case4.5-1
王妃から夫婦として認められたとはいえ、それだけで本当にアルセンで夫婦として一緒にいる事は出来なかった。
互いの姓はどうするか、住む場所はどうするか、いつか子供が出来た時どうすればいいのか。これまで私生活でも仕事中でも出来ていたどんな無茶も、互いが独身だからこそ可能な事だった。
アルギンは、彼の私生活を殆ど知らない。
彼は、アルギンの殆どの時間を見ていない。
世にある普通の立場ではない二人は、互いに『初めて』尽くしの出来事に、何をどうしたものか解らずにいた。
異性に対する好意を抱いた(片方は「解らぬ」と言い張るが)のも、異性と共に歩んでいくという『約束』を交わすのも、そしてそれを暮らす国に認めて貰う手段に手を付けるのも。
二人も、互いに婚姻を結ぼうとしている者を近くで見た事はある。自隊の者であったり、それ以外の城仕えの者だったり、私生活で関わった事のある者だったり。
だからアルギンは驚いた。
ソルビットが「必要な書類持って来たっすよー」と言いながら持って来た書類が三十枚を超していた事に。
『花』と『月』の隊長・副隊長が三人集まった。場所は『月』隊長執務室。内装は黒と白が多めだが、花が活けられていて完全なモノクロの世界ではない。木造りの内装は濃淡それぞれの茶色で、圧迫感は部屋の主が放つ威圧感程はなかった。来客用のソファに三人が座り、書類と対峙している。
アルギンは手にペンを握ったままぷるぷる震えていた。いつまでもそのままだとペン先のインクが書類に落ちてしまいそうだ。
「……結婚って、……大変なんだな……」
「まぁ仕方ないっすね。自由国家って言っててもここだけは不自由っす」
ソルビットが持って来た書類は、およそ三分の一が記入不要な提出のみの書類だった。結婚する二人が別々に記入する形の婚姻届だけで五枚は用意されている。これは書き損じ対策だろう。それからお互いの出生証明書、独身証明書、結婚許可証、居住証明書、その他色々。戦災孤児や捨て子、或いは他国からアルセンに移り住んだ等々の理由で出生証明書が無い場合は別途手続きが必要で、これまた別の書類作成の為待たされる事がある。アルギンも彼も、戦災孤児ではあったのだが書類は揃っていたので三人は安堵の溜息を吐いた。
「騎士副隊長権限で取ってきたあたしに感謝して欲しいモンっすねー」
仕事をやり切った感のあるソルビットが胸を張る。アルギンのそれと比べると豊かな物を持つソルビットに、アルギンが感服の溜息を吐く。
「……まぁ、そりゃとっても有難いよ。アタシだったら手続き解らなくてオロオロしてたかもな。……でもコレってさ、取得申請の時、生年月日とか色々必要だったろ」
「あたしを何だと思ってるんです? あなた専用の諜報員っすよ。故意に隠されてない限り、生年月日の取得とかお手の物っす」
「………はいはい、そーでした」
身近で一番敵に回してはいけない人物だ。アルギンは自信満々のソルビットの微笑みに空恐ろしいものを感じた。それは彼も同様らしく、アルギンと彼は互いに目を合わせて視線で会話をしている。
ソルビットは今国境で警護任務にあたっている『月』副隊長であるフュンフ・ツェーンの妹。しかしその二人の年齢が一回り以上離れているのは、彼にのみ姓を与えられているのと関係している。その話は置いておくこととして。
これから二人が暮らす住居は、アルギンの居住証明書に記載がある酒場で良いという事に決まっていた。このことは同じ酒場に住んでいるアルカネットにも話を通してある。書ける部分はすらすら書けているものの。
「……両親の名前って……ここ、空欄で良いかな」
アルギンは自分の婚姻届の一部分からペン先が動かない。
「書けるなら書いた方がいいっすけど……ああ」
ソルビットがアルギンの出生届を手にする。そこにはアルギンの両親の名が記載されていた。しかし、アルギンはそれを見ようともしなかった。
アルギンには戦災孤児になる以前の記憶が抜け落ちていた。それは喪失の痛みから逃げようとした自己防衛。住んでいた場所も、愛してくれただろう親も、その全てを忘れようとすることで耐えたのだ。最初は忘れた振りだったかも知れない。けれど今は、本当に思い出せなくなっている。
