ズボン。(中)
中編。
委員会室のドアをノックして開ける。
よかったのかどうかはわからないけど、委員会室に住み着いているあのすばしっこい白猫はいなかった。今日は見かけなかったが、やっぱり日のあるうちは外にでて散歩なり日向ぼっこなりをしているみたいだ。蒼空は犬より猫派の猫アレルギー持ちで、猫のいる部屋では、くしゃみがでたり、目がかゆくなったりするらしい。
中では委員会の最高責任者である綿津見先輩が四つしかない椅子の一つを占領していて、彼はわたしを見て開口一番、こう言った。
「玉依くんに男装の趣味があったとは。人は見かけによらないね」
ニヤリとして。少し頭にきた。
――わたしを見て、と言ったけれど、正確には、わたしではなく、わたしが抱えているズボンを見て言ったのだ。
この高校の男子生徒用のズボン。拾った場所が拾った場所だったので、少し濡れている。
綿津見先輩に男装趣味の疑いをかけられたので、いちおう否定しておかなくてはならない。
「もちろん違います。拾ったんです」
「拾ったの? ズボンを? 男子生徒から剥いだんじゃなくて?」
何を物騒なことを言う。
「わたしにはそんな趣味ありません」
「本当に拾ったんですよ……くしゅんっ」
どうやら猫がいなくても体が反応するらしい。でも、これは先輩の冗談だからフォローはしなくて大丈夫だよ。
「豊多くんもこんにちは」
「……こんにちは」
綿津見先輩は蒼空の手の中にあるタバコの箱を見て、眉を寄せる。
「それも……オトシモノだね。僕が預かるよ」
そう言い、先輩はタバコを受け取った。そしてそれをこの部屋に一つだけある戸棚の上に置く。動作の終わりのタイミングを見計らって、わたしは切り出した。
「綿津見先輩、タバコはひとまずいいんです。どうせ誰か先生か不良が落としただけなんですから。訊きたいことがあるんですよ」
先輩は、わたしの手にある制服に視線を合わせる。
「そのズボンのことかい?」
「そうです。だっておかしいじゃないですか。誰かに脱がされたのではなかったら、普通落としたりはしませんって」
「だけどね、玉依くん。そんなこと、それの持ち主が来たらわかることだよ」
口をつぐむ。言う通りだった。
制服を落としたのなら、当然、落とし主が探しにくる。その人に詳しい話を伺えばいいのだ。
しかし先輩の言葉には続きがあった。
「と、言いたいところなんだけど、その落とし主がこの遺失物管理委員会を知らない可能性だってある。明日、ホームルームで伝えてくれるように先生方に頼むことになるだろうけど、本人は今困っているだろうからね。今もズボンを見つけるために校内をさまよっているのかもしれない。もしそうだったら可哀想だ」
先輩は初めに座っていた椅子に腰掛けた。
「このズボンの持ち主をこちらから探してあげよう。遺失物管理委員会の評価を上げておきたいし。でも、そのためには、なぜこれが落ちていたのかを知りたい。――さて、それじゃあ、どうやって玉依くんが男子生徒に気づかれず、ズボンを脱がしたのかを聞こうか」
オトシモノについて調べてくれようとしているのは嬉しい。
それはいい。
だけど、この人は今日の間、ずっとそうやってわたしをからかう気らしい。悪趣味である。
先輩が席に座るよう促すので肩にかけた鞄を質素な机の上に下ろし、椅子に座る。
二回目の来訪で緊張度が少し和らいできたからか、蒼空は好奇の目で周りを見渡している。興味深い物なんてない部屋なんだけど。しばらく視線を彷徨わせたあと、蒼空の目は戸棚で止まった。タバコが乗っているやつだ。
蒼空は口を半開きにしてじっと見ている。ちょっと間抜けっぽい。いや、もしかすると、これはこれで需要があるのかもしれない。
「…………」
気になったの? そんなものが気になったの? そんな変哲もないシンプルな戸棚が気になったの?
