15「自分の信じる道を選ぶということ」
「ああ、コレット! ちょうどよかった!」
それはザックだった。顔を合わせてすぐ、ザックはアシュレイさまとルシアンさまを認めると、無言で私を庇うように間に入った。その動きの素早さに思わず目を丸くしてしまう。
「––––貴族の方々とお見受けします。なにかご用が?」
「ああ、そちらの調香師のお嬢さんを勧誘しているところでね。邪魔は遠慮してほしいのだが」
ザックとアシュレイさまが並んでいる。
ザックのほうが身長が少し高い。互いに顔を向き合わせ、一歩として後ろに引かない不穏な気配があった。
「あの! ザック! 大丈夫! 悪い人じゃないから!」
「……無理強いはされていない?」
私がぶんぶんと頷くと、ザックは一歩身を引いた。
「––––失礼いたしました。私の勘違いだったようです」
「構わない。こちらの用事を優先させたいところだが……そちらにお待ちの方がいるようだ」
アシュレイさまがちらと視線を向けた先。
私も目を向けると、背の曲がった小柄なお婆さんが、食堂の前に立っていた。
ザックはアシュレイさまとお婆さんを交互に見て逡巡しているようだった。貴族さまに不敬となれば、どんな騒動になるか分からないからだ。
それを悟ったように、アシュレイさまが肩をすくめて後ろに下がって見せた。
「見てわかる通り、この格好だ。お忍びというやつでね。気にしなくていい」
「では、ご配慮に感謝します」
ザックはひとつ頷くと、私に向き直った。
「あの人たちのことはまたあとで聞かせてもらうとして。まずはこの人を紹介させてほしい––––ミレルさんだ」
え、と私の喉から掠れた声が漏れた。
ザックに誘導されるままに、私はミレルさんの前に歩み寄った。
「ミレルさん、こちらがコレット。何度も話していますよね」
「まあまあ! ああ、ようやくお会いできましたね! あなたがあの香りを作ってくださったかたね」
「は、はい。あの、コレットと申します」
ミレルさんは服の襟も裾も余るほどに痩せてしまっていた。けれど肌艶は健康そうで、喋る声にも張りがあった。
「お身体は大丈夫なんですか? 入院されていたって」
「ええ、そうなのよ。歳をとるとだめね、あちこちにガタがきちゃう。でも新しく届いたお薬が身体に合ってたのね。今はね、味も香りもだんだん分かるようになってきたのよ」
「わ、それは……それは、よかったです!」
頷く私に、ミレルさんが手を伸ばした。
咄嗟に手を取ると、私の手を包むように両手が重ねられた。
「––––ザックさんと、あなたのおかげよ。ずっと匂いも味もしなくて、砂を噛んでるような毎日で、もう生きる気力もなくなっていたの。でも、あなたたちが作ってくれた料理……! ほんとうに、身体に命が満ちるみたいだった! 生き返る気持ちがした!」
ミレルさんのまなじりからぽろぽろと涙が流れている。
ありがとう、とミレルさんは繰り返した。
何度も、何度も。ありがとうと言いながら、私の手をぎゅっと握ってくれた。
その数だけ、私は「はい」と頷いた。それ以外の言葉は出てこなくて、ただ、胸がいっぱいだった。
「ああ、いけない。お時間を邪魔してしまったわね」
ミレルさんは目尻を拭うと、私の手をぽんと叩いた。
「今日はどうしてもお礼を言いたかったの。だからお会いできてよかったわ。まだ体力が戻っていないんだけどね、どんどん元気になっているから、またこのお店に通うのを楽しみにしてるの。こんど、ちゃんとお礼をさせてね」
「お気になさらないでください。お元気になられて本当によかったです」
ザックが、私に大丈夫か、と小声で訊ねる。
それがアシュレイさまたちとのことだと分かって、私は頷きを返した。
ザックは心配そうな視線を残しつつも、ミレルさんを伴って食堂に戻っていく。
その背を見送りながら、私は自分の心がようやく定まった気がしていた。
今までもやもやとずっと抱えていたものが、晴れやかに消えている。
アシュレイさまとルシアンさまに改めて向き直り、私は深く頭を下げた。
「––––申し訳ありません。専属調香師のお話は、正式に辞退させてください。アシュレイさまのお母様のご意志とは関係なく、私はまだ自分の店でやりたいことがあります」
今まで、自分が何をすべきか、何をしたいのかも分からなかった。
専属調香師という地位と、好きな香料を好きなだけ使える魅力に惹かれて、それもいいかと署名をした。けれど本当は、私はそんなものを求めていたんじゃなかったと分かった。
私が今まで、手に取ってこなかった自分の一部が、ここにあった。
それで何ができるのか、何をすべきなのかは、まだ分からないけれど。
私は私として、魔女の力を受け入れた上で、もっと自分だけの香りを作りたい。
いまここに、私の心は決まっていた。だからはっきりと言葉にできる。
「––––顔をあげろ」
とアシュレイさまが言う。
おずおずと身体を起こすと、アシュレイさまは懐から契約書を取り出してみせた。
「貴族と交わした契約を破棄したい、ときみは言うんだな。それがどれほど重い意味を持つかは、もちろん分かっているだろう?」
「……はい」
「たしかに母はきみを専属調香師にすることには反対だ。だが、俺は次期当主だ。意見を押し通すことに無理はない。それも理解しているな?」
「……はい」
「––––だが、その気のない女を無理やり口説くのも、俺の趣味じゃない」
小さなため息。
仕方ない、というような、優しげな眼差しが私に向けられていた。
「今日、きみの仕事の本質を見たような気がする。ただ香りを調合するだけでなく、その先に人々の人生が繋がっているようだ。そして、それは俺も同じ。きみの香りを独占するのは、それこそ貴族がスパイクナードを独占するように愚かしい。そう思わされる」
「き、恐縮、です?」
「この契約書は俺が預かっておく。きみは毎月、俺にあの香水を納品する。俺は代金も支払う。つまりはほとんど現状維持、というわけだが。くれぐれも他の貴族にその腕を知られないようにしてくれ」
「は、はい! ありがとうございますっ。申し訳ありません、私のわがままを聞いていただいて」
「構わない––––あのような火の鳥の姿を見てしまってはな」
アシュレイさまの呟く声に、私は思わず動きを止めた。
アシュレイさまも、あの精霊の姿が見えていた?
呼び止めるまもなく、アシュレイさまとルシアンさまは歩き出してしまう。
その背中が遠くなっていくのを、私はぼうっと見送った。
人生が一変するような紙を携えてやってきた人は、その紙を懐にしたまま去っていった。自分の選択が正しかったのか、誰かが正解を教えてくれるわけではない。けれどきっとこれで良かったのだ、と今の私は信じている。




