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黒猫のような君と、僕の物語  作者: 日暮 絵留
1/3

前編

少しでも多くの方に読んで頂くためには、時間帯や投稿の仕方などにコツがあるということをネットで調べましたが、そこまでするのはめんどいので、気にせず投稿することにしました。

誰にも読んで頂けないことを覚悟しつつも、もし、この作品に辿り着き、興味を持ってくださる方が現われましたら幸いです。

本作を執筆するにあたり、“とある作家さん”の“とある作品”の影響を多大に受けております。

もともと、その作品を読んで大いに感動し、「自分も小説を書いてみたい!」と思ったことが執筆のきっかけとなっております。もちろん、足元にも及ばない内容ですが、少しでもそのことを感じ取って頂けたとしたら、私としては嬉しいです。

       プロローグ

「にゃあ」

「………」

「にゃあ」

「…えっ、何?」

「だから、にゃあ。だってば」

「……えっと。聞こえてはいたんだけど。いきなり『にゃあ』とか言われても、正直困ると言うか、何と言うか」

「むむむ。おっかしいなぁ。君、今わたしのこと、猫ちゃんの化身だと思ってたんじゃないの?」

 ―――確かに一瞬そう思った。

 そんな有り得ない馬鹿みたいなことを。

 でも、

「どうして、そう思ったって思うの?」

「だって、君、そういう顔してたもの。えへん☆」

 目の前にいる“初対面の女の子”を猫の化身だと思ってる顔って…一体どんなだよ。て言うか、そのドヤ顔からの「えへん☆」はどうなんだ。

「あれれ? もしかして違った?」

「ち、違うに決まってるでしょ。当たり前だよ。君はどう見たって人間の女の子だもん。大体、猫が人の姿に化身するだなんて、そんなことあるわけないじゃないか」

 言いながら、だんだん早口になってしまった。

 しかも、まるで自分自身に言い聞かせてるような言い方になっている気がする。

 例え一瞬だけでも、そう思ってしまったことが、物凄く恥ずかしいことのように思えて…。

「ふーん。まっ、どっちでもいいや。あっ、わたし、麻友って言うの。黛麻友まゆずみまゆ。えへん☆君のお名前は?」

「だから、なんでドヤ顔なんだよ」と内心でツッコミを入れながらも、僕は自分でも意外なほど自然に名乗っていたのであった。

神崎浩一かんざきこういち



        浩一1

         1

『裏山』という何の面白味もない通称で呼ばれているこの小高い丘は、僕のお気に入りの場所だ。

 雑木林が鬱蒼と生い茂っているだけのこの丘は、一見何もないようだけど、実は少し奥まった所に木の生えていない空間があって、そこには小さな祠とちょっとした休憩スペースがある。

 簡単な日差しよけ(兼、雨よけ)とベンチが申し訳程度に設置されただけの、本当にシンプルな憩いの場だ。

 でも、その存在を知る人はあまりいない。

 いや、知っていても訪れるような用事がないだけか…。

 とにかく、いつ来ても閑散としている。

 僕がまだ小さかった頃は、仲の良かった友達や、ゆかを連れてよく訪れたものだ。

 ここを『秘密基地』と称してお菓子や漫画などを持ち寄り、とっぷりと日が暮れるまで遊んだのを覚えている。

 当時は僕たち以外の子供たちもよく訪れていて、いくつかのグループみたいなものができていた。

 それぞれのグループが縄張りのようなものを持っており、お互いに干渉しないのが暗黙の了解となっていた。

 そんなある日、どこかのグループの一人が怪我をしてしまう事故が起きた。

 他のグループのことなので真偽は分からないけど、噂では、木の上から飛び降りる度胸試しのような遊びをしていて、着地に失敗した子がいたらしい。

 子供が大けがをしたという噂は瞬く間に広がり、当然、大人たちの耳にも届くことになる…。

 確かテレビのニュースでも取り上げられていたし、地元の新聞では結構大きな記事になっていたはずだ。

 当時の僕には意味がよく分からなかったけど、どこもかしこも「安全管理に問題はなかったのか」という定型文で溢れていた。

 事故の影響で親や地域のボランティアの人の目が厳しくなり、僕たち子供は『裏山』に近付き難くなってしまった。

 僕は子供心に納得がいかなかった。

 危ない遊び方をしたのは子供の方であって、『裏山』にはなんの責任もないと思ったからだ。

 だから僕は時々、大人たちの目を盗んでは『秘密基地』を訪れた。当時、僕にべったりだったゆかを引き連れて。

 たまに他の子を見かけることもあったけど、その回数は徐々に減っていき、やがて、ほとんど貸し切り状態になっていった。

 今でもその状況に変わりはない。

 さすがに今はもう、ゆかも僕にべったりではないので僕一人だけ…という違いはあるけど。

 つまり正真正銘、貸し切りという訳だ。

 多くの子供たちが遊び場としていた当時のことを思い出すと少し寂しい気もする。

 でも、そのお陰もあって(と言うのもなんだけど)今現在の僕の趣味である読書をするのにはとてもいい環境となっている。

 まず、街から少し離れた所にあるため、静かだ。

 自分が神経質な方だという自覚がある僕は、周りの雑音が気になると本の内容がまったく頭に入らなくなってしまうのだけど、その心配をしなくて済むのは大きい。

 誰かに邪魔される心配がないのも同じだ。

 そして、これは気持ちの問題だとは思うけど、『裏山』は緑が豊かなので少しは空気も綺麗だと思うし、心身ともに落ち着けるような気がする。

 風で揺れた枝葉から聞こえるかさかさという音や、鳥たちのさえずりを聞きながら本を読んでいると、つい時間を忘れて没頭してしまう。

 自宅以外では、近所の公園で読書することもあるけど、『裏山ここ』での読書は集中のレベルがまったく違う。

 この場所は僕にとって、本の世界に入り込むのに、正にうってつけの場所なのだ。

 平日はさすがに来られないことも多いけど、週末はかなりの高確率で訪れている。土・日とも来ることも結構あるから、用事や体調不良などで来られない時と平均しても、週一以上のペースにはなるんじゃないだろうか。

 そんなことを言いつつも、この“僕だけの読書スペース”に来るのは約半年ぶりくらいになるんだけど。


 ―――まぁ、色々と事情があってさ。


 うっすらと埃が積もり、木の葉などのゴミがいくつも乗っているのを見て、このベンチを利用する人が皆無なのだという事実を改めて実感する。

 僕にとっては好都合なはずなのに―――何故だろう…。なんだか寂しくて、心の奥底がジクジクと痛むような感じがした。

 そんな寂寥感を、ベンチに積もったゴミと共に払い落とした僕は、少し白々しいくらいの明るい声で宣言する。

「久しぶりに本の世界にどっぷりと浸りますかね」

 そうして僕は読書に没頭するのだった。



         2

「ふぅ…」

 切りの良い場面まで読み進んだところで一息入れようと大きく伸びをする。

「う、うぅぅぅぅーんっ」

 体中がぽきっ、ぱきっ、にゃっ、と音を立てた。

 ―――んっ?

 にゃっ?

 今、にゃって聞こえたぞ?

 はっとなって辺りを見回してみると、いつからそこにいたのか、一匹の黒猫がいた。

 休憩スペースを取り囲むように生えている木と木の間に行儀よくちょこんと座り、何か言いたげな顔でこっちを見ている。

 首輪などは付けていないから野良猫かと一瞬思ったけど、それにしては綺麗な猫だ。

 …たぶん、雌。

 はっきり言って、僕は大の猫好きだ。成猫であれば、見ただけである程度の判別ができる―――というのが僕の“自称”特技なのである。

「お前が『にゃっ』の犯人だって事は分かってるんだぞ、ジジ」

“あの映画”では雄猫なんだけど、黒猫を見ると、つい、そう呼びたくなってしまう。

「あっ!」

 でも、それが不服だったのか、猫はツンとそっぽを向いて林の奥へと行ってしまった。「待ってくれよ! 悪かった、悪かったってば!」

 僕は慌てて立ち上がり、黒猫の後を追う事にした。


 黒猫はどんどん先に行ってしまう。

 でもモコモコと歩く後ろ姿は心なしか楽しそうにも見える。足取りも軽いし、尻尾もピンと立っている。

 どうやら先ほどの件で機嫌を損ねた訳ではなさそうだ。

 この黒猫、実は僕をどこか不思議な異世界へと誘うためにやって来た案内人(案内猫)だったりして―――。

 一抹の期待を込めてそんな空想をしている僕だけど、その実、“彼女”を追いかけるのに必死である。

 生い茂る木々の間をぴょこぴょんと軽快に進む猫―――。その歩みは、まるでここら一帯の地形を知り尽くしているかのように迷いがない。

 一方、普段から体を動かすこととは無縁の僕は、天性の運動音痴とも相まって、木を避けながら歩くだけでも精一杯だ。枝のあっちこっちに服を引っかけるし、根っこに足を取られて何度も転びそうになる。

 それでもなんとか置いて行かれないように努めたのだけど…

 見失ってしまった。

 やはり僕の身体能力の低さでは限界があったらしい…。

「はぁ…」

 ため息が漏れる。

 自分の行動が徒労に終わったと分かると、途端に疲れが押し寄せてくるから不思議だ。

「折角だから、このまま散策でもしてみるか…」

 さっきの黒猫にまた会えるかもしれないし、新しい読書スペースが見つかる可能性だってある。仮に何もなかったとしても…まぁ、少しでも気分転換になれば上出来だろう。

 どっちにしても、このまま戻るよりはずっとマシな気がした。


 普段何気なく見ているこの『裏山』も、何かないかと探しながら歩いてみると、今まで気づけなかった色々なものが見えてきて案外新鮮だった。

 雑草だらけだと思っていた草むらには、美しい花弁のドレスを惜しげもなく披露する色とりどりの花が咲き誇っている。

 木もそれぞれ違うということに気づく。人の顔に見えるものがあるかと思えば、動物のような形のものもある。思わず「どうしてそうなった…」と言いたくなるほどくねくねと枝を伸ばした奴がいたり、僕を転ばせるために根っこを伸ばしたんじゃないかと疑いたくなるような奴がいた。

 空を仰げば、雲一つない抜けるような青の世界が広がっている。視界の両端を葉っぱの緑が覆っていることで、切り取られた青がいつもより鮮明に見えるような気がした。


 空って、こんなに、青かったんだ…。


 そんな当たり前の事すら忘れていた事実に軽くショックを受けた。

 深呼吸をしてみる。

 街よりは空気が綺麗だとは思っていたけど、“美味しい”と感じたのは初めてだった。

 本当に、空気にも味ってあるんだな…。

 結局、黒猫との再会は叶わなかったし、新たな読書スペースも見つからなかった。

 だけど、気分転換としては上出来どころか、かなり充実した時間を過ごせたと思う。

「日も少し暮れてきたことだし、そろそろ引き返すか…」

 そう思い始めた時だった。

 それまで視界に広がっていた木々がふいに途切れて、七~八畳ほどの開けた空間が現れた。

 そして見つけたのである。

 その空間の中央に佇む一人の少女を。

 少し離れたところから様子を伺ってみた。

 じっと目の前の地面を見つめているその横顔は、憂いを含んでいるように見えた。

 僕は素直に思った。


 何て綺麗な女性ひとなんだ―――


 自分でも恥ずかしいくらい月並みな表現になるけど、まるでガラス細工でできてるんじゃないかと見紛うほどに透き通った白い肌と、清水のせせらぎのように滑らかなストレートロングの黒髪が印象的だった。

 どことなくあどけなさを残したその顔つきから、僕より二つか三つ年下ではないかと推測する。

 普段からおしゃれという物に無頓着な僕には、彼女の服装をどう表現すればいいのかよく分からなかった。

 はっきりしているのは、アクセサリーの類は身につけていないということ。そして、とにかく全体的に“黒い服”ということである。肩にかけられているポシェットまで黒で統一されている。

 触れただけで汚れてしまいそうな白い肌が、より“黒”の印象を際立たせている。

 その白と黒のコントラストが、少女の持つ不思議な雰囲気―――ある種のオーラみたいなものと相まって、僕には神秘的にすら感じられた。

 神話やファンタジー小説に登場する妖精とか精霊っていうのは、きっと彼女のように清らかで美しく、何者にも冒せない存在なのだろう。

 女神と表現してもいいくらいだ。

 僕は、ふと、こんなことを思った。


“さっきの黒猫が、もし人の姿に化身したとしたら、彼女のような容姿になるのではないだろうか”


 そんな有り得ない馬鹿みたいなことすら、覆してくれそうな何かが…少女にはあった。

 身じろぎ一つしない少女を見ていると、時間ときが止まってしまったのではないかと錯覚してしまう。

 どこかから聞こえてくるひぐらしの鳴き声だけが、それを否定しているようだった。

 たぶん、実際には大した時間ではなかったのだろうけど、僕はしばらくの間、少女に見惚れてしまっていた。

 少女が何かに気づいたように、おもむろに顔を上げ……そして、ゆっくりとこちらへ顔を向ける動きをする。

 すると、まるで彼女の動きに呼応するかのように一陣の風が吹き、木々たちをさわさわと揺らした。

 僕の両の目には、それらのすべてがスローモーションのように映っていた。

 少女と目が合う。

 僕は魅了されてしまったかのように目が離せず、つい、まじまじと見つめてしまう。

 鼻筋が通った顔立ち。切れ長の目とゆるやかな曲線を描く長いまつげ。少し茶色がかっているように見える瞳。ぷっくりとした厚めの唇が妙に色っぽく、僕は思わずどきりとした。

 その形の良い唇から発せられる声は、果たして、どのようなものなのだろう。

 さぞかし心地良いものに違いない。


 彼女の声を聞いてみたい―――。


 僕がそんな欲求に駆り立てられたその時、

 少女がゆっくりと口を動かす―――


 そして、言ったのだ。

「にゃあ」と。



         3

「神崎、浩一君…か。じゃあ、コウくんだね☆」

「は、はあ…」

 なんだかずいぶん馴れ馴れしい気がするのは僕だけだろうか。

 まぁ、相手が女の子だから、正直、悪い気はしないけど。しかも紛れもない美少女だし…。

 て言うか、意外にも、かなりハイテンションな子のようだ。語尾に星マークでも付いていそうな喋り方とテンションに少し圧倒されてしまう…。

「『はあ…』じゃなくて、よろしくねっ☆」

「あ、うん…よろしく」

 とか言っちゃったけど、今後よろしくするのか? 一期一会じゃないってこと?

「ねねね、どう? どう?」

「えっ…何が、かな」

 なんだか知らないけど、やたら目を輝かせているぞ…。

「コウくんって呼び方だよぅ! 咄嗟に考えたにしては違和感なくない? えへん☆」

 そりゃそうでしょ。何の捻りもないし、子供の頃は普通にそう呼ばれてた事もあるくらいだよ。そして「えへん☆」言うな。

 ―――と思ったけど、さすがに口に出すのは止めておいた。

「そっ、そうだね。うん。確かに」

「でしょでしょ? もしかして私ってセンスあるのかなぁ」

 彼女がいきなり発した「にゃあ」から呆気に取られていた僕は、今までのやりとりの間、なんとも言えないふわふわした感覚だった。

 矛盾するようだけど、思考はしっかりしているのに半ば無意識だったような。或いは、幽体離脱でもして真上から自分自身を見ているような。

 今起こっている出来事に対して、「これは本当に起きていることなのだろうか…」という違和感が付きまとっていた。

 だけど、そのふわふわした違和感もだいぶ落ち着いてきて、ようやくちゃんと状況を把握できるようになってきた。

 さっきまで僕が見惚れていた少女と、今、目の前で「私ってセンスあるのかなぁ」に対する返答を、目を輝かせながら待っている少女とを比較してみる。

 確かに綺麗な子だ。それは間違いない。

 好みは人それぞれ違うのが当然だけど、それを踏まえても大抵の人が僕の意見に賛同するはずだ。

 しかしさっきまでの近寄り難いほどの不思議な雰囲気は感じられない。

 どこかに霧散してしまったのだろうか…。

 その代わりと言ってはなんだけど、彼女には今、変なエフェクトがかかっている。アニメなどでキャラクターの周りがキラキラ光ったり、花が咲いたりする、あれだ。

 もちろん実際にそんな物が見える訳ではないけど、今の彼女の雰囲気を一言で表現するとしたら、それが一番しっくりくる。

 初対面の相手に対して失礼なのは重々承知の上で言わせてもらうなら、彼女はきっと、良い言い方をすれば「天然」で、“あれ”な言い方をすれば「アホの子」なんだと思う。

 僕がこの短時間で彼女に抱いた様々な印象は、すべて僕の一方的で勝手な偏見によるものだ。それは十分自覚している。

 それでも僕は言わせてもらいたい。


 さっきまでの感動を返せ―――と。


「コウくんどうしたの? もしかしてお腹でも痛いの?」

 僕が芳しくない表情をしていたのでそう思ったらしい…。

「大丈夫?」

 本気で気遣ってくれていることが伝わる声音と表情に、少し申し訳ない気持ちになる。さっき自分が抱いた勝手な言い分については反省しよう…。

 確かに変な子だとは思うけど、決して悪い子ではないようだ。

「わたし正露丸は持ってないけど、絆創膏なら持ってるよ? 使う?」

 そう言いながらポケットに入っていたらしい絆創膏を差し出してきた。

 流れで受け取ってしまったそれを見ると、変なキャラクターのイラストがプリントされている。

 なんだこの変なキャラ…。

 て言うか、腹痛の人(違うけど)に絆創膏って…。

「ぷっ!」

 思わず吹き出してしまった。

 しかも…

 やばい!

 ツボに入って笑いが止められない!

「あははは!」

「あれれ? なんで笑うの~?」

「あははっ、ごめんごめん。でも、だって…あはっ、あははは」

「え~っ、なになに? なんなのぉ~?」


 我ながら恥ずかしい面も多々あるけれど、とにかく、これが僕『神崎浩一』と、変な―――じゃなくて、不思議な少女『黛麻友』の出会いの一部始終である。


 僕は思った。


 あの黒猫、ある意味では、本当に僕を不思議な異世界へと誘ってくれたのかも知れない―――と。


        由香子1

         1

 まただ。また減ってる…。

 変だな。

 ウチ、今日そんなに使ったっけ―――。

 最初の頃はそんな風に思ったりもしたんだけど、最近はこの事態を受け入れるようにしている。

 てか、ぶっちゃけ諦めた。

 それでも何か原因が見つかるかも知れないから、一応考えてみようかな。

 えっと…。

 朝はいつもより少し早めに起きて、十時ちょっと前には家を出たでしょ。

 途中で本屋に寄って、欲しかった漫画を探しつつファッション雑誌を軽~く立ち読み。

 お目当ての漫画ぶつが品切れしていたから店を出てすぐに携帯でポチった。

 この時は間違いなく満タンだったはず。

 その後、公園で読書中の浩一にばったり会って結構話し込んじゃったんだよね。

 そしたらいつの間にかミズとの約束の時間ぎりぎりになってて…

 浩一と別れた後、ミズに連絡を入れようと思ったところで気付いた…と。

 やっぱり原因なんかないよなぁ。

 うーん。

 ウチの携帯の充電は一体どうしちゃったんだろ…。



         2

「どしたい、ゆかっぺ。渋い顔しちって」

 案の定少し遅れて待ち合わせ場所に着いたウチにかけられた言葉がこれ。

 自分では渋い顔をしていたつもりはないんだけど、そう見えるのかぁ…。気にしてないふりをしてても、充電の件はやっぱり気になるからなぁ…。

 でもとりあえず今は置いておこう。

 ―――で。

 このちょっぴり変な言葉遣いの親友の名前は四条瑞希しじょうみずき

 みんなからは『ヨッスィー』と呼ばれているけど、「親友の証にファーストネームで呼ぶことを許可するぞよ」と謎の許可をもらったウチは『ミズ』と呼んでいる。

 ミズが言った『ゆかっぺ』ってのは、ウチのあだ名ね。小林由香子こばやしゆかこだから『ゆかっぺ』。

 ちなみに、ミズ曰く『ゆかっぺ』は、すべて平仮名表記らしい。

 そっちの方がウチっぽいんだって。

 そう言われても全然ぴんとこなかったから詳しくミズに聞いてみたんだけど―――

「知り合いに『シマムラ』って名字の人がいたとしたら、自然に平仮名で認識しそうじゃね? 『オオタニ』って人なら、カタカナで、しかも「オオ」を「オー」って認識したくなりそうじゃね?」とのことだった。

 つまり『しまむら』と『オータニ』。

 なるほど確かに。

 …それはなんとなく分かる気がする。

 ただ、その原理で「由香」の部分を「ゆか」と認識するっていうのは、さっぱり分からない。

 てか、ぜんぜん関係ないような…。

 まあ、正直どーでもいいんだけどね!

