3「スパイスミートパイの香りを作ろう」
香りを抽出するための方法はいくつかあって、調香師は目的のために使い分ける。
いちばん単純なものは圧搾だ。花びらや果実を搾り、布で濾すだけ。
その次は浸漬で、これはアルコールや油に漬け込んで香りがじっくりと溶けるのを待つ方法。
そしてもっとも伝統的かつ広く使われているのが、水蒸気による蒸留法だ。
専用の蒸留釜の中で、沸騰させたお湯の上に素材を敷き詰める。水蒸気が素材から香りを取り出してくれるから、その蒸気を冷却装置で冷やして再び液体に凝縮する。
今回のスパイスミートパイの香りを取り出すにしても、やるべきことは変わらず、蒸留釜で火にかけるのがいちばん良い。
ただ、普段繊細な香りを蒸留している以上、同じ蒸留器でスパイスミートパイを火にかけることはできない。油と肉の香りが残って、ローズ・ウォーターがローズ・ミート・ウォーターになったら泣くに泣けない。
ということで、私は作業部屋の棚から小型の古い蒸留器を引っ張り出して、作業台に設置した。
「帰ってくるなり爆薬でも抱えてきたみたいな顔してんな。今度は何をとっ散らかすつもりだ?」
「残念でした。抱えてるのはスパイスミートパイです。これの香りを取り出したいの」
「人間ってのはどうしてそう訳のわからんことをやりたがる?」
フムルは黒々とした瞳で私を見上げて首を傾げた。
「いろいろとあるの。ねえ、精霊の力で美味しい香りってできないかな」
「そりゃ無理だろ。どんな匂いが美味しいのかを決めなきゃいけねえ。香りを決めるのは調香師の役目だ」
それもそうか、と私は頷く。なんてもっともなことを言うハリネズミなんだろう。
一夜明けても姿を消していない喋るハリネズミは、どうも私の幻覚や妄想ではなくて、本当に香りの精霊のようだった。
ザックからの相談を聞いて、まずフムルのことが頭をよぎった。
フムルならどうにかできるんじゃないか、って。フムルの助言に従って、私の魔法で香水になにか特別な効能を宿せるかもしれない、と考えたのだ。
ただ、胃袋を満たしても身体の中にぽっかりと足りないままの感覚が残っている。朝にエリックのために最後の最後まで使い果たした魔力の収まりどころなのかもしれない。私の中に肝心の魔力が欠けていて、魔力を必要とする精香はできそうにない。
どのみち魔力を込めるにしたって、香りのベースが必要となるのだから、まずやることはこのスパイスミートパイから香りを取り出すことだった。
しばらく使っていなかった蒸留器を加熱して、内部の洗浄を兼ねて残っているかもしれない以前の香りを飛ばす。
その間にザックからたっぷりと受け取ったスパイスミートパイをキッチンに運び、まずは小型の蒸留器に入るだけの少量を取り分けた。それをナイフでよく刻む。こうすることで香りが抽出されやすくなる、はず。たぶん。
それを浅皿に移して、蒸留器の中に設置した。下部では精製水がこぽこぽと沸騰して、蒸気を沸き上げている。これがスパイスミートパイから香りを引き出してくれるのだ。
最後に蒸留器から伸びた細い管の先に新しくフラスコを設置すれば、準備は完了だ。あとはここから、香りが抽出された香味水が出てくると思うのだけれど。
椅子を目の前に引っ張り寄せて、わくわくとした気持ちでじっくり待つ。
蒸留器の横にフムルが座って、どこか呆れた様子で眺めている。
「なんだって食い物を? 目の前にあるんだから食えばいいだろ。お前、変な趣味でもあるのか? それとも俺たち精霊と一緒で、香りだけ食ってんのか?」
「れっきとした人間です。これも依頼なの。味と香りが分からなくなったお婆さんがいてね、その人のために食べ物の香りを凝縮した香水が作れないかって。匂いをより強く感じられたら、食欲も湧くかもしれないでしょ」
「ふうん? 香りも味も必要なのか、人間ってのは。いちいち不便だね。お、香りがしてきたな」
フムルの長い鼻がふんふんと小刻みに動く。
たしかにスパイスミートパイの芳香が漂ってきた。
