21 「……僕は、母の顔を覚えていない」
森の中は、不思議な静けさと清涼感に満ちていた。
森に入る前からでも、豊かな水の音と葉擦れの音が三人の耳に聞こえていた。きっと中には滝があるのだろう。その水さえ汚染されていなければ、少ないとしても生存者は期待できる。
僅かながら通れる程度の獣道に沿って、三人が進んでいく。先頭はフィヴィエル、次にジャスミン、一番最後がユイルアルトだ。獣道ではいつ毒蛇に出くわすかも分からない。後方を歩けば歩くほど危険だ。そうフィヴィエルが言ったのだが、
「では、安全な道を探してくださいな。あなたが言う『危険』とは、疫病より毒蛇の方なのです?」
それを言われると、もう返せる言葉のないフィヴィエルが渋々先頭を歩く。初めて出逢った時から今の今まで強情なその性格は、ここ三日で分かってきた。
森の中を進んで分かるのが、広さの割に獣の声がしない事。鳥の羽ばたきさえも聞こえない。何かの前触れのように思えたが、ジャスミンが言うには
「……貴重な食糧かも知れませんね、罠を仕掛けてあるのかも。獣はそうして食べられるか、罠を察知してどこかで身を隠している可能性があります」
冷静なその言葉に安堵したのは二人ともだ。ジャスミンが落ち着いて話せて、村人の生存を疑っていないのが分かって。
そうして滝の音と獣道に従って歩いていくと、やがて三人の前に掘っ立て小屋のような粗末な建物が見えた。
「ジャスミンさん、ユイルアルトさん」
「ええ」
「見えました」
三人が同時に茂みに身を隠し、その建物の様子を伺う。人がいる気配は分からないが、そのすぐ近くに滝も見えて、ユイルアルトが確信する。
『ここに、誰かいる』。
それこそが三人がこの地に来た理由であり、ユイルアルトとジャスミンの仕事。
暫くそのまま様子を伺っていると、掘っ立て小屋の扉が開いて無意識に三人とも息を止める。中から出てきたのは、白衣を身に纏った中年と思われる女性だった。
「……農村に不自然な白衣……」
「間違いなさそうですね」
「―――………」
この地で白衣、というと心当たりがあるのは一つだけ。この女性は宮廷医師である可能性が高い。ユイルアルトとジャスミンが横目で見たフィヴィエルは、僅か震えていた。確かにその女性とフィヴィエルの顔立ちは似ていた。色素の薄い髪の色も。
声を掛けるのか、とフィヴィエルの様子を見ていた二人だが、そんなことをするでもなく、女性は沢で水を汲んで再び掘っ立て小屋に入っていった。
「……フィヴィエルさん」
「………」
「声を、掛けなくて良かったのですか?」
ユイルアルトのその問いに、深い溜息を漏らしたフィヴィエル。瞳には戸惑いが感じられて、二人が目を合わせる。その戸惑いの意味が分からなかったから。
やがて呼吸を整えたフィヴィエルが、そっと口を開く。
「……僕は、母の顔を覚えていない」
その言葉に、二人が固まった。
「僕は、産まれてからすぐに施設に入れられました。母の顔も知りませんし、何をして、どこで生きているかも知りませんでした。母が宮廷医師だと教えられたのも、この任を言い渡されるのと同時です」
「同時? 今まで顔を合わせたことも……」
「ありません。『宮廷』を冠する人たちは、我々のようなただの騎士にとっては手の届かない人。僕は……ずっと、産んでくれた母を探して……」
震えた声、握られた拳。彼の瞳はまだ扉に向いたまま。彼のその握られた拳を握ったのは、ジャスミンだった。
『宮廷医師の子が何故そんなことも知らないのですか?』
『自分の子の衛生管理教育も出来ないんですか』
そう言ってしまった過去の自分の罪滅ぼしかもしれない。この言葉は、恐らくフィヴィエルの一番弱い部分を切り裂いた。
手に添えられた温もりで、フィヴィエルが我に返る。握られた拳を握るその手に、フィヴィエルがまた手を乗せた。
「―――ありがとう」
