スルメイカ。(前)
「クラブに入っていないんだとすれば、葵さんは、どんな委員会に所属しているんですか?」
知り合いの質問に、わたしが正直に答えたところ、その知り合いは眉を寄せた。それもそのはず、古今東西津々浦々、遺失物管理委員会なんて長ったらしい名前の委員会、どこの高校探しても存在しないと思う。
わたしの所属している、その委員会は、その長い名前からある程度予想できるとおり、学校中のオトシモノを管理するのを目的とした組織である。具体的には、オトシモノの持ち主を呼びかけたり、探したりということだ。名称は違うが落し物係として機能している学校もあるだろう。構成人数は、わたしと綿津見先輩のみ。特別、今年の人数が少ないというわけではなく、近年はずっとそんなかんじだ。我が水田高校と同じくらいの長い歴史を持つ、由緒正しい委員会でなければ、すぐになくなっていたに決まっている。逆に、なぜそのような委員会を高校創立初期につくったのかが疑問だが。
「どうして、そのような組織に所属しているんですか?」
次の質問の答えは、今まで他の人達にも似たような質問を繰り返しされすぎて、ある程度パターン化している。それは、
「珍しいからね、そういうの」
楽しいから、と答えてもいいけれど、そう答えればいつも、変わっているんですね、と返される。変わっているのは少しだけ自覚しているが、面と向かって言われるのは、やっぱり嫌だ。
珍しい組織には、ハプニングや事件がつきもの。実際、二年生に上がるまでの一年間、遺失物管理委員会に所属していなかったらおおよそ出会わなかったであろう経験をたくさんした。わたしはそういうのが楽しくて、そして好きで、この組織に入っているのだった。
新学期が始まり、新入生歓迎会が終わって一段落もできず、毎週イベントやら行事やら、数週間後には体育祭が迫ってきている、と早くも春の忙しさを感じるある日。
この日も、いつもどおりの日常から、それは始まった。
「待て待て待て待ていっ」
放課後、中腰の姿勢で追いかけられているのは、犯人などではなく(学生にそんな日常があるわけがない)、純白の猫。遺失物管理委員会が存在しているのと同じくらい不思議な、何故か校内に住んでいるオス猫。餌は誰が与えているのだろう、夜はどうしているのだろう、と気になるが、綿津見先輩に聞いたところ、もう何十年も前からこの高校に住んでいるらしい。もちろんそんなに猫が長生きするわけないと思うので、おそらく何代にも渡ってここを寝床にしている猫一族だろう。その割には、今追いかけているこの白猫しか普段見かけないのだけれども。
わたしがその猫を追いかけている理由は、目の前を横切ったから、ただそれだけ。撫でようとしただけなのに、この猫はいつも逃げる。猫には迷惑な話だろうけど。
中腰で猫のお尻を追いかけるのも疲れてきた。この猫、わたしより長い間学校にいて慣れているだけあって、学校の建物の配置、形を熟知しているらしく、時には物陰に隠れたり、草木の中に突っ込んでいったり、思いもしなかったところから現れたり、となかなか捕まらない。いつもはこの猫に逃げられているのだけど、今は放課後。時間もたっぷりあるし、今日こそは捕まえてみせる。周りの白眼視なんか関係ない!
夢中で追いかけていたら、いつの間にか高校の一番端、人気の一切ないところまで来てしまった。猫はいまだに逃げ続ける元気があるらしく、むしろこの場所が、彼のホームグラウンドだったみたいで、動きやら隠れる場所の仰天度やら素早さやらがさらに増した。まさに神出鬼没。しかし、わたしも負けていられない。
突然、猫の動きが鈍った。人気も全くない。飛び込めば猫に手が届く範囲。勝負を決めるなら今、ここだ!
