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黒猫のような君と、僕の物語  作者: 日暮 絵留
2/3

後編1

前編を読んで頂いた方、本当にありがとうございます。後編もお楽しみ頂ければ幸いです。

もし後編の展開を色々と想像して頂けていたとしたら、それをいい意味で裏切れていればいいのですが…。普段から読書を嗜む方には、少々物足りないかもしれませんのでご了承下さい。

後編は途中、「うーん。なんだかなぁ…」と思われるような描写や展開もあるかもしれないのですが、そこでお止めにならずに、是非、最後まで読んで頂ければと思います。

後編は文字数の都合上1と2に分かれております。最後までよろしくお願いします!ではどうぞ!

『二年後』

        由香子1

         1

「うぅ~ん! なんか緊張してきた~っ!」

 ウチは思いっきり伸びをしながら言った。

「緊張って…」

「だって、映画なんて超久しぶりなんだもん」

「気持ちは分からんでもないけど、さすがに早過ぎじゃね?」

「そっかな」

「まだ映画館に着いてすらいないのだぜ」

 今日はミズとインターに来ている。

 よもや二人で『イマジナリー』の最新作を見に来る日がくるなんて。

 この前までは夢にも思わなかったわ…。

 ミズは前作が公開した時―――つまり二年前―――は、なんの興味もなかったはずなのに、今作はめちゃくちゃ興味津々だ。

 なんでも、新作の公開に合わせて深夜にやっていた『イマジナリーシリーズ毎晩放送スペシャル週間』の第一夜をたまたま見てハマったんだって。

 二夜目以降も、毎晩、夜更かししてリアルタイムで見たらしい…。

 今更感は少しあるけど、身近に『イマジなる仲間(世間ではそう言うんだとか)』ができたことは単純に嬉しい。

 突然「ゆかっぺ、あたしと一緒にエロエロなラブシーンのある映画を見に行こうず」とか言われた時は、とりあえずチョップを食らわしといたけど。

 普段はテレビで放送されるまで待つ派のウチだけど、折角の『イマジなる仲間』を無下に扱うのも気が引けたし、彼女の誘いに乗ったって訳。

 女子二人で“イマジなる”のは正直どうかと思うけど、まぁ、折角の機会なんだし気にせず楽しみましょ。そうしましょ。

 ちなみにミズは、今日、インターでやるというアニメのミニイベントも目当てだったりする。

 一応、ウチも付き合うことになってるんだけどね。

「それにしても晴れて良かったね」

 見上げると雲一つない快晴の空が広がっている。

 やる気満々の太陽の熱と、時折吹く優しい風の冷たさが肌に心地良い。

 絶好のお出かけ日和。そして映画日和だった。

「まっ、当然っしょ。あたしら二人してなかなかの晴れ女だし」

「浩一が一緒だと二人がかりでも負けちゃうけどねー」

「アイツ、最強の雨男だったかんね。今頃、天国ででも雨降らしてるんじゃね?」

「そうかも。ぷっ。ウケる」

 こんな冗談を言えるようになったのは、実は割と最近になってからの話だったりする。



         2

 当時のウチは浩一の死を受け入れられなかった。

 彼が亡くなったのは自分のせいだと思って心を閉ざしてしまったから…。

 半年もの間、現実と向き合えなかったウチが、今こうして普通にしていられるのは、紛れもなく、ずっと側で支えてくれた親友のお陰だ。

 ミズは献身的に心のケアをしてくれた。

 さすがは看護師さんだと改めて思った。

 お陰で立ち直ることができたウチだけど、その後、ミズとは少しギクシャクしてしまっていた。―――と言っても、ウチの一方的で勝手な都合でだけど。

 ウチは迷惑をかけたことへの申し訳ない気持ちや、自分自身の“ふがいなさ”などから、ミズへの引け目みたいなものを感じるようになっていた。

 ううん。違うな。

 本当はそうなる前からそういう感情はあったと思う。ただ表面化するきっかけが今までなかったってだけ。

 最初はほんの些細なものだったけど、常に心のどこかに引っかかっていて、少しずつウチを蝕んでいたんだ。

 そして、ある時、限界を迎えてしまった。

 ウチはミズにその気持ちを洗いざらいぶつけた。

 最初はたどたどしい口調だったけど、一度話し始めると歯止めが利かなくなっていった。溜まっていたモヤモヤとしたものが一気に溢れ出して、止められなかった。

 途中からは自分でも何を言っているのか分からないほど支離滅裂で、最後はほとんどただの八つ当たりになっていたと思う…。

 覚えてる範囲で言うと、例えば、こんな感じ。

「ミズは何様のつもりッ!?」

「どうせ、ウチのこと、ずっと笑ってたんでしょ! 馬鹿にしてたんでしょ!」

「なんでウチなんかに優しくしたの!? ねぇ、なんで!? なんでなのよッ!!」

 …改めて思い出すと、ウチ、マジで最低。

 でも、ミズは、そんな最低なウチに対して「友達なんだから当然じゃん」と、さらりと言ってのけたんだ。

 ちょっと恥ずかしいくらいのくさい台詞―――。普段なら、そんなことを面と向かって言われたら、むず痒くて仕方がない。簡単には心には響かないと思う。

 だけど、あの時のウチには響いた。

 すぅっと心に染み込んできた。

 その染み込んできたものが涙となって、ウチの目頭を熱くした。

 ウチは大切な親友に対してなんて酷いことを言ってしまったのか…。

 どれだけ謝っても足りないと思った。

 涙で視界が歪んでいた。

 それでも、ミズがウチに向けてくれた優しい笑顔だけはハッキリと見えていた。

 彼女はこんなウチを友達と言ってくれた。

 その気持ちが嬉しくて。

 本当に嬉しくて…

「あああぁぁあぁぁぁぁーッ」

 ウチはミズの胸に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくった。

 彼女はウチを抱きしめると、いつまでも背中をさすっていてくれた―――

 自分の中にあんな醜い感情があるということが怖かった。

 それを知られてしまったことで、もしかしたらミズに拒絶されていたかも知れないと思うと、もっと、怖かった。

 気が済むまで泣きじゃくったウチの顔面は化粧も何もあったものじゃなかった…。

 でも、人目をはばからずに思いっ切り泣いたお陰で、ウチはだいぶ落ち着きを取り戻せた。

 涙と鼻水、よだれ、おまけにマスカラやらファンデーションやらの様々な物でぐしゃぐしゃになったミズのキャミソールを「きたねっ」と思えるくらいには。…あれは今思い出しても、それはそれは酷い有様だったわ…。

 ハンカチで顔を拭ったウチは、改めてミズに感謝しなければいけないと思った。

 ミズとは長い付き合いだけど、こんな姿は初めて見せた。

 てか、あんなに泣いたこと自体、たぶん、初めてだったと思う。記憶にないほど小っちゃな頃とかは別として。

「ありがと。ミズ。もう大丈夫。服、汚してごめん」

「そんなのいいって。洗濯すればいいだけの話だし」

「うん。ほんと、ありがと。あと―――さっきは、その…ごめん」

「それもいい。あたしは別に気にしてないよ。誰にだって、人には言えないような腹黒い部分はあると思うから」

 ミズは今までに見たこともないような真剣な顔と声でそう言ってくれた。

「ミズも…さっきウチが言ったみたいなこと……考えたり、する?」

「するする。全然するって」

「…ほんとに?」

「あたしが嘘ついてどうすんの。むしろ、ゆかっぺに言われたこと、完全には否定できないくらいだよ。…ほら? 腹黒いっしょ?」

「そだね…」

 その事実が、ウチには嬉しかった。

 そして、他人には決して見せたくない部分を少しだけ見せ合えたことが嬉しかった。

「それより…どうだった? あたしのお胸の感触は? 気持ち良かったべ??」

 いつもの調子に戻ったミズが妙に懐かしくて。

 でも、なんだか妙に照れくさいような気もして。

 ウチは「ばか」と言って、そっぽを向くのだった。


 最高に気持ち良かったに決まってる。

 あの瞬間、ウチにとっては間違いなく、この世界のどんな物よりも、温かくて、柔らかくて―――優しい感触だった。


 そして、思ってたより大きかった…。


 ミズめ。いつの間に。

 軽くショック…。てか、嫉妬だわ! 嫉妬ッ!



