5「孤独の迷い」
貴族、という人と、顔見知りになることがあるとは思わなかった。
貴族の人が、こんなに礼儀正しく、それでいて気品を身に纏っているとは思わなかった。
その貴族の人の専属の調香師になるかどうかなんて夢物語みたいなことに悩む日が来るとは思わなかった。
ふと目が覚めたら調香机で居眠りをしていて、どこからかすべては昼寝に見た夢だった、なんてことになったって、私は驚かない。
今まで、どこかで真剣にアシュレイさまの勧誘を間に受けていなかったのかもしれない。契約書をもらっても実感がなかった。自分がそんな境遇になるなんて、思いもしないで生きてきたのだから。
けれどここにきてはもう、これは現実だと受け入れるしかない。アシュレイさまの言葉を受け入れれば、私の人生はそこで一変する。
人生の節目の多くは後になって振り返って分かるものだけれど、私はそれを目の当たりにしている。ここで悩み、決めることができる。それはきっと幸運なのだ。問題は、どうするのが正解なのか、私自身さっぱりわからない、ということで。
「“精香”か……」
自分で作ったものなのに、その価値を私自身が測りかねている。
私はカウンターを出て、店の扉を施錠した。
外では行き交う人の服や帽子を風が吹き煽っている。窓がカタカタと揺れる。ぼんやりとした意識の空白の中に、その思いつきはするっとやってきた。
「––––あ」
どうして思いつかなかったのだろう?
私は駆け足で部屋に戻る。
自分の思いつきを形にしたい。その思いが私の頭の中で私を蹴飛ばしていて、椅子に座るのも、調香道具を用意するのも、いつもより手荒になってしまった。
「なんだなんだ! なにをそう急いでんだよ!」
フムルの昼寝を邪魔してしまった。背負ったツンツンとした針が逆立っている。寝ぼけ眼のフムルに、私は早口で答える。
「私にも使うの”精香”! どうして思いつかなかったんだろう! そうすればおばあちゃんがどこに”処方箋”を隠したのかも分かるし、そう、お母さんのことも、お父さんのことも思い出せるかも。ねえフムル、昔の記憶を思い出すための香りにはどんな香料がいるかな? ラベンダーに、サンダルウッド、あとはミルラにブロッサムも良さそう!」
「おい、コレット」
「懐かしいって感じる匂いがいいと思うんだけど、おばあちゃんってどんな匂いだったかな。いつも薬草とか、いろんな香料の匂いがしてた気がする」
フムルがため息をついた。
そして私の顔を見返して、落ち着いた声音で私を制した。
「––––”精香”は自分には使えない。お前も本当は気づいてるだろ」
フムルの言葉は、あっという間に私の心の火を鎮めてしまった。
私は香料の瓶を手に取ったまま、フムルを見つめた。
「意味がないとは言わねえさ。だけどな、効果はせいぜい一瞬くらいのもんさ。”精香”は、薬とも毒とも言える。魔力ってのはその耐性だ。毒を防ぐが、薬も防ぐ」
「……そっか」
「だからこそ、お前は”精香”に対して冷静なんだよ。魔女は自分の魔法に振り回されないように、生まれついてるんだ。魔女はあらゆる魔法を受け付けない。お前がどんな望みを込めても、それはお前自身には作用しない」
「それじゃ、魔女は他人のために”精香”を作り続けるしかない、ってこと? 誰かの人生を良くするため、他人の幸せのために、自分を消費し続けていくってこと? それが魔女の役目?」
「もしそれを嫌だって言うなら、お前の婆さんが魔法も”精香”も教えなかったのは正しかったんだろうな」
言われた言葉は心の壁の隙間を縫って、私の深いところに刺さったみたいだった。
なにを言い返すこともできず、私はただ力の抜けた手で、香料の瓶を握っていた。
精霊に願いを託す技術を持ちながら、それを自分たちのためには使えず。
他人のために魔法を使えば、異端者として迫害される。
だったら、魔女はなんのためにこんな力を持っているのだろう。
おばあちゃんが私に、何度も魔法を使うなと言い続けてきたのは、その苦しみから遠ざけるためだったのだろうか。
”精香”の技術を教えてくれなかったのも、至る答えがこれだとわかっていたからだろうか。
魔女は本当に叶えたい願いを形にすることはできない。
手に入るのは、調香師としての名声、地位、そしてお金。それも、一歩間違えれば命懸けになるようなもの。
「……”精香”をしたのは、間違いだったのかな」
「さあな。それはお前が決めることだろ」
「分からないから訊いてるの」
「お前に分からないお前の気持ちが、オレサマにわかるわけないだろ」
「……冷たいハリネズミだなあ」
こんな時に相談できる家族が、私は欲しかった。
おばあちゃんでも、お父さんでも、お母さんだっていい。
私を慰めてくれても、叱ってくれても、話を聞いてくれるだけでもいい。
頼りたい、と思った。
どうすべきかも、自分の行いが正しいのかも分からない今、まるで海にひとりで漂っているように寂しく心細い。
”精香”によって、誰かの助けになれていると思った。
私にできることがあるのだと思った。
けれど”精香”で人の病を治すこともできず、失ったものを取り戻すこともできず、自分の過去の記憶すら手が届かない。何もかもができるような魔法は、なにひとつまともにできない半端な技術でしかない。
取り出して散らかしてしまった調香の道具や香料を棚に戻していく。考えはまとまらない。ぼんやりと、ぐるぐると、答えにならない思考を続けている。
何もかもを手放して、ベッドの中に潜り込んで眠りたかった。現実逃避に違いないけれど、私だって真面目に生きているのだ。それで逃避したくなるような現実のほうが悪いのではないか。逃避くらいはさせてほしい。
重たいため息をひとつこぼして、私は調香机に突っ伏した。
私がやってきたことのすべてに、意味があったのかどうかも分からなくなっていた。全ては余計なことだったのかもしれない。私を専属調香師にと誘ってくれたアシュレイさまだって、一縷の望みを”精香”に見てしまったことで、かえって苦しみを大きくしてしまった可能性だってある。
ドミニクさんの依頼である”火返しの儀”だって、手がかりはなにもない。
祖母はきっと、私に”精香”を継がせる気はなかったのだろう。
でなければ、祖母は必ず手がかりを残したはずだ。そういう気配りをする人だった。
だったら、私は道を間違えている。
思いつきで魔法を使ってしまったから、こうなったのだ。祖母の言いつけを守って、ただおとなしく、香水を調合する日々を淡々と積み重ねておけば良かったのだ。
お客さんもなくて、私を求める人もいなくて、誰の役に立てている実感もなかった日々。街の片隅にひとりで日々を繰り返している毎日に寂しさは感じていたけれど、少なくとも自分の行いに悩むことはなかったように思う。何かをするということは、何かを後悔するということなのかもしれなくて。
それはなんだか、辛く、苦しいことだった。
目を閉じて、おでこを腕に押し付けて、私はぎゅっと自分の世界に閉じこもる。
フムルが何か呼びかけている気がしたけれど、その声さえ聞こえなくなっていた。