水蒸気の熱が食材の中にまで浸透しているのだろう。花びらを抽出するのにも数時間はかかる。この調子ならスパイスミートパイはもう少し短くてもいいかもしれない。
ぽたり、と最初の一滴がフラスコに落ちる。まだ水蒸気ばかりが多く、ほとんど色のついていない水だ。蒸留自体はうまくいっていることを確かめられたので、私は席を立つ。
「フムル、このまま見てもらってていい? 私、開店準備をしてくるから」
「オレサマは小間使いじゃねえぞ」
「じゃあ蒸留責任者ってことで。しっかり管理をお願いね」
「責任者か、重要な役割だな。オレサマに相応しい」
それでいいんだ、と苦笑しつつ、私は部屋を出た。
店舗の掃除をしたり、棚にある商品の品質を確認しながら磨いたり整理をしたり。その合間合間に、ちょこちょこと部屋に戻って蒸留の調子を確認する。
それは私の日課であって、抽出している素材が花や木から、スパイスミートパイに変わっただけとも言える。
それとひとつ、この家に私以外の誰かがいること。
今までずっとひとりで黙り込んだまま仕事に勤しんでいたけれど、いまは作業部屋に行くたびに、フムルと言葉を交わす。それが不思議な気持ちだった。
昼を過ぎて小腹が空けば、クッキーとチーズだけの簡単なもので済ませて、じっくりと蒸留の結果を待った。
フラスコには、スパイスミートパイを水で薄めたままの赤茶色の香味水が溜まっている。十分な量が抽出できたから、火を止めた。
花びらなどの香料を蒸留すれば、水と油の二層に分かれるものだ。油の部分が匂いの凝縮された精油となる。しかしスパイスミートパイを蒸留しても、精油というものはなく、ただ水だけが溜まっていた。
「で、それがコレットの欲しかったものなのか?」
「……うーん。まあ、そう、かな」
フラスコをとって鼻を寄せる。
予想通り、スパイスミートパイの香りがする。予想外なのは、匂いが凝縮されるわけではなく、むしろぼんやりと平坦なものになったことだろう。
「悪くはない、けど……もう少しスパイスの香りを戻したいかな」
「だったら付け足すしかないな」
「え? どうやって?」
フムルが呆れた様子で鼻を鳴らしてため息をついた。
「お前は料理人じゃなくて調香師だろ。頭を切り替えろって。それがベースの香りなんだ。だったら、そのスパイスってやつを蒸留して調香すればいいだけだろ。それこそ香水と一緒じゃねえか」
「あ、そっか。これを香水として考えたらいいのか」
料理だったらお手上げだけれど、これはもう香味水なのだ。
匂いは違えど、ローズ・ウォーターをベースにして他の香料を付け足して香りを整えるのとやることは同じだ。
「そっか。これを土台に後からスパイスミートパイの香りに近づければいいのか」
私はキッチンに戻ってスパイスミートパイの残りを持ってきた。目を閉じて鼻を寄せ、香りに意識を集中する。
「……このままを再現するのは無理だし、味わいは料理が補ってくれる。だから、特徴的な香りだけを抜き出して、輪郭をはっきりさせるほうがいいはず」
「その通りだ。香りってのはメリハリがなきゃボヤけるだけ。余計な細部は削ぎ落とすんだ。何の香りが強い? スパイスミートパイってやつを際立たせる風味はなんだ?」
「お肉、トマトソース……でもこれはベースの香味水で十分だし、きっと料理そのものが持つ匂い。私がさらに際立たせるとしたら、スパイス––––シナモンとクローブ。それにローズマリー」
「調香師の領分だな。そいつらを蒸留して混ぜ合わせるんだ」
「ふふ」
「なにを笑ってんだ?」
フムルの怪訝な声に、私はかぶりを振った。
「何でもない。ただ、ちょっと新鮮で。誰かとこうやって相談しながら調香するのって、すごく久しぶりだから」
「はあ? 新鮮だと笑うのか、人間ってのは」
「楽しいってことだよ」
私は調香机とキッチンをあさって、ローズマリー、シナモン、クローブを用意する。それぞれを蒸留するための準備をしながら、顔にはつい笑みが浮かんでいる。
ひとりではない、というだけのことが、なんだか部屋を明るくしているような気がしていた。




