5「この世でもっとも嫌いなもの」
小さな窓はわずかに月明かりを引き下ろしているだけで、ひとつきり掲げたランタンに灯る火も、商品棚を照らすにしたって心許ない。
ほとんど夜の暗さに沈んだ店内に、やけに大きなふたつの影が浮かび上がっていた。
カウンターの前に立っていた男性が、飛び出してきた私に目をやり、おや、とわずかに表情を動かした気がする。顔立ちは柔らかく輪郭の線も細いのに、どこかきっちりと隙のない気配がある。
「夜分に失礼。まだ灯りがあったので営業中だと思ったのですが、女性ひとりで店を開けているのは不用心ではありませんか」
「す、すみません」
つい謝ってしまう。たしかに言われたことは確かなのだけれど、なんでお客さんに指摘されているんだろう? あれ?
「ルシアン、わざわざそれを口にするのは俺たちが不審者のようだろう」
こちらに背を向けて立っていたもう一人の男性がこちらに振り返った。
顔をすっぽりと覆っていた外套に手を当て、そのフードを下げる。
窓からの月明かりがちょうどそこに落っこちて、男性の姿がほわりと柔らかい光の中に浮かび上がるみたいに照らされていた。
「怪しいものじゃない。俺たちは客だ」
夜に溶け込むような烏羽色の髪が艶やかに、切長の瞳は小さな月のような色をしていた。鼻から下を覆うようにハンカチを押し当てているのに、その顔立ちの美しさは見てわかるほどで––––男性がフードを下げたときに揺れ動いた空気がここまで届いて、私はすぐに足を引いて腰を落とし、頭を下げた。
「し、失礼いたしました。貴族の方とは思い至りませんでした。このような店に、何用があってお越しでしょうか」
「おや、察しが良い。これでもお忍びのつもりなんですが。やはり目立ちますからね、アシュレイ様の顔は。だから大人しく待っていてくださいと言ったのに」
「お前のことは信用しているが、こればかりは自分で確かめるしかない。二度手間になる可能性のほうが高いからな」
伏せた視界の上で、貴族の方々が会話をしている。私はもう、身を縮こませて、できるだけ存在感を消すしかない。
私は道端の取るに足らない名もなき野草です、どうぞお気になさらず……。
「店主、今後の参考に聞きたいのですが」
「ひゃいっ」
ああ、声が裏返った。だって緊張しているんだから仕方ない。
「あなたはすぐに私たちの身分を察したようですが、どの部分を見てそうだと? 悪目立ちしているのであれば直しておきたいものですからね」
「は、はあ」と返事に困る。
うっかり余計なことを言って、貴族さまの不興を買えばどうなることか。そんな話はいくらでも巷に溢れていた。
「これはお忍びです。率直に教えていただきたい。我が主人はこう見えて心が広いですからね、罵られたって怒りませんよ」
「お前に褒められるよりも罵られる方が落ち着くからな」
貴族という存在の恐ろしい想像と違って、なんだか気の抜ける会話が聞こえる。
どうすればいいんだろう、と冷や汗が首に流れるのを感じているのに「さあ遠慮なく」とさらに押されて、ええいと目をぎゅっと瞑った。
言えと言われているのだから、もう言うしかないのだ。
「か、香り、です」
「……香り?」
「先ほど、奥の男性がフードを取られたとき、残り香がしましたっ。香りの強さからしてご自分で纏われたものではなく、周囲の方々の香りが移ろったものと思いますが、それでも夜の底に沈むような厚みのある甘さは動物性の香料の特徴で、これは間違いなくムスクとアンバーグリスの混じり合ったものです。香りの奥行きを出すためには欠かせない香料ですがとても高価でそれをこれほど大胆にかつふんだんに調香できるのは富裕層の方々だけです。とくにムスクはいま宮廷で好まれる香りだと耳にしていますからそうした場に香りが移るほど長く滞在されていたのであればこれは貴族の方に違いない––––と……すみません……喋りすぎました……」
悪癖はどんな時でも抑えられないから悪癖なのであって。
貴族の方を前に、早口でついべらべらと話してしまったことに気づいたときには、もう取り返しはつかないのだった。
