8「人脈あってこそ」
なぜスパイスミートパイなのかは、すぐに分かった。
「シナモンバーク、クローブ、カルダモン……スパイスミートパイと同じなんだ。おばあちゃん、一応、スパイスミートパイのレシピは知ってたんだね。でもジャスミンサンバックは明らかに違うよ」
小さなカードには肉やトマトなどの普通の料理の材料に混じって、スパイスの名前も書いてある。一見するだけなら違和感はない。普通の人は、ジャスミンサンバックと聞いても、あの支配的なほどの甘さの香花を想像できないし、それがどう考えても肉料理には合わないことを知らないはずだ。
レシピの中では、他にラブダナムとフランキンセンスも記載されている。薬草市場に入り浸りよほど香料について勉強をした人でなければ、料理用のスパイスと区別はつかないだろう。どちらも樹脂系の香料で、手に入れるのは難しくなかった。
しかし、そこまでは上手に隠しているのだけれど、やはり料理については詳細を調べる手間が面倒だったのか、あくまでも一見して誤魔化せれば良いと考えたのか、後半はもう混ぜるとか焼くとか、投げやりになって、普通にサンダルウッドやベチバーなどと、香料の名前を箇条書きにしていたりして、私は思わず笑ってしまった。
「手がかりが見つかったのか?」
「うん、調合の仕方も、分量も書いてある」
「よかったじゃねえか。じゃあ、さっさと調合に取り掛からなきゃだな」
「そうしたいんだけど……ひとつだけ、問題があるんだ」
「今度は何を探しゃいいんだよ」
「ううん。どこにあるのかは分かってるの。手に入れる方法がない、ってだけで。このレシピカードには”スパイクナードの精油”が書かれてる」
「ああ、ナルドの聖油か。聖典にも書かれた神聖な香りだな。泥と花の蜜、それに動物の脂を合わせた、複雑で旨い香りだ––––え、もしかしてもうないのか!? あれ好きなのに!」
「あるよ。でもここ十数年で一気に希少になったの。宗教の儀式とか、王族の祭典とか、神聖な場面で欠かせない香りになっちゃったから。もともとの流通量が少ないから、今じゃ市場にはほとんど出回らないの。手に入れられるのは特権階級の人だけ」
一級品のダマスク・ローズがそうであるように、希少な香料はお金だけの問題じゃない。香りを手に入れるために身分や地位が必要になる。
調香師が貴族の専属になることを夢見るのは、そうした手の届かないはずの香料を扱えるようになるからだ。
「スパイクナードを代替できそうな香料はあるけど……それじゃ駄目なんだよね」
「そりゃ他の香料なら誤魔化しが効いたろうが、ナルドの聖油は特別だからな。あれは昔っから精霊に捧げられてきた”聖香油”のひとつだ。匂いだけ似せればいいってもんでもない」
ですよね、と私は頷くしかない。
スパイクナードの香りは、私も子どもの頃に何度か嗅いだことのある限りだ。その数回だけで、記憶に忘れられない香りとして刻まれるくらいには、特別で独特の芳香がある。
祖母がこの”精香”を調合した時代には、まだ手に入れる手段が多かったのだろうけれど、今では香料の販売は厳しく管理されている。闇市という世界もあるらしいものの、私はそこに伝手がないし、購入するだけでも犯罪になる。
「……私じゃ、手に入れるのは無理だ」
呟くと、フムルが「ふうん」と鼻を鳴らした。
そして細長い鼻先をひくひくと動かしながら、気軽に言う。
「じゃあ、あのアシュレイって野郎に頼めばいいだろ。偉いんだろ?」
「……簡単に言ってくれるなあ」
貴族さまにお願い事をするなんて、畏れ多いし、怖い。
交渉を持ちかけるだけでも不敬だろうに、貴族でしか購入できない特殊な香りを売ってくださいなんて、私に言えるわけもない。
けれど、フムルの言う通り、アシュレイさま以外にそれを手に入れられる伝手はなかった。悩んでいても、こればかりは答えは変わらない。問題に対して明確な答えを手にしている。それはきっと、幸運だった。
「––––行くしか、ない!」
私は握り拳を作って立ち上がる。
「おう、貴族の家に乗り込むわけだな! やってやれ!」
「……貴族さまの家に、着ていく服がない。もうだめだ」
私は座り込んで頭を抱えた。
よそ行きのドレスなんて持っているわけがなかった。
そのまましばらく、どうしようと考えていたが、どうしようもないこともある。ドレスを買うしかないけれど、ドレスを買う場所もよくわからないし、そもそもドレスを着たからといって、貴族の家を急に訪ねて入れてくれるわけがない。
