プロローグ
夜の森には熊や狼といった危険な動物はもちろん、注意しなければならない。
だが、スライムやおばけキノコといったモンスターの存在も忘れるべからず、だ。
奴らは山から降りて更には森を抜け、人里へとやってくることは滅多にない。
しかし、領域へと侵入する人間には容赦なく手荒い洗礼を与えるのだ。
そのために、山や森に入る人間はモンスター避けの護符を常に携帯している。
護符には所持者の姿をモンスターの目から隠す魔法が込められていた。
ただし、効果があるのは下級モンスターのみではあるが。
無いよりはマシである。
小さな木札が一枚、森の中に落ちていた。
表面には一文字の呪文が描かれている。
まだ新しい護符だ。誰かが落としたのだろう。
冷えた夜風が木々の間を吹き抜ける。
長年積もった枯れ葉がカサカサと小さく笑いながら護符を隠していった。
日もとっくに暮れた暗い森の中を幼い少年が走っている。
少年は見たところ四、五歳といったところだろうか。
汗で黒い前髪を額に張り付かせ、一生懸命に走っている。
服も白い肌も土で汚れていた。
くりっと丸い瞳には涙が溜まっていた。
「ばーちゃん! ばーちゃあん!」
少年は辺りを見回し、悲痛な声で叫ぶ。
一緒に山菜採りへ来た祖母とはぐれたのだ。
秋も深まり赤や黄色と葉の色を染めた木々は昼間と違い、美しさよりも不気味に見えた。
恐ろしさに顔は真っ青だ。
「ばーちゃん!」
少年はもう一度叫ぶ。
大声を出せば森の住人達に狙われるということに気がつかないのか。
いや、パニックに陥った幼い彼にはそこまで考えられる余裕がないのだ。
「ば、ばーちゃあん、かーちゃん、とーちゃん……うぅ、エルにーちゃあん……」
立ち止まった少年の目からは大粒の涙。
森の肌を覆う枯れ葉に涙が次から次へ、ぼたぼたと落ちていく。
しばらくその場で泣いていたが、少年は暗い森の中を歩きだした。
それはとても頼りなく、弱々しい足取りで。
「あっ」
木の根に爪先を引っかけた彼の小さな体が宙に浮く。
こうして転んだのは何度目だろうか。
膝もヒジも小さな擦り傷だらけである。
ぐしゃぐしゃの泣き顔を上げると、少年の目が丸くなった。
大きな瞳の中で光が反射して揺らめく。
よく見ると、少し先に灯りが見える。
村の大人だろうか。
暖かな光に少年は小さく安堵の息をもらした。
膝の痛みに顔をしかめながら起きあがると、その光を目指して歩きだす。
自然と歩みが早くなっていく。
パチッと炎がはぜる音が耳に届いた。
茂みから飛び出そうとしたそのとき、
「あー、オヤジの遊び好きには勘弁して欲しいモンだ」
焚き火の近くにいるだろう男の声に、少年は足を止めた。
若い男の声なのだが、村人ではないようだ。
少年の暮らす村は山と森に囲まれた、人口が約百人ちょっとという小さな村だった。
そのために村人達とは親戚のように親しい間柄である。
少年は一人一人の顔を思い描くも、自分の記憶に当てはまる声の主はいなかった。
そっと覗くと焚き火の暖かな光が冷えた頬を撫でる。
炎に照らし出された顔は二つ。
冬も近いというのに、薄手の旅装束に身を包んでいる。
一人は焚き火のすぐ近くに座っていた。
闇より深い漆黒の、少し伸びた前髪の隙間から紫水晶の瞳が炎を見つめている。
中性的な顔立ちに性別がどちらなのかと少年は迷った。
しかし、胸の無いすらりとした長身に男だと咄嗟に判断した。
判断の材料として胸に目を向けるのはごく自然だろう。幼くとも少年は男である。
二人目は彼から少し離れた木にもたれて座っている。
こちらは胸を見ずとも男だとすぐに判断することができた。
端整な顔立ちで、やや顎はとがっている。細身ではあるが引き締まった体つきをしていた。
ライオンのたてがみのような、それでいて銀色の髪が印象的だ。
どちらも村の者ではない。
少年はためらった。
村の者なら大喜びで飛びつくのだが、相手はどこの誰とも知れぬ男達。
それに、祖母が昔話にと聞かせてくれた山賊ならば大変なことである。
幼児はさらって闇の市場で売られてしまうのだとか。
知らない人にはついていっては駄目だと、祖母や母から何度も繰り返し聞かされて育ってきた。
「主人の不在をヤツ等に知られれば、こちらの世界の秩序が乱れるだけでは済まされないぞ」
火の近くで座っている黒髪の男が淡々とした口調で手にした木の枝で焚き火をいじる。
「制圧するの大変なんだよなァ」
ライオンのような男が顎を外す勢いの大口で欠伸をした。
「今回はよりによって人間界に……」
と、深い溜め息を吐いたのは黒髪の男。
「完璧に人間に馴染んでるのか、気配すらまったくしねェんだけど」
「まだ三十年だが、ヤツ等に知られるのも時間の問題だろうな」
「次からのかくれんぼは人間界禁止。探すのスゲェ面倒」
この大人達の会話を少年はぼんやりと聞いていた。
幼い頭で理解できたのは最後の一言のみで、どうやら男達はかくれんぼの鬼らしい。
