6「祖母の伝言」
誰かが扉を叩いている。
ふと目を覚ましたのは、その音のせいか、フムルが私の髪を引っ張って「おい、客じゃねえのか」と耳元で繰り返し叫んでいたからだろうか。
「……うう、ねむい、あたまいたい」
眠りと現実の狭間から引き摺り出されたせいで、身体も頭も鉛が詰まっているみたいだった。それでも接客業の習慣のせいか、お客さんが来たなら迎えねばと、無理やり身体を起こした。
椅子を立ち、ふらついて作業机にぶつかり、痛みに悲鳴をこらえながら部屋を出た。廊下で壁に肩を擦り付けながらなんとか進み、頭を振ってせめて意識をはっきりさせようとしたけれど、それがどこまで効果があるのかは不明だった。
頬を三度、両手で挟むように叩いてから、私は店舗に出た。
窓の外はいつの間にか夕暮れで、差し込んだ茜色の夕日が店中を真っ赤に染めていた。
施錠したガラス扉の向こうに、品の良いお婆さんが立っていた。私と目が合うと、お婆さんが物腰柔らかに頭を下げる。
私も物真似をするように頭を下げた。鍵の施錠を外して迎え入れる。
「お眠りだったかしら。ごめんなさいね」
「いえっ、すみません、お気になさらないでください」
ようやく目が覚めてきた。
反射的に髪の毛を撫でつけて、口元を抑える。よだれなんか垂れてやしないかと気になった。
「あの、何をお求めでしょうか」
やけに赤色の深い夕暮れが、寝起きの瞳にはあまりに眩しい。
私は少し目を細めながら、お婆さんに訊いた。真っ赤な日のなかで、お婆さんが柔らかく微笑んでいるのが分かる。
「実はね、お買い物に来たわけではないの。あなたへの頼まれごとを伝えなきゃと思って」
「頼まれごと、ですか? 私に?」
「ええ、そう。あたしね、ドミニクの妻です。夫が仕事をお願いしたでしょう?」
ああ、と納得がいった。年頃も同じくらいだろうか。
「精霊信仰なんて古臭い、なんていつも言っているけれどね。あの人、一日だって仕事場にお供えを欠かしたことがないの。それがあなたのお婆さまとの約束だから、って。そのおかげか、あの歳になるまで無事に仕事を務められたの。若い方からすると、ちょっと面倒なお仕事だとは思うのだけど」
いえ、と私は首を左右に振る。
「あの人がね、いつも言っていたの。火迎えの香りを捧げてもらったんだから、その炉を塞ぐなら、火返しの香りを捧げてもらわなきゃ収まりがつかない、精霊に感謝を伝えたい、って。骨折りをお願いできるかしら」
「……私も、ぜひそうしたいとは思います」
ドミニク夫人の真摯な願いに、応えたいという気持ちはある。
私にできるなら、いくらでも骨折りをするだろう。けれど、実際の問題として、どうすればいいのか、その手がかりすらないのが現状だった。火返しの儀を行いたくても、そのやり方がわからないのであれば、私には何のやりようもない。
わずかに視線を伏せた私の様子に、ドミニク夫人が何かを読み取ったように話題を変えた。
ああ、そういえば、と前置きして。
「あなた、コレットさんよね? お婆さまから話を聞いたことがあるわ」
「祖母から、ですか?」
「もう数年前になるかしら。お婆さまがうちにいらっしゃったの。火返しの儀を気にしてくださったみたいで。もし自分ができないときは、孫娘に任せてほしいって、言い置いて帰っていかれたの」
「私に任せると、祖母がそう言ったんですか!? あの、他には、何か言っていませんでしたか? 火返しの儀式のための調香の”処方箋”についてとか」
祖母の遺してくれた手がかりに期待して、私の声音に必死に色が混ざっている。
ドミニク夫人は意外なほどあっさりと、「ええ、それが頼まれごとなの」と頷いた。
「お婆さまがいらっしゃったときにね、もし孫娘が仕事に困っていたら、伝えてほしいって言われていたことを、あたし今まですっかり忘れてしまっていて。お婆さまがね、あなたに”スパイスミートパイを作りなさい”って」
「––––はい?」
訊き返す、というより、呆然として息が漏れて、それがたまたま返事の音になっただけだった。
ドミニク夫人は困ったように笑うばかりで、それが余計に、祖母の言葉に間違いがないことを証明しているようだった。
「それだけなんだけど、お役に立つかしら」
「……えっと、はい、多分。何か意味があるとは、思います」
とは言うものの、さっぱり分からなかった。
どうしてスパイスミートパイ?
頭の中に疑問が増えただけで、まるで答えにはなっていない。
ああもう! おばあちゃん!
手がかりを残すんだったらもっとわかりやすいやつにして!
「これですっきりしたわ。夫のこと、お願いしますね」
「あ、はい、ありが––––」
唸って伏せていた顔を上げると、不思議なことが起きていた。
先ほどまでそこにいたはずのドミニク夫人の姿が見えない。夕明りが店を赤くしているだけで、そこに最初から誰もいなかったみたいに、気配はしんと穏やかなままだった。
私は扉を開けて店の外にまで出る。
階段の下を覗くけれど、そこにも誰の姿もない。
仕事終わりの人々が行き交うばかりだ。
「––––私、寝ぼけてる?」