「……綿津見先輩」
蒼空が先輩の名前を呼んだ。
「あの中には、何が入っているんですか?」
気になったんだ……。
「オトシモノを保管している戸棚。もし先日のスルメイカも落とし主が分からなければ、あの中に入れられていただろうね」
「食べ物を入れようとしないでください」
戸棚といっても、オトシモノを保管しているため、鍵つきの戸棚だ。この戸棚の鍵も委員会室の鍵同様、先輩が持っている。まあ、スペアは職員室にあるから、委員会室の鍵と同様に困るということはないんだけれど。
見るかい、と言って、先生は鍵を取り出して、戸棚のロックを外し、観音開きの戸を開いた。
蒼空は中を覗きながら、あくまで控えめに、
「……すみません。ガラクタにしか見えません」
正直でよろしい。この戸棚の中には、過去数年分の、色々な色をした色々な物がパズルのように器用に詰め込まれている。わたしも最初見たときはなんだこのガラクタの山は、と感じた。
見たことがあるといっても、中にあるものに触れたことはない。汚いと感じたし、一つ抜けば、ぎりぎりの均衡が崩れて他のガラクタが雪崩のように流れ出してくるかもしれないから。
しかし杞憂だったらしい。綿津見先輩は、ガラクタの山から何かを難なく引っ張り出した。ジェンガを思い出した。
先輩の手にあるのは、三〇センチ程度の円柱をした青色の棒。
「何ですか、それ」
「何だと思う?」
訊き返してきた。少し頭にきた。
「……リレーとかに使うバトン?」
「本当にそうかな?」
どういう意味ですか、とわたしが質問する前に、綿津見先輩はそのバトンもどきをわたしに投げてきた。そしてわたしがそれを華麗にキャッチして――、びちゃっ、と。わたしは何か冷たいものがふりかかったのを皮膚で感じた。
「……何これ?」
水だった。
「どうして、水が?」
「だ、大丈夫? 葵さん!」
わたしが何がおこったのかを理解しようとしているとき、綿津見先輩は、彼にしては珍しく大きく笑った。
「ハハハ。かかったね、玉依くん。それはね、中に水が仕掛けられているバトン型の悪戯道具。下手にバトンを握るとボタンが押されて、バトンの先から水から噴出されるんだ。僕も最初にこれを拾ったときは水にかかりそうになった」
誰だ、こんなものを校内で落としたアホは。しかも時を越えてわたしにトラップが発動するとは。水は思ったより量があり、頭から濡れてしまった。
「びしょびしょじゃないですか。どうしてくれるんですか」
「大丈夫、水も滴るいい男とはまさにこのことだ」
「わたし、男じゃないですし、フォローになっていません」
しかし先輩は懲りずに、
「それなら、びしょびしょの美少女かな」
「つまらない駄洒落はいいですし、そんなのでわたしが許すと思ったら大間違いです。先輩は大人だと思っていたけど、うちの男子と変わりませんね、ホント」
「何かやったのかい、その男子」
「…………」
「どうしたの、怖い目なんかして」
もしかすると先輩は話を変えて、責任を逃れようとしているのかもしれない。
「別に。六限目、男子数人が体育の後の授業なのに着替えもせずに授業中にぎゃあぎゃあと大声で騒いでいたってことだけですよ。もう放課後になるんだから着替えなくていいだろって考えなんですかね。先生も若い先生で、甘いんですよ。おかげで授業に全然集中できませんでした」
「それは元気で何よりだ」
さっきの言葉が全然先輩に応えてなかったので、矛先を変えて男子を愚痴ることによって気分を解消しようとしてみた。少しすっきりした。
「しかしどうしよう。びしょ濡れだよ……」
隣にいたのにも関わらず、全く濡れていない蒼空が言う。
「タオルないの? 今日五限目が体育だったし……」
「あっ」
確かにそうだ。わたしは自分の鞄の中からタオルを取り出したが、あることに気づいた。
「あーダメだ。もう濡れてた」
「ん。どうしてだい? もしかしてトイレの個室に閉じ込められて上からバケツの水をかけられて美少女がびしょびしょになってしまって、そのときに拭いたとか?」
よくそんな長い台詞がすらすらと。だからそのニヤニヤした顔をやめてください。
「それ、完全にわたしいじめられていますよね。というか今更そんないじめかたする人いません。それとさりげなくさっきと同じ駄洒落を使うのをやめてください」
「二度ウケは狙わないべきか。勉強になったよ」