今更忘れたものを思い出したくは無かった。思い出してしまえば、自分の中で何かが変わってしまう気がして。
「……いいでしょ、多分。こっちに名前は記載されてるっす。何なら何か言われたらあたしが後から書いてもいいっすけど」
「その時は……お願いしようかな」
ソルビットはアルギンの困惑に気付いている。気付いていて、助け舟を出す。アルギンは素直に甘えようとしたが、それを遮る者がいた。
「我が書こう」
それは『月』隊長だった。
驚いたアルギンは目を丸くする。まさか彼が話に入って来るとは思わなかったのだ。
「……ああ! それが良いっすね!」
そしてソルビットは、その役目をあっさりと彼に譲り渡す。それにもまた驚いて、彼とソルビットの顔を交互に見る。するとソルビットはその挙動不審に気付いた様子で、呆れたような顔をした。
「手の掛かる奥さんの面倒を旦那さんが見てくれるっていうんです、お願いするでしょ」
「―――だん、」
アルギンの顔が真っ赤に染まる。まだ慣れないその状況に思考が止まりかけるが、これがこの先ずっと続くと考え直して踏み止まった。未来への第一歩が、目の前の書類。
「……そ、そそそそうだな。旦那さま……ああ、本当に結婚するんだなぁ」
「今更っすよ」
彼が手を伸ばし、ソルビットの手の中にあった書類を取る。何も言わず彼は書類に目を通し、その目はとある場所で止まる。
「……二十九」
「……へっ?」
彼の口から出て来た数字が、最初何のことか解らなかった。しかしその書類が出生届だという事で、答えが解る。
アルギンの現年齢だ。
「年上か」
妻になる者のの正確な年齢を今知ったようだ。年齢どころか何もかもに頓着していない筈の彼の呟いた言葉に、顔が赤くなったり青くなったり忙しい。
「……そうだよ」
彼が年下なのは知っていた。昔戦場で初めて会った時から、何となく気付いていた。その声は今よりもまだ少しだけ少年の気配を残していた。あれから、もう十年程経つ。あの出会いを覚えているのは、自分だけなのだろうか。
悔しくなって彼の出生届を手に取る。そこには、彼について知らない事が山ほど書かれていた。
誕生日。
親の名前。
生まれた場所。
その他にも書かれた事があるが、アルギンの視線は誕生日に釘付けになっている。
「―――アルギン?」
いつまで経っても同じ場所を見ている妻(予定)が心配になったのか、彼が名を呼ぶ。するとアルギンはそっと視線を上げ、彼の方を見た。やや上目遣い、照れの見える頬は赤い。
「……誕生日……、知らなかった」
「誕生日?」
「先月じゃん。もう過ぎてる」
その言葉に、ソルビットが呆れた顔をした。この顔を素でやっているのだから、この女はどうしようもない。
もしかすると自分より先にソルビットが彼の誕生日を知っていた事に、不満を感じているのかもしれない。
「誕生日知ってその顔とか……、たいちょ、あんた何歳っすか」
「う、うるさいな!! アタシはお前さんみたいな特技は無いんだよ!」
やはり不満を抱いていた。解りやすい上司を持ったソルビットに『月』隊長からやや感情の薄い憐れみの視線が投げられる。
彼は誕生日、という言葉に反応はあまりせず、アルギンに目を細めた。
「我も、汝の誕生日は今知った」
「……なんか悔しい。誕生日、祝ってない」
「誕生日など、これまで祝われたことが無い。気にするな、ただ一つ年を取るだけの日だ」
あっさりした言葉で話を切る彼の目は、もう書類に戻っている。丁寧に書きつけられた彼の書類は、二人の結婚の為のもの。彼は嫌がることなくそれらにペン先を走らせている、その事実がアルギンにはとても嬉しくて。
「……これからアタシ、貴方の誕生日を祝っても良い?」
「構わぬが」
「約束だよ」
アルギンも彼の出生届を手から下ろし、再びペン先を走らせる。彼の誕生日を知れた事だけでも、今日の書類書きに気合が入るようなものだ。
ソルビットはそんな二人の補佐をしながら、時々呼び出しに答えながら、三人は書類作成を進めていく。
夕暮れの時間までに、それらは終わる。
その日はもう書類受付が終わっていたので、また後日書類を出しに行くことを話し合って決めた。