幸い、アシュレイさまが一週間後に来てくださるとおっしゃっていたから、大人しく一週間を待つ、という消極的選択もある。
今すぐどうこうできることはないと分かると、空腹が耐え難くなった。眠りこけていたせいでお昼ご飯を食べていなかったのだ。
普段は屋台の軽食や、パンとチーズとハムを買って済ませたりすることが多いのだけれど、ここ最近はついレストランに頼ることが増えている。近いし、美味しいし、ありがたい限りなのだけれど、懐の具合を考えると、毎日通っていたら財布が空っぽになってしまうのだ。
けれどここしばらくの忙しさと悩み事の多さのために、ご飯を買いに行くとか用意をするということが億劫だった。今日も今日とて、自分に言い訳をしながらレストランに足を運んだ。
ほとんど満席の賑わいだった。
仕事終わりにお酒を楽しむ人たちの声で大騒ぎだ。ちょうど食事を終えた人がいて、すれ違うように私は端っこの席に滑り込んだ。
ザックは厨房にかかりきりのようで、姿はちっとも見えない。通りかかった店員さんに注文を済ませて、あとは届くのを待つだけになった。
店内には食器のぶつかる音と、人の話し声とが混ざり合って、ときどき急に沸き立つみたいに笑い声が響く。
そのやかましさの隅にひっそりと混ざることが、嫌いではなかった。大声で響くような笑い声を上げる性格でもないから、賑やかさが羨ましくもある。
行き交う店員さんが、注文された料理を運ぶ途中でも、ひっきりなしに呼び止められて注文を受けている。
これだけ混雑していたら私の料理が来るのにもしばらく時間がかかりそうだな、と推測をつけて、背もたれに身を預けた。
店内を見回していたその時、ふと隣の席の女性に目が移った。
見覚えのある人だった。
女性もまた料理が届かずに手持ち無沙汰だったのか、余らせていた視線が私とぶつかり、互いに「ああ」と思い当たる顔をした。
「あの、先日はありがとうございました」
「お礼を言うのはこっちの方よ。あの軟膏、すごくいいわ」
以前、このレストランで出会って、無香料の軟膏を買ってくれた女性だった。
この女性に渡した軟膏がきっかけで、アシュレイさまが私の香水に興味を持ってくださったのだ。
「……あの、つかぬことをお聞きしますが、アシュレイさまとはお知り合い、ですか?」
私が顔を寄せて小声で訊ねると、女性は手を左右にバタバタと振った。
「やだ、そんな立派なものじゃないわよ。邸宅でハウスメイドをしてるの。アシュレイさまの身の回りのお世話をすることもあるから、あの時は匂いのない軟膏を探してたのよ。でも最近、急にアシュレイさまが匂いに厳しくなくなってね、不思議に思ってたんだけど」
女性もまた身を乗り出すみたいに私に顔を寄せてきた。
内緒話、というより、周りが騒がしくて、こうしないと声がよく聞こえないのだった。
「ねえ、アシュレイさまが急に専属にするって言い出した調香師って、もしかしてあなた?」
「……はい、おそらく」
「やっぱり! あの日、この軟膏をどこで買った、ってすごい剣幕で問い詰められたんだもの! よかったじゃない、ちょっと。こんなところで縁って繋がるものねえ」
「その、ありがとうございます。おかげさまで」
「いいのよ、気にしないで。あなたが作る商品が良いから目に留まっただけのことでしょ!」
からっと笑うメイドの女性の言葉に、私もなんだか気が軽くなる。
「そうだ、ここで会えてちょうどよかったわ。あの軟膏ってまだ買えるかしら? 三つくらい欲しいのだけど」
「それはご用意できますけど、一度に三つも、ですか?」
「いえね、妹が妊娠してるんだけどね、匂いに敏感になっちゃってるらしくて。匂いがないのに使いやすい軟膏ってなかなかないから、送ってあげたいのよ」
「……なるほど、そういう用途が」
たしかに、妊娠するとそれまで平気だった匂いが急に受け付けなくなったり、過敏になることがあると聞いたことがある。
香りがないという特徴を求めるお客さんは、私が思うよりも多いのかもしれない。
「今すぐには在庫がないので、少しお時間をいただけますか?」
「ええ、それはもちろん。どうしようかしら、手付金は必要?」
私は首を左右に振りかけて、ふと思いついてしまう。
その思いつきを実行すべきかどうかを思い悩んで、けれど決めるのは一瞬だった。他に手段がないことはすでにわかりきっている。
「––––あの。手付金も、軟膏のお代も結構です。代わりにひとつ、お願いを聞いていただけませんか?」




