 分かった! ドッキリだ!

 これ、ドッキリにだよ!

 たぶん! きっと!

 発案者がゆうかさんで仕掛け人がコウくんってことだね! 

 ―――でもコウくんってそういうことするタイプじゃない気がする…。うんとね、さっきのプロポーズ自体も、コウくんがしそうなこととは思わないけど、それ以上にって意味で。

 うーん。

 そもそもプロポーズじゃないのかな…?

 少なくとも愛の告白だったとは思うんだけど……。

 だとしたら、嬉しいけど恥ずかしいな。

 今すぐうつぶせになって、枕に顔を埋めて、手足をバタバタさせてい気分だよっ!

 それとも、わたしが自意識過剰なだけで、なんでもないのかなぁ…。

 とりあえず、「嫌ではない」という意思だけは示しておこう。

 ズブ濡れのコウくんにハンドタオルを貸して、少し近くに座り直した。

 その後はひたすら無言で彼の言葉を待った―――のだけど―――。

 まさかの沈黙っ!

 ―――でも、なんでだろう…。

 恥ずかしい気持ちはいっぱいあるけど、不思議と気まずさはなくて。


 なんだかとっても幸せな時間だなぁ。


 しばらくすると、ゆうかさんがやって来て、事情を説明してくれた。

 やっぱり、大体わたしが思った通りの内容だったけど、コウくんからは「まんまと騙されて―――やっちまった…」という感じのオーラがびんびん出ていた。

 どんまいだよ! コウくん! わたしはコウくんの本心が聞けて嬉しかったよ!



 折りを見てきちんとお互いの気持ちを確かめ合ったわたしたちは、晴れて正式にお付き合いをすることになった。

「その代わり、わたしの志望大学にコウくんも受かってね☆」

 高校に関しては今更どうしようもないけど、せめて同じ大学に通いたい。

 そんなわがままから、冗談交じりに大学名を伝えてみる。

 コウくんは「うげっ」と一瞬だけ引きつったような表情をしてから、

「今の僕の学力じゃかなり厳しいけど…約束する。僕だって君と同じキャンパスで学びたいからね」

 と、宣言してくれた。

 そう言ってもらえただけで、わたしは十分満足だった。もともと、冗談半分だったんだし。

 でもコウくん自身がやる気に満ちているのを見て、本気で二人で同じ大学を目指してみるのもいいかもしれないと思った。

 好きな人と同じ目標に向かって切磋琢磨できるなんて、なんて素晴らしいことだろう。

「その代わり、勉強、教えてくれる?」

 照れくさそうに笑う彼の顔が、なんだか可愛らしくて、わたしは(たぶん)耳まで真っ赤にして、その条件を呑んだのだった。

「もちろんだよっ! えへん☆」


 わたしたち二人のデートとは、すなわち、図書館やファミレスでの勉強会だった。

 時には家庭教師よろしく、コウくんの部屋にお邪魔して勉強することもあったけど、コウくんがわたしの家に来ることは一度もなかった。

 もしわたしの部屋に上がったりしたら、自分を抑えられなくなってしまうかもしれないから―――とのことだった。

 わたしにはよく分からないけど、そういうものなのかなぁ。

 理由を訪ねてみると、コウくんは真っ赤な顔をして答えてくれた。

「だって、君の部屋だよっ!?」

 ―――なんの答えにもなってなかった…。

 って言うか、まるでわたしが変な部屋に住んでるみたいじゃないか…。

 別に普通の部屋なんだけどなぁ。

 でもまぁ、男の子っていうのは、きっと、そういうものなんだと納得しよう…。

 恋人同士なのだから、責任と節度を持ってさえいれば“そういうこと”をしたって何も問題はないとわたしは思うのだけど、「無事に大学に受かるまでは、絶対に君に変なことはしない」というのが、コウくんなりの誠意のようなものらしい。

 ちょっとだけ気を遣い過ぎてるような気もするけど、そういうところも、コウくんらしくて“いい”と、わたしは思う。

 それに、それだけ大切に想ってくれてるってことだと思うし。


「報われない努力はない」なんて、無責任な綺麗事は言えないけれど、少なくとも、わたしたちの努力は報われた。

 正直に言ってしまえば、コウくんが本当に受かるとは思っていなかった。

 最初からその大学で学ぶことを見据えて勉強していたわたしでさえ危うかったくらいなのだから、そう思ってしまうのも無理はない…と、弁明だけはさせてほしい。

「本当に同じ大学に通えるんだねっ!」と、心躍らせた日から既に数ヶ月。

 今では構内の図書館で一緒に勉強をしたり、ファミレスなどでレポートを書いたりするのが日課になっている。

 コウくんの家にお邪魔することもあるし、今は、コウくんがわたしの家に来ることだってある。

 もちろん、勉強会ばかりじゃなくて、普通のデートもしている。

 買い物とか映画には割とよく行くし、水族館にだって行ったんだから!

