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腹ペコ魔女は香りでお腹を満たしたい〜調香師コレットの日月〜  作者: 風見鶏
1st notes 「香りを消す香り」

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8/14

7「魔法を込めた調香」



 私には幼いころの記憶というものがない。

 どうしてかある年齢を境にぷっつりと途絶えていて、もっとも古い記憶をたぐり寄せて思い浮かぶ情景は、調香机で香料を扱う祖母の凛とした背中だった。


 祖母は小さな私に調香の知識と技術を教えてくれた。

 どの香料をどれほど混ぜ合わせれば、どんな香りを作ることができるのか。香りの調合とは知識と感性の高度な融合であって、そこには神秘と秘密が入り混じる。ただ一滴、その違いで香りはまるで別物になる。


 私はその魔法のような世界に夢中になったし、祖母の背を追って調香師を目指すのも当然のことだった。

 十五歳を迎えたある夜に、祖母は私に秘密を打ち明けた。


「いいかい、よくお聞き。そもそも香りは、元々は人間のためのものじゃない。精霊に祈り、声を届け、わずかばかりの願いを伝えるための捧げ物だ。それは古い時代、魔法と呼ばれるもののひとつだったんだ。

 今の時代じゃすっかり魔法使いも数を減らしたが、お前もその血を継いでいるんだよ。だから自分の力をよく知っておかなきゃいけない。

 そして決して、他人にそれを誇ったり、見せてはいけない。

 魔法なんて力は、この時代じゃお前の幸せのためにならないんだ。誰にも知られてはいけないよ、いいね––––」


 祖母の声はいまでもはっきりと思い出せた。

 魔法、というその言葉の意味を、私はまだ分かっていない。


 だって、指先から火が出ることもなければ、人の心を操ったり、箒に命じて掃除をさせることだってできやしないのだから。


 けれど、もしそれが魔法と呼ぶのだとすれば、私は香りに効能を与えることができるのだと思う。

 それは他人がそうと気づかないほどに、ささやかなものだけれど。


 私は店舗から部屋に戻って、扉をきっちりと閉めた。

 少し悩んで、念を入れて鍵をかける。つい大言壮語を口にしてしまったことを、早くも後悔し始めていた。


 店舗ではアシュレイ様とルシアン様が待っている。

 私が調合した香水を確かめるために。


 これまで、香水に魔法を込めることはしてこなかった。祖母が何度も何度もそう繰り返してきたからだし、私もまたそうする理由もなかったから。


 けれど。

 手に握る小瓶を確かめる。


 ザックに渡した無香のハンドクリーム。

 これは、私が小さな魔法を込めたものだ。料理人として香りのないハンドクリームを探しているというザックに、ただ思いつきで作ったもの。「香りがなくなりますように」と、そう願いながら作ったこれには、魔法のかけらが宿っている。


 ほんの少しだけ、祖母の言いつけを破った。

 その結果として、アシュレイ様がこの店にやってきた。


 もし祖母が生きていたら、きっと眉を顰めて私を叱ってこう言うだろう。知らんぷりをしてさっさと帰ってもらいなさい、それが賢いやり方だよ、と。

 私もそれは分かっていた。それでも、アシュレイ様の、あの苦しみの顔が忘れられなかった。


 世界を彩る無数の香り、そのすべてを憎むような瞳。


 それを変えたいと思った。そして、事実、私はそれを変えることができるかもしれないと気づいたのだ。その瞬間、言葉はもう口をついて出ていたのだ。


 作業台に歩み寄り、先ほど脱ぎ捨てた革の前掛けを首にかけて腰元できゅっと紐を結び、手早く髪を結い上げた。

 精製されたばかりのローズ・ウォーターを手に取り、祖母から受け継いだ調香机に腰をおろす。

 祖母の言いつけを破ってしまう。それでも私はこの仕事をやりたいと思った。

 私が、やるべきだと思った。


 香りに苦しむ人を救うための香りを、私なら作れるはずだって。調香師としての、魔女としての私が、ようやくその力を活用できる時が来たのだという気がした。


 調香机は三面に棚が据えられていて、これまで丁寧に集めてきた香料の入ったガラスの小瓶や木箱、金属製の缶が並んでいる。

 私はその中からもっとも香りに影響のないものものに指先をかけて、


 ––––香りは、精霊への捧げ物。


 祖母の言葉を思い出して、手を引いた。

 香りのない香水を作るために、最初から無香を目指してはだめなんだ。


 どれほど香りをなくしたものを作ろうとも、アシュレイ様の鋭敏な嗅覚は匂いを見つけるし、それでは周囲の匂いにはなんの意味もない。

 私が願うのは……あの人のために作るのは、望まない香りから守るための香り。


 私は右の棚の中段、右から二番目に並ぶ手のひらほどの大きさの缶を取った。引き出しから取り出した調香皿を目の前に、缶の口を開け、小さな木匙を滑り込ませ、山盛り一杯の粉末を皿にこぼした。