 こほん。

 それからは引け目を感じたりすることがなくなって、元通りの関係に戻れたんだ。

 いや、少し違うな。

 正確には「感じなくなった」んじゃなくて、そういう気持ちが自分の中にあることを認めた上で、「向き合えるようになった」んだと思う。

 そして、前以上に強い友情と信頼を得て、ウチらの仲は一層深まったんだ。

 その証拠に、あの日からウチの心は、雲一つない今日の空のように澄み渡っている。



        瑞希1

         1

 別に元々、由香子に対して遠慮してたとか、そういう訳ではない。

 あたしを孤独な世界から引っ張り上げてくれたことには並々ならぬ恩義を感じているし、彼女に対して多少は尊敬の眼差しのようなものを向けていた自覚はある。

 だけど、友達として接する上でそれらを意識したことはなかった。

 少なくともあたし自身はそうであったと思っているし、そうでなくちゃ困る。

 それでも最近(と言っても、もう一年以上になるけど)以前にも増して、気兼ねなく付き合えるようになっていた。

 要因は間違いなく、お互いに腹を割って胸の内を言い合ったことだ。

 その“要因の要因”となった出来事はもう少しだけ過去に遡った、あの、二年前の大雨の日にある―――。



         2

 その日は、朝から、くすんだ灰色の巨大な雲が空を支配していた。

 テレビやラジオで気象予報士が宣った「曇り空でも雨は降らないでしょう」という予報は呆気なく覆され、あたしらの住む町は夕方くらいから大雨に見舞われた。

 あたしはその日も仕事だったけど、雨が酷くなるにつれて、診療所を訪れる患者さんは疎らになっていった。

 そして先生の判断でいつもより少しだけ早めの終業となった。

 あたしが勤めているこの診療所では、まず先生が最初に帰宅する。

 その後、看護師たちが片付けなどを行い、その日一番のベテラン看護師が最後まで残って戸締まりをすることになっている。業務日誌をつけるからだ。

 この日は茶野先輩が担当だった。

 あたしは片付けを済ませて、着替えるためにロッカールームに向かった。

 ロッカーからスマホを取り出すと着信があったことを知らせる光が点滅している。

 確認するために液晶を表示させたあたしは思わず眉をひそめた。

『不在着信 20件』

『新着メール 17件』

 …なんだこれ。

 こんなに電話やメールがくることなんて普段ならあり得ない。

 相手を確認してみると、すべて由香子からだった。

 あたしが仕事中だということは由香子だって知っているはず…。にも関わらず、これだけ連絡を寄越したってことは―――

 嫌な予感がした。

 とりあえず着替えだけは済ませてから電話をかけると、数回の呼び出し音の後、音声ガイダンスに切り替わった。

『現在、電波の届かないところにいるか電源が―――』

 留守電にメッセージを残し、メールも一応送っておく。

 少し待ってみたけど返事はなかった。

 茶野先輩以外の看護師たちは既に帰ってしまっていたので、あたしも一先ず帰ることにした。

 心配なのは当然だけど、このままここにいても仕方がないし、あたしが早く帰らないと茶野先輩に迷惑をかけてしまう。

 そう思って診療所を出ると、そこには傘を差して立ち尽くす由香子がいた―――。

 傘はほとんど役に立たなかったようで、全身ずぶ濡れだった。至るところからぼたぼたと雨の滴をしたたらせている。

「ゆか…こ」

 由香子は無言で俯いている。茫然自失といった様子で、あたしの存在にすら気付いていないようだった。

 あたしはまるで金縛りにでもあったかのように一歩も動けず、それ以上言葉を紡ぐこともできなかった。

 凄まじい雨音がしているはずなのに、その一切が聞こえなかった。

 目の前に降りしきる雨粒の一つ一つをはっきりと認識できるほど、時間の流れが遅く感じられた。

 どれくらいそうしていたのか分からない。

 遅れて診療所から出てきた茶野先輩に、中に入るように促されなければ、いつまでも立ち尽くしていたかもしれない。

 あたしは先輩に声をかけられた時点で我に返ったけど、由香子は相変わらず呆然としたままだった。

 由香子はまるでゾンビのような危うい足取りで中に入ると、無人となった待合室のソファーに座らされた。

 外ではよく分からなかったけど、由香子の顔には泣いたような跡があった。

 先輩がタオルを二枚用意してくれたので一方で自分の、もう一方で由香子の、顔、体、髪などを拭く。

 そうしている間に先輩は給湯室で二人分のココアを入れてくれた。

 待合室にココアの優しい香りが広がる。

 由香子もだいぶ落ち着いたらしく、あたしたちの問いかけにもちゃんと応えられるようになっていた。

「すいません…迷惑かけちゃって」と由香子が言うと、茶野先輩は「迷惑だなんて、とんでもないですよ」と、ふわり微笑んだ。

「あとは二人だけの方が何かと都合がいいでしょうから、私は先に帰るわね。四条さん、スペアキーを渡しておくから、戸締まりお願いね」

 そう言い残して先輩は帰って行った。

 突然の来訪者である由香子に親切にしてくれただけでなく、敢えて何も聞かずにいてくれた先輩の気遣いがありがたかった。

 両手で包み込むように持っていたマグカップを一口すすると、先輩のような優しい味がした。

 隣で由香子も同じようにカップに口をつけていた。

 やがてココアを飲み干した由香子が意を決したようにゆっくりと話し始めた。

 浩一に気になる女性ができたらしいこと。

 その子とニアミスをしたこと。

 でも決して会うことはできなかったということ。

 とあるきっかけから、イマジナリーフレンドなのかも知れないと、冗談半分で疑惑を抱いたこと。

 イマジナリーフレンドについて、由香子なりに調べたこと。

 疑惑が確信に変わる出来事が起きたこと。

 そして、その事実を浩一に突きつけたこと―――。

「浩一が走ってどこかに行っちゃった後、不安になって連絡取ろうと思ったの。でも電話もメールも繋がらなくて…。それで不安になって…。ねぇ、ミズ…。ウチのしたことって、間違ってたのかな」

 泣きはらして真っ赤になった由香子の目を見ながら、あたしは言った。

「少なくとも、あたしは、そうは思わない…。むしろ勇気のある行動だったと、思う。弱いあたしなんかより…ずっと」

 最後の方は小声過ぎて由香子には聞き取れなかったと思う。

 あたしには、由香子の言う“浩一という存在”に何が起きたのかを知る術はない。

 でも、一つだけ、はっきりしていることがある―――。


 由香子は重大な勘違いをしている。


 あたしは、由香子にすべてを話すべき時が来たのだと思った。

 あたしが彼女に今までずっと言えなかった真実のすべてを―――。


 今度はあたしが勇気を出す番だった。



        由香子2

         1

「なかなか面白かったね」

「ふむん。なかなかエロエロだった」

 この子はそこにしか興味ないんかね。まったくもう。

 まあ、確かにヤバかったけど。

 ウチ、めっちゃよだれ垂らしながら見ちゃってたし。…って、これじゃあ、まるで変態みたいだけど、あくまでウチの(悪い)癖のせいだからねッ!

「隣がミズでも、ちょっと気まずかったくらいだよ。ゴールデンタイムにテレビでやっても、さすがにお茶の間では見られないわ…」

「うはは。確かに。気まず過ぎる罠。でも、ゴールデンでやる時はヤバイとこはカットされてる罠」

 そうでした…。

 それなら安心して家族揃って見られるね!

 でも………。

 うーん。

 なんだろう、このモヤモヤは―――。

「それはそれで、なんか違うような気がする…。イマジナリティが足りないって言うか…」

 イマジナリティとか適当に言いました。

「んまぁ~、ゆかっぺったらエロいザマス」

「ミズにだけは言われたくないザマス」

「ちげーねー(違いない)」

 そんなどーしょもない感想を言い合いながら、館内が空くまで少し待った。

 ロビーに戻ると、ミズが記念にキーホルダーを買うと言い出した。

 ウチは先に外に出て待つという旨をミズに伝えてから、入り口に向かって歩き出す。

 落ち着いた照明の館内から外に出ると、相変わらずやる気満々な太陽があった。

 ミズを待つ間、ひなたぼっこでもするかなぁ。

 ―――ぱちん。

 手持ち無沙汰になると、つい、携帯を開いてしまう。

 そして携帯を開くと、つい、時間を確認してしまう。映画の終了時刻は分かっているのだから、わざわざ確認するまでもないのに。

 充電は満タンだった。

 友達からメールが届いていたので、ついでにチェックする。その子と、その子の彼氏のお母さんが実は同じファーストネームであることを彼氏から初めて聞いた―――という、心底どうでもいい内容だった。