 今度は動物園か遊園地に行きたいねって話してるんだぁ。

 まだまだ二人でやってみたいこと、行ってみたい場所は、山のようにある。

 一緒に勉学に勤しんで。適当に休憩して。遊びに出かけて。駄弁って。時には愛を確かめ合う…。

 なんて幸せな日々なのだろう。


 わたしはこれまで、たくさんの辛い思いをしてきた。


 でも、そんな経験をしてきたからこそ、今のわたしがいるのだと、今は思う。


 だから、あの辛かった日々は、きっと、無駄なんかじゃなかった。


 例え、辛くても、苦しくても、人生に無駄なことなんて、ほとんどないんだ。


 今、この瞬間にも、わたしなんかより辛い思いをしている人は大勢いると思う。

 たくさんの犠牲が出てしまう大災害や、不治の病で奪われてしまう尊い命―――。そんな、理不尽だけど、受け入れるしかない『運命』というものは、確かに存在するのだと、わたしは思う。

 それでも、それ以外のことであれば、大抵なんとかなるものだと思うんだ。

 だから人生を途中で諦めたりしちゃいけないんだ。そんなの絶対、勿体ない。

 この先どんな素晴らしいことが待っているのか分からないのだから。

 一見なんでもないことのような出来事が、実は、幸せに繋がってることだってあるかも知れないのだから。

 あの日、一匹の黒猫が巡り会わせてくれた、たった一つの小さな奇跡のように。


 ねぇ、“幸せになるための条件”ってなんだと思う?


 素敵な恋人に巡り会って、結婚して、子供を授かって、仲睦まじい家庭を築くこと?

 やりがいのある仕事に就いて、夢中に働いて、何か大きなことを成し遂げること?

 たくさんお金を稼いで、美味しいものをお腹いっぱい食べたり、素敵な服を着たりして、贅沢な暮らしをすること?

 それらは確かに“幸せの一つの形”だとは思うけど、あくまで、『条件』を満たした後に掴み取れるかもしれない『結果』の例だよね?


 じゃあ、改めて、“幸せになるための条件”ってなんなんだろうね?


 わたしは思うんだ。

 そのために必要な条件は、実は、たった一つしかないんじゃないかって。

 その条件っていうのはね―――


“生きている”っていうこと。


 例え今、どれだけ辛くて、苦しい状況であったとしても“生きていなければ”幸せになんてなれる訳がない。―――絶対に。

 過去のわたしが自ら『死』を選択しようとしたように、死を迎えれば楽になれるかもしれないと思うことも、あるかもしれない。

 けど、幸せになれるわけでは決してないんだ。ただ自分という存在が消えてなくなってしまうだけ。…残された人に多くの悲しみを押しつけて。


 生きてさえいれば、幸せになれる可能性は、必ず、ある。限りなくゼロに近い状況だったとしても。決してゼロではない。

 きっと、あるはずなんだ。


 わたしは思う。


 あの時、死なないで、よかった。

 ―――生きてて、よかった―――。


 今、わたしは、自分が生きてきた『軌跡』と『奇跡』に―――自分の『人生』に、感謝と誇りを持てるようになった。


 だから、

 わたしは今日も、こう、言うのだ。


「えへん☆」


 始めは意味もなく使っていただけのその言葉は、今、確かに“生きることへの誇り”という意味を伴って、抜けるような晴天の空に溶けていった―――。



                  完

およそ14万字にも及ぶ『黒猫のような君と、僕の物語』を最後まで読んで頂き、本当に、本当にありがとうございました。読んで下さった方の心にほんの少しでも残るような作品になっていれば幸いです。

もしアドバイスやご感想などがあれば是非聞かせて頂きたいのですが、あまり辛口ですと凹んでしまいますので程々にお願いします…><

私個人としましては、最後の麻友の語りのようなシーンは入れるべきかどうか迷いました。説教くさくなってしまうという印象があったからです。彼女が語ったことを、彼女の言葉を借りずに皆様にお伝えできれば良かったのですが、私の文章力では難しかったので、彼女に代弁してもらったというわけです。ご了承下さい。

既に第二作目の執筆に取り掛かっておりますが、今作も完成までに二年以上かかりましたので、完成がいつになるかは全く未定です(汗)

また、『黒猫のような君と、僕の物語』につきましても、今後も、ちょこちょこと修正することはあるかもしれません。

それでは、またいつか、皆様とお会いできることを祈りまして、後書きとさせて頂きます。

本当にありがとうございました!

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