リップ
唇がかさついてきた、夏のある日。僕はしみじみ思う。
僕はこの季節が好き。そして唇が乾いているときも。
放課後の校舎の廊下で一人で佇んでいた。壁に寄りかかって静かに息をして、あの子を待っていた。あの子が来ることを願って、僕はポケットからリップを取り出す。
リップの柔らかい感触が唇に伝わるのと同時に、フルーツのような香りがかすかに鼻腔をくすぐる。その香りの発信源が自分の唇からだと分かって更に嬉しくなる。ほっぺがユルユル緩んで情けない。
青のファンシーなリップは男が持つにしては可愛すぎるけど、何言われても僕は絶対手放す気は無い。このリップはあの子から貰ったから。
一ヶ月前の部活の時、あの子に言われた。唇かさついてて痛そうだね、これあげようか? 僕は緊張して小さい声でありがとうを言って、新品のこのリップを受け取ることしかできなかった。胸が苦しくなるのも、あの時初めて覚えた。
リップの甘さみたいに、あの柔らかい胸の苦しみが忘れられなくてほぼ毎日ここに居る。
苦しみはここに居ることでどんどんプラスされていく。でも、来てくれなくてもやめることはできない。部活を引退してからあの子と会うのは難しくなっていった。笑っているあの子を視界の端で捕らえて、ほっぺが赤くなってもそれでも興味の無いフリをしてきた。
告白なんて、できるわけなかった。ここでもし会えたとしても声をかけることだってできないと思う。ただ自分はここに居るよって、あの子に伝えたくて、あの子から声かけてくれたらいいななんて、とんだラッキーを待っているんだ。
色々な物で脳みそを煮詰めすぎたみたいで、胸が苦しくなっているのに気づく。息をするのも難しくて、過呼吸のように酸素を吸えなくなっていく。
なんか、喉がヘン・・・・・・。これって胃液かな? すっぱいような、あれ、なんか、苦い・・・・・・?
大きく咳き込むと、広い廊下に虚しく木霊していく。必死にリップのキャップを開けて唇につける。リップのほんの少しの甘さが胸の苦しみを癒した。
あぁ、僕きっとリップ中毒だな・・・とぼけ〜っとしながら思う。そして今僕の唇はテカテカのプルンプルンだな。それはちょっと恥ずかしいからシャツの袖でテカテカを落とした。
来るよ多分。部活終わったって顔ぐらい出すだろうし、絶対にここを通るはず、たぶん。僕だってそうしてるんだから、あの子は絶対にする。窓の向こう、部活の男子部室がある北校舎の屋上を睨む。大丈夫、大丈夫。
今までのように言い聞かせて、僕はただ待った。
夕日は絶対に来ないと決め付けて、空や全部を焼きつくした。
僕は床に置いていた鞄を持ち上げる。リップを何度もやったように大事にポケットにしまい込む。それでも何度もやったように心配でポケットに入れたままリップを握る。
何度も辺りを見回す。廊下は焼け爛れて寂しい。
向かいの北校舎にももう誰も残っていないみたいだった。
もういいって思いながらも、たぶんまたこんなバカなことをするんだろうな。思いながら、ゆっくり歩き出す。北校舎も一緒に流れ出す。と、ふいに、足が止まる。
いつもの視界の端にあの子が映ったからだ。窓に飛び掛る勢いでへばりつく。あの子は確かにいた。北校舎の廊下に一人で佇んで、まるでさっきの僕みたいだ。リップを唇に塗って、不安そうな顔をして。
窓ガラスをドアをノックするように軽く叩く。放心状態の僕は、何をやっているんだろう。こんなに笑って、なにやってんだ。
向かいのあの子と目が合った。一ヶ月ぶりに。
また、胸が苦しくなる。ポケットのリップをギュッと強く握り締めた。
あの子はビックリした目をして放心状態みたいだ。フラフラと窓に歩み寄って来る。
向かい合った窓と窓についた手と手。それは互いに求め合うように、伸ばそうとする。できなくても、何度もそうする。
何やってんだろね。 あの子は照れたように笑った。
綺麗に透けるリップをつけた唇が優しく伸びた。
僕も口ぱくで返す。絶対に伝わらないし、伝えられもしない言葉。数秒後、彼女のキョトンとした顔が浮かんでくる。それは、わかってる。でも言いたい。
ずっと、好きだったんだ。