4「ローズ・ウォーター、蒸留中」
「よいしょ、っと」
蒸留器に最後の薔薇を沈めてしまうと、あとはただ見守るだけになった。
大型の蒸留器があればこれくらいの量は一度に抽出してしまえるのだろうけれど、うちにあるのは祖母から引き継いだ小型のもの一台きりで、時間をかけて小分けにするにしかない。
他の作業をしたり、家事をしたり、ちょっと昼寝を挟んだり。余分に使った時間があるにしたって、気づけば窓の外はもうしっかり夜に変わっていた。
銅製の蒸留器を熱して湯を沸かせば、薔薇の花弁から染み出した香りとともに蒸気が細い管を伝い、冷却壺で淡い香り水となる。
薄桃色の液体をガラスのフラスコに注ぎ込むと、部屋にはふわりと心が浮き立つような芳香が舞った。濃密な香りながら、これっぽちもくどさはない。香りにだって引きの良さというものはあって、それはやはり薔薇にしかない振る舞いの上品さだ。
開いた窓からは冷えた夜の空気がしのびやかに滑り込んでくる。太陽のあるときにはふんわりと丸い匂いがする。沈めば香りは折り目のぴんとした佇まいを見せて、すっきりと空気の境目までわかるような気がする。
すう、と鼻から深く息を取り込めば、その香りの豊かさに思わず目を閉じた。
薔薇の香りは夜気と穏やかに混ざり合って、身体を包む華やかな花の芳しさと、烏羽色のビロードのようにつるりと澄んだ夜の気配が混ざっている。
––––これこそが夜の香りだ、と。
思わず頬がにやけてしまう。
こんなにも豊かな匂いがあふれているのだ、この世界には。
いつかはこの匂いを自分の手で再現したい。それは欲張りすぎだろうか。いやいや、目標は高い方がいいに決まってる。
腕を磨くためにも、まずはこの貴重なローズ・ウォーターを丁寧に扱わないと。高かったんだから。すごく。
頭の中でお金の勘定が始まると、途端に意識がはっきりと現実に戻ってきた。思わずため息が漏れた。
フラスコに精製されたローズ・ウォーターは、コップ一杯ほどしかない。これだけの量を得るために、籠二つ分の花弁が必要だった。薬草市場で仕入れた乾燥花弁で、品種も香料用としての上等品とは言い難い。それでも、私からすれば高級品だ。
これが朝摘みの新鮮な花弁ともなれば値はさらに跳ね上がる。花弁は時間が経つにつれて香りが失われていく。摘んですぐに蒸留するのが理想なのだ。
王侯貴族だけが手に入れられる特級品のローズ・ウォーターは、ひと瓶のために最上級のダマスクローズが千輪も使われるという。その価値は血と同じ重みと呼ばれるほどだ。それがどれほどの芳香を放つものか想像すらできない。
「……人生で一度くらいは、嗅いでみたいなあ。ダマスクローズ」
はあ、と羨望のため息が出る。
一級品の香料はあまりに希少で、お金さえ出せば買えるというものじゃない。
ダマスクローズなどは最初から宮廷や教会が独占契約を結んでいて、そもそも市場には流れない幻の花だ。
宮廷仕えの調香師にもなれば、そんな香料を扱って調香し放題なんだろうな、と夢か幻かという想像だけを楽しんで、頬を叩いて意識を切り替えた。
特級品とは比べ物にならなくとも、目の前にあるこれだって大事なローズウォーターだ。まずは保存用の小瓶に移し替えなければいけない。
小瓶に漏斗を差し込んで、一滴たりともこぼさないように、と慎重にフラスコを傾けたとき、シャラ、と金属が擦れ合う澄んだ音が遠くに聞こえて、思わず動きを止めた。じっと耳を澄ますと、おとないの声がたしかに聞こえる。
お客さん!
慌ててフラスコを置き、調香用のエプロンを外す。
適当に結い上げていた髪留めを外して手櫛で髪を整えた。
ええと、それからそれから、と意味もなく身体のあちこちを触り、叩き、小走りで部屋を出る。
まさかこんな時間に来客があるとは!
普段ならば戸締りをして店舗の灯りも消してしまうのだけれど、今日ばかりはローズ・ウォーターに夢中で手が回っていなかったのだ。
居住空間から店舗へと繋がる扉を小走りに駆け抜ける。
「いらっしゃいっ、ま……せ……?」
喜び勇んで飛び出して、私は営業用の笑顔を浮かべたまま、動きまでぴたりと止まってしまった。