 ウチのことを『ゆかっぺ』と呼んでいるのは、当のミズだけだし…。

 このあだ名、いまいち―――いや、むしろ全く浸透してなくて、周りからは普通に「由香子」とか「由香」って呼ばれてるんだ。

 あえてミズ風に言うなら、「ゆかこ」か「ゆか」。

 …ミズの話に戻ろう。

 彼女は小学三年生の時にウチら(つまりウチと浩一)が当時在籍していたクラスに転校してきた子なんだ。

 最初はなかなかクラスに馴染めずにいたみたいで、休み時間も教室の端っこの自分の席で机に突っ伏してたっけ。

 いじめられてたとかいう訳ではないけど、なんとなく浮いちゃってた感じ。

 今となってはよく覚えてないんだけど、当時クラスで流行っていた漫画だかアニメだかがあって、休み時間はその話題で教室中が持ち切りだった。

 確か、男子のほとんどが夢中になったのをきっかけに女子にも飛び火したんだよね。

 基本的には男子をターゲットにしている作品だったから、女子の中にはそんなに好きじゃない子も結構いたと思う。

 でも、そういう子たちも“クラスの話題についていくため”とか“他のみんなが好きだから”という理由で好きだった。

 かく言うウチもその一派で、正直、作品の良さは全く分からなかったけど、“空気を読んで”好きでいることにしていた。

 そんなんだったから、もはやタイトルすらも忘れちゃってる始末…。

 クラス中の誰もが(少なくとも表面上は)傾倒する中で、ミズだけは見向きもしなかったのが浮いちゃってた原因…かな。

 ウチを含む流されていたクラスの女子たちと、一切興味を示さなかったミズ。

 どっちが正しくて、どっちが間違ってるか、なんてない。そんなのは個人の自由だ。

 今ではそう思えるようになったけど、当時のお子ちゃまなウチには、周りに流されないミズのスタンスがとても格好いいもののように思えた。

 だから話しかけてみたんだ。


「四条さんは何が好きなの?」


 この一言がきっかけになって今でも親友やってるんだから、人の縁って不思議だ。

 ミズは子供の頃から「看護師さんになりたい」と言っていた。

 そして今は見事にその夢を叶えて近所の診療所で働いている。本人曰く、医師からの信頼も厚く、子供やお年寄りからも慕われており、評判は上々だそうだ。

 頼りにされているのは事実だと思うけど、ウチの親友は謙遜って言葉を知らないのかねぇ…。

 閑話休題。

 診療所は土曜日の午後と日曜日が休診だ。

 ウチも土日が休みなので、こうして、ミズとは割としょっちゅう会っている。

 ちなみに今日はこれから一緒にランチをして、その後カラオケに行く予定なんだ。

 女子二人でカラオケって正直どうなの…とも思うけど、ミズのやつ、歌うの大好きなんだよね。毎回よく分からないアニソン(?)を熱唱して喉をガラガラにしてる。

 ウチは歌うのが別に好きってほどでもないし、まして得意な訳でもない。でもミズとのカラオケは楽しいから好き。

 遅れる旨は伝えたとは言え、もう一度謝っておこう。

「遅れちゃってごめんね、ミズ」

「連絡は事前にくれたんだし、別にいいですしおすし」

 ですしおすしって何。

「まさかそんなことが理由で渋い顔してたん? この四瑞ヨッスィーさんが、そのくらいで怒るとでも?」

 今、ミズが自分のことをあだ名で呼んだのを聞いて思い出したんだけど、確か『四瑞』って書いて「ヨッスィー」と読ませることに決めたとか言ってたな…。

 ついこの前、スマホの画面に表示させたその当て字を「かっこいくね?」とか言いながら命名(?)の報告してきたんだった…。

 もちろん、本人以外には全く浸透していない。

 ウチはよく知らないけど、ミス曰く、『四瑞』には「シズイ」って読み方があって、中国だかの有名なレイジュウ…(?)の事なんだって。確か、ホウオウ…(?)とか、キリン…(?)とかって言ってたと思う………たぶん。

 ホウオウって十円玉にいるあいつだよね?

 レイジュウだからお金になったのかな。

 それともお金になったからレイジュウなのかな。

 キリンってレイジュウなの?

 動物園でレイジュウに会えるなんてすごいよね。

 ゾウとかライオンなんかもそうなのかな。

 でも、レイジュウって、何?


 さっぱりわかんねー。


「ミズは博識だよね」

「うお。いきなりどした。褒めても何も出ない―――つか、あたしの質問はガン無視かよ」

「この前言ってた当て字の話」

 ミズは一瞬ぽかんとした後、すぐに笑顔になって言う。

「うはは。教えた時は興味なさそうな反応だったのに、今更かい」

「うん、今更。ふと思った」

「そーゆとこ、ゆかっぺも大概ね」

 でもさ、と前置きをしてからミズが話を続ける。

「鳳凰とか麒麟なんかは、アニメとかゲームにもよく出てくる名前だし、案外ポピュラーなのよ。それに本来の逸話とか神話に詳しいって訳でもないから、別に博識って訳じゃないんだお、キリッ!」

 否定してはいるけど満更でもない反応だ。

 意図的に今の話の流れを作った訳では決してないけど、この流れからなら少し突っ込んだことを言っても平気かも……。

 本当はあまりしつこく言いたくはないんだけど―――攻めてみるか。

「そういうの、浩一も好きそう。なんか無駄に詳しそうだし。今度聞いてみたら?」

「それはいいや」

 急に口調が冷たい。やっぱり駄目か…。

 ミズと浩一との間に一体何があったというのだろう…。

 ウチと浩一は家が近所だったこともあって、小さな頃からよく遊ぶ仲だった。要するに幼馴染みというやつだ。

 小三のある時期からそこにミズが加わり、三人で遊ぶようになった。

 それからずっと(誰かしらに恋人がいた期間などを除けば)その関係が続いていた。

 三人はずっと一緒に過ごしてきたと言っていいと思う。

 ―――なのに。

 つい半年前くらいから、何故か突然、ミズが浩一を避けるようになった。浩一の話題を出すだけでも露骨に嫌がるほどに。

 事情を聞いてもミズは教えてくれなかったけど、どうやら浩一の方がミズの気に障るようなことをやらかしたような感じだった。

 普段のミズなら、例え友達と喧嘩をしたとしても、2~3日もすれば、すっかり仲直りしているはずだった。

 むしろ喧嘩した次の日に普通に話しかけちゃって、「あ、そう言えば喧嘩してたんだっけか。ごめんごめん」とか言ってのけちゃうタイプ。

 だから、今回の浩一との件もそうなると高を括っていたウチは、正直、大して気に留めてもいなかった。

 むしろ下手に口を出してこじらせたりしないように放っておいたんだ。

 ところがいつまでたっても一向に仲直りの兆しが見えなくて―――。

 二週間が過ぎた頃、さすがに放っておけなくなってミズに事情を聞いてみたんだけど、「別に何もない」の一点張りで取り合ってくれなかった。

 もちろん、浩一にも聞いてみたけど、こっちは正真正銘、本当に心当たりはなさそうだった。

 浩一のやつ、意外と鈍感だからなぁ…。

 とにかく。

 ウチら三人が顔を合わせることはなくなってしまった。

 それどころか、ウチと浩一の間には特に何もないはずなのに、日に日に彼との仲が疎遠になっていくのを感じていた。

 偶然見かければ声をかけたり、世間話をしたりはするけど、以前のように積極的にコンタクトを取るようなことはなかったからだ。

 理由は…よく分からない。

「まさかあたしが博識もどきってのが、その渋い顔の理由じゃあるまいね?」

 さっきより更に渋い顔になっていたかもしれないウチに対してミズが言った。

 いつもの口調に戻っていることにはほっとしたけど、反面、浩一に対する態度との差を改めて思い知らされた気がして、一抹の寂しさも感じてしまう。

 それを悟られないように平然を装った。

「さすがに違うって」

「じゃあ、なんなのさ」

「あ、うん。そう言われると、別に改めて言うほどのことじゃないって言うか…」

「いいから言ってみそ」

「てか、前にもちょっとだけ話したことあると思うんだけど…携帯の充電がさ―――」

 そう言いながら携帯をパチンと開いて、ミズに液晶画面を見せる。

「充電の減りが早いとかってやつ? 今も一つ減ってるみたいだけど」

「昨日寝る前に充電して、朝は満タンだったんだよ? 今日はまだ大して使ってないのに、この減り方は早過ぎじゃない?」

 話しながら携帯を揺らすと、餃子のキャラクター(正式な名前は知らないけど勝手に『餃子朗ぎょうざろう』と名付けている)のストラップがちゃらちゃらと鳴った。

 そう言えば最近食べてないな、餃子…。

 そんなどうでもいいことを考えながらウチは話を続けた。

「前からたまにあったんだけど、最近特に多くてさ…。でも減らない日は全然減らないし、たぶん、電池が駄目ってことではないと思うんだよね」

 むしろ、いつも同じように減ってくれるならこんな風に悩まなくていいんだけど…。新しい電池と交換してもらえばいいだけの話だし。

 ウチの話を聞いたミズは少し考える素振りを見せた後、当然気になるであろう質問をしてきた。

「日によって使う頻度が極端に違うってことはないん?」

「大体一緒だと思う。そりゃあ、多少の差はあるだろうけどさ」

「うーむ。だとしたら―――」

 何かありそうなミズの口ぶりに思わず身を乗り出してしまう。

「ミズ、何か心当たりでもあるの?」

「普通に、そんな旧型使ってるからじゃね?」

「旧型って…」

「戦闘力が2万2千を超えた辺りで爆発しそうだし、近くに戦闘民族の王子みたいなのがいる日は駄目なんだよ、きっと」

 ……たぶんアニメか何かの引用だと思うんだけど、ウチにはさっぱり分からない。

 そんな時は基本スルーで。許せ、ミズ。


 てか―――


「確かにいまどきガラケーだけど、機種自体は最新型なんだい!」

 ガラケーが現役ばりばりなウチとしては、そこは譲れないポイントなのである。それはもう、絶対に。

「おうふ。そういや、そんなこと言ってたっけ」

「はい、ここテストに出まーす」

「なんのテストだお」

 ちなみに、ウチもちょっとだけスマホを使っていた時期があるんだけど、どうにも馴染めなかった。

 解約金だか違約金だかの関係があって一年間は使い続けたけど、「早くガラケーに戻したい」と恋い焦がれたものですよ…。

「それにしても、機種変してからまだ一年も経ってないのに…不良品だったのかな」

「いや、それはむしろ陰謀じゃね?」

「へっ? 陰謀?」

「携帯会社が結託して、スマホに戻させようとしてるに違いないのだぜ」

「あー、なるほど―――って、そんな訳あるかーい!」

「ノリツッコミ、おつ

「まあ、カラオケに携帯は必要ないし、ひとまず忘れよっかな」

 ミズが「ふむん」と同意の意を示す。

「そうと決まれば早速行きまっしょい!」

 そしてミズは全くリズム感のない変なスキップをしながら「今日は久しぶりにもりもり歌うぜ~」と進み出した。

「ちょっと! ミズ! その前にお昼食べてくんでしょ? ウチ、超お腹空いてるんだからね~!?」


 今日一日ミズと過ごして、ウチは改めて思った。

 やっぱりこの子と一緒にいると楽しいなって。

 そして、早く浩一と仲直りしてほしいなって。

 二人の間に何があったのかなんて、今となってはどうだっていい。


 三人がまた前みたいな関係に戻れれば、

 それだけで―――。



        瑞希1

         1

 今日は久しぶりに由香子と遊べて本当に楽しい一日だった。

 まず会うこと自体が久しぶりだった。

 由香子に言わせれば、きっとあたしたちはしょっちゅう会ってる方だと思う。

 でもあたしにとっては、そうじゃない。

 電話で話すことは結構あるけど、やっぱ、会って話すのとは違う。……まったく違う。


 あれは、『あたし』じゃないから―――。


 携帯越しの声は、所詮、本人の声をまねただけの機械音でしかないって何かで見たことがある。

 その点、空気を振るわせて直接耳に入ってくる声は間違いなく本人のものだ。

 そっちの方が断然いいに決まっている。

 他ならぬ、由香子の声であれば、尚更だ。


 由香子はあたしのたった一人の親友であり“恩人”でもある。


 こっちに転校してきてから、クラスに馴染めず孤独な毎日を過ごしていたあたしを救い出してくれたのが由香子だった。


 ―――四条さんは何が好きなの?―――


 今でも脳内で完璧に再生できる。

 一生忘れたりしない。

 あの時のことを由香子がどう思ってるのかは分からない。

 たぶん、特になんとも思ってないんだと思う。

 もう忘れてしまっているかもしれない。

 だけど、あたしにとっては本当に救いの一言だったんだ。

 あの言葉があったから由香子と仲良くなれた。そしてそれをきっかけにしてクラスのみんなとも打ち解けられた。

 あたしは以前の学校でそうだったように、徐々にクラスのムードメーカー的存在になっていった。学年が変わって、クラス変えがあってからも、それは変わらなかった。

 中学を卒業するまでの間、再び由香子と同じクラスになることはなかったけど、それでも由香子はあたしと仲良くしてくれた。

 高校は由香子と同じところを受験した。

 一年の時は同じクラスになれたけど、二年からは文系クラスか理系クラスを選択しなければならなかった。

 看護師を志望していたあたしは理系クラスを選択し、由香子とは別のクラスになった。

 それでも毎朝、由香子と一緒に通学した。

 卒業後は医療系の専門学校で医学を学び、今は看護師として働かせてもらっている。

 大変なことも多いけど、自分がなりたくてなった職業。人の命に関わる立派な仕事。

 そのことに誇りを感じている。

 今のあたしが在るのは間違いなく、すべて由香子のお陰なんだ。

 どんなに感謝しても、どんなに恩返ししても足りない。

 もし由香子への恩返しになるんだったら、あたしは、例え自分の身を犠牲にしてでも、なんだってするつもりだ。

 たった一つ、“浩一と仲直りをする”ということ以外なら―――。


 由香子が知らない浩一あいつの正体をあたしは知っている。


 本当はそれを由香子に伝えたい。

 でも、駄目なんだ。

 やっぱりあたしから話すべきことじゃないから…。

 それに、仮にあたしから話しても、きっと由香子は信じてくれない。

 由香子と浩一の繋がりは、悔しいけど、あたしとのそれよりも大きいから…。

 だから由香子自身が気づいてくれなきゃ駄目なんだ。


 お願い。早く気づいて。由香子。


 浩一そいつが、本当はどういう奴なのか―――


 そして、


 一刻も早く、浩一そいつとの繋がりを絶って。


 由香子は、もう、浩一そいつと関わるべきじゃないんだよ―――



        浩一2

         1

 一般的に猫のイメージと言えば、「きまぐれ」とか、「自由奔放」みたいな感じだろうか。

 僕も大体そんな印象を持っている。

 なかには(犬と比べて)「懐かない」「人に媚びない」なんて思っている人もいるだろう。

 個体差はもちろんあるけど、ある程度は当てはまるかもしれない。

 そして猫好きな人たちは、そういったところも含めて好きだったりする訳だ。

 更に僕個人の意見を言わせてもらうならば、「しなやか」で、どこか「気品」を感じる動作と、掴み所のない「ミステリアス」な行動には、何故か不思議と「色気」がある。

 ……我ながら、かなり偏った意見だとは思うけど、猫好きな人ならば少しは理解してもらえるだろうか。

 とにかく。

 以上の『猫』に対するイメージから「懐かない」を取り除いてみる。

 するとどうだろう。

 何故かほとんど『黛麻友』になるから不思議である。


 僕が裏山で出会った変な―――じゃなくて、不思議な少女―――黛麻友。


 僕はあの日、全体的に黒い彼女の服装から、「黒猫が化身した姿」なんて、なんとも馬鹿みたいで恥ずかし過ぎる妄想をした。

 でも実際そんなことはなく、黛麻友は普通の人間の女の子だった。当たり前だ。

 奇しくも、あれから彼女との交流を重ねているのだけど―――

 やっぱり『黛麻友』は『猫』だった。

 僕の中にある猫のイメージにぴったり当てはまる『猫みたいな女の子』という意味で、だ。

 まず、元が美人なだけに黙っているだけでもかなり絵になる。

 特に、僕が先に彼女の存在を認め、向こうがまだこちらに気づいていない時なんかにたまに見せる、少し憂いを含んだような表情は「ミステリアス」な雰囲気たっぷりだ。

 僕が初めて彼女を見かけた時がまさにそうだった。

 実際に接してみると、大人しくしているということはほとんどなく、むしろ変な言動の方が圧倒的に多い。

「きまぐれ」とか、「自由奔放」なんてレベルではなく、意味不明なこともしょっちゅうだ。

 一方で、黛麻友の所作をよく観察してみると、一見変な風に振る舞っているのに、その一つ一つの仕草が実に繊細で「しなやか」であることがわかる。

 おそらく、彼女自身が持つ生来の「気品」を隠し切れていないのだ。染みついてしまっている育ちの良さを隠すというのは、案外難しいものなのかもしれない。

 そして、そんな相反する特徴を併せ持つ彼女にギャップを感じ、時々―――本当に時々だ―――女性的な「色気」を感じてしまうことがある。…一応断っておくけど、決していやらしい意味ではない。

 もう本当に“猫の人間版”みたいな、もしくは“人間の猫版”かな? まぁ、どっちも変な日本語だし、自分で言っててよく分からないけど。

 とにかく、そんな感じだ。



         2

「おっ! 来たね、コウくん。待ってたよ。えへん☆」

 草の絨毯に体育座りをしていた黛麻友が相変わらずのドヤ顔で言った。

 まったくもって謎のドヤ顔である。

 て言うか、そのスカートだとパンツが見えそうで目のやり場に困るんだけど…。

 今日の黛麻友は白地のTシャツに薄いピンク色のカーディガンを羽織っている。下はやや短めのデニム生地のスカートだ。

 僕はおしゃれというものに無頓着である。

 だから僕の普段の服装がひょっとしたら世間からは「ださい」と思われている可能性も十分ある。

 そんな僕が人様の服装をどうこう言うのは、おこがましいことだろう。

 それを承知の上であえて言うけど、黛麻友は服で冒険をするタイプではないようだ。

 ごくごく普通の格好をしている。

 彼女のルックスの良さや性格から鑑みると、無難過ぎて、むしろ地味な気さえするくらいに。

 ただ、その地味な印象を一瞬で吹き飛ばすポイントが毎回必ずある。

 今日で言うなら、Tシャツにでかでかとプリントされた動物―――鼻の短いゾウみたいな、やたらカラフルな謎の生き物―――だ。

「そのチョイス…狙ってやってるのか?

 ネタか?

 ツッコミ待ちなのか?

 …いや、そんな風には見えない。

 じゃあ、普通に着ているだけか…

 ―――えっ?

 それを“普通に”着てるの?

 つまり、別に変だと思ってないってことだよな…。

 だとしたら、センス悪っ!

