7「思い出から届くレシピ」
自分で自分のほっぺたをつねってみる。
「……いひゃい」
夢じゃない。夢じゃないとなると、逆に困る。何だったんだろう、いまの。幻覚?
どう考えても説明がつかない状況に心が腰を落ち着けず、ふらふらと揺れながら、ほとんど無意識に部屋に戻り、椅子にすとんと座った。
フムルが訝しげに私を見上げている。
「おい、えらく無口な客だったな。コレットが一人でずっと喋ってるだけだったろ」
「怖いこと言うのやめてくれますか? もしあれが、そういう存在だったら、私は今日、フムルを抱っこして寝るから」
「どういう宣言だよ」
「待って、意味がわからない。あれは誰? どういうこと? 何の目的で? それならいっそ驚かしてくれた方が目的意識がはっきりしてて助かるのに!」
「……説明してくれよ」
「私もどう説明したらいいかわからないんだってば! スパイスミートパイを作れってどういうこと!?」
叫んで、頭を抱えて、天井を見上げて––––ふと、思い出す光景があった。
私は衝動に突き動かされるみたいに立ち上がった。
「どわっ!? び、びっくりさせんなよ!?」
フムルの悲鳴を置き去りにして、私は部屋を飛び出した。
居間の端にある小さな収納戸棚を開けて、仕舞い込んである荷物を片っ端から引っ張り出す。祖母の遺品はあまり多くない。物を溜め込む人ではなかったから、ここにあるものがほとんど全てだ。
「おい、急に家探しかよ」
フムルがソファの背もたれの上に駆け上がって、呆れたような声で言う。
私は手を止めずに、顔だけを向けた。
「小さいころね、夜更けに目が覚めたら、おばあちゃんがキッチンテーブルでランタンをひとつ灯して、小さなカードに何かを書きつけてたの」
「はあ?」
「何をしているのって訊いたら、おばあちゃんが、レシピカードを書いているのよって。料理の作り方を忘れないように、って」
祖母が小さな木箱にカードをしまうのを、私は確かに見たはずだ。
レシピカードという文化は、主婦の間では一般的なものだ。
料理の手順や調味料を書きつけたもので、それを配ったり、家族で引き継いだりする。レシピカードをまとめたものが売られていて、それで新しい料理を覚えたりもするらしい。
「でもね、おばあちゃんがレシピカードを見ながら料理を作ってるところなんて見たことがないの。いつもその場にある材料と調味料を適当に組み合わせていたから。おばあちゃん、料理は下手だった」
調香では無類の繊細さを見せる祖母だけれど、料理においては創造性を欠いていた。本人曰く、調香で厳しく自分を律するために、料理にまで気遣う余裕がない、とのことだったけれど。
だから祖母が料理を作るよりも外食がほとんどだったし、祖母が料理にこだわっている様子もなかった。キッチンに立つ背中よりも、調香机にいる祖母の姿の記憶がほとんどだ。
私は棚から木箱を引っ張り出して、床に下ろした。蓋を開ける。
「あのおばあちゃんが、わざわざレシピカードを作って大切に保管するなんて、おかしい」
「いや、それは個人の趣味じゃねえか……?」
「ご飯なんてお腹が膨れたら何でもいい、香りで生きていけたらいいのにっていつも言ってた人だよ!?」
「お、おう、そうか。コレットは食い意地張ってるのにな」
「それはたぶんお父さん譲り。お父さんの顔も覚えてないけど」
「笑えねえし気まずいわ」
私が遺品をまとめたとき、あのレシピボックスを見た覚えがある。
願うように木箱の荷物を漁っていく。一番底に、記憶よりも小さくて、記憶と同じように深い飴色をした箱があった。
私はそれを取り出して膝に抱え、留め具を外して蓋をあけた。
手のひらサイズのカードが詰まっていて、黄色く変色してカードの端が折れたものから、真新しいものまで。ふと一枚を手に取ると、懐かしい祖母の文字が並んでいる。
右肩上がりで、端々が釘のように少し尖っていて、無骨で真面目な字。
懐かしさが込み上げてきて、そこに祖母の姿を見たような気がした。胸がぐっと、詰まるような感じ。
「大丈夫か?」
「……ハリネズミって、気遣いもできるんだ」
「そりゃ、オレサマだからな」
「ありがと。大丈夫」
息を吸って、カードを戻した。
もし祖母の伝言に意味があったなら、探すべきカードは決まっていた。
「……スパイスミートパイ」
カードは祖母らしく、頭文字ごとに丁寧に分類されていた。目的のものを見つけて、抜き出して、目を通す。
そこにはたしかに、スパイスミートパイの作り方が書いてあった。普通の人が見れば、それはただの”調理法”に見えるだろう。けれど、私が––––”精香”を知る人間が見れば、それは間違いなく”調香法”だった。
「……そういえば、調香って、レシピとも呼ぶんだっけ。料理のレシピと意味を掛けてるんだろうけど、あんまり面白くないよ、おばあちゃん」
けれど何だか不思議と込み上げるものがあって、私はカードを手にしたまま笑ってしまった。
ふふ、と笑い声が漏れる。
カードにぽたりと滴が落っこちて、インクの文字が滲んだ。
笑いたいのか、泣きたいのか、自分でもさっぱり分からない。
おばあちゃんが残してくれたレシピボックスを抱えて、私は泣いたり笑ったりした。どう見たって変だったけれど、フムルはからかいも慰めもせず、ただそばにいてくれた。
あの日、小さな私が見たおばあちゃんの記憶が、ここに繋がって戻ってきたみたいだった。おばあちゃんはもういなくて、でもおばあちゃんが残してくれたものがあって、それは嬉しいようで、やっぱりちょっと寂しかった。
箱を抱きしめる。
ゴツゴツとして、すべすべで、ひんやりとしている。
でも少しだけ、胸の中に暖まるものがある気がした。




