2「香りなどこの世から消えてしまえばいい」
この世からあらゆる香りが消えてしまえば良いのに。
アシュレイは言葉にしてしまう前に口の中で吐息に変えて、深く吐き出した。
それは物心ついたときから願い続けてきた本心だ。しかし今のところ、それは神の意向に反することらしい。
もし香りが煙のように目に見えるのであれば、あの会場は濃霧に覆われたように話し相手の顔すら見えないに違いない。その香りに当てられて、最初は鼻の奥の焼け付くような痛みだったものが、今ではこめかみを左右から万力で締め付けられるような耐え難い苦痛へと成り代わっていた。
「アシュレイさま、こちらを」
「助かる」
社交場から控え室に抜け出してきたアシュレイに、従者が真白いハンカチと水差しが置かれた銀盆を差し出した。コップに一杯の水を飲み干せば、体内でぐるぐると混ざり合った香りがいくらか和らぐ。
ハンカチを取って鼻に当てながらソファに腰を落とし、背もたれに身を預けた。
名家として知らぬ者のないフォン・ラヴァン伯爵家の次期当主としてはあまりにだらしない姿だが、その特性ゆえの苦労を見続けてきた従者は、この時ばかりは小言を控えることにしている。
貴族に連なる者として、王宮での社交場は決して避けられる場所ではなかった。
理由もなく欠席すればたちどころに噂はめぐり、「次期フォン・ラヴァン伯爵は王政に思うところがお有りらしい……」などと要らぬ勘繰りをされかねない。
アシュレイ自身、社交場での振る舞いの重要性は理解していた。
ここではあらゆる情報が交わされながら、また四六時中の振る舞いを観察される。傍目には華やかな遊びの交流場に見えても、その水面下では言葉のない政治的駆け引きが行われている。
「今夜の香りは一段と濃い。あんなものが流行っているのか? まるで獣の巣に押し込められたようだ」
「アシュレイさま。当家に割り当てられた控えの間とはいえ、誰に聞かれるとも知れません。お言葉にはご注意を」
「分かった。言い直そう。厩舎で一晩を過ごす方が気が休まる。馬は香水を自分にぶちまける趣味はないからな」
ふう、と従者はため息と共に首を横に振った。
長い付き合いだからこそ、アシュレイの気持ちも理解はできる。
「ここ最近は宮廷付き調香師が考案したムスクと呼ばれる新しい香りが流行りです。あれは動物的な重厚な匂いが特徴ですから」
「それを皆が喜んで嗅いでいるのか」
「甘く官能的で、これこそ夜の香りと淑女たちに評判だとか」
「そうか。それは素晴らしい香りなんだろう。あとでじっくり楽しむよ」
ひとかけらも同意していない声音で答えて、アシュレイはハンカチに集中するように目を閉じた。
ミントなどの清涼感のあるハーブの香りを染み込ませたそれは、アシュレイにとっては強い匂いに曲がりそうな鼻を守るための命綱のようなものだった。
とはいえ、それも強い匂いをまた別の強い匂いで打ち消すだけであって、どちらの方がまだ我慢できるか、という選択でしかない。
数年前に隣国から嫁いできた新しい王妃は、アシュレイからすれば偏執的なほどに香水という文化を好んでいた。
王は歳の離れた王妃のその趣向に応えんと声を上げ、いつしか王宮では日替わりで香りが焚かれるようになった。それを”芳香宮”などと貴族は持て囃し、香りにこだわることこそが貴族の嗜みなどと、新しい文化が隆盛しつつある。
誰も彼もが何かしらの香りを身につける。専属の調香師を抱え、大陸中から貴重な香料を掻き集めては、やれこれが新しい香りだと社交界で自慢をする。
そうした文化を、アシュレイばかりがまったく理解できないでいた。
ムスクとやらがどれほど名の高い香りであろうと、鼻にこびりつくような甘ったるい獣臭さは耐え難いものがあり、他者がいくら褒めそやそうと、アシュレイにとっては悪臭でしかない。
今日の夜会ではいつにも増してアシュレイの嗅覚は負担を強いられ、すでに三度、こうして中座して控室で休憩を挟んでいた。
「……これではまた父上が頭を抱えそうだ」
アシュレイのぼやくような独白に、従者は沈黙を返事とした。
現当主であるアシュレイの父は、一昨年に患った流行病の後遺症を引きずり、めっきり体力が落ちてしまった。ゆえに表舞台にはもっぱらアシュレイが立つようになっている。しかし、こと貴族の中でもっとも重要な社交場での振る舞いにこうした難があるがために、まだ代替わりという手続きを進めることができないでいた。
理由もなく何度も夜会を中座しても、次期後継ぎならばまだ目こぼしがある。これが当主ともなれば、どうにも言い訳は立たない。夜会での社交を十全にこなせない当主などあってはならないのだ。
それをアシュレイも理解している。
それでも耐え難いものはあり、会場で座り込んで醜態を晒すか、狐のようにさっと姿を消して巣穴で丸くなるか、どちらがマシかは明白だった。香りというのはまったく、どうしようもない。
だからこそ、やはりアシュレイは願うばかりだった。
ああ、この世から香りなどなくなってしまえばいいのに、と。
そのとき、扉がノックされた。
アシュレイはすぐさまハンカチを胸にしまいこみ、脱力していた姿勢に芯を入れた。すっくと立ち上がれば表情は改まり、そこにはもう一分の隙もない伯爵家の次世代を担う男が立っている。
従者が扉を開けると、そこには見知ったメイドが立っている。
「どうした」と訊ねる従者に、メイドは小声と共に手に持ったものを差し出した。
「つい先ほど、コルレッティ家の方が来られて、これをお渡しするように、と。アシュレイ様のご体調を心配なさっているとのことでした」
「そうか。ご苦労」
従者が受け取ったのは薄い封筒で、手触りからして中には便箋一枚。
コルレッティ家ならば、手紙の差出人はアシュレイの婚約者の候補のひとり、レティシアからに間違いなく。
従者が手紙を持ってアシュレイに引き渡せば、受け取ってすぐ、その眉間に皺が寄った。それはレティシアへの感情というよりは、封筒に振り撒かれた香水への忌避感からだった。
手紙にしろ贈答品にしろ、それが自分からのものであると示すために、香水やクリームで香り付けをするのが習慣として根付き始めていた。おかげでアシュレイは執務中にも匂い消しのためにハンカチが手放せなくなりつつある。
レティシアはその若さのためか、香水をやたらとつけたがる癖がある。
これまでに貰った手紙のどれもが香りが後を引いた。文字を飾るのが純粋な気遣う気持ちであっても、それを覆う香りにはため息を抑えきれず、アシュレイは封筒を受け取り––––。
「––––本当にコルレッティ家からのものか?」
疑念と共に視線をメイドに向けた。