 そもそもどこで売ってるんだ。その服…。

 でも売ってるんだから、黛麻友以外にも買う人がいるってことだよな…きっと。

 百歩譲って、家で着る用にするならまだ分からないでもないけど…買った人たちは、黛麻友のように、普通に外で着てるんだろうか…」

 最初のうちはそんな風に気になって仕方がなかったものだけど、今はすっかり慣れてしまった。

 そう言えば、初めて会った時の真っ黒な出で立ちというのはあれ以来見ていない。

 今思えば、あれが僕の知る黛麻友の一番奇抜な(?)格好かも知れない…。

 あの、僕にとって衝撃的な出会いの日からおよそ一ヶ月―――。

 二人が初めて出会ったこの場所で僕たちは逢瀬を重ねている。…と言っても、恋愛的な要素は皆無なんだけど。

 それに、別に示し合わせて会っている訳ではない。各々が気が向いた時に訪れているだけで、会えば話をするといった感じだ。

 僕は、黛麻友に会わなかった時は、いつも通りに読書をしながら少しだけ待つことにしている。

 そしてそのまま本の世界に入り込んでしまう時と、気分が乗らずに帰ってしまう時がある。

 後者は、黛麻友と話したい話題などがあって、それを目的として来ている場合だ。

 それでも本は持っていく。でないと、

「あれれ? ひょっとして、わたしに会いに来てくれたのかな? わたしって人を惹きつけるカリスマがあるのかなぁ! えへん☆」

 などと言い出しかねない。

 むしろ絶対言う。

 例のキラキラエフェクトたっぷりに。

 会うために来ているということは紛れもない事実なのだけど、ドヤ顔「えへん☆」はなんか癪だ。

 ちなみに、黛麻友が僕と会わなかった時にどうしているのかは知らない。

 連絡先を教え合えば済む話なんだろうけど、あえて聞こうとはしなかった。

 その時になってみなければ会えるか分からないという運の要素すらも、実は『猫のような少女』の気まぐれなのではないか…。

 そんな風に考えるとなんだか面白いし、振り回されてみるのも案外悪くない気がしていたからだ。

 また、黛麻友の方にも連絡先のことにはあえて触れないようにしている節があった。

 嫌がられている訳ではないと思いたいけど、彼女なりに何か思うところがあるのだろう。

 だから、僕たちの関係は今のままでいいのだと思う。

「前から思ってたけど『えへん』の使い方、間違ってないかな。まぁ、実際に使ってる人自体、君くらいしかいないと思うけど…」

「むむむ。正しい使い方とかあるの? 辞書に意味とか載ってるかなぁ…。まっ、どっちでもいいじゃん」

 どっちでもいいんかい。

「でも、使ってる人ならわたし以外にも結構いるよ?」

「それってまさか君の周りで流行ってるとか、そういうことじゃないよね?」

「違う違う。そんなんじゃないよぅ。少なくとも、わたしの周りには使ってる人はいないもん」

 ひらひらと手を振りながら答えた黛麻友に聞いてみる。

「じゃあ、一体どこの誰が使ってるのさ」

「外国の人だよ。テレビとかでよく言ってるじゃん。…って、そう言えばコウくんはあんまりテレビ見ない人だっけ」

 確かにテレビはあまり見ない方だけど…それにしたって、全く思い当たらないぞ…。

 そもそも日本語なのでは。

 そう思ったのだけど…さも当然のことのように黛麻友が言うので、いまいち自信が持てない。

 指摘すべきだろうか。

 でも間違ってたら恥ずかしいし…。

 とりあえず、もう少しだけ探りを入れてみるか。

「ちなみにだけど、具体的にはどんな時に言ってるの?」

「Eh-hehえーへぇん

 急に外国人みたいな発音だった。

 そして安定のドヤ顔。腹立つわー。

 て言うか、僕の質問に対する答えになってないんだけど…。

 それでも、黛麻友が言わんとすることは分かったぞ。たぶん。

 どうやら完全に彼女の思い違いのようだ。 さっきの発音の感じからして、外国人なら会話の中で自然に使う「Ah-huhあーはん」を「えーへん」と聞き間違えているのだ。

 おそらくそんな言葉はないからスペルは知らない。

 普通ならそんな風に聞き間違える訳はないんだけど、黛麻友ならば有り得る…。

 ちなみに、仮に本当に「えーへん」という発音だったとしても、だ。

 あれは確か、単なる相づちみたいなニュアンスのものだったと思う。

 対して、黛麻友の「えへん☆」はいつもドヤ顔で言ってるんだから、得意になってる時の表現である「えへん」「えっへん」であるとみて、まず間違いないだろう。

 つまり、どっちにしても、全くの別物ということだ。

 これでおそらく真相は明らかになった訳だけど……うわぁ、我ながらくだらないことに脳を使ってしまった気がするぞ。

 改めて説明するのも面倒くさいし…。

 どうしたものかと逡巡していると、黛麻友が不服そうにぷくっと頬を膨らませながら、こんなことを言ってきた。

「もしかして、私のネイティブな発音でも伝わらなかったの?」

 ……何がネイティブな発音だ。終いには怒るぞ。むしろ本場の方々に怒られるぞ。


 まぁ、何はともあれ、僕たちはいつもこんな感じだ。


 それからしばらくして―――

「そうだ、神社に行こう!」

 突然、黛麻友が言った。

 会話の流れをぶった切った、全く脈絡のない発言だった。

 でも彼女との会話の中ではそういうことはよくある。よって、いちいち気にしていては身が持たない。

 どこかで聞いたことのあるフレーズなのも、この際置いておこう。

 その上で考えてみる。

 神社。―――いいんじゃないだろうか。

 実際に行く機会はなかなかないけど、僕は神社や仏閣は好きな方だ。

 神域の厳かな空気に触れて黛麻友も少しは落ち着いたらいいと思う。

 そんな僕の内心を知ってか知らずか―――

「よっこい、しょーいち」とか言いながら黛麻友が立ち上がる。

 そしておしりをバシバシと叩いて草を払い落とし、その『猫のような少女』は言ったのである。

「思い立ったが吉日。だねっ! えへん☆」



         3

 市の名前を冠した駅から大通りをまっすぐ進むと、某・有名ファッションビルがある。

 そしてその向かい側には、若干のミスマッチ感をものともせず、堂々とした風格を纏った由緒正しい神の社があるのだ。

 その境内に僕はいた。

 両手にはポリエチレン製のゴミ袋―――中には落ち葉やたばこの吸い殻、ペットボトル、空き缶などが入っている。

 …あれ?どうしてこうなったんだ。

 あの後、僕は自ら、黛麻友の「そうだ、神社に行こう」に付き合うことにした。

 だから、ここにいること自体には、なんの問題もない。

 問題なのは神社に着いた後の行動だった。

 一般的に神社ですることと言ったら、「手水でお清めをする」「参拝をする」「祈祷してもらう」「古いお札やお守りを納めて新しい物を買う」「おみくじを引く」「仲見世でお土産を買う」などだろう。

「ゴミ拾いをする」は普通ない。

 疑問に思いつつも、粗方拾い終わったので、黛麻友が戻ってくるのを待つ。

 すると、ほどなくして、なんだかとてもご機嫌そうな黛麻友が駆けてきた。

 その手には僕と同じようにゴミ袋を持っている。

「見て見て、コウくん。こんなに拾ったよ! …って、コウくんも結構やるなぁ!」

 僕は両手を掲げて自分のゴミ袋を見せながら言った。

「普段はあまり気にしてなかったけど、いざ拾い始めてみると結構落ちてるもんだね」

「ほんとだよ! もうっ! なんでみんな平気でその辺に捨てられるんだろっ! 信じられないよ!」

 黛麻友は本当に納得がいかないといった様子で眉間にしわを寄せている。

 ついさっきの上機嫌がまるで嘘のようだ。

 だけど、僕が次のように述べると彼女はまた直ぐに満面の笑みに戻るのだった。

「でもこう言ったら変かも知れないけど、結構楽しかったかな。綺麗になっていく実感があってさ」

「うんうん。それは確かにそうかもね。ゴミが落ちてることはほんとに悲しいけど、拾い甲斐はあったもん」

「そう言えば、中学の頃に野外活動でゴミ拾いとかやらされたけど…こんなに真面目にやったことなんてなかったな」

「えぇーっ! コウくん不真面目なんだぁ! 不良だ不良!」

 口をとがらせてぶぅぶぅ言っている。

 笑ったり怒ったり、実に忙しそうだ。

 顔の筋肉とか疲れないんだろうか…。

 まぁ、僕には関係のない話だけど。

 そんなことより、さっきからずっと気になっていたことを聞いてみよう…。

 しっかりゴミ拾いをしてしまった後で聞くのも、我ながらどうかと思うけど……

「ところでさ、お参りしに来たんじゃなかったっけ? …て言うか、なんで神社に来てわざわざゴミ拾い?」

 来る途中「買いたい物がある」と言われて百均に寄ったんだけど、どうやら、その時にゴミ袋を買っていたようだ。

 そして神社に着いた後、「コウくんは少しここで待ってて」と一人で社務所に向かった黛麻友は、境内や、神社の周りのゴミ拾いをするための許可を取りに行っていたらしい。

 道すがら聞いた話では、参拝が目的だったはずなのに、突然ゴミ拾いをすることになったのだから疑問に思うのは当然だろう。

「んとね、神様に少しでも想いを伝えたいから―――」

 …。

 ……。

 ………。

 あれ?

 もしかして、終わり?

 伝えたいから―――で、終わり?

 まだ続きがあると思って少し待ってみたんだけど、彼女からはそれ以上の言葉はないようだった。

「えっと…僕の察しが悪いだけかもしれないけど、それがなんでゴミ拾いに繋がるのか、ちょっとよく分からないな」

「あ、うん。ごめんね、さすがに説明不足だったね」

「なんか口では説明しづらいんだよね」と前置きをしてから、黛麻友が再び口を開いた。

「お賽銭だけじゃ、わたしの想いを神様に受け取ってもらうには足りないかもしれないと思って…」

 賽銭だけじゃ足りないなんてことは決してないだろう。高額ならいいとか、そういうものでもないだろうし…。

 でも、そんな風に考える人もいるんだなと少し感心してしまった。

 他人がとやかく言うことではないかもしれないけれど、個人的にはとても好感が持てる話だった。

「だから、何か別の行動でも想いを伝えたいなって、思ったんだ」

「それで境内のゴミ拾い…ね」

「だ、だって、他に思いつかなかったんだもん!」

 まぁ、ちゃんと許可は取ったんだし、彼女の気が済んだのならそれでいいんだと思う。

 少なくとも人に迷惑をかけるような行為ではないのだから。

 それにしても、そこまでして神様に想いを伝えたいと言うからには、黛麻友には何か大切なお願いがあるのだろう。

 そのお願いがなんなのか―――気にならないと言えば嘘になる。だけど、さすがの僕もそれを聞くような野暮な真似はしない。

 たぶん聞いても教えてくれないだろうし。

 彼女の方から「聞きたい? ねぇ、聞きたい? どうしてもって言うなら教えてあげてもいいよ?」などと言ってこないのが何よりの証拠だ。

 だから僕はこんな風に言って誤魔化すことにした。

「て言うかさ、そんなに図々しいお願いをするつもりなの?」

「違うよー。コウくん失礼だぞーぶぅぶぅ」

 またもぶぅぶぅと膨れる黛麻友。

 でもその表情と声はどこか楽しげに僕には見えた。

 きっとこれで良かったのだと思う。

 つい、もう少しだけからかってみたくもなるけど…あまり度が過ぎると彼女の気持ちを踏みにじってしまうかもしれない。

 こういうのは引き際が肝心なのだ。

「とりあえず集めたゴミを社務所に持って行こうよ。そういう約束になってるんでしょ」

「あ、うん。そうそう。じゃあ、行こっか」


 社務所では「こんな若者がいるなんて感心だ」とか「また是非お願いしたい」とか「今度は遊びにいらっしゃい」といった具合で、それはそれは感謝された。

「神前式は是非うちで挙げなさい」

 神主さんが満面の笑みでそう言いながら、ほんのお駄賃とばかりに、ちょっと高級そうな和菓子を持たせてくれた。

 さっきは普通にスルーしてしまったけど、僕たちが決して“そういう関係”ではないということをちゃんと言うべきだったんじゃないだろうか…。

 にこにこと嬉しそうにポシェットにお菓子をしまっている黛麻友を見る。

 頬に赤みが差しているのは、たぶん、夕陽のせいだけではない。

「ねぇ」

「んー?」

「君のことをとやかく言える立場でもないんだけどさ…」

「うん」

「どうしてさっき僕たちが恋人じゃないってことを言わなかったの?」

 どこかでひぐらしが鳴いている。

 カナカナ。カナカナ。

 その鳴き声は美しくも、どこか、もの悲しい。

「だって、神社の人たち、あんなに喜んでくれてたし…わざわざ水を差すようなことは言わなくてもいいかなって」

 ―――だそうだ。

 彼女がそう思うのであれば、僕は特に異存はない。

 黛麻友はこう付け加えた。

「神様も少しは喜んでくれてるといいんだけどなぁ」

 境内の掃除までした上に、あれだけ熱心に参拝したのだから、神様だってきっと喜んでいるに違いない。

 黛麻友の『二拝二拍手一拝』に関する一連の動作は、完璧と言わざるを得ない、とても美しいものだった。

 そうフォローしてあげようかとも思ったけど、やっぱり止めておいた。別に恥ずかしいからとか、そういうのでは断じてない。

 ところで―――

 今にして思えば、数時間前に黛麻友が突然発した「そうだ、神社に行こう」は、きっと思いつきなんかじゃなく、計画的な犯行だったと言えるだろう。

 僕はごく自然に参拝への同行を自ら申し出て、その後、ごく自然にゴミ拾いに付き合うことになった。

 きっと黛麻友は最初から僕が付き添うことを想定していたのだと思う。

 ―――まんまと彼女の思惑通りに動いてしまったという訳だ。

 あの時の会話の流れのぶった切り方はかなり無理があったと思うし、自然にゴミ拾いに付き合ってしまった僕も正直どうかと思う。

 だけど、それ以外の点においては、まるで新手の詐欺か何かのようになかなか鮮やかな手口だった。

 このままでは、いずれ『有り難い壺』の一つや二つは売りつけられるんじゃないだろうか。

 でも、何故だろう…

(壺の話はもちろん冗談として)

 不思議と嫌な気持ちはしない。

 黛麻友と話すのは単純に楽しい。

 もし、今日、神社に付き合わなかったとすれば、いつもに比べて彼女と話した時間は少なかった。

 そのことに物足りなさを感じていたからこそ、神社に付き合おうと思ったのだ。

 最初は流れに任せて始めただけのゴミ拾いも、最終的には、やりがいを感じられるほどには楽しかった。

 要するに、何が言いたいのかと言うと、

 今日一日「なんだかんだで楽しかった」ってこと。

 だから、という訳ではないけど―――。

 黛麻友の犯行の計画性については、気づいていないふりをしよう。

 きっと、それが良い。

「わたしのお願いごとは、ぜぇぇぇーったい教えないけど、コウくんはどんなお願いをしたの?」

「そんな聞き方されて、教える訳ないよね」

 僕にとって身近な人たちに不幸が訪れないように…といった感じの在り来たりなものだけど。

 でも、それが一番だと思う。

「えーっ、けちーっ」

「いや、けちじゃないでしょ。君の質問の仕方がおかしいだけでしょ」

「でもコウくんのことだから、周りのみんなが不幸になりませんように、みたいな感じじゃないかなぁ…」

「うっ…さ、さあね」

 確かに在り来たりだけど…これは正直ちょっと悔しい。

「やっぱりそうだ! だって今、「うっ…」って言ったもん! あはは。わたしって鋭いねっ! えへん☆」


 今日は黛麻友のお陰で充実した一日だったし、彼女が満足そうなのは素直に嬉しい。


 でも。やっぱりこのドヤ顔は腹立つわー。



        由香子2

         1

 ウチの勘が正しければ、どうやら浩一に気になる女性ひとができたっぽい。

 本人に確認した訳じゃないけど、最近の浩一の態度を見る限りまず間違いない。

 ウチも伊達に長年、浩一と幼馴染みやってないって訳。

 おそらく、既に付き合ってるってことはないと思う。

 仮に―――あくまで仮に―――だけど、もし既に付き合ってるんだとしたら、ウチにはなんの相談もなかったってことになる。

 だとしたら、ちょっとだけショックかも。

 まあ、それはそれとして。

 ウチ的には素直に祝福したい気持ちが半分と、少し心配って気持ちが半分かな。

 浩一が“恋愛のトラウマ”を克服して前に踏み出せたのなら本当に嬉しいし、よっぽど質の悪い相手でもない限りは応援したいと思う。

 でもその反面、「もし“また”相手に裏切られたりしたら…」と思うと、どうしても手放しには喜べないんだ。

 たぶん、浩一は、今度こそ心に取り返しのつかない重大な傷を負ってしまうだろう…。

 浩一は数年前に『恋人いない歴=年齢』という肩書きを返上した。

 相手はレンタルショップのアルバイト仲間として知り合ったリエコちゃん。

 彼女のことが気になっていた浩一はウチに色々と相談をしてきた。

 メル友になるためのきっかけ作りに始まり、そこからデートに誘うまでの(主に)メールでのやりとり。

 デートのプランも当然のようにアドバイスした。

 更には告白のタイミングまで…。

 いざ付き合うようになった後は、

 何回目のデートで手をつないでいいのか?

 初キスは?

 といった感じで、それはもう手当たり次第に聞いてきた。

 当時は相談されてるウチの方が悩んじゃったくらいだよ。そもそも正しいタイミングなんて無いんだし。

 よく言うじゃん。

「恋愛に方程式は通用しない」って。

 正直、「そんな事、人に聞くなよ…」って思っていたけど、それでもウチは、二人が恋人としてある程度軌道に乗るまでは相談に乗ってあげてたんだ。

 それまで恋愛に縁の無かった浩一には、他に頼れる人がいなかったんだって。

 ちなみに、なんだけど―――。

 恋愛相談に乗っているうちに相手のことを好きになっちゃう、なんて話は割とよく聞くと思うけど、ウチらには全然そんなことはなかった。逆に凹むくらいに。

 やっぱ、ちっちゃな頃からずっと一緒だったから、いまいち、お互いを異性として見られないんだよね。なんて言うんだろ…。友情…は、もちろんなんだけど。相談に乗ってる側のウチとしては…なんか、こう、親心? みたいな…? はは。よく分からないや。

 とにかくそんな感じで純粋に浩一が幸せになってくれたらいいなってウチは思ってた。

 でも、その想いにリエコちゃんは応えてくれなかった…。

 サプライズでプロポーズを考えていた浩一は、何ヶ月も前からコツコツと貯金をして、内緒で婚約指輪を用意していたらしい。

 けれど、その指輪を渡すはずだったデートの前日―――。

 リエコちゃんの「他の人を好きになった」という内容の電話一本で呆気なく破局した。

 浩一自身も少しは自覚しているみたいだけど、彼の方に全く非がなかったとはさすがに言えない。

 それでもあまりに一方的な裏切りだった。

 傷ついた浩一は重度の女性不信に陥ってしまう。

 一時期は本当にひどい状態で、女性に会いたくないという理由から出歩くこともできず、幼馴染みであるウチとさえ、まともに目を合わせられないほどだった。

 その辺りはもうすっかり良くなっている。

 自分で言うのもなんだけど、ウチとのコミュニケーションがリハビリになったことは間違いない。

 我ながら献身的に対応していたと思うし。いや。割とマジで。

 それでも未だに恋愛に関しては消極的―――むしろ懐疑的と言ってもいいくらいだ。

 ついこの間も、ウチが最近読んだ恋愛漫画の話をしたんだけど、浩一は渋い顔をして「恋愛はもう懲り懲りだし、例え漫画の話でも遠慮したいな」なんて言ってた。

 そんな浩一が、ウチになんの相談もなしに新しい恋人だなんて…やっぱり考え難い。



         2

 …あれ? もしかして着信してる?