「てやっ!」
「きゃあっ!」
突然の叫び声。もちろん、猫が悲鳴をあげたのではない。肝心の猫は、飛び込んだわたしの手をするりと抜け、犬がやるみたいに足で体をかいていた。動物に表情は無いというけれど、これを余裕の顔という以外にどう表せばいいのか。
それはそうと悲鳴がしたほうを見ると、そこには驚いた顔の女子生徒が一人。眠そうな半眼、膝丈のスカートからおとなしそうな印象。いつかもこんなことを感じた。わたしは立ち上がり、少し砂がついたスカートをパタパタと叩く。彼女の名前は知っている。確か同じ二年三組のクラスメートの、
「豊多さん、何してるの?」
豊多蒼空さん。綺麗な名前だと思ったから、しっかりと覚えている。蒼い空と書いて『ソラ』と読む。わたしとは『アオイ』繋がりだ。初めて同じクラスになったのであまり喋ったことはないけれど、印象通りのおとなしさに加えて、恥ずかしがり屋。そういえば、学期の始めには、彼女にハンカチを拾ってもらった。
わたしの言葉に驚いたようで、豊多さんは二、三歩退いた。
「玉依……さん? どうしてここに?」
豊多さんはそう言いながらもさらに二、三歩下がる。何故か豊多さんは、わたしに怯えているというか、恐怖を感じているか、そんな様子。
あ、ちなみに玉依というのはわたしの苗字。かなり珍しい苗字で読みの方もそれなりなので、初対面で『タマヨリ』と読める人は滅多にいない。初対面の方にはよく『タマイ』と呼ばれる。そう考えれば、あまり話したことがないのに間違うことなく苗字を呼んでくれたのは嬉しかった。
「いや、猫を追いかけていて、ここに来ただけ」
わたしは少し照れながら答えた。いくら周りの目を気にせずに猫を追いかけていたとはいえ、猫にヘッドスライディングをかまして制服を汚しているところを見られるのを恥じないわけじゃない。
「豊多さんは、ここで何してるの?」
返しに訊くと、
「え、わたしは……散歩」
散歩? 校内を?
ふと豊多さんが手に持っているモノに気がついた。わたしはそれを指差す。
「なにそれ?」
豊多さんの手にあるのは汚れたタッパー。中に何か入っているみたいだ。豊多さんは口ごもって、答えるのに時間がかかった。
「落ちてた……」
「落ちてた?」
わたしは思わず豊多さんの言ったことを反復した。
「そう。落ちてたの。中にはこれ」
と言って豊多さんはタッパーのフタを取って、わたしに見せてきた。中にあるのはタッパーよりさらに意外性のあるもの。
「これは……イカ?」
「うん。イカ。乾燥しているもの」
スルメイカだろう。豊多さんが言う。
「散歩してたらね、ここに落ちてたの。それで、わたしが拾った時に玉依さんが来て」
「ふうん。で、それどうするの。食べるの?」
わたしの冗談交じりの質問を、豊多さんは素直に受け取ったみたいで、両手を思いっきり顔の前で振りながら――中のスルメイカが洗濯機に入れられた衣服みたくごとごとと揺れる――答えた。
「そ、そんなわけないじゃん食べれないよこんなの落ちてたんだから」
「そうだよね」
「う、うん」
「…………」
「………………」
豊多さんは黙ってしまった。やっぱり内気っぽい子で間違いない。横目に様子を伺うと、猫はまだ足で体をかいている。挑発しているのか?
「えいっ!」
にゃあっ! と声を上げたのは、今度こそ白猫。わたしは予備動作なく、猫に飛び込み、捕まえたのだった。
「ざまあみろ。油断するからだっ」
片手で猫を抱き、小さな頭を思い切り撫でてやった。喉から変な音が出た。帰るまでずっと抱き上げてやろう。わたしは豊多さんを向いて、猫を差し出すように両手を伸ばす。
「ほら、猫だよ」
「そ、そうだね」
……豊多さんはさっきよりさらに数歩下がっていた。どうやら予測できない動きをされる度に無意識に後退してしまうらしい。
話を戻そう。
「で、どうするの? スルメイカ」
豊多さんはわたしの問いにどう答えればいいか迷っているらしく、目が右上、左上と行ったり来たりしている。助け舟を出そう。
「いらないのなら、わたしが受け取ろうか。わたし、遺失物管理委員会だし」
豊多さんはわたしをじっと見つめている。何を考えているのか。……あ、そうか。説明が足りなかった。
大雑把に言うと、
「遺失物管理委員会っていうのは、学校中のオトシモノなどを管理する委員会のこと」
「あ、そうなの」
やはり、その委員会のことを知らなかったらしい。まあ、仕方ないか。そんなに目立つ活動をしているわけではないし。質問しても全生徒の半数が『そんなもの知らない』と答えるだろう。
「……じゃあ、お願いします」