 どうせ少し時間があるし、返信しよう。

 ウチは館内に出入りする人の邪魔にならない場所に移動しようと思い、歩きながら返事を打っていた。

 と、その時―――

 左腕に軽い衝撃を受け、地面に着いていた左足を軸に体が30度ほど左側に向いた。

 目の前には同じようにしてこちらを向いている人がいる。

 携帯を見ていたウチは、うつむき加減で、その人の顔は見えていないけど、服装や体格から判断するに男の人のようだ。

 どうやら前から来た誰かとぶつかっちゃったらしい。

 歩きスマホはやめましょう。

 もちろん、歩きガラケーもね。

 反省してます。ごめんなさい。

 お互いが歩みを止め、反射的にほぼ同時に謝罪の言葉を口にした。

「ごめんなさい。ウチ、よそ見してて」

「すいません。急いでたので」

 咄嗟に怖そうな人だったらどうしようかと思っていたけど、優しそうな声を聞いて、少しほっとした。

 声の印象から、結構若そうだと思った。

 相手の手元を見ると、ふたの開いたジュースの缶を持っていた。今の衝撃で中身が少し飛び出し、手や鞄などにかかってしまったみたいだ。

 ウチの視線に気付いた男性は「ああ、気にしないでいいですよ」と優しい声で言ってくれた。

 でも、気にしないでと言われても、さすがに申し訳ない気持ちになる。

 相手はおそらく年下だし、本当ならクリーニング代くらいは出させてほしいんだけど…とりあえず、ハンカチを差し出した。

「あの、よかったらこれ…」

 あっ。ヤバイ…。

 このハンカチは興奮して垂れたよだれを拭いたやつだった。…別のを出さなきゃ。

 こんなこともあろうかと、いつもハンカチは二枚常備しているのだ。

 偉いぞ、ウチ。

「あ、ちょっとごめんなさい。こっちじゃなくて…」

 がさ…ごそ…

 あれ…。

 そう言えば。

 今日は映画中にいっぱいよだれ垂らしそうになって、咄嗟にもう一枚も使っちゃったんだっけ…。

 もう駄目だ。お終いだ…。

 このままこのハンカチを貸して、「わざわざありがとうございます」みたいなお礼を言われても、内心では「なんか変な臭いがしたな」とか思われるんだ…。そうに違いない。

 そんなの(おそらく)年上の女性として、恥ずかし過ぎる…。

 どうせなら、「フローラルな香りがする。大人の女性って素敵だな…」って思われたかったよぅ。

 ウチの馬鹿あほ。

 嗚呼ッ、どうしよう―――

 そんな心配は、男性の「ポケットティッシュ持ってますから」と言う一言で杞憂に終わる。

 ポケティで手を拭っている男性の顔を失礼にならない程度によく見てみる。

 なんとなく似てるかも…。

「浩一……」

 ウチは二年以上も前に亡くなった親友の名前を思わず口に出していた―――。



         2

 二年前のあの大雨の日、ウチはミズにすべてを打ち明けた。

「ウチのしたことって、間違ってたのかな」

 その問いかけに対して、彼女は真っ直ぐな視線をウチに向けて言った。

「少なくとも、あたしは、そうは思わない…。むしろ勇気のある行動だったと、思う」

 その後にも何か言っていたようだけど、ウチにはよく聞き取れなかった。

 この後にミズから聞いた話から察するに、たぶん、ウチに対して何かを言ったのではなく、自分自身を鼓舞するようなことを言ったのだと思う。

 ため息をつくように一度大きく息を吐いたミズは「由香子」とウチを呼んだ。

 出会ったばかりの頃は「小林さん」と呼ばれていたし、仲良くなってからは「ゆかっぺ」だった。

 下の名前で呼ばれたのはたぶん初めてで、ミズ―――瑞希が、何か重大な話をしようとしていることが分かった。

「何があっても、まずは最後まで聞いてほしい」

 彼女はウチが浩一にしたのと同じ断りを入れてから話し始めた。

 ウチにとって衝撃の事実が次々と語られていった。

 その内容のほとんどは、すぐに信じられるようなものではなかった。

 途中どうしても黙って聞いていられなくなって、何度か約束を破ってしまった。口を挟んだり、みっともなく取り乱したりもした。

 その度に彼女はウチが落ち着くまで待ってくれた。

 そしてきちんと理解して飲み込めるよう、少しずつ、丁寧に話してくれた。

 優しく言い聞かせてくれた。

 ウチが浩一にそうしたように。

 瑞希から知らされた真相は、ウチが浩一に伝えたそれと、どこか似ているところがあった。

 …でも決定的に違っていた。


 まず、浩一は二年前の当時の時点で、半年も前に交通事故で亡くなっていた。


 彼はペーパードライバーで、車を運転することは滅多になかった。

 でもその日の夜は人を迎えに行く約束があって、家族共用の軽自動車を渋々ながらも運転することになっていた。

 交差点を直進していた軽自動車に、信号無視をして進入してきた一台のワゴン車が猛スピードで激突した…というのが事故のあらましだ。

 ワゴン車を運転していた二十代の男性は飲酒運転な上に無免許だった。

 この事故による死者は二名。

 どちらの車も運転手以外の人間は乗り合わせていなかった。

 車体がめちゃくちゃに大破するほどの衝撃で、ほぼ即死だったそうだ。

 その日、何年かぶりのクラス会に参加していたウチは、ほろ酔い気分で浩一の車を待っていた。約束は十時のはずだけど、二十分も過ぎていた。

 でも、運転嫌いな浩一に無理にお願いしちゃったのはウチの方だし、何より今日は気分が良いから大目に見てあげよう。お店から頂いたお土産も特別に進呈しちゃおうかな。

 それにしても結構眠い…。

 すっごく楽しかったけど、その分、すっごく疲れたし…。

 早く帰って、このままお布団にダイブしたいわ。

 嗚呼ッ、化粧落とすの面倒くさいッ!

 会場となっていたイタリアンレストランの駐車場でそんなことを考えながら、彼の車がやって来るはずの方向を見ていると、やがて見覚えのある軽自動車がこちらに向かって直進してくるのが見えた。

 ここからじゃ、まだ向こうには見える訳ないのに、ウチは大きく手を振りながら彼の到着を待ち構える。


 そして、その惨劇は、ウチの目の前で起きた―――


 ウチは確かにその瞬間をこの目で見ていたはずだった。

 でも、何も覚えていなかった。

 それどころか、瑞希に話を聞くまで、事故の記憶すら無かった。



        瑞希2

         1

 由香子のご両親に聞いた、当時の医者の見解では、あまりに大きなショックを受けた脳と心が記憶の一部を忘れることで正常を保とうとしたのだろう、とのことだった。

 健忘症―――いわゆる、記憶喪失の一種で、事故に遭った当事者には往々にして起こり得る症状である。

 由香子は当事者ではなかったけど、目の前で幼馴染みである親友が死んだのだから、そのショックは計り知れない。

 そして、おそらく、彼女の中には「浩一に迎えを頼んだ自分のせいだ」という考えが浮かんだに違いないのだ…。

 その罪悪感でどれほど重い十字架を背負うことになるのか―――考えただけでも胸が張り裂ける思いがする。

 事故直後の由香子がどういう状態だったのか、あたしは知らない。

 あたしは事故の翌日に浩一の死を知ったのだけど、さすがにショックが大きくて、誰かに構っていられるような余裕はなかった。

 由香子に会ったのは、確か、二、三日経ってからだったと思う。

 どのような顔をしていいのか分からず戸惑うあたしをよそに、由香子はいつも通りの態度を崩さなかった。

 あたしは最初、無理をして気丈に振る舞っているのだと思った。

 でもそれは間違っていた。

 その時には既に、彼女の中では事故などなかったことになっていて、浩一も存命ということになっていた。

 色々と話が噛み合わないことがあった挙げ句に、あたしは由香子が記憶障害に陥っている可能性を疑った。

 その考えに至らなければ、「ふざけているのか」と怒り狂ったかもしれない…。

 一言に記憶喪失と言っても、原因や度合い、健忘の期間など、様々な種類、パターンが存在する。

 その後、あたしが個人的に聞き取りをした限りでは、由香子が失った記憶は事故の瞬間とその前後のことだけだった。

 すぐに医者に見せるようにと、ご両親に勧めた。

 診断結果は、おそらく、心因性による部分的な逆行性健忘症と言ったところだろう。

 逆行性健忘症は、その原因となった出来事と共に、それ以前の記憶が大きく欠落してしまう場合がある。

 由香子はそうならなかっただけ、不幸中の幸いだったと言えるのかもしれない。

 ただ、浩一の死を受け入れられなかった由香子は、当然、通夜や葬式に参列できるような状態ではなかった。

 彼の死を受け入れられるように、あたしと由香子のご両親は、何度も話して聞かせようとした。

 でも―――。

 その度に由香子は、まるで人形のような虚ろな目をして黙りこくったり、嫌々をするように耳を塞ぎながら「聞きたくない聞きたくない」と呟いたり、髪を掻きむしりながら支離滅裂な言葉を喚いたりした。

 彼女は普段は全く問題なく生活しているのに“その事実”を伝えようとした時だけ、まるでそれを拒むかのように心を閉ざすようになってしまったのだ。

 もはや、あたしたちには手の打ちようがなく、時間の経過による回復を願うばかりだった。

 ところが、由香子の症状は回復の兆しを見せるどころか、より複雑化してしまう。

 浩一の幻を見るようになったのだ。

 あたしは日に日に感じていた。

 始めのうちはあやふやで、まさしく『幻』だった浩一が、由香子の中で徐々に―――だけど確実に、その存在感を増していくのを。

 言いようのない不安と、いるはずのない浩一に対する恐怖のような感情が、あたしの中で渦巻いていた。

 …でも、どうすることもできなかった。

 浩一の死に関する話は、この頃になっても拒絶されていたし、何より、「由香子のことはそっとしておいてほしい」というのが、ご両親の意向であり、暗黙の了解になっていたからだ。

