スルメイカ。(後)
後編。
しばらく後。おもむろに先輩はタッパーを机の上にコトリと置いた。わたしはその直前に、先輩の目つきが少し強くなったのを確かに見た。
「どうして、タッパーにスルメイカが入っていたのか」
「そうです」
相槌を打つ。
「それが、一番の謎であります」
「その答え、それは――君が知っているね」
綿津見先輩の目の先には、豊多さん。わたしは思わず言ってしまう。
「どうして、豊多さんが知っているんですか? それに、その言い方だとまるで……」
まるで、何かいけないことをした犯人だ。そういうのとは、全く無関係なのに。
先輩がわたしの言葉の先を引き継ぐ。
「――その言い方だとまるで、悪いことをした犯人扱いだね。でも、まずは聞いてみようよ。豊多蒼空くん。どうかな、君は何か、知っているんじゃないのかな」
「そ、それは」
先輩は眼鏡の奥から、豊多さんをじっと見据えている。というより、睨んでいる。豊多さんは威圧するような視線に堅くなって口ごもる。
「わたし、何も知りません……」
豊多さんは絞り出すように答えた。右手が、目元で動く。泣いているの? 先輩と目を合わせないようにうつむいているので、わたしから顔は見えないけど、そんな様子ではなさそうだ。次第に、小動物めいた彼女がとても弱々しく見えてきた。
ヘビに見込まれたカエルならぬ、ヘビに見込まれたリス。
今回ばかりは豊多さんを擁護したい。
「綿津見先輩。豊多さんは何も知らないと言っているじゃありませんか」
「そうかい。でも、隠し事はいけないと思うけど」
「…………」
豊多さんは首が折れたように頭を下に向けたまま。教室に響くのは、猫が体をかく音だけ。
彼女に話す意思がないと見切りをつけたのか、勝手に話すよ、と先輩が言った。
「このスルメイカ、豊多さんの物だね。豊多さんは、僕たちには散歩と嘘をついたが、学校の隅に来た本当の目的は、スルメイカを猫にあげるためじゃないの」
豊多さんは僅かに顔を上げた。
「見ていたんですか……」
先輩はかぶりを振った。
「いいや、見ていない。でも、わかる。君の言ったことを素直に信じられなかったからね。散歩というのはいささか信じにくい。たまにしか使われない通用門以外何もない学校の端に何の用があったのかがわからない。猫の尻を中腰で追っていたら、いつの間にかそんな場所に来ていた、という理由ならまだ許してあげるけど」
猫の尻を中腰で、って――。
「見ていたんですか!」
「なにをだい?」
先輩はとぼける。
いくらなんでも『中腰で』というのが推理でわかりますか!
「よくわからないけど、話を戻すよ。君は、そこ、学校の端に置いてあったタッパーの中にスルメイカを入れた――」
「ちょ、ちょっと待ってください」
また口を挟んでしまった。
「そこに置いてあったってどういう意味ですか? それじゃあ、タッパーは誰の物なんですか?」
「僕の物だよ、タッパーは。さっき言っただろう、猫のご飯も面倒見てあげているって。僕はタッパーにご飯を入れて、あそこ、滅多に人が来ない場所に置いていたんだ。この猫、あの場所がお気に入りみたいだしね」
この教室の中にあるのは最低限必要な物と猫が転がっているマットだけ。そういえば、餌を入れる容器らしいものはどこにもない。
「豊多くんは、僕がタッパーにご飯を入れて、白猫に食べ物を上げていたって知っていたんだろう。――そして君は、その猫に好かれたいがために、スルメイカをタッパーに入れて、猫を待ったんだ。動物はよく何かしてくれる人になつくし、人の優しさに気づくこともできる。……そうだね?」
豊多さんは驚きの表情をして、じっと先輩を見ている。念を押すように先輩がもう一度、言う。
「そうだね、豊多くん」
数秒後、やっと豊多さんは口を開いた。
「……はい」
先輩は豊多さんの言葉に満足したのだろう、うん、と頷くと言った。
「でもね、猫にスルメイカはダメだ。消化に悪いからね」
「はい。すみませんでした」
豊多さんはまたうつむきがちに――いや、この場合は、頭を下げたのかな――頭を垂れて謝った。それを聞き、先輩は言う。
「わかればよろしい」
結局、そのオトシモノは綿津見先輩が処分することになり、豊多さんは帰ることになった。豊多さんは委員会室を退出するときに、遠慮するような聞き取りづらい言葉で訊ねた。
「……また、ここに来ていいですか?」
断る理由など、何もない。遺失物管理委員会最高責任者の返事は、気軽においで、だった。
ドアがゆっくりと閉まり、委員会室には、わたしと綿津見先輩が残った。あと猫も。
「――さてと」
先輩は椅子に深く腰を落ち着けてから、口を開いた。
「少し話してもいいかな。やっぱり、誰にも話さなかったら落ち着かない」
「何の話ですか?」
「スルメイカの続きだよ。真実はあれだけではない」
再び驚いた。
「まだあったんですかっ? 真実ってどういうことですか?」
「玉依くんはさあ。気づいていたかい? 僕の話で」
「何をです?」
さっきの会話に思案を巡らすが、思い当たる節はない。
「どうして豊多くんは、自分がスルメイカの持ち主だと隠そうとしたのか、説明がつくかい?」
「それは……、やっぱり動物に餌をあげてはいけないと思ったからではないでしょうか……あっ」
言ってから気づいた。
「いや、そこまで頑なに口を拒む必要はなかったはずだ。自分が勝手に猫にご飯を与えた。あげる食べ物を豊多くんは間違っていたけど、何もあそこまで頑なに黙る必要はなかった。学校では猫のことに関しては完全に放置だし、食べ物をあげてはいけないなんて規則やルールはない。謝れば許してもらえるはずだ」
先輩の話をまとめると、つまり。
「ということは、豊多さんは何か別の目的があって、猫に餌をあげようとしたんですか」
「去年、いくつか謎に出会ったおかげで、理解が早いね。僕はこう考える。――彼女の真の目的は、スルメイカをあげて、ここを縄張りにする猫を懲らしめるつもりだってことを。悪気がないのに、わざわざスルメイカを選ぶわけがない。もっとあげやすい食べ物を選べばいいのだから」
「そ、それじゃあ!」
思わず大声を出してしまった。わたしは自分の声を下げて続きを口にする。
「それじゃあ、動機はなんですか? もしストレス発散のための動物虐待なんて言ったら、そんな根拠のないことを言ったら、わたし、怒りますよっ!」
抑えているつもりが最後のほうになってくるほど、だんだんと言葉に熱を帯びてきた。頭にきたのだ。わたしたちは、豊多さんのことをほとんど何も知らないのに、彼女のことを勝手にこんな人だ、と決めつけようとしたのだから。
「そんな動機じゃない。勝手な憶測を言っているのは君だ」
先輩はわたしとは対照的に、落ち着いている。
「彼女は猫アレルギーなんじゃないだろうか」
「えっ?」
猫アレルギー?