 バッグの中で携帯が振動している事ことに気づいた。

 少ししても止む気配がないから、どうやらメールじゃなくて電話みたい。

 てか、ぶっちゃけマナーモードでバッグに入れておくと、メールの着信くらいじゃ短くて全然気づかないんだよね…。

 画面に表示されたのが『四条瑞希』であることを確認してから電話に出る。

「もしもし、ミズ?」

「もしもしも。四瑞よ」

「『も』が一回多くない?」

すももも桃もモモのうちってことなのだぜ」

「いや、意味分かんないから」

「あたしもよく分かってない。キリッ!」

 …。

 ……。

 ………。

「で?」

「ゆかっぺ、今、家? つか、何してんの?」

「今?」

「そそ。今。ナウ」

「今は『インター』でぶらぶら中だけど?」

『インター』というのは、県内最大級の規模を誇る、郊外型ショッピングセンターの略称だ。

「インターでぶらぶら? なんだ、家じゃないんかお」

「そうだけど、何か用事でもあったの?」

「もし暇してるんなら、あたしん家で『桃鉄』でもしようぜ! って思ったんよ。残念無念」

「さっきのモモの話が桃鉄そこに繋がるとはね」

「おぉ! よくぞ気づいてくれた! ゆかっぺ、さすがですな」

「まあ、それなりに長い付き合いだしね」

『桃鉄』は、とあるテレビゲームの略称で、簡単に言うと、すごろくや人生ゲームのようなものだ。ゲームを始めると、最初に正式名称が表示されるんだけど―――なんだったかなぁ…。

 ゲーム内には桃太郎や金太郎などの昔話のキャラクターがデフォルメされて登場して、そのキャラクターたちが電車型の駒を進める内容なので『桃鉄』。

 基本的にゲームには興味がないウチはそんな風に解釈しているけど、大体合ってると思う。…たぶん。

 四人まで同時に遊ぶことができるから、昔からよく浩一とミズと三人でやってたんだ。

 二人が疎遠になっちゃってからはやってないけどね…。

「そう言えば、しばらくやってないね」

「だしょ? そう思ったら、なんか無性にやりたくなっちってさ」

「あるある、そういうの」

「でも外出中じゃ仕方がないってばよ…」

「来週で良ければ付き合うよ?」

「来週はあたしの方が駄目なんよ。朝から健康診断の手伝いだからさ」

 そう言えば、そんなのあったっけ…。

 ウチらの住んでいる地域では、年に二回、参加自由の健康診断がある。

 確か、ウチらの通っていた小学校のすぐ目の前にある公民館でやるんじゃなかったかな…。

 地区の住民であれば誰でも受診することができるんだけど、ウチは行ったことないんだ…。

 てか、参加するのは、毎回、お年寄りか、小さな子供か、その親御さんがほとんどだって聞いている。

 検診の日は夕方までお医者さんと数名の看護師さんが待機してくれてて、好きな時間に行けば診てもらえるんだったと思う。

「健康診断って来週だったのか…。今回も参加する気はないから、すっかり忘れてたわ。朝から手伝いって一日ずっと?」

「まぁね。十時とお昼に休憩はあるけど、そんだけじゃさすがに桃鉄はやれん」

「てか、それだけの時間でやってたら、どんだけやりたいんだって話だよね」

「李も桃もモモのうち、よ」

「それはもうええっちゅーねん」

「あはは。ツッコミせんきゅー。―――でもさ…」

 心なしか「でもさ」のトーンが控えめに感じたウチは「ん?」と聞き返す。

 ミズは芝居がかった咳払いを「こほん」と一つして、同じように芝居がかった口調で言った。

「ゆかっぺ殿、若いからって油断は禁物ですゾ。チミも健康診断、受けたまえよ」

「別に油断してるって訳じゃないけど…確かに行っといた方がいいのは間違いないんだよね…」

「だべ? 今なら特別にあたしがお熱とか測ってあげちゃうわよん。うふっ」

「そっかー。そりゃあ是非遠慮したいわー」

「冷たい! ゆかっぺ冷たいっ!」

「まあ、とりあえず今回はパスの方向で。次は半年後とかだよね?」

「んだ。その時は来てくれるかなー?」

「リアルに考えとく」

「そこは『いいももー!』って言うところだお」

「どんだけ引っ張るんだ、モモの話」

「桃鉄をするまで! キリッ!」

 その後、二・三雑談をして、

「じゃあ、桃鉄はそのうちやろうね」

「んだ」

 というやり取りの後、電話を切った。

 その少し前に「ウチらにしては結構しゃべった方だし、電話切った後は充電が減ってるかも」と言ったら、「大丈夫。このくらいなら減ってないよ」と返された。

 切った後すぐに確認してみると、液晶に表示された電池のマークは、やはりまだ満タンの状態だった。

 ミズ、妙に自信ありげだったけど、どうして分かったんだろ?

 いや、彼女のことだから、適当に言ったのがたまたま当たっただけなんだろうけどさ。



         3

「むふ…」

 ミズとの通話を終えたウチは、本日一番のお目当のショップにやってきた。

 てか、インターに来る時は大抵ここが一番のお目当てなんだけど。

 ここは本当にウチ好みの服が多くて、結構昔からお世話になってるんだ。

「むふふ…」

 今日は主に秋物を買いたいと思っている。

 そのために今日まで節約してきたんだから、じゃんじゃん買わなくっちゃね!

 まずは何から探そっかなぁ。

「むふふふ…」


 ―――って、無意識に声出ちゃってた!


 やば。よだれもちょっと出ちゃったよ…。

 普段はクール&ビューティーが売りのウチも、買い物の時だけはテンションが上がりまくっちゃうのよね…。

 昨日の夜も無意識に「むふむふ」言っちゃって家族から白い目で見られたし。

 そしてここだけの話、興奮するとよだれが出る癖もあったりするから困る。

 まあでも、近くに人がいなくて助かった。

 …とりあえず少し落ち着こう。

 そう思って、ウチはハンカチで口元を拭うと、改めて店内を見回した。

 ―――すると、素晴らしい文字が踊るポップを発見してしまったのである。

「マジか…」

 またしても無意識に口走っちゃったけど、はみ出そうとしてくる液体は意識して引っ込める事に成功。

 ふぅ…あぶないあぶない。

 ついさっき落ち着こうと思ったばかりなのに、危うく一瞬で大興奮の渦にたたき込まれるところだったよ…。

 でも、今のは仕方がない。

 だって。


「来週、セールぢゃん」



        浩一3

         1

「でさ、コウくん…。あの話、考えておいてくれた?」

 今日は挨拶もそこそこに、出会って早々“あの話”について切り出された。

 正に単刀直入というやつだ。

 しかも、ドヤ顔「えへん☆」すらない。

 黛麻友も相当気になっていたということだろう…。

 考え抜いた結果、僕がどのような結論に至ったのか。

 それだけに―――

 僕は罪悪感を禁じ得ない。

 そこまで気を揉ませてしまったのに、彼女が望むであろう答えを用意してあげられないのだから…。

 黛麻友は期待を込めたような眼差しでこちらを見ている。

 その期待に応えてあげたいという気持ちは、もちろん、ある…。

 でも、無理なものは無理なんだ…。

 僕は彼女の視線を正面から受け止めた。

 こうして改めて見ると、やはり整った顔立ちだと思う。はっきり言って、めちゃくちゃ美人だ。

 相変わらず少し地味目な服装だけど、Tシャツに描かれた謎の鳥(?)のTシャツが目を引く。らっきょうみたいな形の羽が生えていて、くちばしからは「うっぷるっぷ」という言葉が伸びている。鳴き声だろうか…。

 そんな『服装の残念さが愛くるしい少女』に僕は言った。

「“あの話”なんて知らないんだけど…」

 うん。全く記憶にない。

 記憶にないのだから「考えとく」も何もない。「彼女が望む答え」なんか用意できる訳がないのだ。

 僕と黛麻友の間で話が食い違っているのは何故か。

 答えは簡単だ。

“あの話”なんて、今さっき黛麻友が咄嗟に考えたものだから―――である。

 これは彼女なりのジョーク、或いは、話し出すきっかけみたいなものだ。

「コウくん、ノリが悪いぞぅ。ぶぅぶぅ」

「君とノリの良さだけで会話してたら、何があるか分かったものじゃないからね」

 これまでにも何回か(神社のゴミ拾いをした時のような)多少強引な流れから振り回されることがあったのだ。

 黛麻友の『猫のようなきまぐれ』に振り回されるのも悪くはないと思うけど、それにも限度ってものはある。

「むむむ。コウくんもやるようになったね」

「ふっ…いつまでも僕を甘く見ないことさ」

 いつものお返しにとドヤ顔をしてみる。

 我ながらなかなか憎たらしい顔になっている自信があるぞ。

 どうだ! 腹立つだろう!

 黛麻友はもうこっちを見ていなかった………くそぅ。

 あれ? 何やらうつむき加減で渋い顔をしているぞ…?

 しかも小声で何かぶつぶつと言っているようだ…。

 ―――ったく。

 仕方がないので話を振ってみるか…。

「で、用件はなんなの?何か言いたいことでもあるんでしょ?」

 黛麻友はうつむきがちなまま「あわわ」とか言い出した。

 そしてモゾモゾしている。

 ときどきこちらに視線を向けるけど何故かすぐにそらしてしまう。

 …て言うか、眼球があっちこっちにぐるぐるしていて焦点が一点に定まっていない…。文字通り目が回りそうだ。

 なんて―――

「なんてあからさまなテンパり方なんだ…」

 思わず呟いてしまった僕の声は、黛麻友には届いていないようだ。

 相変わらず「あわわわ」だか「はわわわ」だか知らないけど、ぶつぶつと言っている。

 ちょっとテンパり過ぎじゃないか…?

 でもこんな黛麻友を見るのは初めてだし、面白いからもう少しだけ様子を見てみよう。

 僕も彼女には結構“してやられている”のだから、ささやかなお返しだ。

 …どれどれ。

 そうしてよくよく見てみると、彼女の顔面はまるで師走の如く大忙しだった…。

 筋の通った鼻―――の穴が、フクフクと動いている。僕だって鼻の穴くらい動かせるぞ。だからなんだって話だけど。

 口元はふにょふにょしている…。

 ふにょふにょって言っても分からないかも知れないけど、ふにょふにょなものはふにょふにょだ。一体どうやったらこんな風にふにょふにょするんだろう。

 前にも別のニュアンスで思ったけど、顔の筋肉とか疲れないのだろうか…。

 ほっぺたと耳の辺りが少し紅潮しているように、見えなくも、ない。

 世にも珍しいことに、恥ずかしがっているらしい。あの黛麻友ともあろうお方が。

 何か言いたいことがあるのはどうやら間違いなさそうだけど…。

 黛麻友は散々迷った末に、やがて意を決したように顔を上げた。

「見たい映画があるんだけど、今度の週末にでも、一緒に、ど、どう? …ですか?」

 ―――なんで敬語。

 しかも後半になるにつれて声が小さくなって聞こえにくかったし。

 て言うか、今までにも二人で遊びに出かけたことはあるのに、なんで今更“たかが映画に誘うくらいのこと”でそんなに恥ずかしがるんだろう。

 まぁ、僕からすれば、今までのは「誘われる」と言うよりも「半ば強引に連れて行かれる」みたいなのが多かったけど。

 でもその違いが原因でここまで黛麻友の態度がおかしくなるとは考えにくい。

 例えば、気になる異性がいたとして、その人とお近づきになりたいがために映画に誘うとする。

 それはつまりデートに誘うということに他ならない。

 多くの人はそれなりの度胸のようなものを要すると思うし、恥ずかしくてなかなか言い出せなかったり、緊張してテンパったりするのも頷ける。

 年頃の男女が二人だけで映画を見に行くというシチュエーションは、大抵の場合、デートと呼べるものなんじゃないだろうか。僕の感覚ではそうだ。

 でも。

 僕と黛麻友の場合は“デートであるはずがない”んだ。

 僕たちの間に恋愛感情なんてないのだから。…絶対に。



         2

 黛麻友との出会いから既に二ヶ月が経過している。

 その間に彼女と交わした様々な会話の中で、ある意味、最も二人の距離が近づいたのが恋愛に関する話だった。

 …少なくとも僕はそう思っている。

 ここでは詳細は省くけど、僕たちはそれぞれ過去に恋愛で苦い経験をしている。

 それを二人とも未だに引きずっていて、新しい恋に対しては消極的なのだ。

 あの時―――黛麻友が恋愛の話を始めた時―――僕は正直、辟易した。

 恋愛なんてもう懲り懲りだと思っていたし(今も思ってるけど)、例え他人事だとしても、そういうことには一切関わり合いたくなかったんだ。

 まして、惚気話なんてまっぴらごめんだ。

 黛麻友は少し変わり者だし、服のセンスも残念だけど…それを差し引いても余りあるくらいの美人だと思うし、素直で真っ直ぐな性格の持ち主だとも思っている。

 だからこの時、僕は彼女には当然のように恋人がいるのだと思った。

 僕は嫉みや僻みのような感情から黛麻友の架空の彼氏をでっち上げ、あろう事か、その二人に対して自分勝手に憤りを感じてしまったんだ。

 どうせ誰からも羨まれるほどの美男美女のカップルで、幸せなのを見せびらかしたいだけなのだろう…と。

 少し考えれば、そんな恋人のいる女の子が、裏山こんなところにしょっちゅう一人で遊びに来るわけなんかないってことは、明白なのに。

 あの瞬間の僕にはそれすらも分からなくなっていて、黛麻友に対する嫌悪感のような感情が芽生えていた。

 もちろん、いつもそんなことを思って黛麻友と接していた訳ではない。

 でも、そういう感情自体は僕の心の奥底―――黒い感情が沈んでいる仄暗い沼のような場所にきっと常にあって、普段は眠っているんだと思う。

 そしてそいつは、この時のように、本当に些細なきっかけで目を覚まし、僕の心を掻き乱すんだ。

 僕はそんな醜い考えを持ちながらも、一方では、黛麻友との今の関係を壊したくないとも思っていた。

 だから僕は彼女の話を大人しく聞くことにしたのだ。

 最初は嫌々だったけど、話を聞いていくうちに僕の考えていたような内容ではないことに気付く。

 結論から言ってしまえば、現在の黛麻友には恋人と呼べるような相手はいなかった。

 彼女が語ったのは、過去にたった一人だけいたという、いわゆる、元カレの話だった。

 確かに相手の良かった所や、楽しかった出来事などの惚気話もされたけど、最終的に別れるという結末になることは分かりきっている。

 途中からは当然のように雲行きが怪しくなり、最後は「これなら惚気話を聞かされる方がまだマシだ」と思えるくらいの、最悪の結末だった。

「なんか、つまんない話しちゃって、ゴメンね…」

 そのように締め括られた黛麻友の話。

 それは、紛れもなく、彼女が過去に負った心の傷の話だった―――。


 僕はすっかり黛麻友に同情していた。

 ついさっきまでの醜い感情に塗れた自分を棚に上げて…とは思う。

 それでも彼女の心情を思うと、悔しくて、悔しくて、堪らなかった。

 いつもころころと表情を変える『猫のような女の子』が、この時どんな顔をしていたのか…。

 それを確かめる勇気は僕にはなかった。

 僕は隣で体育座りをしている少女の方を見ることすらできず、彼女と同じように体育座りをしたまま正面を見ていた。

 その日もどこかでひぐらしが鳴いていた。

 カナカナ。カナカナ。と。

 その鳴き声で彼女を慰めているのだろうか…。

 それとも憐れんでいるのだろうか…。

 僕にはこの前聞いた時よりも一層もの悲しいものに感じられた。

 僕は独り言のように自分が過去に負った心の傷のことを話し始めた。

 僕の話なんて、黛麻友のそれに比べたら、ひどくちっぽけな内容だと自分でも思った。

 それでも彼女は黙って僕の話を最後まで聞いてくれた―――。

 次に会った時には、お互い、まるで何事もなかったかのように普通だった。

 それでも僕たちの間には今までとは少し違う信頼感のようなものが確かにあった。

 だから、今、二人がこうして変に異性を意識せずに“ちょうどいい距離感”でいられるのは、そのお陰だと僕は思っている。



         3

「ちょっとちょっとぉ! 変な沈黙はやめてよぅ。なんか気まずいぢゃん」

「君が照れるなんて珍しいからさ」

「別に照れてなんかないよぅ。ただ少し恥ずかしいだけだもん!」

 僕は日本語の専門家でもなんでもないけど、それは大体同じ意味だと思う…。

 でもいちいち指摘していたら話が一向に進む気がしない。

 ここは黛麻友の言い分を尊重しよう。

「いや、それにしたって、たかだか映画に誘うくらいのことが恥ずかしいだなんて、君らしくないよ。一体どういう風の吹き回し?」

「もちろん変な意味はないよ? でもこれには訳があるんです…。それはそれは深い訳が……」

 この時点で、大した訳ではないということは明白だった―――けど。

「じゃあその訳とやらを聞かせてよ」

 そう聞かずにはいられなかった。

 まぁ、単純に気になるし。

「それはですねぇ―――」

 待ってましたとばかりに黛麻友は話し始めたけど、少し―――いや、ほぼ割愛させてもらって、ここでは要点だけを述べておこう。

 大体以下のような内容だった。


・見たい映画があるけど、一般的にはあまり女の子が好むような内容の作品ではないので、一緒に見に行ってくれる女友達がいない。


・家族などにも心当たりがない。


・でもお一人様で映画を見るのは嫌。


・かと言って男友達を誘って変に勘違いさせてしまっても申し訳ないし、もしそうなった場合は自分も困る。


・その点コウくんなら心配ないから付き合って。


・えへん☆(ドヤ顔)


 やたら話が脱線した結果、これだけの内容を伝えるのに十五分はかかったんじゃないだろうか…。

 結局、黛麻友が照れてた―――じゃなくて、恥ずかしがってた(どっちでもいいか)理由はよく分からず終いだった。

 友達がいないと思われるとでも思ったのだろうか。

「一緒に行ってくれるよね?」

 別に嫌という訳ではなかったけど、どうするべきか、少し迷っていた。

「うーん。どうしよう。別に構わないと言えば構わないんだけど…。でもなぁ…」

「むむむ?構わないのに何を渋ってるの?」

「君が見たい映画って『イマジナリー』なんだよね」

「そうだよ。それがどうかしたの?」

「あれって結構シリーズが続いてると思うんだけど、僕、『2』までしか見てないんだよ」

「ふむ」

「しかも内容自体は正直あんまり覚えてないし」

「ふむふむ…?」

「だからいきなり最新作を見たってよく分からないと思うんだ。かと言って、今から全部レンタルとかして見るのもさ…」

「…それは大変そうだね」

「でしょ? ちなみに今やってるのっていくつだっけ?」

「えっと、今は“確か”『5』か『6』だよ。でもイマジナリーシリーズは―――」

「ちょ、ちょ、ちょっと待った」

「んー? なんだい?」

「『なんだい?』じゃないよ。君が見たい映画のに、今いくつなのかも曖昧なの?」

「そうだよ? だって、どんどん増えてくから、どれがどれだか分からなくなっちゃうんだよ。えへん☆」

 えへん☆…じゃねーよ。

「全部見てる君でさえそれじゃあ、『2』までしか見てない僕はもっと駄目に決まってるじゃないか」

「ん? 私も全部見てないよ? えへん☆」

 どこからツッコむべきなんだろうか…。

 とりあえずもう一回。

 えへん☆…じゃねーよ。

「でもそんなに心配しなくて大丈夫だと思うな。コウくんもきっと楽しめるって。わたしがほしょーするよ!」

「まさかとは思うけど…ちゃんとした根拠があるんだろうね?」

「うん。あるある。もちろんだよ!」

 正直全く信用できないけど、とりあえず話は聞いてみよう。

『信用度0%少女』は「さっきも言いかけたんだけどね」と前置きしてから、その“どうしょもない根拠”を教えてくれた。

「あのシリーズはね、凄い迫力だなーとか、お金かかってるなーって見てるだけでも結構面白いんだよ」

 『1』と『2』を見た時に派手な爆破のシーンに圧倒された記憶は確かにある。

 映画の内容自体はほとんど覚えていないのに、その爆破のシーンだけは頭の中で再生できそうなくらい鮮明に覚えているほどだ。

 だから、不覚にも、黛麻友の言うことに少しだけ納得してしまった。

「アクションシーンは展開が早くて敵と味方の区別もつかなくなっちゃうし、何が起きてるのか全然分かんないんだけど、とにかく凄いよ!」

 とにかく凄いよって…いくらなんでも抽象的過ぎるだろ。

 それと一応断っておくけど、敵と味方の区別がつかなかったり、何が起きてるのか分からないのは、たぶん黛麻友だけだと思う…。

 彼女の持論は続く。

「それにラストはいつも大体同じパターンであっと言う間に解決しちゃうし、案外どうってことない内容なんだよ! えへん☆」

 そんなに得意げに言わなくても…。

 仮にも長く続いてる人気のあるシリーズなのにそんな評価でいいのだろうか…。

 て言うか―――あれ?