ジャスミンへ、短い言葉で礼を。そして三人が誰からともなしに立ち上がる。
扉をノックしたのは、フィヴィエルだった。二人がその後ろに控える形だ。一回目の軽いノックでは、何の音も誰の声も聞こえない。今度は強く拳を握りしめ、扉を殴るようにノックをした。暫くして、再びフィヴィエルがノックをしようと手を握りしめた時
「―――誰だ」
中から、男の声がした。
「アルセン国、第三騎士隊所属のフィヴィエル・トナーと申します。要請により、医師を派遣してきました」
再び、沈黙の時間。小屋の中でひそひそ話す声が聞こえた。やけに長く感じる時間の後に、閂が取り払われる音がして、ゆっくりと扉が開いた。
「……やっと、来てくれたのね」
扉を開いたのは、先程外に出ていた女性だった。
フィヴィエルの動きが止まる。見開かれた瞳は、女性の瞳と同じ色だった。
「失礼します、病人はどちらです?」
そこで固まるフィヴィエルを無視して、ユイルアルトが二人の間に割り行った。その行動に驚いたような表情の女性は、三人の顔を見渡して首を振った。
「病人は、こちらの小屋にはいません」
「―――いない?」
「ええ、ここからもう少し下流の川に。こちらは、今の所症状が出ていないものだけがいるのです」
「……簡易的な隔離病棟って訳ですか」
ジャスミンが呟いて、ユイルアルトが荷の中から昨晩作った覆いを出す。掘っ立て小屋と言っても中はそこそこ広く、小部屋もあるようで見えるだけで十名ほどが居た。宮廷医師に出した覆いを今確認できる全員分に渡すと、ジャスミンとユイルアルトは扉から一番近い隅に陣取る。
ジャスミンが荷を解いて用意し始めたのは手元辺りを隠すだけの木でできたパーティーション、それから硝子同士が軽く触れあう音。何が始まるか不安そうな顔をする、掘っ立て小屋の住民たち。
「ジャスミン、私は隔離先を見てきます」
「お願いします、気を付けて」
ユイルアルトは視線と指の動きで、宮廷医師の女性を近くに来させる。彼女も覆いを今いる村人たちに配り終え、自分も口元と鼻を覆いで隠しており、準備は出来ているようだ。
「案内してください。それから、村の現状を教えてもらいます……ええと」
「は、はい。私はリエラと申します」
女性は気弱そうで、それでいて思ったより若く見えた。
小屋の扉を開け、外に出ると滝の音がより聞こえるのに、やはり異様に静かな気がした。
「リエラさん。私はユイルアルトと申します。村人の症状は吐血、血便と聞いていますが」
「はい……。症状の移行は緩やかでしたが、皆体力を奪われながら最終的にはそれで亡くなっています」
「大した疫病ですね、宮廷医師様の片方も罹患させたとか? さぞこの病は逞しいんでしょうね」
悪意アリアリで言葉を投げつけると、リエラはその頼りないとさえ思わせる肩を竦ませた。歩幅も小さくして、ユイルアルトのやや後ろを歩いている。
「すみません……、私が不甲斐ないばかりに」
「……気にしないでください。このお仕事が終わったら、国家に追加費用でかなりの額請求するつもりですから」
その反応が想定外で、ユイルアルトも思わず目を見開いていた。それを感じさせまいとリエラから視線を外す。自分より年上の人間が、自分の言葉で怯えるなんて初めての経験だった。
「ジャスミンさん、手伝えることはありますか」
「無いです。向こう行っててください、危ないですよ」
掘っ立て小屋の方では、まだジャスミンが調薬の下準備をしていた。乳鉢、蒸留器、その他色々な道具を出してはちょっとした台に並べてを繰り返している。フィヴィエルをあしらっていたジャスミンだが、一旦手を止めて声を掛けた。
「暇なんでしたら水汲んできてください。かなりの量必要ですよ」
「水ですね、了解しました」
「ちょっと、いいかい」
そうこうしていると、村人の一人らしき壮年の男から声を掛けられる。さっき、扉をノックした時に返事をした男だろう、というのは声で分かった。