「くしゃみをしていたし、目をこすったりもしていた。目の方に手をやっていただろう? 典型的な猫アレルギーの症状の一例だ。猫が寝起きしているこの部屋だから、フケや毛やらがたくさん舞っているはずだし。換気もしていないから」
言われてみれば確かにそうだった。心当たりがあった。一番初めに彼女に会ったとき。全てというわけではなくとも、いくつか、豊多さんは猫を避けようとして後退していたんじゃないか。無意識のうちでも。ここに来たときも、猫を肩に乗せた先輩を避けるようにしていたし。
「豊多くんは、猫アレルギーであるがゆえに、猫を嫌っていた。程度は予想するしかないからどれほど嫌っていたのかはわからないが、とにかく嫌っていた。そして猫を懲らしめる方法を思いついた。それが――」
「違いますよっ!」
冷静でいようとしたのだけど、わたしの喉からは、さっきよりも大きな声が飛び出していた。
「違います。猫アレルギーであるがゆえに猫を嫌っていたなんて、そんなの猫アレルギーを持っている人に対する偏見です。猫アレルギーでも、猫や動物が好きな人なんていくらでもいますよ」
先輩は普段しないような驚いた表情を浮かべた。
「大声を出して、すみません。でも、違います。わたしはそう思います」
「その根拠は? こっちにはちゃんとあるよ」
根拠。そんなの……。
「わたしは、豊多蒼空さんを信じていますから」
新学期の始め、ハンカチを渡してくれた彼女が脳裏をよぎる。珍しいくらいに内気な豊多さんだけど、わざわざ体を張ってわたしを引き止めてハンカチを手渡してくれたほど、優しい。わたしだったら――知らない人にそこまでできるだろうか?
「ほとんど何も知らないですけれど、少なくとも、新学期が入ってからの数週間、わたしは先輩より長く豊多さんと一緒にいます」
先輩は呆れたのか、腕組をしてじっとしている。
間を置いて、
「信じている、か。そうだね。僕も玉依くんと同じように彼女を信じよう。……僕の推理が間違っていた。それに僕の推理のミスを見つけてしまったし」
「ミス?」
「そう。だって豊多くん、ここを出るとき、言っただろう。『……またここに来ていいですか?』と」
「ああっ」
そうだ。その台詞は、猫が嫌いじゃない人の台詞。猫が嫌いな人はそんなことは言わないはず。わざわざ自分から、猫がいる部屋に来ることの許可を得るなんて無駄なこと、するはずがない。猫アレルギーを持っているのなら、なおさらだ。
「豊多さんには、一本取られたなあ。まさか僕の推理が間違っていたとは」
先輩はそう言って頭をかく。
「では、どうして豊多さんはスルメイカを選んだのでしょうか?」
「……そうだねえ。世の中には『偶然』も有り得るから」
「綿津見先輩って、探偵役にしては、ぽくないですよね」
「はは。そうかい?」
そのとき、廊下からくしゅんと、控えめなくしゃみが聞こえたような気がした。
あ、そうそう話は変わるけど、と綿津見先輩が今、思い出したようにこっちを見た。そして、明日の天気について話すような軽い口調で、
「この遺失物管理委員会ね、今月中に学校に利益があることを証明しなければ、潰れるんだって」
「はい?」
今、ここが潰れるって聞こえたのだけど……、気のせいだよね。
「だから、遺失物管理委員会が、今月のうちに、学校側が認めるぐらいに、本校に貢献しなければ、潰れるの」
いちいち切ってくれたから、聞き取りやすかった。
「あーなるほど……」
今度こそ聞き間違いはない。わたしの耳はおかしくなかった。難聴についてはしばらく気にしなくてもいいだろう。よかったよかった。
「……って」
どうやら、耳は大丈夫でも、頭への伝達に時間がかかってしまうらしい。
大きく息を吸い込む。
このあと、今日一番の大声が校舎中に響いた。
――そんな唐突な話がありますかっ!