1「ザックの相談事」
香りというのは不思議なものだ。目に見ることもできないし、手に触れることもできない。絵にも描けなければ、言葉で説明することも難しい。
例えば、雨の日の匂い。
雨が降り始めると、乾いた地面がほつれるように香りが立ち上る。水を含んだ土からは、どうしてか昔を懐かしむ気持ちを呼び起こすような、少し甘い匂いがする。太陽によく温められた石畳が雨に濡れて黒々と輝くときには、少し焼けた埃っぽさが鼻につく。
この匂いを、他の人も同じように感じるのだろうか。
遠くで雷鳴が響いて、嵐が少しずつ近づいてくるときの、古い錠前をこじ上げたときのような湿った鉄のつんとする匂いを共有できるだろうか。
この世界には無数の香りがあるけれど、そのすべてに同じものはないのかもしれない。誰もが自分だけの香りとして感じていて、ひとつの香水を嗅いだとしても、感じ方も変わってしまう。
良い匂い、という言葉は、実はすごく不明瞭で範囲の広い括りでしかないのだ。
調香師という職に携わる者として、香りには常に鋭敏な感覚を研ぎ澄まして、ひとつひとつの輪郭をくっきりと正確に捉えていきたいと、私はいつも思っている。
「わ、すごく良い匂い!」
目の前に置かれたスパイスミートパイから立ち上る湯気に、私は思わず小さく叫んでしまった。
前言撤回。
複雑に香りが合わさって、食欲という抗いがたい欲求を刺激された場合は、香りの細部をすべて覆ってしまう感想しか出てこないのだった。
「この店のスパイスミートパイはシナモンが入ってるのが特徴だよね。スパイスミートパイの日はなんだか嬉しくなっちゃう」
運んできてくれたザックに言うと、今日も今日とて爽やかな笑みが返ってきた。
「気に入ってくれてるなら僕も嬉しいよ。これを目当てに通ってくれる常連さんも多いんだ。親方もスパイスミートパイを作る時は気合いを入れるんだ。うちの看板商品だからって、ね」
「看板商品、か。うちの店にもそういうのがあればいいんだけど」
調香店の看板商品とするなら香水が一番だ。”暁の花精”のように、名の知られた香水を作ることができれば、その店は安泰だ。
香水の調合は複雑で、生み出した処方箋は自分だけの特権となる。たくさんの人が気に入ってくれる看板商品を作ることもまた、調香師としては目指すところだろう。
そう簡単にはいかないのが調香の難しいところなのだけれど、と思いつつ、スプーンを取ってスパイスミートパイのこんがりと焼けたパイ生地に差し込んだ。
途端、閉じ込められていた香りが湯気と一緒にふわりと広がった。しっとりと火の通った肉を吹き冷ましてからかじる。噛み締めると肉汁が溢れて、口の中いっぱいに幸せが満ちている。
シナモンとクローブのすっきりとした香りが肉の脂っこさと臭みをかき消しているから、旨みはこんなにあるのに、まったく重たくない。飲み込んだあとにはほんのりと果実のようなナツメグの深い甘味が鼻に抜けて、あとには爽やかな後味が残った。
「……はあ、今日もスパイスの調合が抜群。複雑なのにちょうど良い。ナツメグなんてちょっとでも多かったらもっと苦味が出て刺激が強すぎるのに。前はそれが苦手であんまり食べなかったんだけど、ザックが来てからすごく美味しくなって––––あ、親方さんには内緒で」
つい本音が口を出てしまって、慌てて小声にした。そっとキッチンの方を覗くけれど、親方さんには聞こえていないようで安心する。
ザックは人差し指を唇に当てて、いたずらっぽく微笑んでくれた。
「それは僕からも言いづらいな。でも、コレットからの褒め言葉としてありがたく受け取っておくよ」
「前から思ってたんだけど、ザックってスパイスやハーブの扱いにすごく詳しいよね。料理人っていうより、薬師みたい。もしかして香水も調合できるんじゃないかな」
「香水はお手上げだよ。僕は食べられるものについてしか知らないから」
と、ザックはふと店内を見渡した。私もつられて同じように視線をめぐらせる。
昼前の時間だからお客さんはまだ少なくて、テーブル席もカウンター席も空いている。昼休みの時間が近づけば、あっという間に満席になってしまうだろうけれど、その前の静かなひとときという感じだった。
「食べながらでいいから、すこし時間をもらえるかな? ここ、座っても?」
「大丈夫だけど……?」
ザックがいいと言うのだから、私は遠慮なくスパイスミートパイを口に運ぶ。朝から何も食べていないので、私の胃袋は猛獣と化している。止めることはできないのだ。もぐ。
「匂いに関しての専門家––––つまり調香師としてのきみに、相談があるんだ」




