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魔女の調香辞典 -駆け出し調香師コレットの日月-  作者: 風見鶏
4th notes 「追憶へ捧げる香り」

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「Last notes」



 花の香りが部屋に満ちている。


 部屋の中央に据えた作業台の上では、使い込まれた蒸留器が火にかけられていて、薔薇の花びらの香りを濃縮した貴重なひとしずくを生み出している。その一滴ずつがフラスコに溜まっていくのをじっと見つめるのが、私にとって至福の時間だ。


 しかも、この薔薇はあのセンティフォリアローズなのだ!


「顔が緩むのが止められない……はあああ、温かみと甘さの混ざり合った色気がたまらない……」


 華やかさは抑えめだけれど、沈み込むような深みは薔薇の中でも飛び抜けている。わずかにスパイスのような香気を含んでいるのも、この薔薇の特徴だ。


「そんなに喜ぶほどの薔薇か? オレサマにはちょっと甘すぎるぞ」


 蒸留器の横に置いた香炉の中から、長い鼻がひょこっと出てくる。小さな前足をかけて、ハリネズミの顔が覗いた。くんくんとひっきりなしに鼻を動かしてから、舌がぺろりと口の周りを舐めている。


「お、でも味はいいな。上質な薔薇じゃねえか」

「そうなの! あのダマスクローズと肩を並べるくらい貴重なんだから! そして同じくらいに高価……う、ひと籠でいくらになるのかを考えると頭が……」

「お前の金じゃないからいいだろ。人間ってのは本当に金にやかましいな」

「むしろ私のお金じゃないから、手に余るというか。貴族ってやっぱりすごいんだなあ……これをぽんって送ってくるんだもん、アシュレイさま」


 部屋の隅には、白木の網籠に麻布を敷き詰めたものが積まれている。

 その中にはまだ抽出していないセンティフォリアの花弁が並んでいて、一輪ずつが濡らした綿布で丁寧に包まれている。


「この匂いで香水を作るんじゃ、男がつけるには合わねえんじゃねえか?」

「これはアシュレイさまに頼まれたの。自分用じゃなくて、お母様に贈るんだって」

「へえ! コレットもとうとう貴族の依頼を受けるようになったってわけだ! こりゃ将来も安泰だな。その調子で出世して、早くオレサマにこの薔薇みたいな貴重な香りを食わせてくれ。慣れると癖になるな、この香り」


 フムルがますます鼻を動かし、もっちゃもっちゃと噛み締めている。それがやけに美味しそうな仕草なのだ。


「何だか私までお腹が空いてきた……」

「あれだこれだって仕事してたろ? その金で美味いもん食えよ」

「それがですね、お恥ずかしながら、ツケにしてもらっていた香料の代金だとか、滞っていたもろもろの税金とか、家賃の先払いなどで、ほとんどすっからかんになってしまいまして……あ、でもこれでもう借金もなし! 明るい気持ちで過ごせるよね!」

「……人間も大変なんだな」


 ハリネズミに同情されてしまった。

 人間としての尊厳を保つには、お金って必要なんだよね。


 センティフォリアの抽出にひと区切りをつけて、昼食休憩にすることにした。

 換気のために窓を開けると、風が外の喧騒と一緒に美味しそうな香りを引き連れて飛び込んできた。


「くんくん––––むっ、今日は仔牛の焼きパン粉包みか。レモンとマスタードが合うんだよねえ」


 匂いだけで、お腹がぎゅるると盛大に鳴った。

 食べに行きたい。けれど、毎日を外食で済ませるには懐が寂しいのが事実なのだ。


 ここ数日、ちっともお客さんは来ないし、アシュレイさまに依頼していただいたこの仕事の代金も、年度末の商税のために残しておかなくてはならないし。


「はあ……フムルはいいなあ。私も香りでお腹いっぱいになったらなあ」


 窓辺に頬杖をついて、目を閉じて、くんくんと匂いを嗅ぐ。


 こんがりと焼いたパン粉のザクザクした食感、火の通った仔牛の肉汁が舌の上にあふれて、噛み締めるたびに肉の旨みが身体に染み渡る。マスタードの辛味が、揚げ油の後味をさっぱりさせて––––。


 思わず唾液をごくりと飲み干して、いや節約は明日からにしよう、と決意したとき、店先でドアベルが鳴った。

 すみません、と呼びかける声。


「はーい! いま行きます!」


 お客さんだよ、と私は小声でフムルに笑みを向ける。

 フムルは気だるげに香炉の中で寝そべったまま、ちょいちょいと短い手を振った。


「もう、一緒に喜んでくれてもいいのに」


 急いで作業用のエプロンを脱いで椅子の背に掛け、引っ詰めていた髪をほどいた。作業部屋を出て、廊下に掛けた鏡の前で立ち止まる。

 前髪を手櫛で直し、接客用の笑顔を浮かべてみる。


 アシュレイさまの専属の調香師になっていれば、きっと毎日のご飯に悩んだり、高価な香料を分割払いにしたりせず、好きな香りに囲まれて夢のような毎日を過ごせていたかもしれない。


 けれど、この街の片隅で小さな調香店を営みながら、やってくるお客さんが求める香りを調香していくのだって夢のような毎日だ。

 祖母がそうして生きたように、私もきっとこうやって生きていく気がした。それが私の、香りに彩られた大切な毎日なのだから。


 よし、と頷いて、私は店舗へと繋がる扉を開けた。


「いらっしゃいませ! 本日はどのような香りをお探しですか?」




   了


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― 新着の感想 ―
完結してしまったのかと思いましたが、完結マークがなくて、ホッとしました。 面白いです! 続きも楽しみにしています。
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