おお、まおうよ! しんでしまうとは(以下略)
あぁ、今朝は最悪だった。
「はぁふぅぅぅうぅぅうう」
トウフ屋が夕方に奏でるラッパの音階に似た溜め息が、無意識に口を突いて出る。
俺は行きつけのバーの、いつもの場所に座っていた。
カウンターの一番隅、小さな窓から外を眺めることのできる席だ。
バーと言っても静かで洒落たものではなく、常に笑いや怒鳴り声といった喧騒に包まれていた。
首都だからなのか、ここの歓楽街は夜になってもきらびやかな光に満ちあふれている。
俺が聞いたところによると、広大な草原のど真ん中にあるこの街が、真っ暗な闇の中に浮かぶ宝石箱のように、遠くの小さな村からは見えるそうだ。
その明かりから少し外れた路地裏に、このバーがあった。
知る人ぞ知るといった隠れ家的な存在で、これがただのバーではないことは、この場所に店があることから察することができる。
外はすっかり日も暮れて、店内の明かりを反射した窓には冴えない顔の男が映っている。
中途半端に伸びたボサボサの黒い髪、不健康な白い顔、死にかけた魚のような瞳。
言うまでもなく見慣れた自分の顔だ。
大学二年なのに、いまだに中等部の学生と間違えられる童顔は得なのか、損なのか。
俺としてはイケメンというよりはヒゲの似合う紳士に育ちたかった。
いえ、イケメンにも育っていませんが。
冷えた窓ガラスに額を擦りつけて外を眺めると、古めかしい石畳の路地が見えた。
ぽつんと立てられたガス灯の淡い光が路地を照らす。
馬車が何とか一台分通れるぐらいの狭い道には、男達が歩く姿しか見ることができない。たまに女性らしき人物を見掛けることもあるが、あれは男と思って間違いないだろう。
ここはそういう特殊な趣味嗜好の人々が集まる場所なのだから。
「はあぁあぁあぁ」
この世の幸せという幸せが、今はとても憎い。
ついでにリア充は爆発すれば良い。
そんなドス黒い念をこれでもかと込めながら、俺は大きく口を開けて盛大に溜息を吐いた。
溜息を吐くと幸せが逃げていくと言う。だったら、俺だけじゃなくて世界の全ての幸せを巻き込んでやろうじゃないか。
あのとき世界は魔王に支配されるべきだったのだ。
おぉ、魔王よ……死んでしまうとは情けない。
いや、死んでないけど。封じ込められただけだけど。
何度目かの溜息を吐いたとき、
「ちょっと、アンタ! その暗い二酸化炭素をこれ以上製造したら、営業妨害で外に叩き出すよ!」
カウンターの隅で飲んでいた俺に店のマッチョなママ、略してママ、男だけどもママ(しつこい)が露骨に嫌そうな顔を向けた。
今日も相変わらず化粧が毒々しいまでに濃い。
そして、褐色の肌がテカテカに輝いているのが暑苦しい。
何でそんなにテカテカしてるの?
「ぅ俺は客らぞぉ。金払ってやってんらから、出てけとはなんら、出てけとはぁ!」
俺はというと呂律が回らなくなりながらも反論する。
ダメだ。今日は飲み過ぎた。気持ち悪い。
クソ、これも魔王があっさり勇者なんかに倒されたからだ。
断っておくが、俺は別に魔王を崇拝しているわけでもなければ、広報担当というわけでもない。
善良なる市民の一人であるということだけは言っておこう。
被害を受けていない遠い国の人間からすれば、魔王なんて小説か戯曲の中の登場人物だと思うだろうが、魔王は確かに実在していた。
数年前には。
まだ記憶に新しいと感じる人も多いはずだ。
約十数年前、頭の中がヤバイ人じゃなくて、本気で魔王と名乗るヤツが現れた。スライムやゴブリンというモンスターの代表格ばかりではなく、ゴーストやワイバーンなどなど、ありとあらゆるモンスターの王として降臨したのだ。
突然、舞台の上に現れた、トップスターのように。
そいつが、それまでお互いに暗黙の了解として築いていた『人間』と『モンスター』の境界線を見事にぶっ壊してくれた。
どうなったかって?
