4「必要とされること」
店舗ではカウンターに屈み込むようにしてアシュレイさまがじっと待っていた。
手を拳にして、目をぎゅっと閉じている。香りのために頭痛がひどいのかもしれない。
その姿を傍目に見てしまうと、そんな時に余裕がなくなるのは仕方のないことだと、私も考えを改めた。
優れすぎた嗅覚のために香りを苦痛に感じる。その苦しみはきっと誰にも理解はされないし、治療法もない。
だからこそ、私の香水にも縋るしかない。私にとっては香水の小瓶のひとつでしかなくても、アシュレイさまに取っては日々の生活をまともに送るために欠かせない特効薬になっているのだろう。
「……アシュレイさま、こちらを」
声をかけると、アシュレイさまは苦しげに目を開けた。
「すまない。本来なら支払いが先だろうが」
「気にしないでください。さ、お早く」
頷きを返すのもやっとの様子で、アシュレイさまは小瓶の蓋を開け、指で口を塞いでから逆さにする。そうして指先についた香水を手首に塗り、ハンカチと入れ替えるようにして鼻に当てた。
最初はおそるおそると、しかしだんだんと深く、呼吸をする音が聞こえた。
「––––信じられない思いだ。楽になった」
顔を上げたとき、アシュレイさまが力の抜けた笑みを浮かべた。耐え難い苦痛がようやく過ぎ去ったのだろう。
それでも何度か手首に鼻を寄せてから、アシュレイさまは姿勢をただし、洗練された仕草で会釈をした。
「改めて非礼を詫びさせてくれ。そして気遣いに感謝も。きみがこれを準備してくれていなければ、ここで醜態を晒し続けていただろうからな」
「……いえ、元々は不完全なものを渡してしまった私のせいでもあります」
私も頭を下げ返す。
試作品とはいえ、私自身、どこかでその効能がもっと長く続くものだと安易に考えていた。フムルが教えてくれなければこうして改良品を用意しておくことはできなかっただろう。
「ここしばらく、この香水に頼りすぎていたのを痛感した。快適さを当たり前のように思えば、苦しみの密度は増すものらしい」
アシュレイさまは自分の言葉を確かめるみたいに小声で言った。それから、気持ちを切り替えたみたいにしっかりとした視線で私を見る。
「これでますます痛感した。俺の人生において、きみの作る香水はなくてはならないものだ。きみをどうあっても俺の専属の調香師として迎えたい。きみに頷いてもらうためなら、どんなものでも用意するつもりだ」
様相を一変させてしまえるだけの威厳というものを、人はどうやって身につけるのだろう。アシュレイさまの振る舞いは貴族として人を従えるだけの迫力があった。
これが交渉と呼ぶべきものなら、私は頷くことしかできなかっただろう。たとえほんの少し前まではただ薬を求める病人かのようだったのに、ひとつ区切りをつけただけで別人のようになってしまう。
「……あの、そのお話なのですが。先日、ルシアンさまがいらっしゃいました」
「聞いている」
「アシュレイさまのご提案は、光栄な話だと恐縮する次第です。ですが、私のことを快く歓迎したくないという方がいらっしゃるのでしたら、私としても」
「その件については申し訳ないことをした。俺の手抜かりだ」
アシュレイさまはこめかみを押さえた。
「母は昔から物事を先回りして考える癖が強くてな。それに俺のことになると、少々、想像力が豊かだ。きみのことを知って、いらぬ用心をしたらしい。きみにも不快なことだったろう。すまない」
「い、いえ! その、ただ驚いたというか。それだけですから」
「ただ、”処方箋”を買い取りたいというのは、俺としても同じだ。正直、この香水が万が一にも途絶えてしまう可能性は考えたくないんだ。それはわかってほしい」
「それは……はい、分かります」
先ほどのアシュレイさまの様子を見れば、むしろ私の方がことの重大さを理解できていなかったかもしれない。
アシュレイさまにとって人生を左右するほどに重要なものを、製作者である私が軽々しく扱うわけにはいかない、と身を引き締める思いだった。
「きみを当家に招くという提案は変わらない。”処方箋”については折りを見て再び交渉させてもらいたいが、その”処方箋”を得たことできみの待遇を変えるつもりは一切ない、とここに改めて宣言しておきたい」
「……ご配慮いただき、ありがとうございます」
私は頭を下げた。
貴族という特権階級の方々への、市民の評価は芳しくない。私自身、今までは近寄り難い存在だと思っていた。だからこそ、アシュレイさまがここまで私を尊重して、条件を譲歩してくださっていることに驚くと同時に、申し訳なくも思う。
この場で頷いて、”処方箋”を渡してしまえば、私の悩みもあっという間に解決するだろう。けれどそれは、私が魔女であるということを明かすことに他ならず、そんなことをすればどうなるか。
教会に知られたら宗教裁判で尋問され、良くても禁固刑。もしかすると死刑だ。それは私の臆病な妄想ではなくて、実際に歴史が証明している。本物の魔女かどうかではなく、怪しいからというだけでそういう処遇を受けた人々はいくらでもいた。
貴族の方の専属調香師という立場は夢のようだけれど、同時に身の危険にも関わる問題になりつつある。
「改めて、俺の誘いへの返事を訊かせてもらうことはできるだろうか?」
「……まだ、考える時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「なにを考える? きみの懸念点はなんだ?」
「その、いま、大事な仕事を抱えていまして。まずはそちらに専念したいんです」
とっさに出た言葉は、自分でもどこか上辺だけの空虚さを感じた。それが時間稼ぎ、あるいは自分の感情をはっきりさせるための逃げ道として利用しているのかもしれない。
けれどこの仕事––––若かりし祖母から引き継ぐものを、半端にしたくないという気持ちは嘘じゃない。
アシュレイさまは黙ったまま私の視線を向けている。
私もまた、その視線を見つめ返す。
「俺の誘いをここまで引き延ばす人間は珍しい」
「……失礼を重ねているのは承知しております」
「だが、職人が仕事に注力するのを、やめろとは言えないな。だが話も交渉も進まないのも困る。一週間後にまた来ても?」
「––––はい。それまでには」
「よし。では俺はこれで。代金は前回と同じでも? 改良に際して価格が代わっているなら、言い値で払うが」
「い、いえっ。同額で結構です!」
「そうか。今日は押しかけてすまなかった。きみのおかげで本当に助かった」
お礼の言葉とともに、代金をカウンターにおいて、アシュレイさまは店を出て行った。私はその背中を見送ってしばらく、そこで立ちっぱなしになっている。