 あたしの気持ちをよそに、やがて由香子はそこに浩一がいるのだという空気を惜しみもなく出すようになっていった。

 そしてついに、その架空の存在を完全なイマジナリーフレンドとして確立させてしまったのである。


 つまり、これ以降に由香子が目撃したり、会ったり、話したりした浩一は、すべて彼女が創り出したIFということになる。


 由香子の言う「浩一のお相手」というのが、どういう存在に当たるのかは、正直、よく分からない。

 誰も認識すらしていないのだから「何でもない」とか「気のせい」という存在なのかもしれない。或いは霊的な「何か」とか。

 それはさすがにないとして。

 敢えてその存在を明確化するとしたら、さしずめ『IFのIF』といったところだろうか―――



        由香子3

         1

 ミズから聞いた話では、ウチは知らず知らずのうちに矛盾を回避するような行動をとっていたらしい。

 前にも話題にあがった、防衛本能によるものだ。

 その最たる例が携帯電話だった。

「由香子は幻の浩一と接している時は、いつも耳に携帯を当てながら喋ってたんだよ」

 端から見れば虚空に向けて独り言を言い続けているように映るのだから、(実際そうなのだけど…)周りの人たちにそう思われないようにするための措置だったのだろう。

「発信先はあたしのスマホ…。あたしが電話に出て通話状態になると、由香子はあたしの声なんかまるで聞こえてないみたいに一方的に話してた」

 ウチは携帯の発信履歴を確認した。

 家族。仕事関係。二人とは繋がりのない友達。それらを除けば、すべて『ミズ』で埋め尽くされていた。

 今までは確かにそこに『浩一』もあったはずなのに、何度確認してみても、その名前はなかった。

 きっと、ミズから真実を聞いたことでウチの認識が変化し、その結果、それまで『浩一』に見えていたものが『ミズ』に変わったのだ。

 そのうちのいくつかは通話状態にはならなかったようだ。ミズのスマホから見れば不在着信ということになる。

 基本的にはウチからの電話には出るようにしていたらしいミズだけど、出られない時もあるのは当然のことだろう。

 でも、出られる状況であるにも関わらず、敢えてスルーすることもあったらしい。

 その主な理由は以下の三つ。


・一方的に話し続けるウチのことを不憫に思った。


・架空の相手とはいえ、会話を盗み聞きしているようで気が引けた。


・自分の声が無視されることで、存在そのものを否定されているような気持ちになるのが耐えられなかった。


 三つ目が特に辛かったとミズは言っていた…。

「でもあたしが出るかどうかは問題じゃなかった」

 ミズは留守番電話のサービスは利用していないから、そういう時は永遠と鳴り続ける呼び出し音に向かって話していたのだろう、とのことだった。

「留守電サービスに登録すれば少しは違ったのかも知れないけどね」

 ミズはそう言ったけれど、それでもおそらく結果は変わらなかっただろう。

 音声によるガイダンスが流れていようが、電話が切れてツーツー音が鳴っていようが、ウチには関係なかったのだから。

 この話を聞いて、一つ、気付いたことがあった。

「じゃあ、ウチの携帯の充電が、ろくに使ってもいないのに減ってたのは…」

「そう。“浩一と会ったり、話をしたりしたことになってる日”だったんだよ」


 ミズはすべてを話し終えて、どこかすっきりした表情だった。

 ようやく肩の荷が降りたような。


 彼女は最後に少しだけ自嘲するような表情を浮かべると、こう締め括った。

「今まで騙してて、本当にごめん。あたしには勇気が足りなかったんだ」



         2

 あの後―――見知らぬ男の人に、思わず「浩一……」と言ってしまった後―――。

 当然のようにポカンとしているその人に「知り合いに似ていたもので」と事情を説明して、二三言葉を交わしてから別れた。

 一応、クリーニング代のことも言ってみたけど、丁重に断られてしまった。

 彼は風のように颯爽と行ってしまった。

 なんでも、人を待たせているとかで、結構急いでいたらしい。

「悪いことしちゃったなぁ…」

 なんとなく浩一に似てるとは思ったけど、話してみると声まで似ていて少し驚いた。

 うむ。なかなかの好青年であった。

 見た目がどうとかの話じゃなくて雰囲気ね。雰囲気。

 もうちょっとだけ話をしてみたかった気もするけど、きっと、もう二度と会うこともないんだろうな―――。

 でも、それはそれでいいのかも知れない。

 一度きりの出会いだからこそ素晴らしいっていうこともあると思うし。

 つまりあれよ、あれ。一期一会ってやつ?


 …なんか、ウチ、かっけー。


 ―――などと思っていたのが、ほんの十数分前。

 今はインター内のフードコートで、ミズと向かい合いながら、たこ焼きをはふはふと頬張っている。

 そしてすぐ後ろの席には、まさかまさかの、さっきの好青年がいた。ウチとはちょうど背中合わせになる形である。

 珍しく四文字熟語とか使って少し賢くなった気分に浸ってたのに…ウチの一期一会って一体…。

 そんなウチの心の声などつゆ知らず、「うまうま」と、たこ焼きをつつくミズが妙に恨めしい。

 とにかく、そんな訳で。

 なんとなく、青年には気付かれたくない…

 幸いにも、ウチらより後に来た彼はこちらに気付くことなく後ろの席に座った。

 人を待たせていると言っていたけど、お相手は女の子だったようだ。

 一緒にハンバーガーを食べてるっぽい。

 彼らが席に着く時にチラッと見た限りでは、その子はかなりの美人だった。

 まだ少し微妙な距離感みたいだけど、デートまで取り付けたんだから、脈はありそうじゃん。

 やるねぇ…青年。

 あ、いや、決して盗み聞きしている訳じゃないんだけど…その、聞こえてきちゃうのよ……。なんせ、すぐ後ろの席なもんで。

 しかも、周りは結構ざわざわしているはずなのに、聴覚が妙に研ぎ澄まされちゃってるって言うか…。青年たちも、別に、特に大きな声で話してる訳でもないのに、やけにクリアに聞こえるんだよなぁ…。

 こういうのなんて言うんだっけ。

 なんとかかんとか効果。

 前にミズから聞いたことあるんだよね…。

 パーティー会場みたいな周りがざわざわしてるところでも、自分が興味のある言葉は何故か聞き取れちゃうっていう現象…。

 そうそう、確か、カクテルパーティー効果!

 今、完全にその状態なんだと思う。

 その分、さっきからミズとの会話がかなり雑になっている自覚がある―――。

 まあ、

「たこ焼きは、たこが入ってなければ最高なんだけどね」

「それ、もうたこ焼きじゃないじゃん」

 って感じの、心底どうでもいい内容の会話しかしてないから、別にいいんだけど。

 すぐ後ろから聞こえてくる会話の方が内容もあるし、断然、興味深い。

 ―――と言う訳で。

 ウチはもう少しだけ、後ろの二人に意識を集中させてみた。

 どれどれ。


「うはぁー。ハンバーガーって食べるの難しいんだねー」

「そう…だっけ」


 君たちは、なんて微笑ましいやり取りをしているんだっ! お姉さん、思わずキュンとしちゃったよっ!

 てか、美人ちゃんはハンバーガーも食べたことないくらい、育ちのいいお嬢様なのか。

 それとも田舎者なのかな…?

 まあ、ここいらに住んでるって時点で都会者ではないんだけどね。

 やがて四人全員(ひとまとめにしちゃうのもどうかと思うけど)が食べ終えた。

 ウチとミズが「この後、どうする?」って話をしていると、後ろの青年がお手洗いのついでにゴミなどを片付けるとのことで席を立った。

 すると―――、

 まるでそれを見計らったかのようなタイミングで、近くにあるドーナツ屋さんのお姉さん(と言っても、年下。…絶対)がウチらの方にやってきた。

「良かったらどうぞー」

 ウチとミズに軽い感じで声をかけつつ『人気のドーナツが今だけ百円』というセールのチラシをくれた。

 後ろの席の方にひょいっと移動したドーナツお姉さんは、美人ちゃんにも同じようにチラシを渡したようだ。

 ただ、ウチとミズの時みたいな軽い感じではなかった。

 お姉さんのテンションがやけに高いものだから、最初は二人が知り合いか何かなのだと思った。

 でもよく話を聞いてみると、どうやら、そうではないようだった。

 いや、しつこいようだけど、自然に聞こえてくるんだからねっ!

 なになに…?

「初めまして。私、神崎浩一の妹の神崎ゆうかって言います」

「えっ、コウくんの…妹さん? ゆうか、さん?」

「はい。お兄ちゃんには『ゆか』って呼ばれてますけど」

 同じ呼ばれ方してるってだけで、なんか一気に親近感。

「お兄さんの友人の黛麻友です。初めまして、ゆうかさん」

 なかなか律儀な美人ちゃんは黛ちゃんと言うらしい。

 挨拶もそこそこに、神崎さんが事情を話し出す。

「いきなり話しかけちゃってごめんなさい。見ての通り、私、そこのドーナツ屋でバイトしてるんですけど、たまたまお二人を見つけちゃいまして」

「お兄さんに何か用事かな? それなら、今―――」

 黛ちゃんは、どうやら、空気を読むのは苦手らしい。

「あ、いいんです。お兄ちゃんがいない隙を狙ってきたので」

「えっ? それって…」

 やっぱり。

 黛ちゃんに何か言いたいことがあるみたい。…まさか、「私のお兄ちゃんに手を出さないでよ! この泥棒猫ッ!!」とか?