 僕には黛麻友が『イマジナリー』をディスってるように聞こえるんだけど……。

 悪気は一切ないのだろうけど、他のファンには絶対聞かせられない…。

 僕なりに『黛理論』を咀嚼してみた結果、導き出されたかいは次のようなものだった。

「つまり、内容はどうでもいいから派手なアクションシーンを楽しめってこと?」

「うん。大体そんな感じ」

「確かに君の言うことも一理ある気はする」

「でしょでしょ?」

 僕が彼女の意見に同意したことで、もう一押しだと思ったのか、黛麻友はこれでもかというくらいに目を輝かせながら追い打ちを仕掛けてきた。

「行こうよ映画っ! ねっ? ねっ?」

 うっ…。

「そこまで言うなら…まぁ、行ってもいいかな」

 て言うか、こんな風に強請ねだられたら断れる訳がない…。

「ほんとっ? やったぁ! じゃあ決まりだね! えへん☆」


 かくして、僕は黛麻友と二人で映画『イマジナリー(5か6)』を見に行くことになったのである。


「なんでそこで『えへん』なのさ」

「なんでって…」

 黛麻友は、にかっと笑ってから言った。

「『えへん☆』なものは『えへん☆』だからだよっ」

「それ、答えになってないって…」

 そう言いながらも、あまりに嬉しそうな少女の笑顔を見て、僕は―――


 なんだか照れくさいような。


 でも、とても温かいような。


 そんな気持ちになっていた―――。



        由香子3

         1

 今日は待ちに待ったセールの日。

「ふんふふん♪」

 鼻歌まじりに向かっていると、インターの敷地内にある映画館の入り口付近に見覚えのある顔を見つけた。

 気付かれないように近づいて声をかけてみる。

「よっ、浩一じゃん」

「ゆか…っ? ゆかじゃないか!?」

 ウチの声に振り向いた浩一は、ウチを見た途端、何故かきょどり出した。

 …これは何かありそうね。

 自分の顔がニヤニヤしないように意識しながら少し探りを入れてみることにした。

「浩一が映画なんて珍しくない?」

「ゆ、ゆかの方こそ…。映画はテレビで放送されるまで待つタイプだろ?」

 さすが、よくご存じで。

 でもそれと同じように―――いや、それ以上に、ウチは浩一のことをよく知っている。

「まあ、そうね」

「じゃ、じゃあ、なんでこんな所にいるんだよ。お前に映画館なんて…にっ、似合わないぞ」

 映画館が似合わない女って、それ、どんな女よ…。

 でもまあ、今のやり取りだけで浩一の考えていることはほぼ分かった。

 どうやら一刻も早くここからウチを遠ざけたいみたいね…。

 女の勘を舐めたらいけないゼ。

 まあ、そんなものに頼るまでもなく、バレバレなだけなんだけど。

 だって不自然過ぎるでしょ…。

「ウチはインターの方に用があってさ。たまたま浩一を見かけたから声かけたの」

「な、なるほどね」

「………」

「………」

 沈黙。やっぱりおかしい。

 今の会話の流れなら、ウチの用が何かを聞いてくるのが普通だよね。

「で、何見るん?」

「えっ?あ、うん。『イマジナリー5』だよ」

「………」

「………」

 沈黙その2。

 どうあっても浩一の方から何か言葉を発するつもりはないらしい…。

 浩一がここまで“早く話を切り上げたいオーラ”を出すなんて初めてかも。

 上映時間が迫っているのなら話は分かる。

 でも、ここからでも見える館内のスクリーンに表示された上映開始時間にはまだまだ余裕がある。

 浩一がウチを早く遠ざけたい理由について―――ウチには既にある予測がついている。

 それはほぼ『確信』と言っていいレベルのものだ。

 ウチは空気を読まずに会話を続行する。

「イマジナリーかぁ。そう言えば、新作始まったんだっけ。ウチもテレビCMを見てちょっと見たいと思ってたんだよねぇ」

「えっ、そうなのか? 意外だな」

「あれ? 言ったことなかったっけ? ウチ、あのシリーズ結構好きなんだ」

「初耳だよ。…たぶんだけど」

「そっか。うん、確かにそうかも。よく考えてみれば、誰かに言ったことってないかも」

「ふーん」

「イマジナリーってさ、あんまり女子受けする作品じゃないんだわ。それこそ、話題にすらならないレベル。だからって仲間にハブられる覚悟で男子の輪に混じる訳にもいかないし…」

 これは主に学生時代のことを言ってるけど、今の職場でもそういうのは割とある。

 仮にもしそれが嫌で会社を辞めたとしても、きっとどこに行っても大なり小なりあるんだろうなぁ…。そう考えると社会とか人間関係って結構面倒くさい……。

「映画館で見たいと思ってても、一人で行くのは個人的に嫌なんだよね。かと言って、男の人と見に行ったら後で面倒くさいことになるかも知れないじゃん? もし誰かに見られたりして変な噂にでもなったらマジで最悪だし」

 それに―――もし相手をその気にさせちゃったら申し訳ないもんね。ほら、ウチってば、そこそこ? イケてるし?

 そんな事口が裂けても言えないけど、少しくらいはそう思ってもいいよね。てへ。

 ちなみに、「彼氏ができれば全部解決じゃん」という正論は知りません。

「イマジナリーって、やっぱり意外とそういうものなのかな」

 浩一がボソッと何か言ったようだけど、よく聞こえなかった。

「ん?なんか言った?」

「あ、いや、なんでもない。こっちの話」

「そう? ならいいけど」

 ただ、一つ気になることがあった。

 支持しているウチが言うのもなんだけど、イマジナリーは、かなり人を選ぶ作品だ。

 そしてウチの知る限り、浩一が好むような作品ではない。

 今まで浩一とイマジナリーの話をしたことがなかったのにはそういう理由もあるんだ。

「てか、そっちこそイマジナリーに興味があったなんて、意外なんだけど」

「あ、いや、別に興味があったって訳じゃないんだ。…友達が見たいって言うから、その付き添い。えっと…ほら」

 そう言って浩一は二人分のチケットを見せてきた。

 ―――ふふん。

 やっぱりウチの読み通りみたいね。

「それってもしかして女の子…? まさか新しい彼女さんだったりして!?」

 ちょっと白々しい感じになっちゃったけど、鈍感な浩一には気付かれていないだろう。

「かっ、彼女な訳ないだろ確かに女の子だけどデートとかそういうんじゃなくてあくまで友達としての付き合いだよ大体恋愛は懲り懲りだって前にも言ったじゃないか」

 超早口。どんだけー。

「そう言えばそうだったね。ごめんごめん」とか謝りつつ…もう少しだけ探らせてもらおう。許せ、浩一。

「でもさ、浩一がそう思ってたって、相手は浩一のことをどう思ってるかは分からないじゃん? もしかしたら気があるかもしれないよ?」

「それなら大丈夫。向こうも僕と似たようなものだから。お互いの事情を知った上だからこそ、変に意識しないでいられるんだ。男と女の友情は成り立つってことさ」

 なるほど。

 少なくとも本人たちにはその気はないってことね。

 そして「おそらく、既に付き合ってるってことはないと思う」というウチの読みは、大体当たってたってことだ。やっぱり伊達に幼馴染みやってないわ、ウチ。

 でも二人だけで映画を見に来るのなんて普通にデートだと思うけどなぁ。

 てか、イマジナリーシリーズは毎回えっちぃシーン―――しかも結構濃厚な―――があるのも売りの一つなんだけど、お二人は平気なのかしらん。

 まあ、相手からのご指名なんだから大丈夫か…。

「で、さっきから、そのお相手の姿が見当たらないみたいなんだけど?」

「女性は大変だよね。世の中には『女性限定』とか『女性専用』なんて言葉が溢れてて、むしろ『男性差別社会』だと思うくらいだけど、こういう時だけは男に生まれたことを心の底から良かったと思うよ」

 浩一の視線の先には女子トイレから伸びている行列があった。小さな女の子と、そのお母さんと思しき人の姿がほとんどのようだった。

 そう言えば、今日から公開になる『小さな女の子向けの超人気アニメシリーズ』の映画があった気がする。ウチはもちろん興味はないけど、よくCMを見るからなんとなく覚えていた。

「ウチもたまに男子の方に入っちゃおうかなって思うことがあるわ」

「そういう、おばちゃん的な発言はどうかと思うぞ、ゆか」

「………」

「………」

「いやいや、しないって。冗談だよ。冗談」

「て言うか、男がその逆をやったらセクハラだとか猥褻物陳列罪だとかで大問題なのに、おばちゃん―――女性ならやっても問題なしってのは納得がいかないぞ」

「いや、ウチにそれを言われても」

「………」

「………」

「じゃ、そういうことだから。また後でな」

 おい、どんな会話の終わり方だよ、それ。

「あれ?紹介してくれないの?」

「なんでお前に紹介しなくちゃいけないんだよ」

「イマジナリー仲間ができるかも知れないじゃん。てか、逆になんで紹介してくれないのよ」

 リエコちゃんの時とは大違いだ…。

 ある意味では浩一も成長したってことなのかも知れないけど、やっぱりちょっとだけショック。

 いや、別にまた“面倒くさい相談”に乗りたいって訳じゃないけどさ。



 あれからしばらく粘ってみたけど、頑なに拒否られた…。

 その間に件の彼女が戻って来てくれればラッキーだったんだけどなぁ。残念。

 おそるべし、女子トイレ。

 てか、あんなに嫌がんなくてもいいじゃんか…さめざめ。


 ―――なーんて思ってると思ったら大間違いよ浩一ッ!


 追い払われたばかりの今は無理でも、映画が終わって二人が出てくる時に“ばったり会うことにすればいい”んだしッ!

 イマジナリーの上映時間は約二時間。

 その間、ウチはインターでゆっくり過ごさせて頂きますかね。

「むふ…むふふ」


 やばっ! また、よだれがっ!



        瑞希2

         1

「ふぅ―――」

 結構疲れた。…まだ十時なのに。

 毎回思うことだけど、普段とは違う環境での業務だからかな。

 年に二回あるとは言っても、なかなか慣れられるものじゃないのかもしれない。

 あたしが勤めている診療所は、小さくて、そんなに忙しいことがないから余計にそう感じるんだろうな…。

 健康診断の当日、十時休憩の時間。

 休憩室としてあてがわれた部屋であたしはそんなことを思っていた。

 部屋の中央に置かれた、こぢんまりとしたテーブルで絶賛ほおづえ中。

 他にこの部屋にある物と言えば、入り口側から見て正面の壁に窓が一つ。右に簡単な造りのシンク。そして左の壁際にいくつかのロッカー。だけ。実にシンプル。

 今日は―――毎回のことだから、今日「も」か―――朝八時から受診受付の予定だったんだけど、一時間前には十人以上のお年寄りが公民館の入り口に待機していた。

 そのため、三十分ほど前倒しして受付業務が始まった。

 これは、もはや通例となっていることだった。

 やはりお年寄りの朝は早いらしい。

 朝早くからたくさんの人が足を運んでくれるのは本当にありがたいことだと思う。

 病気などの早期発見に繋がるのはもちろんだけど、全く健康な人であっても、それを改めて再認識できれば精神的にも安心できるし、損するようなことはまずない。

 だからこそ、もっと若い人たちにも受診してもらいたいと思っているんだけど、なかなかそうはいかないのが現実な訳で…。

 今回も(今のところ)若い人の姿は皆無と言っていい状況だった。

 由香子は今日もインターって言ってた。

 いくらセールだからって、先週行ったばかりなのに難儀なものだと思う。


「四条さん、ロッカーの中でスマホが鳴ってるみたいよぉ?」


 ロッカーの所で鏡とにらめっこをしていた先輩看護師の茶野さんが教えてくれた。

 彼女は同じ診療所で働く、頼れるおねーさん的存在の先輩で、フルネームは茶野巴ちゃのともえさん。

 今日一日、一緒に業務に当たってくれている。

 あたしはこの人が大好きだ。

 おっとりした性格と少しゆっくりめな話し方には、いつも癒やされている。

 あたしより二つも年上とは思えないほど可愛らしいルックスなのに、程好くふくよかな体型と豊満なバストには、決していやらしくはない色気と、妙な艶っぽさがあるんだ。

 それらの特徴から思い浮かべる、あたしの中の茶野巴という人のイメージは『マシュマロのような人』。

 そんな茶野先輩には彼氏さんがいる。

 あたしは会ったことはないんだけど、確か、もう五年くらい付き合ってるはずだ。

 他の先輩から聞いた話では、とても素敵な彼氏さんだそうで、結婚まで秒読み段階という噂もある。

 …羨ましい。

 茶野先輩の夫になる人が。

 女のあたしですらそう思うのだから、きっと男性陣はもっと羨むんだろうな。

 着信のことを教えてくれた先輩にお礼を言いながらロッカーへ向かうと、確かにスマホのバイブ音が聞こえる。

 ロッカーを開けずとも、あたしには誰からの着信なのかは予想がついていた。

 それでも先輩の手前、一応確認してみると、やはり思っていた通りの名前が表示されている。

 あたしは、スマホを戻した。

「あれ? 出なくてもいいの?」

「ええ」

「もしかして私がいるとマズかったかな?」

「あ、いえ、そういうんじゃないですよ? 単に出なくていい番号だっただけです」

「出なくていい番号って…。まさかイタズラ電話とか? 実は私も少し前にあったんだけど。無言電話。四条さんも?」

「無言電話…ではないですけど、まぁ、似たようなものですかね…」

「そんなの着信拒否にしちゃえばいいじゃない」

「それが、そういう訳にもいかなくて…すいません」

「どうして四条さんが謝るのよ。それよりも、私の方こそごめんなさいね、変に詮索しちゃって。事情があるとは知らなかったものだから…」

「いえ。いいんです。もし茶野先輩があたしみたいな行動してたら、あたしだって気になりますし」

「もし何かあったら遠慮なく相談してね。力になれるかは分からないけど…話くらいは聞いてあげられるからね?」

「そう言ってもらえると心強いです。その時はよろしくお願いします、先輩」


 ―――これはあたしと由香子、そして浩一の問題だ。


 でも、茶野先輩に相談するっていうのは選択肢の一つとしては魅力的かも知れない。


「さて、そろそろ休憩も終わりね」

 休憩室の扉を開き、こちらを振り返った茶野先輩はウインクを寄越してきた。

「この後もしっかり働いてもらうわよ。よろしくね、四条さん」


 先輩は専門家ではないけど“そういうこと”についての知識は長けていそうだし、何かいいアドバイスをくれそうな気がした。


「ええ。この後もよろしくお願いします、茶野先輩」



        浩一4

         1

 僕は今、映画上映前の独特の喧噪に包まれている。

 否応なしに高揚感が増していくようなこの雰囲気は嫌いじゃない。

 ただ、席につくのが少し早かったかも知れないな。

 黛麻友は隣の席でニコニコしながら一心不乱にポップなコーンを食べている。

 そんなに食べたら映画が始まる前に食べ終えてしまうぞ。…まぁ、別にいいけど。

「ねぇねぇ、コウくん。いい席を取れて良かったね!」

「ここ、いい席なのかな? て言うか、君はいつもこの辺を指定するの?」

 彼女が受付で指定したのは最後列の中央の席だった。

 ちなみに僕はど真ん中で見るのがベストだと思っているから、いつも(と言うほど頻繁に来ている訳ではないけど)できるだけ中央付近を指定する。

 前過ぎると見上げる形になって首が疲れそうだし、逆に後ろ過ぎて見下ろすようになるのもなんとなく嫌だからだ。

 でも、今回は黛麻友の付き添いなだけだから、彼女の意向に反する必要も理由もなかった。

「んー、あんまり来たことないからよく分かんない」

「じゃあ、なんでいい席だって思うのさ」

「だって、最後列だけ前の座席との間隔が広くて、足が伸ばせるじゃん」

 確かに。それは僕も今日初めて知って、ちょっといいかもと思っていたところだ。

「もし誰かがおトイレに行く時だって、余裕があるから通り易そうだよ?」

 確かに。トイレに行く方も、そうでない方も、あまり「すいませんすいません」しなくて済むのはありがたい。

 まぁ、上映中にトイレに行くのは損した気分になるから自分が行く方にならないことを祈るけど…。

 それと一応、隣の席の『ニコニコポップコーン少女』でないことも祈っておこう…。

「それに、ちょっとだけ前との段差も高くなってるみたいだから、もし前の席にアフロの人が座っても大丈夫そうじゃない?」

 確かに。大丈―――ばないだろ、さすがにそれは。

「最後のアフロのくだりはどうかと思うけど、それ以外は賛同するよ」

「さすがにアフロさんは駄目かー。でも、コウくんも結構納得してくれたみたいで嬉しいなっ。えへへ☆」

「………」

 あれ?今「えへへ☆」って言った?

 いつもの「えへん☆」はどうしたんだ?

 ―――て言うか、いつもと一文字しか違わないはずなのに、受ける印象がずいぶん違うな……。

 実はさっきから思ってたことなんだけど…今日の黛麻友はいつもと少し雰囲気が違うような気がする。

 もしかしたら、館内の独特の空気に飲まれてテンションがおかしくなっているのかもしれない。

「コウくん、口元がふにょふにょしてるけど、どうしたの? ポップコーン食べる?」

 僕も口元ふにょふにょできたのかっ!