それは……って、そういえば今まで俺は誰に語りかけてんだ?
まあ、うん、心の中の誰かってことで。
世界もかなり平和なことだし、俺が主役になれる日なんてないだろうから、せめて心の中だけでも主人公気取りでいこうじゃないの。
さて、話に戻ろう。
魔王が降臨してどうなったのか。
モンスターが人間の領域に侵略してきた。
始めは世界の中央と呼ばれるセントグランツの北に位置する、黄昏の洞窟から。
そこから一気に周辺の国へ飛び火した。
一斉にモンスターが暴れだしたモンだから、色んな国が大パニック。
まぁ、俺の国は幸いにも比較的マシな方で、あんまりリアルに感じられなかったけど。
そんな魔王も君臨してから数年後、とある勇者一行によって、あっさりと幕を引かされることになった。
こうして、世界は再び平和を取り戻したのだ。
めでたし、めでたし。
俺の手の内にあるグラスの中で氷が涼しい音を立てた。中身は空っぽだ。
「おい、もう一杯らぁ!」
頭の中はこうしてハッキリしているのに呂律が回っていない。
「アンタ、飲み過ぎ」
ママが手からグラスを抜き取る。
奪われてたまるかと力を入れたのだが、この人に抵抗して勝てた試しはない。
「客、客って威張り散らしてるけど……客っていうのはね、ボトルを二つ三つキープしてる人のことを言うの。単価のやっすぃコーヒー牛乳だけでよくもまあ何時間も居座れること! ていうか、ただのコーヒー牛乳で酔えるアンタの体質って絶対変よ! 変態よ! イヤン、変態だなんて言葉攻め、興奮しちゃうぅっ!」
変態はママの方である。
帰らないなら塩でもまくよとママは息巻いていた。
その荒ぶる姿はまるでミノタウロスそっくりだ。
いや、そっくりどころか、人間に見える方が不思議だ。
角刈りで筋骨隆々のたくましい男が、ぴっちぴちのロリータファッションに身を包んでいる様は、化け物と呼ぶ以外に言葉が見つからない。
ピンクを基調とした可愛らしいドレスに白のフリル。
女の子が着る分には合格点だ。
だが、年齢が五十も過ぎた暑苦しいオヤジが着るなんて、哀れにもドレスは予測しなかったに違いない。
小さなドレスは男の巨体を包むには可哀想なぐらい、むっちりとはちきれんばかりに伸びている。
ちょっと切れ込みでも入ろうものなら、たちまちパーンと裂けて、オヤジの鍛え抜かれた裸体がさらされるだろう。
あぁ、見たくもない。
「まあ、落ち着け、サマンサ」
不意に男の声がしたので、俺とママはそちらに顔を向ける。
腐れ縁……もとい、同郷の幼な友達である若いマスターが、ママの手からさらりとグラスを奪うと、七杯目のコーヒー牛乳を器に満たした。
「ほら、これで最後だぞ」
世の女性曰く『精悍』らしい顔に穏やかな笑みを浮かべながら、俺の前にグラスを置く。
俺からすればただの熊っぽい、むさ苦しい男にしか見えないので、世の中は間違っていると断言したい。
悔しいことに俺よりも背はかなり高く、四角い顔にはちょい悪な顎ヒゲ。
いつも眠そうな目をしてカウンターに立っている。
いや、俺は成人男性の平均身長よりほんのちょっぴり低いだけで、決して劣っているわけではない。
ヤツがただ高いだけである。
マスターは俺をいつも弟扱いする。
弟扱いどころかいつまでも子ども扱いをするコイツが正直言うと少々苦手だ。
カフェインを過剰に摂取したからか、吐き気を催しながらも俺は一気に飲み干した。
甘くも少しほろ苦いコーヒーの香りが口の中に広がり、その苦みを牛乳のまろやかな味が洗い流してくれる。
これが一杯目や二杯目なら美味く感じるのだが、今や拷問に近い。
頭が万力にでも挟まれたようにギリギリ痛んだ。