 いやいや、さすがにそれはないかー。

「時間がないので、手短に話しますね」

 ふむふむ。

 ウチはその続きを、期待しながら耳をそばだてて―――もとい、期待はしてるけど、あくまで、聞くともなしに聞いていた。

「黛さん…」

 ドキドキ。

「はい…」

 わくわく。


「ドーナツ買いに来て下さい!」


『―――って、それだけっ!?』

 心で叫びつつ、軽くズッコケるところだった…。

 言われた本人でもないウチがしどろもどろになっているのに、背中越しに伝わってくる黛ちゃんの様子は落ち着いたものだった。

「ドーナツ?」

「はい。そのついでに、少しだけ二人で話をしたいんです」

「わたしと?」

「私、そろそろ休憩なので、もし良かったらお願いします」

 黛ちゃんは「それは別にいいんだけど」と言いつつも、どこか渋るような声音だった。

「でも、わたしがドーナツ買いに行くって言ったら、お兄さんも一緒に来るんじゃないかな?」

「大丈夫です。お兄ちゃんは私がここでバイトしてること知ってますから、女の人同伴で来るなんて絶対に有り得ません」

「はぁ…」

「じゃあ、私はお兄ちゃんに見つからないうちに退散しますね。もし来られたら来て下さい。イートインスペースで待ってますから」

 とりあえず、彼女が黛ちゃんと二人だけで話がしたいということは分かった。

 そして神崎青年が、妹である『ゆか』こと、ゆうかちゃんには、黛ちゃんのことを秘密にしてるってことも。

 正式に恋人になるまでは家族に紹介したくないのかな。

 でも、ゆうかちゃんの話ってなんだろう。

 少し―――いや、割と気になる。

 単に、お友達になりたいとか、そういう話かな。

 黛ちゃん、超絶美人で性格も良さそうだし。―――ウチだって友達になりたいくらいだもんなぁ。

 それとも、神崎青年のことをよく知る妹から、彼を落とすための秘訣を伝授する…的な?

 黛ちゃんにはそんなもの必要なさそう…。

 じゃあ、やっぱり泥棒猫?

 さっきの感じからして、間違いなくそれはないよね。

 ウチはそんなことを考えていたんだけど―――

「ゆかっぺ、そろそろ行こうず」

 どうやら時間切れみたい。

 ぱちん。

 携帯を開くと、例のイベントまで十分を切っていた。

 ぶっちゃけ、イベントには全く興味がないから、別に行かなくてもいいんだけど…。

 でもさすがに今更「行かない」なんて言えるはずもなく…。

 ウチは思いっ切り後ろ髪を引かれる思いでその場を後にしたのだった―――。



        ゆうか1

         1

 アルバイトの時間が終わった私はバックヤードで帰り支度をしていた。

 着替えが終わると、家族(具体的にはママ)に今から帰る旨をメールで連絡する。

 インターで買い物をしたレシートがあれば無料で乗車できるバスが定時的に出ているので、いつもそれを利用している。

 従業員などのインターの関係者には専用のパスがあって、買い物をしなくても無料で送迎してもらえるのだ。…勤務日に限り、だけどね。

 それでも、まだ車の免許が取れない年齢の私としては超助かる。

 駅前のバス停に着く少し前にまたメールをすることになっていて、駅からは車で送ってもらうのがいつもの帰宅ルートだ。

 ちなみに、メールはママの携帯に送っているけど、実際に迎えに来てくれるのはパパの方だったりする。

 じゃあ、なんでパパの携帯にメールしないのかって?

 それは単純に、パパが面倒くさがるから。

 実の娘とメールするのが面倒くさいなんて超失礼だと思わない?

 て言うより、迎えに来ることの方がよっぽど手間がかかると思うんだけど。

 何故かそっちは全然嫌がったりしないんだよね…。

 むしろ率先して来てくれるくらい。

 それが、娘である私を心配してくれてのことだっていうのは分かる。…嬉しいし、当然、感謝している。超感謝。

 でも、だったらメールくらい……ねぇ?

 たかだか、『〇分頃に着くよ』『了解』ってだけのやり取りだよ?

 面倒くさがらなくても良くない?

 私の友達にも何人かいるけど、普通は娘の方が嫌がったりすることの方が多いと思うんだけどなぁ…。

 まぁいいや。閑話休題。

 荷物をまとめてバックヤードを出る。

 扉を閉める前に、忘れ物がないかもう一度よく確認しておこう。

 …うん。

 おっけー。

 家族のために用意した、お土産のドーナツも忘れずに持ってるな。

「お疲れ様でしたー」

 誰ともなしに呟いてから扉を閉め、私はバス乗り場へと向かった。



         2

「ただいまー」

 言いながら玄関扉を開くと、パタパタとスリッパの音がして、リビングからママが顔を覗かせた。

「おかえり、ゆうか。お疲れ様」

「はい。お土産」

 ママにドーナツの入った箱を手渡す。

「あら、いつもありがとうね」

「いつも通り、一人二つずつだからね」

「はいはい。分かってます」

 蓋を少しだけ開けて箱の中身を確認したママはご満悦のようだ。我が母親ながら、ちょっと子供っぽいと思う。

「お父さんも、送り迎え、お疲れ様です」

「ん」

 そんな二人の会話を背に、私は洗面所へ向かい、手洗いとうがいを済ませた。

 ハンドソープの残りが少ないので補充しよう。

 そう思って、買い置きされている詰め替え用のパックを棚から取り出すと、それが最後の一つだった。

 封を切って、零さないように注意しながら中身を注ぐ。

 シャンプーとかリンス、それにボディーソープって、ボトルに移し替えるのが何気に超面倒くさい。ついつい、パックのまま使ったりしがちだよね。

 その日は「明日やろう」って思うのに、次の日になると、また「明日でいっか」になっちゃうんだよなぁ…。もしくは「誰かがやってくれるだろう」ってね。

 我が神崎家では家族四人が揃いも揃って同じスタンスなものだから、酷い時にはそのまま使い切って、お風呂でパックがへなへなになっていたりする。

 でも、何故か、ハンドソープはそうならない。

 封を切った人が、その都度、移し替えているからってだけなんだけど。…不思議。

 シャンプー、リンス、ボディーソープの移し替えと、ハンドソープの移し替えの、違いってなんなんだろ。…ほんと、超不思議。

「ふぅ…」

 中身を全て注ぎ終えたところで私は一つ息を吐いた。

 毎回思うんだけど、この作業って超気ぃ遣使うよね。油断するとすぐボトルからはみ出したりするし。

 ストックがなくなったことをママに言っておかなきゃ。

 次になくなった時に替えがないと困るもんね。

 正直、殺菌とか消毒なんて、少し前まではあまり気にしていなかった。

 けど、最近は気を遣うようにしてるんだ。

 ドーナツ屋で働いている時間は、食品を扱っている以上、衛生面には常に細心の注意を払っている。

 シフトに入る前とか、休憩から戻る時には毎回必ず手を洗う。

 他にも作業中に手を洗うような場面が結構あるんだけど、それが習慣化しちゃったって感じ。

 リビングではパパとママがテレビを見ながら寛いでいた。

 二人並んでソファーに座っちゃって超仲良しなパパとママなのである。

 仲良きことは素晴らしきかな。

 ママにハンドソープのことを伝え、私は二階にある自分の部屋へと向かった。

 途中、お兄ちゃんの部屋に顔を出すことも忘れない。

 超仲良しな兄妹なのである。

 これだけ仲が良いんだから、黛さんのこと、紹介してくれてもいいと思うんだけどな…。

 ま、何はともあれ。

 仲良きことは素晴らしきかな。その2。

「お兄ちゃん、ただいま」

 ベットに横になって文庫本を読んでいたお兄ちゃんは一瞬だけこちらに顔を向けてから言った。

「ん。おかえり」

「またお土産もらってきたよ」

「お。さんきゅー」

 私が何も知らないと思って、いつも通りの態度のお兄ちゃん。

 そんなお兄ちゃんを見ていたら、ちょっとだけ悪戯心をくすぐられちゃったみたい。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 既に読書に意識を戻していたお兄ちゃんは、私が再び話しかけたのが意外とでも言いたげな表情でこちらを見た。

「ん? どうしたんだ? ゆか」

「最近なんかいいことでもあったの?」

 素知らぬ顔で聞いてみると、お兄ちゃんは明らかに動揺し始めた。

「は? なんだよ。藪から棒に」

「なんか最近、機嫌いいから」

「べ、別に、そんな事ないよ…」

 少し罪悪感もあるけど…超面白い。

 すっかり悦に入っていると、思わぬ反撃を受けてしまった。

「ゆかの方こそ、何かいいことでもあったんじゃないのか? 顔がニヤけてるぞ?」

 ぐはっ。



         3

 あの後は少しだけテンパったけど、なんとか誤魔化してからお兄ちゃんの部屋を後にした。

 今は自室でくつろぎ中。

 それにしても、まさかお兄ちゃんに感づかれるとは思ってなかったよ。

 さすがに少し油断しすぎたのかも。

 でも、私、そんなにニヤけてたかなぁ…。

 確かにいいことあったけど。

 それも超いいこと。

 本当は言いたくて言いたくて仕方がないくらい、いいこと。

「よいこら―――しょっと」

 若干おばちゃんくさい声を上げながらベッドに腰をおろし、そのまま後ろに倒れ込む。

 仰向けになった私は持っていたスマホをタップしてアドレス帳を開いた。

 数時間前に追加されたばかりの『黛さん』という文字を見ると自然と頬が緩んだ。

 何を隠そう、家に帰ってくる途中にも何回か同じことをして顔をほころばせていたりする。

 私は『黛さん』をタップして電話番号とメールアドレスを表示させる。

 まさかあの流れから連絡先を交換することになろうとは、さすがに思っていなかった。

 私のお昼休憩は一時間たっぷりあったけど、黛さんと話せる時間はそれほどなかったし。

 お兄ちゃんを待たせている黛さんをあまり不自然に長居させるる訳にはいかなかったから。

 それでも思いの外、色々話せたと思う。

 その中で、黛さんとお兄ちゃんが、まだ、お互いの携番やメアドを知らないということを知った。

 黛さん曰く、「お兄さんはわたしと連絡先を交換したくないみたいなんだよ…。お兄さん本人に確認した訳ではないんだけどね、何か理由があるみたい」とのことだった。

 あんな素敵な女性と仲良くなっておきながら、携番もメアドも聞かないとか。…何やってんだろ、お兄ちゃん。

 むしろ、逆にマナー違反だよ。

 もし黛さんに少しでも好意を寄せているのなら、連絡先は交換しておいた方がいいに決まっている。

 仮にそうじゃなかったとしても、何かあった時に連絡が取れないのは普通に困るじゃんか…。

 …ひょっとして、私のお兄ちゃんは馬鹿たれなのかな?