 と、内心で驚愕していると、黛麻友がポップコーンのカップをこちらに向けてきた。やっぱり、もうほとんどなくなってるじゃないか……。

「いや、僕はいいよ。もう残り少ないみたいだし」

「そう? 遠慮しなくていいのに」

 僕たちの会話が一段落するのを見計らったかのように館内の証明が暗くなっていく。

「おっ、暗くなってきた。いよいよ始まるんだね。なんかドキドキしてきたよー」

 僕もドキドキしていた。

 映画が始まる前はいつだってこうなる。

 …こうなるんだ。

 でも―――

「コウくんも楽しんでくれたら嬉しいな。えへへ☆」

「う、うん。そうだね」

 暗くてよかった。

 きっと、今、僕の顔は真っ赤になっているだろうから―――。



         2

 映画は事前に黛麻友から聞いていたアドバイス(と言っていいのかな…)に従って観賞してみたけど……なるほど、確かに意外と楽しめた。

 ストーリーはありがちだけど、躍動感溢れる格闘シーンや緊迫のカーチェイス、大迫力の爆破シーンなど、見応えたっぷりの内容だった。

 単体でも独立した作品としてしっかりまとまっていて、黛麻友の言った通り、過去作は知らなくても全く問題なかった。

 途中、いわゆるベッドシーンというものに内心ドギマギしてしまったけど、そう言えば『1』と『2』にもあったような気がするし、あれはあれで見所の一つだったんじゃないだろうか…。

 もしかすると毎回あるのかもしれないな。

 昨今は色々と規制がかかって大変そうだけど、あれでよく『R18指定』ではなく『R15指定』に収まったものだと思う…。

 全体的に濃厚なシーンばかりだった割にラストは怒濤の展開で本当にあっと言う間に終わってしまった。

 まぁ、あんなものかな、って感じだ。

 それでも最後の最後に更なる続編を匂わせる辺りは抜け目ないと思った。

 どうでもいいけど、なんでタイトルが『イマジナリー(架空)』なんだろ、この映画。

 それにしても映画館で映画を見るのは結構久しぶりだった。

 お陰で、上映前に流れる『映画を見る時の注意事項』の映像だけで、ちょっとテンションが上がってしまったじゃないか。おまけに、例の、『頭がビデオカメラの犯罪者』にまで愛着を抱いてしまう始末だ。

 スタッフロールまでしっかり見届けると、やがて館内が明るくなった。

 上映前とはまた少し違った独特な気持ちになる。

 二時間の長丁場による疲れと、もう少し余韻に浸っていたい気持ち。興奮が冷めやらなくてウズウズする気持ち。それらが混じり合ったような不思議な感覚だった。

「あー面白かったぁ。やっぱり大画面だと迫力が違うねっ! 余は満足じゃっ」

「うん。確かに迫力満点で見応えあったよ。内容も、まぁ、悪くはなかったし」

「でしょでしょ? だからわたしがほしょーするって言ったんだよ。…でも、良かった。本当はちょっとだけ心配だったんだ。えへへ…☆」

「えっ、君の「ほしょー」って―――」

 彼女の方を向いた途端、僕は頭が真っ白になって「確信があった訳じゃないの?」という言葉を続けることができなくなってしまった…。

「んー? どうしたの、コウくん?」

 真っ白の頭をなんとか総動員して必死に言い訳をする。

「あ、いや…思ってたより、君が近かったものだから……ちょっと驚いただけ、だよ」

「???そっかなー?」

 嘘に決まってる…。

 座席の間隔が近いこと自体は事実だけど、ずっと隣にいたのだから今更驚く訳がない。

 ただ、黛麻友の笑顔が、いつもより――――――だったから…。

 …

 ……

 ………

 僕たちの間に“そういう感情”があってはいけない。二人の関係を壊さないための条件なんだから。

 それは、例えどんな魅力的な笑顔を向けられたって同じだ。

 そもそも、黛麻友が美人だってことは初めて見た瞬間から認めていたじゃないか。

 だから僕は…今更、笑顔くらいでやられたりしない。黛麻友に特別な感情を抱いた訳では決してないんだ。

 どうやら、僕も映画館という空間が持つ独特の雰囲気に飲まれていたらしい。

 上映中、隣の席の『ポップコーン少女』のことがやけに気になり、横目で様子をうかがってしまったのだって…きっとそのせいだ。

 つい、ベッドシーンの時も見てしまったけど、彼女はなんてことなさそうな顔でスクリーンからの光を反射させていた。


 ―――この、一見、純真無垢な『猫のような少女』も内心ではドギマギしたりしたんだろうか。変な気持ちになったりしたんだろうか…。


 そんなやましいことをふと考えてしまう自分に自己嫌悪を抱く一方で、やっぱり僕も男なのだなと改めて思った。


「ところで、この後のこと、何も決めてなかったけど、どうする?」と僕が問うと、黛麻友はビシッ!という音がしそうなほどの敬礼をしながら言った。

「とりあえず、わたしはパンフレットを買ってくるよっ!」

 パンフレット…。マジか。

 僕が思ってた以上に黛麻友はイマジナリーファンだったらしい。

 それか、見た映画のパンフレットは欠かさず買うタイプなのかも知れないな。

 ―――て言うか、この後どうするかっていうのは、お昼とか、その後の話だったんだけどな。

 まぁ、いっか。後で改めて聞こう。

「コウくんはどうする? 買う? パンフレット」

「いや、いいよ。僕は遠慮しとく」

「そっかー。じゃあ、ちょっと行ってくるね。コウくんは待ってて」

「僕は喉が渇いたから、外の自販機で飲み物でも買ってくるよ。君も何か飲むならついでに買っとくけど?」

「おっ、コウくん気が利くねぇ。じゃあ、適当にお茶をお願いします」

「了解。じゃあ、エントランスで待ち合わせってことで」

「はーい」

「行き違いになったりしたら面倒だし、もし僕が遅くなっても勝手に探し回らないように。君、迷子になりそうだし」

「分かったよぅ。でも、わたしだって子供じゃないんだから迷子になったりしないもん」

「よし、じゃあ解散。また後で」

「後でっ! ビシッ!」

 今度は口に出して言ってるし…。

 黛麻友は売店に向かってぽてぽてと歩いていった。

 結構混んでいるみたいだから時間がかかるかもしれないな…。

 でもお陰で僕はゆっくり行動できそうだ。

 映画館からは少し離れた所にあるインターの駐車場に向かう予定だった僕にとっては好都合だ。

 車とは無縁の僕には、駐車場に用事なんて普通はないんだけど、インターの敷地内で僕のお目当ての飲料がある自販機はあそこにしかない。

 駐車場の端っこに、ぽつねんと設置されている自販機。

 最後に来たのは結構前だけど、まさかなくなってたりしないだろうな…。



        由香子4

         1

 うん。素晴らしい買い物ができた。

 先週下見できたことが完全に功を奏したわね。おほほ。

 そんな訳でウチは今、映画館から少し離れた場所で戦利品の重さを腕に感じながら浩一(と、連れの女の子)を待っている。

 まずは遠目から二人の様子を窺おう。そして偶然を装って何食わぬ顔で近づくのだ。

 少し趣味は悪いと思うけど、スパイみたいでなんだかちょっと楽しい。

 それにしても―――

「来るのが少し早かったかも…」

 買い物が終わった後は、正直、時間を持て余していた。

 いつもだったらインターを見て回ってればあっと言う間に夕方になっちゃうのに。

 原因はもちろん、浩一とまだ見ぬ彼女さん(仮)(かっこかり)のことが気になって気になって仕方なかったからだ。

 逸る気持ちを抑えられなくて三十分前くらいからこの場所に陣取っている。

 映画が終わる時間は分かっていたはずなのに…我ながら、どんだけー。

 バッグから携帯を取り出して時間を確認すると、ようやく映画が終わる頃だった。

「いよいよね…」

 ―――ごくり。

 浩一たちが出てくるのを見逃さないように注意を払いつつも、ウチには他に気になることがあった。

 それは携帯の液晶画面の右上―――充電の残量を示すマークが一つ減っていることだ。

 携帯は昨日寝る前に充電してからほとんど使っていない。ここに来る直前(つまり三十分ほど前)に時間を確認したくらいだ。

 その時点で既に減っていた。

 普段からなるべく気にしないようにはしているけど、やっぱり完全に無視することなんてできない…。

 まるで靴の中に入った小石のように常に心のどこかに引っかかり続けるんだ。

「やっぱ買い換えようかなぁ…」

 いっそのこと、またスマホに戻すべき?

 いや、でもなぁ…。

 そんなことをウチが考えていると、ようやく映画館から人が出てきた。

 結構な人数だけど、やっぱり小さな女の子と、その親御さんらしき人の姿が多い。

 これなら『赤と白のボーダーシャツを着た青年』を探す絵本よりは簡単に浩一を見つけられそう。

 とは言え、油断は禁物―――。

 ウチは思考するのを止めて意識をそちらに集中させる。

 絶対に見逃す訳にはいかない。

 そのために三十分も粘ったんだから。

 ウチは演技前のフィギュアスケーターの如く意識を集中させ、目を、凝らす。

 浩一はまだ出てこない。

 中から出てくる人の流れが少しずつ疎らになってきた。

「もしかして見逃した?」

 いや、そんなはずはない―――と思う。

 人混みを嫌う浩一のことだから、きっと混雑を避けて出るつもりなんだ。

 つまり、ここからが本当の勝負って訳ね。

 でも、逆にこれだけ人が少なくなれば見逃すことはまずないだろう。

 それでも油断は大敵―――。

 ウチはターゲットを一撃で仕留めるスナイパーの如く意識を集中させ、目を、凝らす。

 まだだ。まだ浩一は出てこない。

 てか、映画館から出てくる人自体、もうほとんどいない…。

「浩一の奴、何をとろとろしてんのよ。ったく」

 大体、こんな幼気な女の子を何十分も待たせていいと思ってんの!?

 ウチはそんな風に浩一にデートの“いろは”を教えた覚えはないわよッ!?

 おーい。浩一やーい。

 早く出ておいでー。

 浩一くろすけ出ておいでー♪

 出ないと目玉をほじくるぞー♪

 …

 ……

 ………

 いいからさっさと出てこいやッ!!

 ウチの心の叫びも虚しく、ついに人の流れが完全になくなってしまった…。


 ―――ってことは。


「やっぱ見逃してた!」

 マジかぁ。

 三十分も粘ったのに…最悪。

 ウチの時間を返して…。

 もうっ! 浩一のばかっ! あほっ!

 …

 ……

 ………

 よしっ、落ち込むのおしまい!

 ウチではフィギュアスケーターとスナイパーは勤まらないってことが判明しただけでよしとしよう。そうしよう。

 無理矢理そういうことにした。

 はぁ…。

「帰ろっかなぁ…」

 そんな風に完全に諦めモードで帰路につこうと思っていたウチを、しかし、天は見放さなかった。

 ついにその男が現れたのである。

「浩一………発見ッ!」

 一時はどうなることかと思ったけど、改めて作戦続行ね…ぬふふ。

 でもその前に。

 まずは口元を拭こう。よだれを垂らしている場合ではない。

 そしてシミュレーションした通り、ごく自然に二人に近づくのよ。

 …あれ?

 そこで肝心なことに気付いた。

「浩一、一人だけ…?」

 本来のお目当てである彼女さん(仮)の姿がない。

 お手洗いとかで後から出てくるのかとも思ったけど、浩一は一人でどこかへ向かうようだ。えっ…なんで?

 ウチは、ごく自然に、をすっかり忘れて彼の元へ駆け寄った。

「浩一っ! 浩一ってば!」

「うわっ! なんだ…ゆかか。びっくりした…。て言うか、朝もこんな感じじゃなかったか?」

「うん、まあ…確かに。映画館から出てくるところを見かけたから、つい、また声かけちゃった。てへっ」

「なんか怪しいな。本当に偶然?」

 ギクッ。やっぱりウチ怪しいですよねー。

「怪しいとは失礼なッ。偶然に決まってるじゃん。むしろ偶然じゃなかったらなんだって言うのよ」

「僕が出てくるのを待ってたとか」

 ―――にしても、浩一にしては鋭い…。ウチ、そんなに不自然だったかなぁ…。

「なんでウチがそんなことしなきゃいけないのよ」

「だって、気にしてたじゃないか。僕の“友達”のこと。どうせ、どんな子なのか一目見てやろうと思って、出てくるタイミングを待ってたんだろ」

 …これは鋭いとかいうんじゃなくて、ウチの行動パターンはお見通しってだけな気がする。浩一の方も伊達に長年ウチの幼馴染みやってないって訳ね。

「確かに気にはなるけどてん。でもウチだってそんなに暇じゃないし」

 本当は三十分も暇を持て余してたんだけどね。あはは。

 今の流れからなら、今度こそ、ごく自然に“友達”について聞けそう。

「で? そのお友達さんは?」

「先に帰ったよ」

「えっ―――」

「バスの時間があるからって、終わった途端に出てった」

 なん…だと。

 じゃあ、最初に出てきた大勢の中にいたってこと?

 それはさすがに分からないわ…。

「僕も帰るところだから。じゃあ、またな。ゆか」

 別れの挨拶もそこそこに、浩一は颯爽とした足取りで駐車場の方に歩いて行ってしまった。

 どうやら今日は車で来ていたらしい。

 ペーパードライバーの浩一にしては珍しい。…けど、さすがに嘘をついているようには見えなかった。

 仮にウチが待ち伏せしていることを警戒していたとしても、いくらなんでも、ここまでして避けたりはしないだろうし。…たぶん。

「ウチも帰ろっと」

 なんだかドッと疲れた…。

 でも当初の目的であったセールには大満足だし、まあ、結果オーライってことで。


 今回は空振ったけど、次はこうはいかないわよ。待ってなさい、浩一! そして、まだ見ぬ彼女さん(仮)―――!



        浩一5

         1

「お待たせ…」

「コウくん、おっそーい!」

「自覚してる。ごめん」

「ほんとだよぅ。飲み物買いに行っただけじゃなかったのー?」

「ちょっと、遠くの駐車場にある自販機まで行ってたんだ」

「んー?」

「インターでこれが売ってるの、そこの自販機だけなんだよ」

 僕は不思議そうにこちらを見ている黛麻友に、中身が半分ほど減っている炭酸飲料の缶を見せた。

 その炭酸飲料は、薬品のような独特の風味が病みつきになる、例のアレだ。

 本場アメリカなどでは愛飲家も多いそうだけど、ここ、日本では好き嫌いが大きく分かれるらしく、最も古い炭酸飲料の一つでありながら普及率はまだまだ低い印象だ。

 現にインターで買えるのも、たった一つの自販機だけだし。…美味しいのに残念だ。

 実は僕は炭酸飲料が苦手だったりする。

 でも、この知的な香りが時々無性に恋しくなって、つい、買ってしまうのだ。

 炭酸が苦手な僕はちびちびと少しずつ飲むしかない―――なのに、中身が既に半分も減っているのにはちょっとした訳がある。

「なるほどー。でも…それにしたって遅いよぅ」

「悪かったってば。道中色々あったんだよ」

「…色々って?」

「い、色々は色々だよ。そんな大したことじゃないし別にいいじゃないか」

「ふーん。ちょっと気になるけど…。まっ、いっか」

 黛麻友はさして興味もないようだ。

 僕としては細かく追求されずに済んでよかったけど。

「急いで戻ろうとして、人とぶつかって、缶の中身を零した」なんて…いちいち説明するのも面倒だし、言う必要も全くない。

 別に、そんな理由で遅れたことが格好悪くて恥ずかしいとか、そういうんじゃない。

「それよりコウくん。わたし、お腹空いちゃったよ」

 僕だってぺこぺこだ。

「じゃあ、とりあえずどこかで何か食べようか」

「さんせーい」

「何か食べたいものは?」

「えっとね…」

 黛麻友は十数秒ほど考える素振りを見せた後、満面の笑みで言った。

「ポップコーン以外かなっ」



         2

 二十分後。

 僕たちはインター内のフードコートでハンバーガーを食べていた。

 僕としては近くにドーナツ屋があるのがネックなのだが…この際仕方ない。

 二人してテリヤキバーガーを頼んだ。

 僕はこれが一番好きなんだけど、なんと、黛麻友はファストフード店を利用するのが初めてらしい。それで僕と同じ物を注文したのだ。

 黛麻友の「ポップコーン以外」という幅広すぎる要望に、僕は「じゃあ、ハンバーガーなんかどう?」と聞いたんだけど―――彼女は、まるで夢にまで見ていた願いごとが、ふいに叶ってしまったと言わんばかりに喜んで賛成したのだった。

 それはもう、今にも泣き出すんじゃないかと思うほどの喜び方だった。

 その時は黛麻友の反応を少し大げさだと思ったけど、これまで一度もファストフード店を利用したことがないと知った今なら、あの反応も頷ける。

 今まで僕の周りにはそういう人はいなかったから、正直、軽く衝撃だった。

「うはぁー。ハンバーガーって食べるの難しいんだねー」

「そう…だっけ」

 先に食べ終えてしまった僕は「れもおいひぃ(でも美味しい)」とハンバーガーを頬張る黛麻友を見ていた。

 …なかなかの悪戦苦闘っぷりだ。

 まず、一番美味しい部分―――つまりタレ―――が、ほとんど包み紙の下の方に流れてしまっている。

 家で食べているのなら舐め取ってしまうのも“あり”だけど、ここではそうもいくまい…。ああ、勿体ない。

 手と口の周りがべちょべちょだ。

 それはもう、「子供かよ」とツッコみたくなるくらいに。

 自分が初めてハンバーガー(確かチーズバーガーだった)を食べた時のことなんてよく覚えていないけど、少なくともこんなに苦戦した記憶はない。

 黛麻友はもちゃもちゃと美味しそうに咀嚼している。いつも(変な振る舞いの時でさえ)どこか洗練されたイメージのある彼女だけど、さすがに今はそれを感じさせない。

 でもそれが、なんだか、やけにほほえましかった。

 そうこうしているうちにやがて彼女もテリヤキバーガーを平らげ、一段落したところで僕はお手洗いのために席を立った。

「ついでにゴミとか片付けてくるよ」

「あ、うん。ありがとう」

 僕は二人分のトレイとゴミを指定の場所に片付けてから、ドーナツ屋の前を通らないように迂回して男子トイレへと向かった。



         3

 水で濡れた手をハンカチで拭いながらトイレから出ると、来た時と同じ迂回ルートで黛麻友の待つ席へと戻った。

 すると、テリヤキバーガーの味とボリュームにすっかり満足したという表情の黛麻友が手に一枚の紙(何かのチラシみたいだ)を持って眺めていた。

「お待たせ」

「おかえりー。ねぇ、コウくん、これ見て」

 そう言って彼女が見せてきた物は、やはりチラシだった。なになに。

『人気のドーナツが今だけ百円!』

 うげ。これ、すぐそこのドーナツ屋のチラシじゃないか。なんでこの子はこんな物を持ってるんだ…。

「このチラシ、どうしたの?」

「店員のおねえさんが置いてった。すぐそこのお店だからこの機会に是非どうぞって」

 店員のおねえさんめ、なかなか余計なことをしてくれる。

 そりゃまぁ、お店の宣伝もおねえさんの大事な仕事なんだろうけどさ…。

「一応先に言っておくけど、僕は遠慮するよ」

「えーっ、なんでー?」

「えっと…実は僕、苦手なんだ。ドーナツ」

「へぇー、そうなんだ。…なんか珍しいね。ドーナツの何が駄目なの?」

「見た目も味も食感も―――とにかく全部。あの、甘ったるい匂いを嗅いでるだけでも気持ち悪くなっちゃうくらいなんだ」

「そっかぁ。それは残念…。けど、そこまで嫌いなんじゃ仕方ないね…」

「食べたいのなら、君一人で行ってきてもいいよ? 僕はここで待ってるからさ」

「うーん。じゃあ、あまり待たせちゃうのも悪いから、お家で食べる用にいくつか買ってこよっかな。…あっ、でも持ち歩いてたら結構匂っちゃうか…」

「それくらいなら大丈夫だと思う」

「…そう? コウくんがそう言うなら、お言葉に甘えちゃおうかな。でも、もし駄目そうだったらすぐに言ってね?」

「おっけー。まぁ、きっと大丈夫だよ」

「それじゃあ、ちょっと行ってくるね。今度はいなくならないでよぅ?」

「りょーかい。りょーかい。いってらっしゃい」


 ほどなくして、ほくほく顔でレシートを眺めながら戻ってきた黛麻友は、にこにこ―――と言うより、ニヤニヤって感じの笑みを浮かべて、いやに上機嫌だった。


 その後は二人でインターをぶらついた。

 アパレルショップで明らかに似合わないサングラスをかけ、笑い合った。

 雑貨屋でファンシーなぬいぐるみを撫で回した。

 本屋で立ち読みしたり、CDショップで知らない洋楽を試聴したりした。

 駄菓子屋コーナーがあったので昔懐かしの駄菓子を大人買いして食べた。

 そうこうしているうちにあっと言う間に夕方になり、そろそろ帰ろうということになった。

 帰りは、インター内で買い物をしたレシートを見せれば無料で利用できる送迎バスを使うことにした。

 バスで駅まで戻り、二人で電車に乗った。

 車内は混雑していたけど、運良く、空いている席が一つだけあった。

 黛麻友がその席に座り、僕は目の前のつり革につかまった。

 最寄りの駅で降りると、そこで解散となった。

 僕は駅から自宅までの道を一人で歩いた。

 歩きながら、今日一日のことを思い返していた。

 映画を見て、お昼ご飯を食べて、インターをぶらついた。

 たったそれだけだ。

 なのに―――大したことは何もしていないというのに―――驚くほどあっと言う間に一日が過ぎていった。


 黛麻友は、ずっと、笑顔だった。


 たぶん、僕も、そうだった。


 途中、ゆかの奴に見つかるんじゃないかとはらはらした場面はあったけど、それ以外は、終始、充実した気持ちに満たされていた。


「今日は本当にありがとう。えへへ…」


 別れ際に黛麻友が言った言葉を思い出す。

 夕陽を背にした彼女の姿が、いつまでも頭から離れなかった。



        由香子5

         1

 家に帰ってから、まず今日の戦利品を確認した。

 中にはいくつか「あれ?こんなの買ったっけ?」ってのがある。

 不思議。毎度のことだけど、なんでだろ。

 お店で見るのと、家で見るのとでは、やっぱり違うものなのかもしれない。

 買ってきた服はそのまま着るのか、それとも一度洗濯してから着るべきなのか、賛否両論あるよね。

 ウチの場合は、型崩れしやすそうな物はそのままクローゼットに入れて、大丈夫そうなものは洗濯機へ。

 つまり、折衷案。いいとこ取りって訳。

 一通り片付いたのでノートパソコンを開いてネットに繋ぐ。

 最近はガラケーだと表示できないサイトも増えてきている。

 不便だと思わないこともないけど、ゆっくり調べ物をしたい時は元々PCを使っていたから、ウチ的にはそこまで支障はない。

 ニュースサイトの最新トピックや、好きな歌手のホームページとブログをチェック。新曲のリリースはまだ先だということなどを調べた。

 しばらくネットサーフィンした後、なんとなく思い立ったので、ある言葉を打ち込んでみる。

『イ』『マ』『ジ』『ナ』『リ』『ー』

 映画の公式サイトやファンの個人ブログ、考察サイトなど、様々なサイトが大量にヒットした。

 映画とは全く関係ないサイトも結構あるみたい。

 その中には「イマジナリー」という単語自体の意味を解説しているサイトもあった。

 少し興味が沸いたので見てみよう。

「実在しない、架空の、ねぇ…」

 単語の意味は分かったけど、そうすると、あの映画のタイトルってなんで『イマジナリー』なんだろうって思う。

 更に検索をかけてみると、その疑問についての一つの仮説を提示しているサイトを見つけたので、ざっと目を通してみる。

『イマジナリーという単語の意味から考える、映画『イマジナリー』のタイトルに隠された秘密』―――そのように銘打たれた考察の内容には気になる単語があった。

「イマジナリー…フレンド?」

 ―――ってなんだろう。

 直訳すると、実在しない、架空の、友達……ってことだよね?