「二度ウケも何も、一度目も受けていませんから。……タオルが濡れていたのは、今日の五限目、外で体育をしていたんですけれど、その最中に通り雨があって。それでびしょびしょになったときに使ったんです。すごい大雨でしたけど、知ってますでしょう?」
タバコの箱が濡れていたのはその雨のせいだろう。憩いの広場で拾った制服に泥がついていたのも、それが原因だ。
「そういえばあったねえ」
そして再び思い出したことが。わたしは精一杯、愚痴る。
「そのときにまた男子ときたら、体操服を忘れたとかいう理由で見学していた馬鹿一人が『恵みの雨だーっ』とか言って雨に自分から浴びにいってたんですよ。放っておけばいいのに、先生は先生でその馬鹿の襟首つかんで屋根のあるところまで引っ張ってきたんですけど。今は晴れてますけど、むしろ通り雨だったおかげで雨の勢いが強かったみたいで、二人共髪がしっとりするほど濡れていました」
「愚痴だけは立て板に水を流すように出てくるんだね」
それから先輩は自分のポケットからハンカチを取り出してわたしに投げた。
「拭きなさい。僕なりの優しさだ」
「恩着せがましいどころじゃないですね」
受け取るけれど。
頭を拭く。この水は、長年バトンの中に入れられていたままだったのだろう、かすかに臭い。
先輩が今更、心無い謝罪をする。
「ごめんごめん。思ったより量があったみたいで。うん。これは封印しておくよ」
綿津見先輩はバトンをガラクタの山に戻し、戸を閉め、鍵をかけた。
なぜか落ちていた男子用ズボンの存在など完全に忘れたか、それともどうでもいいのか、蒼空が続けてその戸棚の横にある四角くて黒い物について聞く。
「……あの金庫みたいなのは何ですか?」
「金庫だ。あれはね、遺失物の中でも高価なもの――財布とか腕時計とかを入れている保管庫だよ」
ちなみに鍵とパスワードの二重ロック。この金庫の中にあるのは本当に高価なものらしく、鍵のほうは職員室で厳重に管理している。それならこの金庫を厳重に管理すればいいじゃないか、というのはタブーだ。遺失物管理委員会の仕事がさらに減ってしまう。
再び先輩は、見るかい、と言って、なぜか職員室で厳重に保管されているはずの金庫の鍵を取り出し、ダイヤルを回した後、金庫を開けた。
思わず大声が出た。
「先輩! どうして鍵なんか持っているんですか!」
綿津見先輩はきょとんとしている。
「実はスペアがあってね。ほら、なんたって僕、遺失物管理委員会の最高責任者だから。でもいつも持ち歩いているわけではないよ。今日はたまたまだ」
蒼空が金庫の中を見て感想をもらす。
「……わあ。それなりの量があるんだ。しっかりと整理もしてありますし」
「そうだね。中のお金とかもそのままだし、どうして取りにこないのかが不思議だよ」
まあ、そんなに面白いものじゃないし、と先輩は金庫を閉め、鍵をかける。そしてそのまま、トラップ付きバトンと同じようにわたしに鍵を投げた。二回目はさすがに体が反応してくる。
「よっと」
「どうして避けるの。普通の鍵だよ」
確かにそうだ。机に乗った鍵に手を伸ばす――だけど、取ろうとする前に、先輩が言った。
「あ、やっぱりそこに置いておいて。本当は職員室まで返してもらおうと思っていたんだけど、僕がやっておくからいいよ。水をかけてしまった玉依くんへのせめてものお詫びだ」
そんなので罪滅ぼしになりますかっ。
そして先輩は今頃思い出したように言う。
「そうそう。忘れていたね。玉依くんの見かけによらない男装ズボンの話だ」
「……あ、そうでした。……くしゅんっ」
わたしは一度も忘れてない。それとわたしの男装ズボンではない。
「じゃあ、聞こうか。そのズボンについて」
綿津見先輩、蒼空、わたしの三人がもう一度席についたところで、わたしが話し始める。
「まずですね、最初から話し始めます」
「どうぞ」
「最近、というか、この間のスルメイカの一件から、わたしと蒼空は一緒に帰るようになったんです。今日も、同じように蒼空と一緒に帰ろうとしてたんですけど、見つけてしまったんです。その制服のズボンを」
「……放課後、三階のわたしたちの教室の窓から。地面に落ちているのを、葵さんが見つけて」
「窓からそれが見えたから、蒼空に付き合ってもらって、それを取りに行ったんです。落ちているものに気をつけるのは遺失物管理委員会として当然ですし」