 ま、それを言うなら、黛さんも―――ってことにそうなっちゃうんだけどね…。

 でも、黛さんは、なんか許せる。

 とにかく。

 黛さんからそのことを聞いた私は、「じゃあ、私と交換しちゃいます?」って、冗談半分で言ってみた。

 そしてたら黛さんは満面の笑みを浮かべて「えっ、いいの? やったぁ☆」って言ってくれたんだ。…語尾の『☆』は、ま、気にしないで。

 その時の黛さんの可愛さは筆舌に尽くし難いほどの破壊力だった。

「むふっ」

 思い出しただけでまた頬が緩んじゃう…。

 女の私でさえ“こんな”なんだから、男の人はもっと“やられちゃう”んだろうな。

 お兄ちゃんなんて、たぶん、瞬殺。デス。

 はっきり言って、黛さんは美人だと思う。超美人。

 髪とか超さらさらでキューティクルも綺麗だったし、お肌だって超きめ細かかった。

 そして何気にスタイルも抜群だった。

 セクシーっていう感じではなくて、シュッとしてて、健康的なスレンダーって感じ。

 おまけに(ちょっと話しただけだけど)性格もいいんだから、非の打ち所がない。

 服のセンスは正直………だけど、黛さんの場合、それすらも可愛らしさのような気がしてしまった。

 むしろ、そこが一番、お兄ちゃんのハートを鷲づかみにしてそう…。そういうのも、ギャップ萌えっていうのかな。

 ほんと、お兄ちゃんには勿体ないくらいの女性だと思うけど、もし二人が正式にお付き合いすることになったとしたら、私は超嬉しい。

 周りに自慢したくなるくらい素敵な人だっていうのもあるけど、私自身、もっと黛さんと仲良くなりたいから。…理想は、友達というより、仲の良い姉妹みたいな関係になれたらいいな。

 そして、いずれはお兄ちゃんと結婚して、本当のお姉ちゃんになってくれたら、もう夢のよう。

 そんな黛さんと連絡先を交換してテンションMAXな私だけど、実は少しだけ困っていた。

 果たして、気軽に連絡していいものなのかどうなのか…。

 とりあえず挨拶くらいはしといた方がいいのかな―――

 そう思ってお昼休憩が終わる直前に打ったメールもまだ送っていない。

『今日はありがとうございました。これからお兄ちゃん共々よろしくお願いします』という、当たり障りのないものだけど…何故か、おいそれと送信できなかったんだよね…。

 帰宅中も何度かそのメールを送ろうと思ったんだけど、結局、私の指が『送信』をタップすることはなかった。

 まるで好きな人と連絡先を交換したばかりの中学生みたいだ…。

「ゆうかー。ご飯よー」

 一階からママが私を呼ぶ声が聞こえた。

 もうそんな時間だったのか。

「お父さんも浩一も、もう揃ってるわよー」

 メールを送信するかしないかで迷ってるうちに結構経っていたみたい。

 私は「えいやっ」と『送信』ボタンをタップした。

 液晶には『送信しました』の文字。

 散々迷った挙げ句にしてはなんとも呆気ない。

 スマホをベッドに置いて部屋を出る。

 もし持って行ったら、それこそ、好きな人からの返事を待つ中学生のようになってしまいそうだった。

 スマホをチラチラと気にしてて、家族(特にお兄ちゃん)に変に勘ぐられでもしたら困る。

 階段を下りながら思った。

 お兄ちゃんに言いたくて言いたくて仕方がない…。

「黛さんと連絡先を交換したんだよ!」

「私、二人のこと、超応援するよ!」

 ―――って。

 ま、お兄ちゃんを欺いて不当に交換したようなものだから、口が裂けても言えないけどね。

 て言うより、お兄ちゃんが紹介してくれればいいだけの話なんだけどさ!

 一階に到着してリビングに向かうと、パパ、ママ、お兄ちゃんが食卓を囲んでいた。

 私がその輪に加わると、お兄ちゃんが文句を言ってきた。

「遅いぞ、ゆか」

「ごめんごめん。ちょっとウトウトしちゃってて」

「まぁ、疲れてるだろうから、仕方ないか」

「そうそう」

 パパは黙ってそのやり取りを見ていたけど、ママが手を合わせながら口を挟んだ。

「ほぉーら、二人とも、ちゃんと手を合わせなさい」

「うん」「はーい」

 私たちがそれに従うと、パパも無言で手を合わせる。

 そして家族四人の声が揃った。

「「「「いただきます!」」」」


 神崎家は今日も平和だ。



        瑞希3

         1

「加藤先輩。こんにちは」

 好きなアニメのくじを引くために近所のコンビニに入ると、店内のイートインスペースで見知った顔を見つけたので挨拶をした。

「あら、四条さん。奇遇ね」

 加藤先輩は旦那さんと二人でソフトクリームを食べていた。

 旦那さんが先輩に「知り合い?」と問いかける。

「ええ。職場の後輩の四条瑞希さん」

「初めまして。四条です」

 本当は二人の結婚式の時に挨拶はしてるんだけど、「初めまして」と言ってしまっても問題はないだろう。

 旦那さんと軽く自己紹介を交わした後、先輩とも少し話をして、そそくさと退散した。

 あまり新婚の二人を邪魔しちゃ悪いし、買い物もしないで居座るのも不自然だと思ったからだ。

 先輩に、あたしがガチでくじ引きしてるところを見られるのはちょっと恥ずかしい。

 少し時間をおいてからまた来ることにしよう。

 一応、ガムくらいは買って帰ろうかな…。

 あたしも意外とチキンね。ふっ。

 …

 ……

 ………

 ところで。

 加藤先輩というのは、何を隠そう、先日まで茶野先輩だった人だ。

 そう、先輩はかねてからお付き合いをしていた彼氏さんと、めでたく、ゴールインしたのである。

 結婚式には診療所のみんなも呼ばれ、もちろん、あたしも参列させてもらった。

 式の会場になった教会は、豊かな緑に囲まれた場所にあって、それだけでも抜群の雰囲気だった。

 結婚式はおろか、教会という場所自体が初めてだったあたしは、その神聖さや厳かさに圧倒されただけでなく、式の間中、感動に浸りっぱなしだった。

 特に、ウエディングドレス姿の先輩を見た時の衝撃は言葉では言い表せないほどのものだった。

 静謐とした空気が張り詰める中、ヴァージンロードを歩む先輩に、思わず涙ぐんでしまったほどだ。

 我ながらなんで泣いてるのかもよく分からなかったけど、流れ落ちる涙を止めることはできなかった。

 …泣くのは主にご両親の担当なのに。

 ウエディングドレス姿の先輩は、大げさでもなんでもなく、この世のものとは思えないほど綺麗だった。

 普段の先輩は愛されキャラで、「綺麗」というよりは、「可愛らしい」という印象が強い。

 前にも言ったと思うけど、あたしの中では『マシュマロのような人』だし、そりゃもう、可愛らしいよ。

 年上の先輩に対して「可愛らしい」という表現は、もしかしたら失礼にあたるのかも知れない。…けど、可愛らしいものは可愛らしいんだから仕方がない。

 そんな普段の『可愛らしい先輩』と、式中の『この世のものとは思えないほど綺麗な先輩』とのギャプが、より衝撃的だったことは言うまでもないだろう。

 ブーケトスには一応の流れで参加したんだけど、先輩の投げたブーケは真っ直ぐにあたしのところに飛んできて―――つい、キャッチしてしまった。

 拍手されるやら、もてはやされるやらで、恥ずかしいったらなかった…。

 でも先輩と目が合うと、ふわりと微笑んでくれたのでなんだか得した気分になれた。

 ちなみに、持ち帰ったブーケは花瓶に生けて楽しんだ。

 思いの外早く枯れてしまったのが残念でならない。写メ撮るだけじゃなくて、ドライフラワーにでもして取っておくのも“あり”だったかも―――と、ちょっと後悔した。

 式の後、会場を移動して行われた披露宴は盛大にという感じではなく、どちらかというとこぢんまりとした印象だった。

 でも、あたしとしては、あまり派手じゃないところが先輩らしいと感じたし、会場全体がアットホームな雰囲気になっていて良かったと思う。

 たぶん、先輩のことをよく知る人は、みんなそう思うはずだ。

 料理はどれも美味しかったけど、初めて食べたフカヒレは、正直、ゴムみたいな食感であまり好みではなかった。安価なものを使用しているのだとは思うけど、最高級品はどう違うのだろうか。

