12「火返し」
香炉の中にはすでに焚いた炭を埋めていた。灰はほのかに熱を持っている。その中央に陶器の皿を置き、そこに小瓶から”精油”を垂らした。
熱された精油は香りを強くする。シナモンの乾いた甘さと、ラブダナムとサンダルウッドの深く沈んだ静寂の香り、それらをスパイクナードの重厚な香りが包み込む。
人はどこで香りの意味を知るのだろう。
誰に教えられたわけでもなく、香りによって気分を変化させる。
気持ちを落ち着けたり、心を安らかにしたり、身を引き締めて意識を集中したり。
香りには魔力はこもっていない。けれど、その香りを好む精霊が、私たちの知らぬうちに集い、嗅ぐ人たちにその力を振り撒いているのかもしれない。
スパイクナードの香りは工房に満ちて、周囲の気配が自ずと張り詰めたものに変わっていくのがわかる。
これが神聖な者を迎える香りだと、誰かが定める必要もなく古来より知っていた。精霊にもっとも繋がりを得られる香りだから。
私は香炉を持ち上げ、炉に近づけた。
わずかに立ち上る白煙がゆらめき、炉の奥に吸い込まれていく。炉に両手を当て、私は魔力を込める。そして、炉に住まう精霊に呼びかける。願うように、祈るように、ただ精霊に意識を向ける。
目を閉じ、自分の魔力が精香に宿り、炉の奥へと繋がるように集中した。
どれくらいの時間が経ったのか、ほんの数秒のようにも、十分にも二十分にも思えたころ、炉の奥に熱を感じた。
火の盛る熱が頬を撫でる。
炭が燃えて、鉄が焼けるような匂い。
火が内包する圧倒されるような存在の力を、そこに感じる。
「––––火を護りし御霊よ、我が香と供物をもって、還るべき座へ送り申す。鉄を打ち、血を温めしその声を、今、静けさに返す」
フムルに教わった祝詞を告げる。
––––カン。
と音がした。
それは小さな音。
炉の奥から聞こえるのは幻聴だと思った。
けれど、それは次第にしっかりと聞こえ始める。
カン、カン、カン。
繰り返される音は、硬い金属同士が打ち鳴らされるように、固く、連続している。
私にだけ聞こえているのかと思った。けれど背後で、ガリオさんの声が聞こえた。
「––––親父の、槌の音だ。親父が鉄を鍛えて金床を打ち鳴らしてる。間違いねえ。俺はガキの頃からずっとこれを聞いて育った」
どこか呆然と、信じられない幻を見たような、力の抜けた声。
それで、この音が全員に聞こえているのだと分かった。
ともすればそれは畏れとなる不可思議な現象だった。
人ならざる者が起こす怪異––––けれど人を害する悪意や、逃げ出したくなるような気配がない。むしろ身を包むような火の温もりを感じた。
カンカンカン、と。
鉄を打つ音はさながら祈りのように、工房に響き渡っていた。
「……そうか、別れを告げてくれてるのか。お前の声も姿も見たことはねえが、長い間ありがとうよ。世話になった。お前からすりゃ不甲斐ない仕事だったろうが、よく見守ってくれた」
ドミニクさんの語りかける声––––その時、炉の奥で光が溢れた。
私は思わず目をひらく。
赤と黄色の混ざり合った光は、さながら煌々と燃え盛る炉の火が唸るように風と共に飛び出した。
「な、なんだ! 風が!」
ガリオさんの戸惑う声。
私はとっさに振り返る。
工房の中をぐるりと巡る火は、鳥の姿をしていた。
長い尾をひいて悠々と周り、滑空するようにしてドミニクさんの肩に留まった。
けれどドミニクさんはその姿に気づいていない。炉から唐突に風が吹き出したことに、目を丸くしているだけで。
鳥は首を伸ばし、ドミニクさんの頬に顔を擦り付けた。そして、飛び立つ。
その瞬間、ドミニクさんが表情を変えて、今まさに自分の肩から飛び立った火鳥の後ろ姿を目で追ったように見えた。
火鳥は香炉の煙に混ざるように、ふっと消えてしまった。
赤と黄色の光が砂粒のように砕けて舞い散り、それもやがて余韻も残さず、ただ消えてしまう。
たった今まで、たしかにあった魔力の存在が、今では空っぽになっていた。
香炉に焚いていた”精油”が、いつの間にかすっかり消えていることに気づく。こんなに短時間で消えるはずのないものなのに。
それで”火返しの儀”が終わったのだと、私にも分かった。
聞こえていた金床を叩く音も消えていて、工房の中には戸惑いと、何かが過ぎ去った後に残る空白だけが残っている。
私は香炉から陶器の皿を取り出した。炉の前に逆さにして伏せる。これで、火はもう昇らない。
最後に香炉に蓋をして、私の役目は終わった。
そのとき、再び––––かぁん、と金床が打ち鳴らされた。
慌てて振り返ってみれば、ドミニクさんが金鎚を手に、金床の前に立っていた。そして腕を振り降ろす。
先ほどのあの音色に応えるように、精霊に別れを告げるように。これまでの人生をずっとそうしてきたように、金床は音を響かせている。