少し胸を張ってみる。
「……ズボンのところまで行くのに、校舎の形の関係上、ぐるっと回って行くんだけど、その通り道に見つけたんです、あのタバコ」
蒼空がオトシモノが放り込まれている棚の上にある新品同然のタバコを指差す。どうでもいいことなんだけどね、と心の中で苦笑いをする。だけど、先輩はそっちのほうにつられたみたいで、蒼空に質問してきた。
「豊多くん。あのタバコって、どこに落ちていたんだい?」
「あ、えっと……。校門の近くの、……近く」
それじゃあ、あまり伝わらないよ、と苦笑し、説明を付け加える。
「正確には、校門の近くの来客用や教職員用の駐車場がある場所のすぐ近くです」
ああそこね、と先輩が呟く。
「というか、そんなのどうでもいいじゃないですか。何度ズボンの話からそれたら気が済むんですか」
「まあまあ。そんなにカッカしない。話を戻そう」
先輩が両手を前に出して、わたしを沈めるようにする。別にカッカはしてない。綿津見先輩程じゃないけれど、わたしも滅多なことでは怒らない。
「タバコも一緒に持って行くことに決めて、その後、ズボンを拾いに行きました。最初見つけたときは何かズボンっぽい黒い物としか思わなかったんですけど、近くまで行くと、やっぱり男子の制服のズボンでした」
ここまで話したあと、先輩のほうを向いていた蒼空がわたしをちらっと一瞥したあと、先輩のほうを見て言った。
「……葵さんが拾おうとしないから、わたしが拾って。そしたら、手が泥だらけになって。どうやら地面に落ちたときに汚れたみたいで。……濡れてもいましたし」
「い、いや別に蒼空に嫌な仕事をさせようとしたわけじゃないんですよ。ただ、ちょっと泥がついてて汚いな、と拾うのを戸惑っただけで。後でわたしが持ちましたし」
わたしは必死に言い訳をする。そんなわたしを見て、蒼空は慌てて両手を振る。
「あ、別に葵さんを傷つけようとして、言ったわけじゃなくて…………ごめんなさい」
そしてそのまま勢いよく頭を下げた。わたしは隣に座っているのだから、頭がすごく近くにある。
綿津見先輩が呆れているらしい。
「玉依くんなんかには別に頭を下げなくていいよ。それより早く話を続けようよ」
前半は聞き捨てなりませんが、後半は同感です。
「でも、もう話すことないですよ。あとはズボンに名前とか特徴がなくて、持ち主もわからなかったから、この委員会室に向かっただけです」
「そうか。これで終わりか……。うーむ」
と唸り始めた。やっぱり今出ている情報だけではあの綿津見先輩でも真相を見抜くことはできないか。委員会室を出て情報を集めるしかないのかな。
そんなことを思っていたのたが、やがて先輩は唸るのをやめて、ズボンを手に取り、ためつすがめつする。これは、あれだ。いつものやつだ。たった今の会話だけでわかったのだろうか。
蒼空が普段から小さい声をさらに抑えてわたしに尋ねた。
「……前は何も聞かなかったんだけど……、これ、何なの?」
わたしは自分のことではないのに、なぜか自慢げに答えた。
「名探偵綿津見先輩のシンキングタイム。腕組をして、オトシモノを見つめる。こうなると、百発百中で真相を見つけるんだ。まあ、見つめるって言っても多分焦点は合ってないんだけど。ああなると、考えがまとまるまで、もう何言っても反応しないよ」
「そうなんだ」
「この間なんか、目のすぐ前で猫だまししたのに、瞬き一つなし」
「へえ」
「先輩の悪口を言っても無反応」
「やめたげようよ……」
やがて話すこともなく、委員会室は静かになる。あとはもう、綿津見先輩の答えを待つだけだ。わたしたちも先輩が集中できるように黙って物音を立てないようにする。聞こえてくるのは外からの運動系クラブの掛け声や廊下を過ぎる人の足音のみ。
数十秒後。
やがて先輩はズボンを机に置いた。そして、おもむろに席を立った。
「じゃあ、今からちょっと外に行こうか」
「外ですか?」
何をしに行くんだろう。
「うん。現場に。憩いの広場にね」
先輩はドアまで進んだところで、わたしたちを振り返った。
「あ、カバンも持っていくといい。もうここには用事がないと思うからね。終わったあと、そのまま帰れるから。全部わかったし」
わたしたちは頷き、そうすることにした。
なぜズボンが落ちていたのか。先輩にはそれがわかったらしいけど。
続きます。