 極めて細かく砕いた粉末は乾燥したアイリスの根、オリスだ。

 それはすぐに香気を放つものじゃない。乾燥と熟成を経たこの粉末は、他の香料と混じり合うことでようやく微かに匂いを作る。

 それはアンバーのように強く生命力の満ちた甘さではなく、雨上がりの豊かな土壌のような重みのある静けさと、青みを帯びた柔らかな甘さを作る。


「香りには骨格がいる。オリスは優しく香りを沈めてくれる」


 それから、と視線を上げる。左側の棚に並んだ色とりどりの小瓶から、黒い瓶を取った。栓を開けて、鉄串を差し込み、中に満ちた液体を丁寧にかき混ぜ、引き出したその先に丸く止まる一滴ずつを皿に垂らす。


 ベンゾインは樹脂だ。教会での薫香にも古くから使われている、馴染みのある穏やかな香料。熱を加えるとバニラの甘い香りを放つけれど、これは高濃度に蒸留したアルコールに漬け込んだベンゾインチンキ。これがオリスの静かな甘さを温めるように支えて、そして地平線をどこまでも歩くように香りを長く残してくれる。


 ベンゾインとも相性が良く、その香りにうまく混ざり合うのは、シダーウッドだ。

 小瓶を取って栓を抜けば、奥深い森の香りが広がる。シダーウッドには冬の森に満ちる空気のような明瞭な輪郭と、香りの芯を強くする冷たさがある。


 卓上用の小さな天秤を引き寄せ、慎重に香料の重みを量ってから調香皿に混ぜた。

 シダーウッドは甘さとは対極にある。ひと匙を間違えるだけで、香りは覆われてしまう。

 香料はこれでいい。


 私は棚の正面に並んだ器具から小ぶりのビーカーを取り出した。側面には目盛りが刻まれていて、三十五の線まで、ボトルからアクア・ヴィテを注いだ。これはアルコールを何度も蒸留して精製する香水のベースだ。


 ここに先ほど取り合わせた香料を加え、静かに混ぜ合わせる。粉末と液体に分かれていた香料が溶け合うにつれて、それぞれに浮き立った香りがひとつにまとまっていく。この瞬間こそが、調香の神秘、自然の世界のどこにも存在しないまったく新しい香りが生まれる。


 そして最後に、先ほど精製を終えたばかりのローズ・ウォーターを五十の目盛りまで注いだ。

 香料とローズ・ウォーターが混ざり合い、薔薇色の液体は色味を深くする。私は目を閉じた。ゆっくりとかき混ぜる手は止めないまま、香りを嗅いだ。


 次の瞬間、私は森の中に立っている。

 周囲には命に満ちた木々が並び立ち、木の根と大地によって波打つように隆起した大地は苔に覆われ、朝露が木漏れ日にきらきらと千の粒を輝かせている。


 雄大な自然に、ちっぽけな自分の肉体が溶けるような感覚。

 豊かな大地の香りに、冷えた木々の爽やかさ、そして微かに、鼻をくすぐる甘さが全体に重さを与えている。

 そしてそこに、一輪の薔薇が紅く咲き誇り––––香りに包まれた中で、私はその薔薇に願う。


「この沈む香りが、あらゆる香りからその身を守りますように。雄弁な言葉に沈黙を与えるように、雄弁な香りにもまた、沈黙を与えますように。あなたが、安らかに呼吸をできますように。この香りを捧げます––––」


 その言葉は自然と口から紡がれていた。まるでそうする方法を最初から知っていたみたいに。

 私の両手は知らずビーカーを包み込んでいた。ふと目を開くと、そこには銀の粒子が舞い落ちている。

 薔薇色の光が円を描くように混じり合ったかと思えば、それは糸を編むように重なり合い、調合された香りに私の祈りが交差し、全てがひとつに結ばれていく。

 それがビーカーを包み、一瞬、光が弾けた。


 はっ、と意識がはっきりした。

 いつの間にか眠りに落ちていたような、あるいは没頭のために時間すら忘れ去った後かのように、意識と肉体がちぐはぐにズレたような感覚。


「……何だったんだろう、今の」


 調香をする中で、似たような経験はあったけれど、今ほど深く入り込んだことは初めてだった。


「––––あっ」


 手のひらに包んだビーカーの中で、不思議なことが起きていた。先ほどまでは確かに、薄桃色だったはずの香水が、いつの間にか鮮やかな薔薇の花弁のように色を濃くしていた。


 私は鼻を寄せて、思わず目を見開いた。




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