 食べる機会は一生ないかも知れないので、あたしの中のフカヒレはゴムみたいな印象のまま終わるのだと思う。

 そんなこんなで料理を楽しんでいると、やがて催し物が始まった。

 新郎新婦の友人たちによる余興は、笑いあり、涙あり、様々な趣向が凝らされていて最後まで飽きることはなかった。

 新郎さんが周りのみんなに好かれているということがよく伝わってきたし、「やっぱり先輩は診療所以外でも愛されキャラなんだなぁ」と思った。

 結婚式には付き物だと思われる「新郎新婦のこれまでの軌跡」や「二人の馴れ初め」などを紹介するVTRが流されると、食い入るように見てしまった。

 こう言ってしまってはなんだけど、特に波瀾万丈でドラマチックなエピソードがあったという訳でもないのに、(さすがにちょっと失礼かな?)何故かここでも泣いているあたし…。親かっ。

 一通りの催し物が終わり、「しばしのご歓談タイム」になると、新郎新婦の元へ挨拶に行き、記念撮影をお願いした。

 先輩に彼氏さんがいることは前から知っていたけど、実際に見るのは初めてだった。

 さっきまでの、少し遠目に見ていた時の彼氏さん―――もとい、旦那さんは、良い意味で『素朴な人』という印象だった。

 でも近くで見ると思っていた以上にがたいが良くて、先輩はそのギャップにやられたのかもしれないと勝手に推測した。

 どう見てもお似合いの夫婦だった。

 先輩の人柄は言うまでもないけど、少し挨拶を交わしただけの旦那さんも、その声音や表情、ちょっとしたしぐさから、優しそうな人柄が伝わってきた。

 二人が幸せそうに談笑しているのを見て、あたしはふと思い出したことがあった。

 それは、先輩から結婚の話を聞いた時、「先輩、何さんになるんですか?」と真っ先に質問したあたしに、「それがね…」と、はにかんだ先輩のことだ。

「『茶』だったのが『加藤』になるなんて、ちょっと、出来過ぎよね」

 そう言った先輩が連想したのは、もちろん、某・大物芸能人のことだろう。

 もし子供の頃だったら、間違いなくクラスの男子にいじられるポイントだ。

 先輩の場合、もしかしたら、よく診療所を訪れる子供たちには冷やかされるかも知れない。先輩はきっと、「もぉ~、〇〇ちゃんったらぁ! お姉ちゃん、怒るわよぅ」なんて言いつつも笑顔を絶やさないのだろう。