豊多さんは思い切り手を伸ばしてタッパーを渡そうとする。足を動かせばいいのに。しょうがないから、わたしが左手に猫を抱いて近づいて、もう右手でタッパーを受け取る。豊多さんはわたしがタッパーを受け取ろうとしたときに足の金縛りが解けたらしく、どうせ解けたのなら前に進み出てくれればいいのに、ますます後退した。わたし、どうやら嫌われているみたい。豊多さんにも、猫にも。
わたしはなるたけ豊多さんを驚かさないように、ゆっくりと話しかける。
「じゃあ、委員会室に行こうか」
「えっ?」
残念ながら驚かしてしまったらしい。豊多さんは数歩下がって壁にこつんと頭をぶつけた。ガラスみたいに繊細で扱いづらい。痛っ、と苦痛の声まで小さく遠慮がちだった。
「ごめん、大丈夫っ?」
「う、うん」
豊多さんは頭をさすっている。思ったより痛そうだ。痛さに負けじと、彼女がわたしに問いかける。
「玉依さん。どうして私も行かないといけないの?」
「どうしてって。いちおう、誰が拾ったのかも記録しないといけないし……」
交番みたいだね、と豊多さん。正直、わたしもそう思っている。はっきり言って邪魔くさい。どうせ、拾った人には、拾ったものの一割ももらえないのだ。記録する意味がわからない。まあ、規則を破れば綿津見先輩が怖いので、従っておくけれど。
「じゃあ、今度こそ行こうか」
「う、うん。……その白猫も?」
まあね、と返す。せっかく捕まえたし。彼は、わたしの腕の中で大きくあくびをかました。
遺失物管理委員会には、他の委員会、例えば保健美化委員会や体育委員会と違って、委員会室が与えられている。人数に関係無く必須だからだ。遺失物管理委員会は、学校内のオトシモノを管理しないといけない。そのため、オトシモノを保管しておく場所も自然と必要になってくる。そのための部屋だ。事実、委員会室には、オトシモノを保管しておくのに必要な物を除けば、一つの大机、いくつかの椅子と本棚くらいしか残らない。大きさも普通教室の半分程度である。
「やあ、玉依くん。一週間ぶりか」
委員会室のドアを開け、中にいる眼鏡をかけた男性がこっちを見て言った。手には何か握られているようで、グーの形。
「こんにちは、綿津見先輩。何ですか、それ」
「何でもないよ。オトシモノだ。メモリーカード」
先輩はそれをポケットに入れ、席を離れてこちらに来た。
「誰だい? 君」
先輩は豊多さんを見て言う。豊多さんは先輩の質問に答えず、黙ってわたしを見ている。視線が『代わりに紹介してくれ』と訴えている。しょうがないなあ。
「彼女は豊多蒼空さん。わたしのクラスメート。珍しい物を校内で拾ったらしく、連れてきました」
「へえ。……それで、何だいそれは。危険物じゃないだろうね」
彼、綿津見先輩は、わたしにとって水田高校生としても、遺失物管理委員会としても先輩にあたる。年の割には童顔だが、いつも落ち着いた口調で頭も良く、話せば、『ああ、この人は自分より年上なんだな』と実感する。いつも委員会室の鍵を持ち歩き(スペアの鍵は職員室でも、ほぼ断りなしで借りられるので、別に困ったことではないが)、放課後は、ほぼ毎日この部屋にいる。暇なのだろうか、やることはたくさんあると思うのだけれど。
綿津見先輩は豊多さんの手にあるタッパーに視線を向けて話す。
「それが世にも珍しいオトシモノ?」
「その中身ですよ。中にスルメイカが入っていたんです」
「それは……校内では珍しいね。外ではいくらでも手に入るけど」
次に先輩は思い出したように豊多さんに向くと、今頃、自己紹介をした。
「ああ、豊多蒼空くん。僕の名前は綿津見。遺失物管理委員会の最高責任者。どんな呼び方でも構わないよ。玉依くんと同じように『綿津見先輩』でも。呼びたかったら『綿津見先生』でもいい。なんなら呼び捨てでも構わないし」
豊多さんは、どうも、と言って会釈した。
「さて、オトシモノだってね。いや、その前に……」
先輩はわたしの手に抱かれ、さっきからあくびを繰り返している白猫を見た。普段はすばしっこいこの子も、抱っこされればおとなしいものだ。
「どうして玉依くんの腕の中にその子が?」
「捕まえたんですよ。彼の生殺与奪の権利はわたしのって、うわあっ!」
猫はわたしの手を抜け、音も無く床に着地すると、間髪入れずに大ジャンプして、綿津見先輩の肩に乗る。猫らしく器用だ。彼は先輩の肩の上で、気分良くゴロゴロと喉を鳴らしている。
先輩は猫を肩に乗せたまま、椅子に寄り、それを引いた。
「まあ、豊多くんもどうぞ。話も聞かせてほしいし」
「は、はい。……くしゅんっ」
「風邪?」
「ううん。大丈夫」
声量も控えめならくしゃみも控えめか。その豊多さんは椅子までゆっくり進み腰を下ろした。スルメイカが入ったタッパーは机に置いた。横に立って椅子を引いた先輩から豊多さんの背筋が逃げるように反っているのはわたしの錯覚かな?
