2「香りは食べられるのか?」
「調香師として? あの軟膏とは別のこと、だよね」
「ああ。今回は僕の悩みじゃないんだ。いや、僕がなんとかできないかと思っているから、僕の悩みではあるのかな」
ザックにしては珍しく、歯切れの悪い物言いだ。
「実は、昔からの常連さんに、とあるお婆さんがいる。そのお婆さんのために、そうだな、言わば”食べられる香水”を作れないかと思って」
頭の中ではザックの言葉を、口の中ではスパイスミートパイを噛み締めてから飲み干した。
「食べられるものなら、それこそ料理人の領分だと思うけど」
「もちろん、僕もそう思う」
「そのお婆さんに、なにか大変なことがあったんだよね」
ザックは目を見開いて、珍しく驚いた表情をしている。
「どうして分かったんだ?」
「でなきゃザックが迷うわけないだろうし。ほら、ザックってひとりでなんでも解決しちゃいそうだから。私に話をするってことは、それくらい難しいことがあるんだよね」
「……まいったな。きみも占い師になった方がいいんじゃないか」
「ん、調香師がうまくいかなかったら考えてみようかな」
ふたりで笑い合ってから休止符を置いて、ザックが話し出した。
「そのお婆さん……ミレルさんというんだけど、毎日のようにこの店に来てくれていてね、とくにスパイスミートパイが大好きだった。僕が親方からスパイスミートパイを任された時にも、よく意見をもらったんだ。だからきみが褒めてくれたこの味は、ミレルさんのおかげで出来たようなものだね」
「なるほど、それはお礼を言わなくちゃ」
ザックの話しぶりからして、私もちゃんと聞いたほうが良いと思って、スプーンを置いた。
「最近、ミレルさんは流行り病をこじらせたそうでね。施療院にしばらく入院していたんだ。治療自体は薬のおかげで上手くいったそうなんだけど」
「だけど……?」
「それ以来、味と匂いにひどく鈍感になってしまったんだ。自分が食べているものの味がわからない、というくらいに」
私は言葉に詰まってしまう。口に入れたものの味も、鼻に届く香りも分からないという状況を、うまく想像できなかった。それくらい当たり前にあるものが、ある日なくなってしまう。それはとてつもなく怖いことだ。
「それじゃ、食事が?」
「ああ。なにを食べても味がしないとなっては、食欲もなにもないからね。病は治っても、食べる量がめっきり減ってしまって、体力が戻らないままらしい。病気なら薬で治せるが、こればかりはどうにもできない。ご家族も困っているみたいでね」
そうか、と思う。ただの病気であれば、その病気を取り除けばやがて身体は元に戻れるだろう。けれど食事ができないという状況では、栄養がない。人は毎日、食べるものを食べなければ生きてはいけない。
「……その味覚や嗅覚を治す薬は見つからないんだ?」
「施療院でも、ご家族もずいぶんと探してはみたらしいけど。医者や薬師もみんな言うことがバラバラらしくてね。ああじゃないかこうじゃないかと薬を試すうちに、ミレルさんの方が嫌気がさしたらしいんだ。もう老い先も長くないから、お金も時間も無駄にしないでいいって言ってね」
人を治す専門家の意見がバラバラになるということは、これぞという治療法がないということと同義だった。
「でも、それをどうしてザックが?」
「もちろんそれを治療しようというのは、僕の手にも余ることだ。けれど、ミレルさんが、うちの店の料理だけは少し食べてくれるそうなんだ。親方がそれに胸を打たれてね。僕も協力して、毎日、ミレルさんに届ける食事を作ってはいるんだけど、それも日に日に食べる量が減ってきてる」
ザックは自ずと眉間に寄った皺を指で揉みほぐしている。
「スパイスを強くしたり、味付けを濃くしたりと工夫はしてみたんだけど、どれも効果はいまひとつでね。それで、香りの専門家であるコレットに、何か助言をもらえないかと思ったんだ。ほら、料理の味は香りに強く影響を受けるだろう? もし料理の香りをもっと強くしたりできれば、少しでもミレルさんの食欲を刺激できないかと思ったんだ」
「……なるほど。たしかに、香りは食欲に結びついてはいるかも」
なにしろ、毎日のようにこのレストランの美味しい料理の匂いを嗅いできた私だ。美味しいものの匂いを嗅げばお腹が空くのは当然だ。
「つまり、食欲を刺激するような美味しい匂いを調合できないか、ってことだよね。”食べられる香水”か。考えてみたこともなかった」
ザックの表現は珍妙だけれど、その目的を聞けばしっくりくるものだった。
そもそも香水は花や木などの素材から匂いだけを抽出する。大量の花びらを使って、わずか数滴になるほどまで濃縮することで、香りを最大まで強く感じられるようにするのだ。
薔薇一輪の香りでは薄く、すぐに消えてしまうけれど、それを百輪、千輪と使って濃縮すれば、その香りの残る時間を長く引き伸ばし、香りそのものすら深くなる。
その技術を転用すれば、理論上は料理の香りを強くすることも可能、かもしれない。
私がううんと唸って顔を上げると、ザックが真剣な顔で待っていた。私が考えに没頭している間、じっと待ってくれていたようだ。
「やったことがないからはっきりとは言えないけど、元々の香りがしっかりしている料理だったら、可能、かも?」
「だったら、それは?」
ザックが指差したのは、私の食べかけのスパイスミートパイだった。
「……複数のスパイスのブレンドに、野菜と肉の香ばしさ、パイ生地の焼けたバターの香り……たしかにちょうどいい、のかな?」
スパイスミートパイを香水にしようと思ったことは、さすがの私にもない。
手順は薔薇の花を抽出するのと変わらないとは思うのだけれど、それでどんな匂いができあがるのかはさっぱり分からない。
むむむ、と頭を捻らせる。
「コレット、僕からの依頼として頼めないかな。ミレルさんの好物だ。スパイスミートパイを香水にしてほしい。上手くいっても行かなくても、もちろん、代金は支払う」
ザックがテーブルに両手をついて頭を下げた。
「わ、わかったから! そんな、頭は下げないで! 頼まれなくてもやってみるつもりだったんだから」
「……そうなの?」
ザックが顔を上げてくれて、私はほっと胸を撫で下ろした。
人に頭を下げて頼まれるというのは、どうにも落ち着かない。
「どうなるか分からないことを思いつくと、試してみたくなるのが職人の性だから。でも、本当にどうなるか分からないから、あまり期待はしないでほしい、かな」
「わかった。厄介な仕事を頼んで申し訳ないと思う。僕にできることがあったら、細大関係なく言いつけて欲しい」
「うん、ありがとう。とりあえずひとつあるんだけど」
「なんだい」
ずい、とザックが身を乗り出した。顔の距離が近づいて、男の人なのにまつ毛が長いなあ、と、関係のないことに目がいってしまう。
「……追加のスパイスミートパイをもらえる? 香りを抽出できるか試してみるから」
「わかった。すぐに持ってくるよ」
ザックは席を立って厨房に向かって歩き出した。しかしすぐに止まって振り返り、私に視線を向ける。ちょうどスプーンを取ってスパイスミートパイを食べようとしていたところで、私は動きを止めざるを得なかった。
「え? あ、ど、どうかした?」
「––––ありがとう、コレット。僕のわがままに協力してくれて、本当に感謝してる」
春の木漏れ日を形にしたみたいに柔らかく温かい笑みを残して、今度こそザックは厨房に戻って行った。
スプーンをそっと置いて、私はまず、深呼吸をすることにした。