「オヤジの遊び癖はいつからだァ? 地上が安定しだした頃からか?」
「俺の横を『あとは任せた』と爽やかな笑顔で猛ダッシュしていったのが昨日のように思い出せる」
「あぁ、オヤジはレクス達の中でも一番の逃げ足を誇るからな」
ぱちんと火が小さくはぜた。
銀髪の男がごろりと横になり、
「最初は『楽しい! 楽しいよ、レオンくぅん!』とか言って、はしゃいで創造してたくせにさ。すーぐに飽きちまいやがった。なのに、かくれんぼに鬼ごっこ……ガキみてェな遊びだけは飽きもせずに、ずっと続けてるよなァ」
彼の言葉に黒髪の男が頷く。
「もう習慣になったな、この生活も」
山賊とは思えぬ会話に少年は緊張がゆるむ。
そのときだ。
まるでヒキガエルを押し潰したような凄い音が少年の腹から出てしまった。
盛大に空腹を訴えたようだ。
「ちぃっ! 敵襲かよ!」
銀髪の男が腰を浮かした。
腹の音は彼らの耳にも届いたようだ。
「今のは結界を破った音だろうな」
黒髪の男も険しい顔で立ち上がる。
「俺達が気づけなかったとなると、相手は相当手強いぞ」
少年は身を縮こまらせた。
山賊ではないとはいえ、敵なのか味方なのか、相手の素性が知れない。
見つかればなにをされるか分からない怖さがあった。
身を丸くして少年が震えていると、
「あれ? こんなところに小さいのが」
突然、後ろからひょいと首根っこを捕まえられた。
「ひゃああぁあぁあ!」
「わあぁあぁあ!」
少年の悲鳴と、見知らぬ男の驚く声が重なる。
「お、おま、そんな大声出すなよ。びっくりするじゃねえか!」
焚き火にあたっている男達とはまた違う声が背後から聞こえてきた。
仲間が他にもいたのだ。
「たたたた、たすけ、たすけてぇ!」
首根っこをつかむ手から逃れようと、必死に少年はもがく。
しかし、がっちりと捕まれているので首に痛みが走る。
「いたい、いたい!」
「あ、ごめん」
ひょいと解放されるや少年は前のめりに転げながら逃げた。逃げた先には、
「あ」
「あぁ?」
黒髪の男と銀髪の男が。
「あわわわわ」
少年はとんでもないところに逃げてしまったと、大きな瞳に涙を浮かべて二人を見上げた。
「人間……だと?」
驚きのあまりに黒髪の男の綺麗な顔は面白いほど崩れている。
銀髪の男も驚いて声も出ないらしい。間抜けに口だけが開かれていた。
「どう見ても人間だよなあ」
のんびりとした声が背後から聞こえてくると、少年は怯えた目で振り向いた。
首根っこをつかんできた人物だ。どんな鬼のような男かと思いきや、
「よっ、ちびっこ。夜の森でなにしてんだぁ? かくれんぼか?」
短髪で、まるで燃えているような赤い髪の色が目に飛び込んできた。
長身だがしっかりとした体躯。
鼻筋がすっと通った顔立ちで目は細く、目尻はやや甘く垂れて昼寝をする猫のように見えた。
彼は細い瞳を更に細くさせて人懐っこい笑みを浮かべてしゃがむと、少年に目線を合わせる。
「あの、あの……」
少年は見知らぬ男達に囲まれたからか緊張に体を強張らせ、目線はあちらこちらと泳いで忙しない。
「結界に入れるのは我らの眷属のみだぞ」
赤い髪の男を押し退け、ずいと顔を覗かせたのは厳しい表情をした黒髪の男。
「おい、よく見ると……コイツ、オヤジに似てねぇか?」
今度は黒髪の男を押し退けて目の前に現れたのは銀髪の男だ。
こちらもまた厳しい顔をしている。
「あの人は三十年前、間違いなくこの世界に……」
再び黒髪の男が視界に入る。
「じゃあさ、オヤジの隠し子とか? 俺、弟がスッゲェ欲しかったんだよなあ!」
どんと押し退けて赤い髪の男が入れ替わった。嬉しそうだ。
「まだそうと決まった訳ではないぞ」
黒髪の男が、
「とりあえず、全員招集だ。ゲームに勝ったらオヤジか息子じゃね? 人間がオレ様達に敵うなんざ、万に一つも無いからな」
カカカと笑う銀髪の男が……。
視界がぐるぐると目まぐるしく変わる。
目まぐるしく変わるようにぐるぐると少年の頭の中も混乱してくる。
ついに緊張の糸がぷつんと切れると、
「ふぇ……えぇえぇえぇえぇえぇ!」
大声を上げて泣きだしてしまった。
「あ、なーかした。オマエ達さあ、ちびっこ相手なんだから、もう少し優しくしろよなあ」
そうは言いつつ、少し楽しそうに声を弾ませたのは赤い髪の男だ。
「ス、スマン。ど、どうすれば泣き止むんだ? この小さい生き物は……」
泣きだした少年に黒髪の男が慌てふためき、情けなくオロオロするばかり。
「くそっ、コイツが勝手に泣きだしたってのに……」
銀髪の男はばつが悪そうに頭を掻いてそっぽを向く。
すると、赤い髪の男はニッと口角を上げた。
どうやら自信があるらしい。
「ちびっこ、俺達と遊ぼ? ちびっこの好きなゲームで良いからさ。だから、泣きや……」
「びえぇえぇえぇえぇ!」
「ど、どーしたもんかなぁ」
男達三人が代わる代わる少年を泣き止ませようと慌てている。
それを、枯葉が風もないのにカサカサと笑った。
これが少年と彼等の不思議な関係の始まりである。