男は二人の姿を見比べながら、怪訝そうな顔をしている。
「医師さんが言ってた、救援ってのはアンタらかい」
「多分、認識が同じでしたら私たちです」
「どういうこった? 俺らはてっきり、騎士団サマが来てくれて俺らを安全なところまで護送してくれるって思ってたんだがよ」
「護送? 私たちが頼まれているのは『治療』です。残念ながら安全な場所なんて―――」
「俺らは感染してねぇんだ! なのになんでこんな土地にいつまでも居なきゃいけねえんだよ!!」
怒号が響く。それは声を掛けてきたのとは別の男、中年の禿げた男だ。唾を吐く勢いで出した大声の後、その男が咳をする。見れば、村人たちは渡されたはずの覆いを付けていない。それは老若男女問わず。
ジャスミンがぞっとした。危機管理が出来ていないこの村は、『自分が流行病の宿主であるかもしれない』という感覚が無いのだ。
「……残念ながら」
ジャスミンが立ち上がる。台に乗せた硝子が僅かに音を立てた。
こんな村人を護送だなんて冗談じゃない。もし万が一護送したとしても、その先で発病されたんじゃたまったものじゃなかった。
「私たちは、あの女性のように優しくはありませんよ」
手にしているのは乳鉢用の擂り粉木だ。それを強く、手から血の気が引くまで握りしめた。苛立ちが隠せない様子を、フィヴィエルはじっと見ていた。
「この村にいるからには全員『患者』です。意見があるなら口を開く前にその覆いを付けてから言いなさい」
「はぁ!? 患者って、俺らは―――」
「聞いてなかったのなら、この先遠くない未来、吐血したまま一生を終えると思いなさいね」
「っ……この女!」
禿げた中年が、高圧的なジャスミンに我慢が利かなくなったように詰め寄った。二人の距離が完全に縮まるその前に、二人の間にフィヴィエルが割り入る。そっと後ろに追いやられ、ジャスミンが少し戸惑っている。
「ここで暴れては、治療のための道具が壊れてしまいます。どうか穏便に―――」
「やかましいわ! お前も騎士団の端くれってんなら、早く俺らをどっか安全な場所に、っ!!?」
フィヴィエルの判断は早かった。連れて行け、と言われる前に振り上げられた腕。それをあっさりと掴むと、一瞬でその中年を床に引き倒す。相手はただの村人であることを考えてか、動きはとても柔らかい。掴んだ腕は関節を極め、引き倒したその背に片膝を乗せながら、優しい声でで高圧的に語り掛ける。
「再度言う。この村の人間である以上、国から派遣されている騎士である私には従って貰おう」
「い、いてて、いっ……痛ぇ!!」
「彼女達は私より責任が重い。言い渡されている任務が遂行できない、なんて事態になったら……、責任を取れるのか?」
「わかっ……た、は、離せ! はなっ……」
「ご理解とご協力、感謝いたします」
手を離してその男を解放した時には、フィヴィエルはいつものにこやかな顔に戻っていた。
その一連のやりとりをジャスミンが機材を扱う横目で見ていた。相手はやはり『騎士』なのだと、改めて思い知らされる。その外見と物腰からは考えられない武力集団に所属しているという事実を。
「ご理解いただけたので、どうぞジャスミンさんはお気になさらず」
「……驚いた」
フィヴィエルが首を捻る。何の事か分かっていてその反応なのだろう。素直に言うのが悔しくて、ジャスミンがそれ以上言うのを止めた。
フィヴィエルはフィヴィエルで、近くにあった水桶を二つ手にして扉に向かう。
「水汲んできます。他にも、何か手伝いが必要なら声を掛けてくださいね」
その中性的な笑顔を、もう敵に回すようなことはすまい。ジャスミンが背中を見送りながら思った。同時に、怒声をぶつけた自分に、何も言わずにその声を受け止めてくれた事。
彼を見る目が少しずつ変わっている。ジャスミンが、その変化を意識して受け止めた。




