14「コレットの策略」
来た道を戻るけれど、その景色は何も変わっていないように見える。
時間はそう経っていなくて、空の気配は夕暮れまでまだ遠い。
すれ違う街の人々は変わらずアシュレイさまとルシアンさまに注目するし、ついでとばかりに私を見る。けれどその視線が、今は気にならない。
充足感と達成感が、じわじわと胸のうちに湧いていた。
自分は上手くやれた、必要なことができた、この行いは正しかった––––自分で自分を認められる瞬間というのは、日々の生活の中で多くはない。
歩きながら、私はぎゅっと拳を握った。
開いて、また握る。
そうでもして意識を発散しないと、なんだかこのまま走り出したい気持ちだった。
「––––足取りが軽いな」
「えっ、そ、そうですか?」
後ろから追いついてきたアシュレイさまが言う。
私は自分がいつの間にか早足になっていたことに気づいて、意識して歩く速度を落とした。スカートをなびかせて歩くのは、女性としてあまり褒められたことではないのだ。
「同行を許可してくれたことに感謝する。きみがスパイクナードを求めた理由、確かに見届けさせてもらった。あの特別な香のために必要だったんだな」
「……はい。精霊に捧げるのに欠かせない香料なんです。以前はもっと簡単に手に入ったそうなんですが、私にはどうしても手に入れる術がありませんでした」
立ち止まって、アシュレイさまに頭を下げる。
「今日、この儀式を無事に執り行えたのはアシュレイさまのおかげです。本当にありがとうございました」
「構わない。スパイクナードの代金はもらっている。俺は取り次いだだけだ。それに」
「それに?」
「もともと、スパイクナードはきみのような人たちが使うためのものなんだろうな。貴族たちが権力と金で独占して良いものではない。そんな気がした」
「……はあ」
私からすればまさに雲の上のような世界で生きる人とは思えない言葉だった。
貴族さまといえば怖いもの、市民とは常識も何もかもが違う世界で生きている人たち。
そんな認識だったけれど、アシュレイさまを知るほどに、その認識が変わっていく。
私たちはまた歩き出して、しばらく会話はなかった。
私から話しかけるのは不敬に思えたし、何を話して良いのかもよく分からないと言うのが本当のところで。
不思議と私とアシュレイさまは隣り合って歩いている。世の中の男女は、こうして肩を並べて歩くのが普通だろうか。こんな時、何を話すのだろうか。世間話って、平民と貴族の間でも成り立つのだろうか。
ぐるぐると悩んでいる間に、遠目に家が見えてきた。もうすぐ家に帰り着く。
「ひとつ訊きたい」
「え、は、はい、どうぞ」
「きみはなぜ契約書を手紙に同封した? 署名をするかどうか、悩んでいただろう」
私は返事を少し迷う。
ちょっと沈黙を置いて、
「”スパイクナードの精油”は、平民が購入することはできません。アシュレイさまに購入を代理でお願いするのも、もしかしたら問題になるのではと思いました。ご迷惑をかけるわけにはいきません。ですが、もし私が伯爵家の専属調香師であれば、アシュレイさまが購入されたものを下げ渡すのにも問題ないのでは、と」
私が言葉に詰まりながらも辿々しく説明すると、アシュレイさまは唇の端を引いて、面白がるような笑みを浮かべた。
その顔のままルシアンさまに振り返る。
「ほらな? 賢い女だろう。平民ながら、体面を重視する貴族の面倒なやり方をわかっている」
「……さて、どうでしょうか」
ルシアンさまは目を伏せたまま答えた。
「コレット、きみのその覚悟は実に尊いな。あの仕事を完遂するために、自分の将来に決意を固めた。見方を変えれば美しい自己犠牲だ」
「い、いえ、そんなことは……」
私は足を早める。
アシュレイさまはちょっとだけ歩幅を広げて、それだけで綽々と私に追いついている。
ようやく店への階段を前にしたとき、アシュレイさまが長い脚を伸ばして私のいく先を塞いでしまった。
アシュレイさまは笑みを深めて、
「––––俺は認識を改める必要がある。これがただのその場の思いつきで、自分の持つ手札を広げただけだったなら、話はここで終わりだった。だが、きみの反応を見て確信を得た」
「か、確信? なんの確信でしょうか」
「しらばっくれても無駄だ」
アシュレイさまの目が僅かに細められた。
傍目にはいかにも優しげな眼差しに見えるけれど、夜空に煌々と輝く月のような黄瞳で見据えられた私は、狼に追い詰められた子兎みたいな気分になっている。
「コレット。きみは自分が専属調香師にはならないだろうと推測した上で契約書に署名をしたな?」
「ぎくっ」
「……アシュレイさま、どうしてそのような解釈を? 契約書に署名をする以上、それを破棄することはできないのが常識ですが」
「普通はそうだろう。だが、ルシアン。お前がコレットに母の意志を伝えたことで、この賢い娘はこちら側の事情を正確に察知した。いやはや、女の勘というやつかな。それとも調香師というのは人の考えまで読めるのか?」
「と、とんでもありません……その、アシュレイさまのお誘いは身に余る光栄ながら、お母様の反対なさる理由ももっともだ、と思っております。私の意思としてはお招きに応じたいのですが、私の身が理由で家中に問題を起こすのは申し訳なく思います。その場合は、謹んで辞退させていただこうかと」
私がずっと考えていた言い訳を必死に口にすると、アシュレイさまはまるで幼児が大人の分別を理解しているのを微笑ましく思うように、満足げに笑った。
「どうだ、ルシアン。まさに見事な貴族流の交渉だ。俺の顔を立て、かといって母の顔を潰すでもない。招きには応じるが、母の意志を尊重して辞退する。署名した契約書は間違いない。よってスパイクナードの扱いにも対外的な問題は起きない。三者三得、取引とはまさにこうありたいものだ」
「……私が仲介をしたことで情報を与えた、というわけですね。しかもそれを利用されるとは、失態です」
「見事、と褒めるべきだろう」
アシュレイさまは喉を鳴らして笑うと、私の顔をじっと見つめる。
私は居心地が悪く、つい視線を逸らしてしまう。
「コレット、君の推察は見事なものだ。俺の母も強硬でね。俺に許嫁が見つかるまでは、年若い女の調香師を専属で抱えることは許さないという。だが、俺は今日、ますますきみを抱えたくなった。逃すわけにはいかない––––」
と、そのとき、食堂から出てくる人影があった。