 考察サイトによると、主人公の仲間の一人が実はイマジナリーフレンドで、主人公以外には見えていないのではないか? ということだった。

 実際に今までの作品でも、主人公と二人だけのシーンの時には絡みがあるのに、イマジナリーフレンドと思しき人物が他の誰かと絡んでいるシーンは一切ないのだとか。

 そしてそれを暗示して『イマジナリー』というタイトルなのだそうだ。

 それが正しいのかどうかはさておき。

 ウチとしてはイマジナリーフレンドというものがどういうものなのかが気になった。

 早速、調べてみよう―――。


・まず、意味は大体そのままで『空想の友人』でいいみたい。


・心理学や精神医学における現象の一つ。


・略称はIFアイエフ


・病気とかとは違うと考えていいのかな、たぶん。


・その名の通り、本人が空想した架空の人格を友人として認識していることで、ちゃんとした容姿がある場合もあるらしい。


・基本的には本人にしか認識できない。


・必ずしも友人関係だけではなく、恋人だったりする例もある。


・空想の中での会話はもちろんのこと、何かを一緒に行うことも可能。


・自分で生み出した人格だから、本人にとって都合のいい存在である場合が多い。


・子供の頃によく起こる現象。


・特にアメリカなどでは多いらしい。


・多くは幼少期に知覚するようになり、大人になる前には消失してしまうけど、稀に消えないケースもある。


・大人になってからIFを知覚するようになるケースもある。


・その場合、IFを知覚するようになるきっかけは色々あって、例えば「過去のトラウマ」や「交通事故などで受けたショック」のように、精神的なものが関わっている例が多い。


 大体こんな感じだと思う。

 ざっと読んだだけだから、違ってるところもあるかもだけど…そしたらごめんなさい。

 調べているうちに映画のイマジナリーのことは、もはやどうでもよくなっていた。

 ウチはある仮説を立てていた。

 それはかなり突拍子もない仮説だと自分でも思う。きっと、ウチ自身、本気でそんな風に思っている訳ではない。

 …でも完全には否定できない…。

「もしかしたら」「万が一」ってくらいには考えてしまう。

 だからやっぱり真相を確かめよう。

 元々“そのつもりだった”けど、そういう理由も付け加えることにした。


 ―――大丈夫。

 浩一の彼女さん(仮)がIFな訳ない。


 それでも一応、IFについてはもう少し詳しく知っておきたいと思った。

 とりあえず、もう少しネットで調べてみるとして…。それとは別に誰かに聞いてみるのもいいかも知れない。

 浩一に聞くのはさすがにどうかと思うし、ここは一つ、ミズに聞いてみよう。

「まだ仕事中かも知れないから、電話じゃなくてメールにしとこ」

 ウチは駄目元でミズにメールを送ることにした。



        瑞希3

         1

 健康診断は午後五時で受付終了となっている。

 毎回時間ギリギリの駆け込み受診はあるものの、特に大きなトラブルもなく、無事に一日の業務が終わった。

 町のみんなが健康で何より。

 片付けなどを終わらせた後、あたしと茶野先輩は休憩室のロッカーで着替えていた。

 時刻は午後七時を少し回ったところ。

 ロッカーの中にしまいっぱなしになっていたスマホを確認すると由香子からメールが届いていた。

 用がある時は電話で連絡する派の由香子にしては珍しい。

 よっぽどのことなのかと思ってすぐに本文を確認する。

「………」

 その内容にあたしは戸惑ってしまった。

「茶野先輩。ちょっと聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」

 ちょうど白衣を脱いでいる最中だったところに声をかけてしまったけど、先輩は「なんでも聞いてくれていいよ」と快く応じてくれた。

「今、友達からのメールを確認したら、教えてほしいことがあるっていうんです。でもあたしにもよく分からない内容で…」

 茶野先輩は色々なことに精通しているから、何かしらの話は聞けそうな気がする。

 それに、もし何も収穫がなかったとしても、先輩と話しているだけで気持ちがすぅっと楽になる。

 そういう『癒やしのオーラ』みたいなものを持っているんだ。この人は。

 下着姿の先輩は「続きをどうぞ」という目線を寄越した。セクシーな下着が似合う、その、ふくよかな胸元がうらやましい…。

 その優しくて柔らかい表情は、やっぱりマシュマロみたいだ。

「先輩は精神医学とか詳しい方ですか?」

「精神医学…? どうだろ…。一応ある程度の知識はあるつもりだけど……専門ではないし、さすがに詳しいとは言えないかな。でも分かる範囲でなら答えるよ?」

「その友達もネットで少しは調べたらしいんですけど」と前置きしてから聞いてみる。

「先輩はイマジナリーフレンドって知ってますか?」

「IFのこと、よね?」

 普通にIFという略称を知っているだけでさすがだと思う。

 それくらいは調べればすぐに分かることだけど、元々知っているのとは訳が違う。

「私も一般的に言われてるようなところまでしか知らないけど…IFがどうかしたの?」

「いえ、どうってことはないんです。映画の影響でIFに興味が沸いたらしくて、色々調べてるだけみたいですから」

 由香子からのメールにはこうあった。

『大人になっても消えないIFと、大人になってから現れるIFに、特に興味がある』

 茶野先輩にその旨を伝える。

「そういう事例があるってことは知ってるけど、それって割と稀なケースだよね。私だって実際にお目にかかったことはないし…。お友達がネットで調べたっていうのなら、たぶん、それ以上のことは私にも分からないかな…。ごめんなさいね」

「いえ、そんなことないです。話を聞いてくれてありがとうございました」

「今こんなことを言っても、全然説得力ないかもしれないけど、またいつでも頼って頂戴ね?」

 その後も先輩と雑談をしながら着替えを済ませた。

 あたしは先輩に聞いてみた。

「ところで先輩、ちょっとIFの話に戻るんですけど…」

「あら? 四条さんも興味があるの?」

「いえ、興味ってほどではないんですけど、アニメとかゲームでもよく扱われる題材なので少し気になって」

「確かにそうね。私はそっち方面はあまり詳しくはないけれど、それでもいくつか知ってるもの」

「そういう作品ではIFにも色々なパターンがあるんですけど、中には、IFの保持者が相手をIFだと知らずに接していて、物語の後の方で明らかになるってパターンがあるんです」

「うん。そのパターンもいくつか知ってるよ」

「でも、そういうことって実際にあるんでしょうか」

「いわゆる、幼少期の『空想の友人』って、たぶんそういうものだと思うけど…大人になってからでも有り得ることなんじゃないかな…? さっきも言ったけど、私は専門家ではないからハッキリとは言えないけどね」

「もし実際にあったとして…普段の生活の中で絶対に矛盾する瞬間があると思うんです。その時はどう対処するんでしょう」

「それについては、矛盾が起きないないように、ある種の防衛本能が働く、って設定の話があったような気がするな」

 先輩が知っている設定というのは以下のようなものだった。

 例えば、IFの所持者である人物『A』が、IFと一緒にコーヒーを飲むとする。

『A』は、ごく自然に二つのカップにコーヒーを注ぎ、自分の分の一杯だけを飲む。

 当然、手つかずのカップが一つ残る。

 すると『A』は残ったコーヒーを無意識のうちに流しなどに捨ててしまうらしい。

 そのようにして“二人分のコーヒーが飲み干された状態”を作り上げ、矛盾を打ち消すのだそうだ。

「それにしても、四条さん、なかなか面白い着眼点ね」

「あたしが知ってるIFの話は、全部、二次元の世界のものですけど…もし身近にそういう人がいたら、どう接するのがいいのかなって気になったんです……」

「なるほどね」

「先輩はどう思います?」

「私は、解離性同一性障害を発症してしまうようなケースでないのであれば、別に普通に接すればいいと思うけどな」

「あたしも頭ではそう思ってるんです。でも、もし実際にあたしの知っている人がそうなったとしたら…。言い方は悪いですけど、憐れと言うか…滑稽と言うか…痛々しくて見てられないと思うんです…。だから本人に「そんな人、本当はいないんだ」って、真実を話しちゃうかも……」

「それは繊細な問題かも知れないね。いきなり話しても本人は戸惑うでしょうし、その結果、どんな事態を引き起こすか分からないもの…」

「そう…ですよね。でも、ただ見ているだけっていうのは―――あたしには、荷が、重そうです」

「IFの発現は疾患ではないけれど、やっぱり精神科を受診するのが無難なのかもね」

「て言うか、仮定の話なのにこんなに真剣に議論してくれて嬉しいです。やっぱり先輩はいい人ですね」

「こちらこそ、有意義な話ができたと思ってるよ。私も四条さんの着眼点には感心したもの。力にはなれなかったけど、お友達にもよろしくね」


 参考にはならないかも知れないけど、先輩と話した内容は、一応、由香子に報告しておこう。



        由香子6

         1

 さすがのミズも有力な情報は持っていなかったらしい。

 でも職場の先輩が言っていたという“防衛本能がどうの”っていう話は興味深かった。



         2

 映画館の前で見かけてからというもの、ウチは浩一の彼女さん(仮)とのニアミスが続くようになった。さながら神の悪戯の如く。

 最初のうちは、

「なんて間が悪いんだ、ウチはっ!」とか、

「なんで引き止めておいてくれないのよっ! 浩一の馬鹿っ! あほっ!」とか、

「コンビニなんかに寄らずに真っ直ぐ帰ってれば会えたかも知れないのにぃ!」

 ―――といった感じで、むぎゃーってなってたんだけど、ここまで何度も続くとさすがに不自然に思えてくる…。

 自分が立てた“突拍子もない仮説”がいよいよ現実味を帯びてきたかも…?


 そんな風に思い始めていたある日のこと、ウチはついに、決定的な場面を目撃することになる―――



        浩一6

         1

「じゃあ、またねーっ。コウくーんっ!」

「うん。また」

 ご近所さんの迷惑になるんじゃないかと心配になるほどの大声で叫びながら、ぶんぶんと手を振る黛麻友に、僕は小声で答えながら小さく手を振り返した。

「―――ふぅ」

 自宅である神崎家の玄関前で僕は心底ほっとしていた。

 家族の誰にも見られずに済んで本当に良かった…。


 黛麻友が僕の家に来たいと言い出したのは、映画を見に行った翌日のことだった。


 その日も裏山の例の場所で会った僕たちは、いつものように、とりとめのない話に花を咲かせていた。

 わざわざ持参したパンフレットを片手に、いつになく熱い口調で映画を絶賛していた黛麻友が実に印象的だった。

「ねぇねぇ、コウくん。わたし、コウくん家に行きたいよっ! えへん☆」

 実にド直球な要求に僕は開いた口が塞がらなかった。少しだけ久しぶりだった「えへん☆」も聞こえなかったくらいだ。

「な、何…。藪から棒に…」

 この『猫のような少女』の場合、いつも藪から棒な気もするけど…。

「コウくんのお庭にあるっていう動物の置物が見たいんだよっ! ほら、前に話してくれたじゃない?」

 確かに前に話したことがある。

 彼女がよく着ている、服にプリントされている謎の生き物のような、変な動物の置物が僕ん家の庭にあるのだ。

「あー、あれね。確かに君が好きそうな置物だとは思うけど、そのためにわざわざ来たいって…? そんなの駄目に決まってるでしょ」

「えーっ、なんでよぅ。ぶぅぶぅ」

 なんでじゃないよぅ。ぶぅぶぅ。

「普通に考えたら、彼女でもない女の子を家にあげるとか…駄目でしょ」

「あげてくれなくてもいいからっ。お庭見せてくれたら満足だからっ」

 そっちがそれでよくても…ねぇ?

「お客さんを招いておいてそういう訳にもいかないよ。失礼じゃないか」

「招かれて行くんじゃなくて勝手について行くんだもん。だから大丈夫だよっ! ねっ、いいでしょ?」

 いつものことと言えばそれまでだけど、相変わらずむちゃくちゃな論法だ。

「そんなこと言われてもなぁ…」

「お家は外壁が見られればいいからっ! ねっ、ねっ、いいでしょ?」

 外壁が見られればいいって…なんだそれ。

 …うーん。……うーん。………うーん。

 この調子では埒があかない気がする…。

 それに、今ここで上手く断れたとしても、もし尾行でもされたらもっと厄介だ。

「勝手について行く」とか言ってるくらいだし、黛麻友ならやりかねない。…と思う。

 て言うか、それ、一歩間違えれば不法侵入じゃないか。

「そこまで言うなら……分かったよ」

「本当っ!? やったぁ☆」

「そのかわり、本当に外から見るだけだよ? 中には絶対入れないからね? それと、見たらすぐ帰ること。それが条件」

「うんうん。それで十分だよっ! コウくん、ありがとーっ☆」

 例にならって体育座りをしていた『犯罪者予備軍の少女』が立ち上がり、おしりをバシバシ叩いて草を払い落としながら言った。


「思い立ったが吉日―――」


「じゃないよ。…まったく」

 僕はすかさず止めに入った。

「えーっ、なんでよぅ。ぶぅぶぅ」

 だから、なんでじゃないよぅ。ぶぅぶぅ。

「庭だけとは言え、一応、片付けたりとかしなきゃいけないし、準備ってものがあるでしょ」

「そんなこと気にしなくてもいいのに~」

「いや、気になるって…」

 それに―――

「母親と妹がそろそろ帰っててもおかしくない時間なんだ。鉢合わせしたらマズイじゃないか」

「コウくん、妹さんがいるの?」

「あれ?言ったことなかったっけ」

「初耳だよぅ」

「そっか…」

「うん」

「………」

「…んー?どうしたの?急に黙っちゃって」

「いや、なんでもないよ」

 てっきり「妹さんに会ってみたい」とか言われると思っていたので、僕は肩すかしを食った気分だった。まぁ、会わせる気はさらさらないんだけど。

「とにかく、確実に家に誰もいない時間帯じゃないと駄目だけど、そのうち連れて行くことは約束するよ」

「うん。おっけー。じゃあ、楽しみに待ってよっと!」

「………」

「今からわくわくだよっ☆」


 妹に会わせろとごねなかったのは、きっと、恋人だと勘違いされるのが面倒だからだろうな―――




         2

 それから約一週間後である今日、約束通り、黛麻友を家に連れてきたという訳だ。

 数日前から家族にバレない程度にこっそりと片付けていた庭は、いつもより少しだけ小綺麗になっていた。

 黛麻友はいくつかある変な置物のうち、ワニの置物をいたく気に入ったらしく「なにこれ可愛い」を連呼していた。

 今時の子なら写メの一つも撮りそうなものだけど、彼女がスマホなどを見せる素振りはなかった。

 以前からそうじゃないかとは思っていたけど、黛麻友は携帯電話を持っていないのかもしれない。

 ひとしきり騒いで満足した様子の黛麻友は、約束通り、ほどなくして帰ることになった。

 そろそろ誰か帰ってくるかもしれないと僕が焦り始めた頃だった。



         3

 僕は黛麻友が突き当たりのT字路を右に折れて視界から見えなくなるまで、彼女が振り返る度に小さく手を振り返した。

 そしてその後も僕は一人でその場に立ち尽くしている。

 彼女の姿が消えていったT字路をなんともなしに眺めていた。

 気がつくと、僕は無意識にまだ手を振っていたようだ…。

 もうすぐ日が暮れるというのに、ひぐらしの声は聞こえなかった。

「ねぇ…」

 突然背後から声をかけられた。

 僕は驚いて一瞬ビクッとなったけど、その声から、そこに誰が立っているのかは明白だった。

 なるべく動揺を悟られないように意識しながらゆっくりと振り返る。

「ゆか…」

 見られてた…のだろうか?

 正直、ゆかの奴に黛麻友を見られるのは、親に見られるよりもずっと嫌だった。

 余計なお節介をしてくるに決まっているからだ。

「自分ちの前(こんな所)に突っ立って…何…してるの?」

「あ、いや…」

 どうやらセーフのようだ。

 すっかり安心した僕は、つい咄嗟に適当なことを言ってしまう。

「ここまで友達と帰りが一緒になったから見送ってたんだよ」

 自分で言うのもなんだけど、胡散臭いことこの上ない。

 ゆかも思いっ切り怪訝そうな顔を向けているし…。

「そう…」

 何か言われるんじゃないかと身構えたけど、ゆかは特に何も言わずに行ってしまった。


 一瞬、ひどく辛そうな表情をしたように見えたけど、たぶん、気のせいだろう―――



        由香子6

          1

 今日の仕事も無事に終わったウチは家路を急いでいた。―――と言っても、本当に急いでる訳じゃなくて、いつも通る道を普通に歩いてるだけだけど。

 この道の途中には浩一の家がある。

 ご近所さんなんだから当然だ。

 てか、ぶちゃけ、我が家と浩一の家の位置関係は目と鼻の先だ。

 一日に二回(朝の通勤時と夕方の帰宅時)彼の家の庭にある置物を見るのがウチの日課の一つだったりする。

 そのへんてこな置物には、『仕事に行きたくない憂鬱な気分』と『一日の疲れ』を癒やす不思議な力がある。…あるの!

 ほどなくして浩一の家、そしてその先に我が小林家が見えてきた。

 ―――ん?

 浩一の家の前に人がいる。

 ここからではまだ少し距離があるけど、あの後ろ姿は紛れもなく浩一だ。

 申し訳程度に小さく手を振っているのが見て取れる。

 誰かお客さんでも来てたのかな?

 ひょっとして…彼女さん(仮)!?

 そう思って、ウチは浩一の視線が向けられている方を見た。


 そこには―――誰も、いなかった。



         2

「嘘…ッ」

 そんな―――。

 ウチは確かに、彼女さん(仮)という存在は、ひょっとしたらIFなんじゃないか…なんて疑っていたけど―――

 それはほとんど冗談のつもりだった。

 その人になかなか会えない状況へのもどかしさを、自分なりに揶揄して楽しんでいただけなんだ…。

 ただ、なんとなく、だったんだよ…。

 それなのに…。それなのにっ!

「まさか、本当だったなんて……」

 ウチはゆっくりとした足取りで浩一に近付いていく。

 浩一は正面を向いたままで、まだこちらに気付かない。

 だんだん距離が縮まり、やがて浩一のすぐ真後ろまできた。

 ここまで来ても浩一がウチの存在に気付く気配はなかった。

 …やっぱり小さく手を振っている。

 ウチからは彼の顔は見えないけど、きっと、はにかんだような笑顔で―――


 ウチは堪らず声をかけた。

「ねぇ…」

 一瞬驚いてビクッとなった後、浩一はゆっくりとこちらを向いた。

 ひどく動揺しているようだった。

 たぶん“見られた”と思ったんだと思う―――

 でも安心して。浩一。

 ウチは何も見なかったから。

 ううん。違う。

 何も“見えなかった”から―――。

 ねぇ。浩一…? どういうことなの?

