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腹ペコ魔女は香りでお腹を満たしたい〜調香師コレットの日月〜  作者: 風見鶏
1st notes 「香りを消す香り」

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6「あなたのために香りをひとつ」


 アシュレイ様、と声が掛かると、空気は途端に元の調子に戻った。ふっと呼吸ができるようになってようやく、自分で息を止めていたことがわかった。


「驚かせた。すまない」と男性は目を伏せて。「同じものを俺にも調合してもらうことはできるか」

 私は頷くことをためらった。


 これは調香師としての仕事の依頼だ。それも貴族様が相手となれば申し分ないほどに格のあるものだし、そもそも平民である私に断ることなんてできないのだけれど、それでも、私はぎゅっと拳を握って、アシュレイ様を見上げた。


「あの、本当に鼻の中に?」

「ああ。塗るつもりだ。問題が?」

「あるとも、ないとも答えられません。すみません、鼻の中に塗ったという方の話を聞いたことがないので、どんな影響が出るかわからなくて」

「それで匂いが断てるならどんな影響でも受け入れる。鼻の中が爛れようが構わない」


 言い切った口ぶりには断固とした決意が感じられた。この人は本当に鼻の中に塗るつもりなのだ。そして例え話ではなく、鼻の中が爛れようと、どうなろうと、塗り続けるに違いないと確信がある。


「できるかぎり大量にもらいたい。言い値ですべて買い取る」

「––––申し訳ありませんが、それはお引き受けできません」


 私は深々と頭を下げた。


 ああ。

 ああああ。

 言ってしまった。

 馬鹿。私の馬鹿ッ。


 今度は完全に私のせいで、空気がぴんと張り詰める気配がした。

 怖い、と心底思う。それでもできないものはできないと、そう答えることを選んでしまう自分の頑固さに嫌気がさした。


「……なるほど。まさか断られるとは。まずは理由をお聞きしても? ただ、これはアシュレイ様にとって非常に大事なこと。くだらぬ理由ではこちらも納得できないことは理解してもらいたい」


 声音に冬の霜柱みたいにパリパリとした冷たさを含んだ声。

 私は頭を下げたまま、ぎゅっと目を閉じて答える。


「どのような影響が出るか、私に分からないからです。責任を持てません」

「君に責任を持たせるつもりはない」


 とアシュレイ様の平坦な声。

 感情の揺らぎがないからこそ、かえってそれが私の背を寒々とさせる。それでも自分の言葉を引き下げるつもりはなかった。


「お売りする以上、責任はあります。作って、売って、あとはどうなろうと関係がない、と振る舞うことはできません。これは私の調香師としての矜持、です」

「いくらだ?」

「––––はい?」


 私は思わず顔を上げた。

 アシュレイ様が視線で促すと、ルシアン様が懐から小袋を取り出してそれをカウンターに置いた。じゃらり、と重たげな音。口紐を緩めて袋を開くと、そこには金貨と銀貨が入り混じっている。

 その一袋だけで、私の何年分の生活を賄えるのだろう。


「その矜持を曲げてもらうのにいくらかかる? この場で支払おう。そして今後、俺がそれを必要とする限り、それを支払い続ける。俺の専属の調香師として君を雇おう」

「––––身に余る光栄です」


 アシュレイさまが口を開く前に、私は「ですが」と続けた。

 身分ある方の言葉を遮る形になった。それだけでも不敬だとわかっていながら、私はこう答えるしかない。


「ここは、調香店です。私が売るのは香水、軟膏、石鹸––––それから、その人のためだけに調合した”特別な香り”です。矜持は、売り物ではありません」


 私はアシュレイさまをまっすぐに見据えた。その瞳は冷え冷えとしていて、言葉がなくても私に対しての感情は読み取れる。


「こちらのハンドクリームを新たにお作りすることはできません。香りを防ぐために鼻の中に塗っていただくわけにはいきません」

「俺自身がそれを構わないと言っても?」

「はい。作る私がそれを認められません」

「そうか。期待外れだったな。夜分に邪魔をした」


 アシュレイさまが視線を落とし、踵を返した。

 その背中が店を出てしまう前に、私は声を振り絞った。


「香水は、いかがですか」


 私の、微かに震えて裏返った声が店の中に響いた。


「––––香水?」


 振り返ったアシュレイさまが、私を訝しげに見返す。

 この店に来てからもずっと、鼻を覆うハンカチは外れない。


 店舗の棚には種々様々の香りものが並んでいる。ひとつひとつは鼻を楽しませる香りであっても、それが集まり混ざり合えば、嗅覚が優れた人にとっては苦痛となる。

 アシュレイさまにとって、香りとは喜び楽しむものではなくて、ただひたすらにこの世界を邪魔するものになってしまっている。

 それが、私には我慢できなかった。


「あなたのために、香水をひとつ調合させてください」

「……俺は香りなど求めていない。その俺に、君は香水を売りつけるのか? 俺にとっては何よりも憎むべき、水であって水でない、小瓶の中に押し込められた苦しみの雫を、俺にも身に纏えと?」

「はい。あなたがそれほどに香りに苦しんでいらっしゃるのであれば。私は調香師として、自らの矜持のために––––香りを消す香水を、調合いたします」



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