先輩は向かいの席に座り、机の上に重ねてある紙を一枚取り、胸ポケットに入れているボールペンを取り出しノックする。
「ここに名前を書いてくれないかな。あと学年とクラスも」
わたしはドアを閉めて、豊多さんの隣の椅子を引き、そこに腰を下ろす。猫はわたしが席に座ったと同時に、逃げるように先輩から飛び降り、わたしから一番遠い教室の隅まで進むと、わたしが遺失物管理委員会に入る前からなぜかそこに敷いてある薄汚いマットで横になった。完全に嫌われたみたいだ。わたしが猫を見ていたのに気づいたらしく、先輩が口を開いた。
「あの猫の一族がこの高校に住んでいるのは言ったけれど、この部屋で寝泊りしているとは言ってなかったね」
驚いた。
「え、そうだったんですかっ? 学校に許可はとってあるんですか?」
先生は平然と即答する。
「許可はとってないね。僕はあくまでこの委員会室の隅にマットを敷いているだけであって、そこで勝手にこの猫が寝泊りしているだけ。ご飯の面倒も見てあげているけど、学校側がこの猫のことを放置しているのも問題だし」
「そうだったんですか」
なんかずるいと思う。
「あ、あの……できました」
絞り出すような控えめな声の主は、言われた通りに書き終えたらしい豊多さんだ。
「早くしてください……」
「ごめんね。玉依くんが猫なんか連れくるから」
「わたしのせいですか!」
……って、わたしのせいか。
余談はここまで、と言って、先輩はペンを受け取る。
「今回わからないのは、何故スルメイカが校内に落ちていたか、だね。……じゃあ、拾うまでの一部始終を聞こうか」
「は、はい。……くしゅんっ」
本人は違うと言ったけれど、やっぱり風邪なのかな?
「校内を散歩していました。目的はないです。ただ歩こうと思って。それで、気づいたら学校の端まで来ていました。校舎の壁と柵、それに膝丈の植物に囲まれているところです。わたしは植物が生えている辺りに、タッパーが落ちていました」
「ストップ」
先輩が止める。
「学校の端とは、あそこかい? 通用門のところ」
シャイな語り手が、はい、と頷く。
「どうしてタッパーなんかがここにあるのかと不思議に思って、フタを開け、中を見ると、スルメイカが入っていたんです。間もなく、玉依さんが現れました」
「そのタッパーの中にはスルメイカの他に何が入っていた?」
「スルメイカだけです」
「そうか。続けて」
わたしが口を挟む。
「もう終わりですよ。あとは、オトシモノなら、わたしが委員会室に行こう、と言って」
先輩は一言、そうか、と言ったあと、タッパーを手に取った。先輩は、それを舐め回すようにじっと観察する。しかし、見ているようで見ていない。目はどこかここではない遠くに向けられているようだ。これは去年、何度か見たことがある。考えをまとめるために集中しているのだ。いや、考えをまとめるだけなら、早く豊多さんを帰してあげればいいのにと思ったが、今のこの状態の先輩に話しかけても無駄、魂が抜けたように反応しない。豊多さんも空気を読んだのか、黙っていた。
彼女が再び控えめなくしゃみをしても、先輩は黙ったままだった。
続きます。