 なんなの。これ。

「自分ちの前(こんな所)に突っ立って…何…してるの?」

 明らかに狼狽えている様子の浩一は「あ、いや…」と言葉に詰まった。

 でも直ぐにその表情に余裕が戻った。

 ウチがミーハー丸出しで「あの子、誰なの?」などと問い詰めなかったものだから、見られずに済んだのだと思って安心しのだろう。

 咄嗟に思いついたように「友達を見送ってた」と言う浩一の声には明らかに安堵の色が浮かんでいた。

 でもその内容には無理がある。

 友達と帰りが一緒になったって?

 昔この辺に住んでいた友達は、みんな、今は地元にいない。

 そして浩一は仕事とプライベートをきっちりと分ける人だから、職場の人間を友達とは呼ばない。

 だから、大人になってからは、そんなこと、一度もなかったじゃん…。

 浩一に『友達』と呼べる人がほとんどいないことくらいお見通しだし、それがきっかけで読書好きになったのも知ってる。

 バレバレだよ。浩一。

 もう少しまともな嘘はつけなかったの?

 百歩譲って、それが事実だったとしてもさ…。


 その『友達』は―――ッ!!


 ウチは悔しくて堪らなかった。

 浩一が誰とどんな付き合いをしていたって、よっぽどの悪い人でもなければ、別に構わない。ウチに意見を言う権利も資格もないってことは分かってる。

 でも。そう思っていても。

 自分の幼馴染みであり、大切な友人でもある人が、架空の人間にヘラヘラしているのかと思うと無性に腹立たしかった。

「そう…」

 言いたいことや聞きたいことは山ほどあるはずなのに、それしか言えなかった…。

 ウチはそのまま家に帰った。

 浩一と顔を合わせていたくなかった。



         3

 家についてからも、さっきのことが頭から離れない。

 本当にあんなことがあるなんて思いもしなかった。

 ネットでイマジナリーフレンドの存在を知った時、それが実際にあることだとは分かっていても、ウチとは関係のない、どこか遠いところでの話だと思っていた。

 なのに、まさかこんな身近で起こっていたなんて―――

 ミズがくれたメールの内容を思い出す。

 例の、防衛本能の話を。

 メールでミズは「あくまで創作の中の設定だから現実にあるかは分からない」と言っているけど。

 でも、きっと現実にもあったんだ。

 根拠は、映画館で二人分のチケットを見せてきた浩一。

 たぶん矛盾を生まないためにチケットを二枚購入したんだと思う。

 どうしよう…。こういう時、どうすればいいのかなんて分からない…。

「とりあえず、ミズに相談してみようかな…」

 ぱっと浮かんだその案をウチはすぐに否定する。

 浩一と仲が良かった頃ならともかく、今のギクシャクした状態じゃ…おそらく話にならない。下手したら今より距離を置くようになるかもしれない。

 ミズなら、IFや、その保持者に対しての偏見などはないと思う。むしろすんなり受け入れる可能性が高い。

 でも浩一に対しては、ただでさえ過敏になっているのだから、どうなるか分かったもではない。

 ウチ自身は浩一とどう接していくべきなんだろう…。

 気付いてないフリをして、今まで通りに接する?

 …まるで何事もなかったみたいに?

 それが理想的―――と言うか、正しい接し方な気はする。

 でも―――。

 ウチには無理…。

 だって、浩一のそんな姿、見ていられる自信がウチにはない。

 じゃあ、もしこの事実を浩一に突きつけたとしたら…?

 ネットで調べた限りでは、大人になってからイマジナリーフレンドを持つことは普通ではないという見方もあるらしい。

 一方で、病的なものではないという見解もあることから、必ずしも治療(という言い方は適切ではないのかも知れないけど)の必要性はないという意見もあった。

 ウチ個人としては前者の意見を全面的に支持したい。


 ―――だから、話してみようと…思う。


 本来なら、ウチみたいな素人がどうこうするべきことではない…とも思う。

 せいぜい、「最近疲れてるんじゃない?」とかなんとか言って、それとなく精神科の受診を勧めるくらいが関の山だろう。

 そしてその後のことは専門家に任せるのが一番なんだ。

 そんなことは百も承知している。

 だけど。それでも。

 ウチは…

 浩一の話を聞いてあげたかった。

 彼の身に何があったのか。

 どうして今になってIFを持つようになったのか。

 そのきっかけになるような出来事がきっとあったはずなんだ。

 ただの一般人でしかないウチには話しを聞いてあげることくらいしかできないのかも知れない。

 それでも、きっと、ウチにしかできない支え方があるはずだと信じて―――


 この時のウチは知る由もなかった。


 ウチのこの決断が“あんな結末”を迎える出来事の引き金になるということを―――。



        浩一7

         1

 僕はいつもの場所で文庫本を読んでいた。

 今日は朝から微妙な雲行きで、天気予報によれば、一日を通してぐずついた空模様が続くそうだ。

 それでも雨は降らずに済むだろうと言っていた。

「ふぅ―――」

 栞を挟んで本を閉じた。

 味付け海苔を模した食品サンプルに紐を通してあるこの栞は、中学生の頃、合羽橋のお土産としてゆかからもらったものだ。

 ゆかの奴には“仕方ないから使ってる風”を装っているけど、実はそれなりに気に入っている。

 空を見上げると、のっぺりとした灰色のベールが町全体を覆っている。

 ふと、自分がセメントの中にいるような気分になった。

 これから町全体が大きなヘラで塗り固められるんじゃないかと思うと寒気がした。

「今日も来ない…か」

 あの日―――黛麻友が僕の家の変な置物を見に来た日―――以来、僕は彼女を見かけていない。

 あれから一週間が過ぎた。

 僕たちが交流をもつようになってから、これほど彼女がここに姿を現さなかったことはない。

 もしかしたら何か気に障るようなことをしてしまったのだろうか…。

 事前に断りを入れていたとは言え、家に上げなかったのはやっぱりマズかったんじゃないか…?

 それとも、体調でも崩して、一週間もの間、病気で寝込んでいるのだろうか……。

 様々な憶測が頭の中を駆け巡り、僕は不安で不安で仕方がなかった。

「連絡先、交換しとくんだった…」

 こういう時、スマホって便利だな。と、つくづく思う。

 仮に携帯の番号を知っていたとしても、もし彼女を怒らせてしまった挙げ句に着信拒否設定にされていたら目も当てられないけど。

 て言うか、そもそも彼女は携帯電話の類いを持ってない可能性があるんだった―――。

 もしそうだったら、いざって時のために、持つように勧めよう。

 連絡先を知ったところで、ここに来ることをわざわざ示し合わせなければいいだけの話だったんだ。

 そうすれば、当初の僕の思惑である『猫の気まぐれ』を楽しむことだってできるじゃないか…。

 そう考えがまとまると、途端に、僕は少しでも早く彼女に会ってそのことを伝えたいと思った。

 でも、そんな僕の気持ちとは裏腹に、今日も、その『猫のきまぐれ』が裏山ここに現れることはなさそうだった……。

「そろそろ帰るか…」

 先ほどから、降らないはずの雨の匂いが空気に混じり始めていた。

 天気予報は時々嘘つきだ。

 席を立とうと文庫本を鞄にしまった時だった。

 僕しかいないはずのこの場所に、思いも寄らない声がかかった。

「やっと、見つけた…」

 僕の左斜め後ろから聞こえた、その声の主の正体は振り向かなくても分かる。

 それでも僕は声の主に体を向けた。

 おそらく僕の表情は驚愕していただろう。


「ゆか。…なんで、お前がここに―――」


 ゆかは僕の質問には答えず、少し息を切らせなが独り言を呟いた。

「裏山なのは…知ってたけど。まさか、こんな奥だった、なんて…思わなかった」

 ゆかが、僕が未だに裏山に来ていることを知っていたという事実に、まず驚いた。

 そして、僕と黛麻友の秘密の場所を誰かに知られてしまったということに、何故か、心が掻き乱される。

 まるで、二人だけで育て上げた大切な花壇の花を土足で踏みにじられるているような―――辛くて、悔しくて、寂しくて、…そしてひどく虚しい気持ちだった。

 僕の心中など知る由もないゆかが話を切り出す。

「大事な話があるの」

 その眼差しは今まで僕が見たことのないような真剣なものだった―――。


        由香子8

         1

 こちらを向いた浩一は、さすがに驚きを隠せないようだった。

 まさかこんなところにウチが来るなんて夢にも思わなかったという感じだ。


「ゆか。…なんで、お前がここに―――」


 ウチは浩一が向けてくる怪訝そうな眼差しを真っ直ぐに受け止め、「大事な話があるの」と言った。

 突然の展開に浩一は戸惑っているようだった。

 大事な話というのが、「実はずっと好きでした」なんて甘酸っぱい内容ではないということは、ウチの表情を見れば明らかだったと思う。

「何…? 大事な話って」

 どうやら、ウチの真剣さは感じ取ってくれたらしい。

 ウチは浩一の目を真っ直ぐ見据えたまま、グッと奥歯を噛みしめた。

『ここから正念場だぞ。ウチ』

 心でそう呟く。

 話を聞いてもらっても、その内容を理解してもらっても、それを受け入れてもらえなければ意味がない。

 そうならないために、ウチは昨日から何回も脳内でシュミレーションを繰り返した。

 どのような言い方で、どこからどこまでの内容を話せば、分かり易くて“解り易い”のか。

 少しでも浩一が受け入れ易い話し方、口調、声のトーンはどんなものか。

 話の流れや、言う順番なども考慮して、いくつものパターンを頭に思い描いた。

 それなのに―――

「………」

 何も言えなかった。

 ウチの頭の中は真っ白になっていた。

 あれだけ考えたことが嘘のように、その部分だけがすっぽりと抜け落ちていた。

 浩一は固唾を呑んでこちらの様子をうかがっている。

 …どうやら、ぶっつけ本番でいけってことらしい―――。

 いざって時になんの役にも立たない、ウチの愛すべき脳みそと、なかなか粋な計らいをしてくれた神様に、心で思いっきり舌打ちをしてやった。

 ウチは一度大きく息を吸ってからゆっくりと話し始めた。

「まず最初に断りを入れたいことがあるの」

 そこで少し間を挟んだけど、浩一は何も言わない。許容するかどうかは聞いてみなければ分からないという雰囲気が伝わってくる。

 ウチは話を続けた。

「ウチが今から言うことを浩一は信じられないかもしれない。突拍子もない馬鹿な話だって思うかもしれない。それでも、絶対に途中で口を挟まないで最後まで話を聞いてほしいの。お願い。約束して」

 再び怪訝そうな表情になる浩一。

 少し逡巡したように間を置いた後、彼は首肯した。

「なんだか知らないけど―――分かったよ。約束する。ゆかがここまで言うことなんて今までなかったからね…」

「ありがとう、浩一。じゃあ、話すね…」



         2

 ウチは浩一に真実を伝えた。

 直前でぶっつけ本番になってしまった割には上手く話せた―――と思う。

「………」

 浩一は何も言わない。

 特に動揺しているような素振りもないけど、内心では戸惑っているようにウチには見えた…。

 伊達に長年、浩一と幼馴染みやってない。

「………」

 ウチは黙って浩一の言葉を待った。

 ウチの話を聞いて彼がどう思ったのか。

 信じてくれるのか。

 それとも一笑に付すのか。

 今、何を考えているのか。

 …まだ分からない。

 でも何かを考えあぐねていることは間違いなかった。

 空を見上げると、さっきまでと変わらない灰色が一面に広がっていた。

 ゆっくりと息を吸う。

 雨の匂いがした。

 たぶん、もうすぐ降り出すだろう。



        浩一8

         1 

 何を言われたのか分からなかった。

 耳に入ってくる言葉の意味は分かるのに、それを理解するまでに数秒の時間を要した。

 信じられない…。こんな突拍子もない話。

 だって、あまりにも馬鹿げてる……。

 真っ先に思い浮かんだ感想は予め釘を刺された通りのものだった。

 一通り話し終えたゆかは深刻そうな顔で僕を見ている。

 嘘や冗談を言っているようには到底見えない―――もしそうだったとしたら、質が悪過ぎる。

 あまりに真剣なゆかの様子に、僕は一瞬、彼女の語った話がすべて真実であるように思えた。

 でもすぐに否定の考えがよぎる。

 …何を馬鹿な話を鵜呑みにしようとしているんだ、僕は。

 いくら本人が真剣そのものでも、ゆか自身が勘違いをしているだけという可能性は否定できない。

 て言うか、その可能性の方が高い。

 そもそも、なんで、ゆかの奴がそんなことを知り得る…?よく考えてみれば、そんなことは有り得ないはずなんだ。


 だって、ゆかは“彼女のことなんて知りもしない”じゃないか―――


 それなのに。


 何故だろう…


 やはり僕にはゆかの言葉が真実に思えてならなかった―――。



         2

 あの『猫のような少女』は、ついこの前まで、確かに僕の隣で笑っていた。

 腹の立つドヤ顔で「えへん☆」なんて言っていたんだ―――。

 僕たちはこの場所でたくさん話をした。

 大抵は他愛のない話だったけど、恋愛の話をきっかけに僕たちの距離は少し近付いた。

 僕は、よく彼女の『猫のようなきまぐれ』に振り回された。

 神社でゴミ拾いをしたり、ほとんど内容も覚えていなかった映画の続編を見に行ったりした。

 最初は嫌々だったこともあるけど、最後はいつも充実した気持ちになっていた。

 インターを一緒にぶらついた時は特に何をした訳でもないのに、僕たちはずっと笑い合っていた。

 そう言えば、その前は手と口元をべちょべちょにしながらハンバーガーを頬張っていたっけ。彼女にしては珍しく、まるで子供みたいだった。

 僕は「えへへ」とはにかむ彼女に、内心ではドキドキしていたんだ。

 ついこの前だって、僕の家に来たじゃないか。

 いくつかある変な置物の中でも、ワニの置物がえらくお気に入りみたいだった。

 帰り際、彼女は言ったんだ。

「じゃあ、またねーっ。コウくーんっ!」って―――。

 手を大きく振りながら、近所迷惑になるんじゃないかと心配になるほどの大きな声で、確かに、そう言ったんだ。

 僕は小声で「うん。また」と言って、小さく手を振り返しただけだけど、頬が緩むのは抑えられなかったんだ…。

 それなのに………それなのにッ!


 こんなのって、あんまりじゃないか!!


 …

 ……

 ………

 病院だ。

 病院に行くしかない。

 確かめるんだ。

 医者でも看護師でも誰でもいい。

 彼女のことを聞こう。

 それですべて解決する。


 僕は走り出した。


「あっ、ちょっと!」


 ゆかの声を背に聞いた。

 でも振り返る時間すら惜しかった。


 大丈夫―――

 きっと大丈夫―――

 そう自分に言い聞かせながら、僕は走った。



        由香子9

         1

「あっ、ちょっと!」

 ウチの制止を無視して、浩一の背中はみるみるうちに小さくなっていく。

 その後ろ姿を、ウチはただ黙って見ていることしかできなかった。

 しばらくその場から動くことが出来ずに呆然と立ち尽くしていると、いつの間にか雨が降り始めていた。

 今はまだ小雨だけど、このまま本降りになりそうだった。

 頬を伝う水滴の感触を感じた。

 それは空から落ちてきたのとは別の、目尻からこぼれ落ちた雫だった。

 ウチは涙を流していた。

 雨は少しずつその勢いを増している。

 天気予報の嘘つき。

 でも。

 涙を隠してくれるその嘘に、ウチは感謝した。



         2

 雨は一層激しくなっていた。

 念のためにと持っていた折りたたみ傘を差してはいるけど、横殴りの雨にはあまり役に立たなかった。

 時間を確かめようと携帯を開くと充電が一つ減っていた。

 …浩一は大丈夫だろうか。

 濡れ鼠になって、後で風邪など引かなければいいけど…。


 この時、ウチは、思いもしなかった。


 さっきのあの後ろ姿が、ウチが見た最後の浩一の姿になるなんて―――



        浩一9

         1

 誰でもいいから言ってほしかった。

「何かの間違いだった」って。

 そしたらきっと、明日には何事もなかったように黛麻友があの場所に来るはずなんだ。

 僕が今日のことを話すと、「んー? そんな訳ないじゃん。わたしはわたしだもんっ! えへん☆」なんて言うんだ。

 後でゆかの奴を叱っておかないとな。

 いや、でも、あいつは悪気があった訳じゃないんだから、怒るのは筋違いか…。

 むしろ、お笑いぐさにでもしてやるか。

「あんな真顔で馬鹿じゃないのか」ってさ。

 むくれっ面のゆかが目に浮かぶ。

 きっと顔を真っ赤にして、照れながら怒るぞ。

 今こうして必死に駆けずり回っている僕だって、病院の人たちや黛麻友からしたら、とんだお笑いぐさだ。

 黛麻友には「そんなにわたしのことが心配だったの? モテる女は辛いなぁ。えへん☆」みたいな感じで、いつまでも、いじられ続けるだろう…。

 その時のドヤ顔を想像するだけで、なかなか屈辱的な気分だ。

 でも、それでいい。

 いや―――それ“が”いいんだ。

 この時になって僕は、ようやく気付くことができた。

 今まで何気なく彼女と過ごしていた日々が、この上ない幸せな日々だったのだと。



         2

 僕は無我夢中で走った。

 一分一秒でも早く真実に辿り着くために。

 そんな逸る気持ちとは裏腹に、病院までの距離は思った以上に縮まらない。

「はぁ…はぁ…」

 僕は明らかに疲弊していた。普段ろくに運動しないことが仇となったのだ。

 それでもとにかく、走るしかない。

 立ち止まっている時間などないのだから。

 雨はいつの間にか土砂降りになっていた。

 もし車だったとしたら、ワイパーが役に立たないほどの勢いだった。

 当然、僕の視界もほとんど奪われている。

 鞄にしまった文庫本はもう駄目だろう。

 ざぁざぁと降りしきる雨音に聴覚までも遮られていた。

 他に聞こえる音と言えば、靴底が地面に叩きつけられる度に聞こえる、ビチャビチャという不快な音だけだ。

 濡れた服が体に張り付き、その嫌な感触と重さに体力をごっそりと持っていかれる。

「くそっ、まだなのかっ? あの病院、こんなに遠かったか!?」

 とっくに着いててもいいはずだった。

 それが、どうして、まだ病院の建物すら見えてこないんだ!

 疲れと焦燥が募っていく。

「はぁ、はぁ…はぁ」

 ―――。

 落ち着け。焦っちゃ駄目だ。

 冷静になってよく考えるんだ。

 もしかして、いつの間にか通り過ぎてしまったのか…?

 …いや、それは有り得ない。

 いくら視界が良くないとは言っても、あんな大きな病院を見過ごす訳がない。

 僕が向かっているのは県内でもトップクラスの規模の大学病院だぞ。

 でも、だとしたら…なんで。

「なんでなんだよッ!」

 僕は体力的にも精神的にも限界を迎えようとしていた。

 もはや冷静な判断ができる状態ではなく、自分が今、どこを走っているのかさえ分からなかった。


 ―――その時。


 僕の時間が、急に、スローモーションになったような気がした。

 有り得ない状況に一瞬戸惑ったけど、そのことで僕は、逆に冷静さを取り戻していた。

 視線だけで辺りを見回す。

 いつの間にか僕は道路上にいた。

 足下には横断歩道。

 僕のすぐ右側には車のヘッドライトがあって、物陰から獲物を狙う獣の目のように僕を照らしていた。

 正面には歩行者用の信号。…赤く点灯している。

 左上に見える車用の方は、青だった。

 どうやら僕は、自分でも気付かないうちに、信号無視をして道路を突っ切ったらしい。

 その事実に気付いた途端、時間が元の早さを取り戻す。


 そして、僕の意識は、そこで途切れた。

こんなドカンと一気に投稿した作品にも関わらず、ここまで読んで頂き、本当に、本当に、ありがとうございました。「後編が気になる!」と思って頂けるようでしたら幸いです。

そういった方がもしおりましたら、もちろん、是非読んで頂きたいとは思いますが、あまり期待はしないでくださいね(汗)私が小説を執筆するきっかけとなった作家さん・作品が何か分かった方がいたとしたら尚更です。あんなに素晴らしい、感動の涙は一切流せませんのであしからず…です。

それでもよろしければ後編もよろしくお願いします。現在、最終的な自己添削中ですので、遅くても来週には投稿します。くれぐれも期待はしないで読んでくださいね。それでは。

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