身体中にぶわっと冷や汗が吹き出すのを感じながら、私は頭を下げ続けるしかできない。
「––––驚いた。服を替えてきたんだが、たしかに髪にも肌にも匂いが張り付いている。ルシアン、お前は分かるか?」
「いいえ。私にはさっぱりです。鼻より耳がよく働くもので」
伏せた頭の向こうで足音。
それからカウンターに固いものが置かれる音がした。
「店主。顔を上げろ。それでは話がしづらいだろう。繰り返すが、俺は客としてここに来た。過剰な礼儀は必要ない」
「……はい」
びくびくと顔を上げると、カウンターのすぐ目の前に男性が立っていた。
鋭い眼差しが私をまっすぐに見つめている。
「これを作ったのは君か?」
カウンターに置かれた小瓶は見慣れたものだった。
「し、失礼して、中身を確認しても?」
「もちろん構わない」
すぐ目の前に貴族の、それも壁のように背の高く、異常なほど容貌の整った男性がいるというのに、落ち着けというのは無理な話だ。
びくつきながら小瓶に手を伸ばし、震える指先でなんとかコルクを抜いた。鼻先を寄せて手で仰ぎ、今度は指先を入れて中身を掬い取る。手の甲にスッと塗り広げると、わずかにそこが冷たく感じる。
「はい、これは間違いなく私が作ったハンドクリームです。あの、こちらに何か問題でも?」
「いいや、問題はない。勘違いをしないでほしい。この商品に文句をつけに来たんじゃない。逆だ」
「といいますと……?」
「この商品、あるだけもらいたい」
「––––はい?」
ぽかん、と。呆けて目の前の男性を見上げてしまう。
近くに立つと、首を逸らさないといけないほどに背が高い。口元をハンカチで隠していても、すっと切れるような目元の凛々しさはまるで御伽話の中の人のようで、こんなに近くで見ているのに現実感がなかった。
夜に乗じて現れる精霊とか、妖精とか、そんな風に言われる方がまだ信じられる気がした。
「アシュレイ様。だから私に任せてくださいと言ったでしょう。困らせてますよ」
ふう、と。ルシアンと呼ばれた男性が呆れたように首を左右に振る。
「御用聞きの商会じゃないんですから。市井ではあるだけよこせなんて買い方をする客は普通いません」
「……そういうものか? ではどうすればいい? 俺にはこれが必要だ」
「聞く間もありませんでしたが、そもそも大量に買ってどうするんです? まさかそこら中に塗りたくるなんて言わないでしょうね」
「俺はそれでも構わない。が、そうだな、ひとまず鼻の中に塗ろうと考えている」
「え? 鼻の中に?」
思わず声が出てしまった。
男性ふたりが揃って、私という会話への闖入者に目を向けた。
「し、失礼しました。あの、予想外の使い方だったので」
「ほら。常識を疑われていますよ」
「そんな常識は狼の餌にしてやれ。俺は塗る。それで、この軟膏はどれほどある?」
指先が小瓶をとん、と叩く。
「ええと、せっかくお求めに来てくださったのに、申し訳ありません。ちょうど在庫がない商品なんです」
食堂で出会った女性に売ったひと瓶––––おそらく目の前にあるこれと、日が暮れる前に立ち寄ったザックにふたつを渡して、在庫はなくなっていた。
「似たような瓶は並んでいるようだが」
と、男性は目端で壁の商品棚を示した。
「はい、普通の軟膏はあります。ただ、あそこにあるのは香り付けをしている香軟ばかりで、これと同じものはありません。これは仕事柄、香りのないものがほしいというお客様のために特別に調合したので」
「その客とは気が合いそうだ。しかし、不思議なものだ。香りを作るために特別な調合が必要なのは分かるが、香りを消すにも同じか」
「……香りものがお嫌いですか?」
おずおずと訊くと、途端に空気が重くなったように感じた。
頬がぴりぴりと痺れて、思わず身を引いてしまう。
男性は眉間に皺を刻んで、私を透き通した向こうにある何かを睨むようにして、吐き捨てるように言った。
「––––自分のこの鼻を削ぎ落としたいほどにな」