 なんて微笑ましい光景なんだ。

 …想像しただけでほっこりする。

 そんな先輩なら、きっと、幸せな家庭を築けるんだろうなと思った―――。

 あたしと大して変わらない歳なのに、なんだか手の届かない存在になってしまったような気がして、少しだけ寂しかった。

 そう言えば、あたしがブーケをキャッチしたことを先輩はやけに喜んでくれていた。

「結婚式には呼んでよね」という先輩に「もちろんです」と返したものの……その予定のなさは壊滅的だった…。

 先輩に対して嘘をついてるような気がして、なんだか妙に申し訳ない気持ち―――というか、変なプレッシャーを感じてしまったことは内緒である。

 たまに親からもそういった類いのプレッシャーをかけられることがあるけど、その時の比ではなかった。もちろん、先輩にそんなつもりは一切ないだろうけど…。

 最近、由香子にも新しい彼氏ができたみたいだし、あたしも負けてらんないな。

 …あたしの理想の男性は、あたしとは違う趣味を持っている人。

 アニメやゲームには一切興味はなくて、でも、あたしの趣味には文句を言ったりせずに認めてくれるような人。

 同じ趣味の人の方が気が合うっていうのは分かる。

 でもあたしは、別の趣味を持っている人となら、今まで知らなかった世界への見識を広げられるんじゃないかなって思うんだ。

 そして、お互いの趣味を理解した上で尊重し合えたら、それは、とても素敵だなって。

 そういう人と出会うためには、あまり二次元ばかりにうつつを抜かしてもいられないよな…。

 だから、今日挑戦するはずだったアニメのくじは―――

 全額つぎ込む予定だった五千円札を握りしめる。

 …

 ……

 ………

「うん。やっぱり挑戦しよう」

 好きなものは好き。

 やっぱり、その気持ちを捨ててまで恋がしたい訳じゃない。

 でも少しずつほどほどにする方向で…。

 まずは今日の挑戦権を三千円までということにしよう。


 この調子では、先輩に追いつけるのはまだまだ先の話になりそうだけど、いつかあたしも、先輩みたいな素敵な結婚式を挙げてみたい。

 そう、心に誓うのだった。


               瑞希編・完



        由香子4

         1

 ぱちん。

 車で家まで送ってくれた彼氏を見送った後、改めてメールでお礼を言っておこうと思い、携帯を開いた。

 もうとっっぷりと日が暮れているというのに、二年前から使っているガラケーの充電は満タンだった。

 さすがに充電の減りが早くなったことは否定できない。

 それでも今日のようにほとんど使わない日であれば、夜まで満タンを維持できるくらいには頑張ってくれている。

 以前のように不自然な減り方をすることはなくなっていた。

 今でも時々、考える。

“あの浩一”は、一体なんだったのか、と。

 現象的には、いわゆる『IF』ということになるのだろうと思う。

 でも、何故“彼”は突然ウチの前から姿を消したのだろう…。

 そのことがずっと引っかかっていた。

 色々考えた挙げ句、ウチは自分なりに一つの仮説を立ててみた。


 やっぱりあれは、紛れもない“浩一本人”だったのだ―――と。


 幽霊とか、残留思念とか、言い方はこの際なんだっていい。

 ミズから聞いた話では、浩一の死を目の当たりにしてしまった直後のウチは、心身ともにかなり不安定な状態になっていたらしい。

 それを見かねた“彼”は現世に留まり、ウチが快復するまで、ウチの現実逃避に付き合ってくれようとしたんじゃないだろうか。

 でも、ウチが勝手に暴走した挙げ句、最初から存在すらしていないはずの女性を“彼”のIFなのだと突きつけた。

 このままでは正体がバレるかも知れないと焦った“彼”は、慌てて天国に行ったのだ。

 荒唐無稽だっていうのは分かってる。

 でも、そう思いたかった。


 今思えば―――


 あの日の“勇気”と“展開”は、“彼”が最後にくれた、ささやかな贈り物だったのかもしれない…。



         2

「あっ…ごめんなさい。知り合いに似ていたもので。つい…」

「はぁ…」

 普通ならそこで会話が途切れ、「それじゃあ…」って流れになって終わりだと思う。

 何か話すにしても、精々、ぶつかったことへの謝罪を繰り返すくらいが関の山だ。

 でもその時は違った。

「えっと…ウチ、小林由香子って言います」

 そう、咄嗟に名乗ったんだ。

 何故そうしたのか。その理由は自分でもよく分からない。

 ただ、浩一に似た雰囲気の青年ともう少し話してみたいという気持ちがあったことは確か。

 それでも見ず知らずの男の人にいきなり自己紹介するなんて、まず有り得ない。

 青年はポカンとしていた。

 …そりゃそうなるよね。

 きっと内心では「えっ、逆ナン?」なんて思ったんじゃないかな。ウチだって自分で言っててそう思ったし。

 普段だったら、この時点で、かなりの“勇気”が必要だったと思う。

 でもこの時だけは不思議とすんなり言えたんだ。

 そして自分でも信じられないような言葉が口をついて出た。

「貴方にお願いがあるの―――」

 その後の“展開”は不自然過ぎるくらいに上手くいった。

 最初はさすがに訝しまれた。

 当然だろう。

 もし逆の立場だったら「何、この人、マジキモイんですけど」って思うし。

 リアルに通報するかも知れないレベル。

 そんなめちゃくちゃ怪しい状況にも関わらず、青年はウチの話を聞いてくれた。

 あまり詳しい事情は話せなかったけど、それでも青年は徐々に警戒を緩めてくれた。

「もう一回だけ確認しますけど、ナンパとか、詐欺とかではないんですよね?」

 ウチは青年の目を真っ直ぐに見つめながら首肯する。

「信じて…ほしい。自分が物凄く怪しいっていう自覚はあるけど。そうとしか言えないです」

 青年はウチの視線を受け止めながら、どうするべきか考えているようだった。

 そしてやがて「負けました」とばかりに目を閉じた青年は、少し困ったような、でも優しい口調で、「何をすればいいんですか?」と言ってくれた。

「もちろん、出来ることと出来ないことがありますよ? それと、実は人を待たせているのであまり時間は取れないです…。それでも良ければ…」

 そう付け加えた青年に、それで構わないという旨を伝えてから本題に入った。

「言ってほしいことがあるの」

 ウチはその内容を青年に伝えた。

「―――!?」

 物凄く怪訝そうな顔をされてしまったけど、それは当然の反応だと言える。

 何故そんなことを言ってほしいのか、青年には全く意味不明のはずだから。

 きっと青年はウチのことを頭のおかしな奴だと思っただろう。既にそう思われていたかもしれないけど、だとしたら、その気持ちを更に強めたはずだ。

 下手したら“そういう趣味の変態”だと思われたかもしれない…。

 困惑している様子の青年を見て、ウチは断られる覚悟を決めていた。

「本当によく分からないですけど…僕なんかで良ければ、それくらい、別にいいですよ」

 でも青年は、戸惑いながらも、そう言ってくれたのだった。

 その後の、見ず知らずの人にいきなり変なことを言わせて勝手に涙ぐんでいたウチは、かなり挙動不審だっただろうな…。

 別れ際にクリーニング代くらいは出させてもらうということを提案すると、

「初対面の人にあんなことを言うなんていう、とても貴重な体験ができたので、それが代金ってことで」と断られてしまった。

 本当にそう思っている気持ちと、不審者にこれ以上関わり合いたくないという気持ちがあったのかもしれない…。

「それじゃあ。僕はこれで」

 そう言い残して青年が映画館に入っていくと、それから少しして、やけに大きな女性の声が聞こえてきた。


「コウくん、おっそーい!」


 おそらく、「コウくん」というのはさっきの青年だろう。

 人を待たせていると言っていたし、声が聞こえたタイミング的にも、ほぼ間違いないと思う。

 もうちょっとだけ話をしてみたかった気もするけど、きっと、もう二度と会うこともないんだろうな―――。

 でも、それはそれでいいのかも知れない。

 一度きりの出会いだからこそ素晴らしいっていうこともあると思うし。

 つまりあれよ、あれ。一期一会ってやつ?


 …それにしても、大きな声だったなぁ…。



         3

 ぱちん。

 ウチは当たり障りない内容のメールを彼氏に送信すると、携帯を閉じた。

「ふぅ…」

 たまに『コウくん』のことを思い出すのは浮気になるのだろうか…。

 ほんの数分ほど言葉を交わしただけの、本名も知らない青年―――。もちろん、そこに恋愛感情なんてある訳ない。

 でもあの時、彼が言ってくれた(言わせたんだけど)言葉は決して忘れたりしない。


 考えてみると、これまでのウチの人生は、とても“優しいもの”だったと思う。


 まず家庭環境にはなんの不満もなかった。

 特に裕福であったとか、逆に劣悪な環境で育ったということはなく、ごくごく普通の一般家庭で、ごくごく普通の生活を送ってきた。家族の仲も良かったし、特に喧嘩らしい喧嘩をしたこともない。

 家族以外の人間関係も至って良好だった。

 子供の頃、学生時代、現在の職場に至るまで、ウチの周りにいる人たちは、みんな、いい人ばかりだ。

 そりゃあ、少しくらいは苦手な人もいたりするけど、そういう人とはなるべく関わらないようにすれば済む話だ。

 そんな風に生きてきたウチは他人の嫌な部分を見る機会が少なかったと思う。

 また、ウチはこれまでの人生において、つまづいた記憶というものがない。

 立ち直れなくなるような失恋の経験もなければ、勉強や部活で挫折を味わったこともない。受験や就活すら苦労はしなかった。

 何もかもが順調で、良くも悪くも平坦な道のりだったと言えるけど、平凡に生きることを信条とするウチにとって、それは十分に満ち足りたものだった。

 とにかく、

 ウチの周りには“優しいもの”が多すぎた。―――いや“優しくないもの”が少なすぎた、と言うべきかな…。

 それはさながら『優しくないもの』という菌がない部屋で育てられたようなもので。

 無菌室で育てられれば、それだけ菌に対する免疫力が落ちてしまうこともある。

 だからウチには『優しくないもの』と上手く向き合うための免疫力がなくなっていたのかもしれない。

 その結果、『浩一の死』に立ち向かうことができずに現実逃避をしてしまったのかも知れない―――

 …そんな風に思うことがある。

 もちろん、それがすべてとは思わないけど、一要因にはなっていたんじゃないだろうか。

 IFとして地上に残ってくれた(と仮定する)天国の浩一を、もう二度と、ウチの都合でこちら側に呼んじゃいけない…。

 だからウチは、浩一に雰囲気の似ている青年―――コウくんには、敢えて『優しくない言葉』を言ってもらうことにしたんだ…。

 自分自身への戒めのために。


 もう、僕に関わるのは止めてくれないかな―――


 実際にそう言ってもらって初めて気づけたことがある。

 それは、厳しさが時には優しさにもなるってこと。

 どこかで聞いたことがあるような使い古された言葉かも知れないけど、ウチはそれまで、その言葉の意味を理解できていなかった。

 コウくんが意味も分からずに言ってくれたあの言葉は、ウチにとって『優しくないもの』のはずだった。

 実際、言われた瞬間、胸が締め付けられるような思いがしたし、自分の顔が苦悶の表情に歪むのをはっきりと感じた。

 溢れてくる涙で次第に視界が滲んでいき、やがて一筋、頬を伝った。

 ただ、不思議なことに、その涙は「辛い」「苦しい」「悲しい」という負の感情だけで流れたものではなく、そこには確かに「嬉しい」「優しい」「幸せ」といった感情もあったのだ。

 そして「ごめんね」と「ありがとう」が合わさったような気持ちもあった。

 それは無茶ぶりに応じてくれたコウくんに対してはもちろんだけど、天国の浩一や、ミズ、そして今までウチを支えてくれていた人たち―――みんなに対するものだったのだと思う。

 あの、様々な気持ちが入り混じったような感情をどう表現すればいいのか…。

 それは今でもよく分からないし、おそらく、一言で言い表すことはできないと思う。

 でも敢えて一言で表現するとしたら、割としっくりきそうなのは「吹っ切れた」とか「すっきりした」ってとこかな。

 自分自身への戒めのために言ってもらったあの言葉は、ウチの中では本当に、浩一からウチへの激励の言葉となっていた。

 それが、ウチの中の、紛れもない事実―――。

 思い込みが激しいと馬鹿にされようが、妄想が過ぎると罵られようが、関係ない。誰になんと言われようとも覆す気はない。

「信じる者は救われる」って言葉はよく耳にするけど。

 ウチは思うんだ。

「信じる物に救われる」んだって―――。

 その「信じる物」がなんであるかは、人それぞれでいいと思う。

 例えば、趣味や夢中になっていること。

 例えば、大切な誰かの存在。

 例えば、大好きな歌の歌詞。

 もっと単純なものだって構わない。

 子供の頃から大事にしているぬいぐるみ。

 ボロボロになっても捨てられない思い出の写真。

 初めて当たりを引いて、でも勿体なくて、ずっと交換できずにいるアイスの棒。

 どんなにちっぽけで価値のないものでも、他人には理解できない詰まらないものだったとしても、関係ないんだ。

 信じられるものがあれば、きっとそれだけで心によりどころができる。気持ちにゆとりを持つことができる。

 今までウチにはそういうものはなかったけど、コウくんと、浩一のおかげで手に入れることができた。

 だからウチは、二人からもらったあの言葉をしっかりと肝に銘じて、いつまでも大切に信じていこうと決めたのだ―――


 コウくんたちは元気にしているだろうか。

 フードコートでニアミスをして以来、彼らを見かけたことはない。

 黛ちゃんとは上手くやっているかな。

 もう妹さんには紹介したのかな。

 願わくば、三人が仲むつまじく笑い合っていればいい。

 あだ名しか知らない青年に対して、時々、そんなことを思う…。

 あだ名。あだ名かぁ…。

 ウチも一回くらいは浩一をあだ名で呼んでみてもよかったかも―――

 ふとそんなことを思い、天国の浩一に心の中で呼びかけてみた。


 ヒロくん…


 ―――ぶっ。

 ヒロくん…だって。ウケる。

 やっぱり浩一ひろかずのことは浩一ひろかずって呼ぶのが一番だ。うん。

 ぱちん。

 もう一度携帯を開くと、さっきまで満タンだったはずの充電が一つ減っていた。

 どうやら彼氏にメールを送ったことで減ってしまったらしい。

 ウチは二年前から同じガラケーを使っている。

 ずっとつけている餃子のストラップはボロボロだけど、オリジナルの名前をつけるくらいお気に入りだ。

 最近確かに、充電が減るのが少しずつ早くなってきている。

 これからも加速していく一方だろう。

 でもそれは仕方のないこと。

 以前のような不自然な減り方ではないのだから。

 ウチの携帯の充電が不自然な減り方をすることはもうない。

 いずれ機種変をしたとしても、

 思い切ってまたスマホに戻してみたとしても、

 契約会社を変えたとしても、

 何をしたって、


 もう―――きっと、二度とない。


 空には満点の星空が広がっていた。

「できれば、また次もガラケーがいいな…」

 キラキラと輝く名前も知らない星座を見上げながら、そう、独りごちた。


              由香子編・完

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