12「その人を思い出すということ」
「……忘れ物、したから」
エリックはどこかバツが悪そうな顔で視線を斜め下に向けて言う。
「分かってる。お母さんの香水だよね」
「あれは母さんの香水じゃないから、別にいらないんだけど。香水瓶は大事だから」
エリックが視線を上げた。補充用の”暁の花精”は調香用に部屋に持って行ったけれど、エリックのお母さんの香水瓶は、カウンターに置かれたままになっていた。
「あのね、これをエリックに返す前に、ひとつ試してもらいたいものがあるんだ」
「試す? ていうかあんた、どこで寝たの? 顔にすごい跡がついてるけど」
「うっ、しまった。お恥ずかしい……気にしないで」
私は慌てて手で頬を覆った。
歳若くてもお客さんの前にこんな顔で出てしまうとは。
「それよりも、昨日、調合してみたんだ、お母さんの香水」
「……いいよ、どうせ違うんだろ? 無理だって言ったのはあんたじゃんか」
「そうだけど、そうじゃないの。私は」
実は魔女で、とは言えない。
続ける言葉を見失ってしまう。ええと。
「私は、なんだよ?」
「––––頑張ると、不可能を可能にできるの」
「あんたいくつだよ」
ああ、ずいぶんと歳下の子に呆れられた。他に言い回しが思いつかなかったのだ。
「とにかく! 試してみてくれないかな。一回だけ」
「……そこまで言うなら、別にいいけど」
期待していない様子は明らかだった。
期待して、それが叶わないことを知って、悲しんで。それを繰り返したことで、もう期待するのはやめようと心が決めてしまったように。
そのエリックにあの香水を渡して、それでまただめだったら?
ふとその不安が湧いて、私は足踏みする気持ちを抱いた。今、エリックは自分の中で折り合いをつけて諦めようとしているのかもしれない。
その努力に差し水をして、また悲しませてしまったら?
私のわがままのために、エリックをがっかりさせてしまったら?
私は、本当にちゃんと仕事をできたのだろうか。
私の願いは香水に宿ったのだろうか。
正しく、願いを届けられたのだろうか。
自分が作り出したものが、本物なのかを見極める術が、私にはない。生み出したものが誰かに届くのかもわからない。それはこれまでに経験したことのない感情だった。
魔法をかけたと思ったものに、そんなものが一切なかったら。私は自分自身のすべてを疑わなきゃいけなくなる。
自分の全霊を込めたものだからこそ、それを誰かに見せることには恐れがともなう。
「どうしたんだよ? 香水を試すんだろ?」
「う、うん。ちょっと待ってね、持ってくるから」
廊下に戻ると、そこにフムルがいた。両手に調香した小瓶を抱えている。
「ほれ、持ってきてやったぞ」
「……うん、ありがと」
「なんだ、浮かない顔だな?」
「……怖く、なっちゃって。これって、本当に魔法が込められてるのかな。エリックをまたがっかりさせないかな」
「馬鹿らしい悩みだ」
ふしゅ、とフムルが鼻を鳴らした。
「物を生み出したあとに悩んでも仕方なかろう。今できたものを世に晒すしかない。それでだめなら、また作れ。その繰り返しだ、職人ってのは」
「……そう、だよね」
「言っておくが、この”精香”にはしっかりと願いと魔法が宿っている。未熟ではあるが、お前の仕事は満足いく物だった。それはオレサマが保証してやる」
「フムル……」
胸が詰まるような感じ。悲しみや孤独のためにじゃなくて、それは喜びや、誰かの思いやりのおかげで胸がいっぱいになっているのだ。
祖母がいなくなってしまってから、私は自分の仕事を自分でも信じられなくなっていて。信頼する誰かに認めてもらうことこそが、私がずっと求めていたことかもしれない。
「ほれ、受け取れ。そんでもって、客に渡してきてやれ」
フムルは短い前足に小瓶を抱えて私に差し出した。
「––––うん、ありがとう。行ってくる」
しゃがんで小瓶を受け取って、立ち上がる。もう恐れは無かった。
この手にあるのは、フムルとふたりで作り上げた香水だ。
胸を張って、エリックに渡せるものだ。
店舗に戻って、カウンターで香水瓶と小瓶を並べた。
「ねえ、エリック。この中身をお母さんの香水瓶に移してもいい?」
「べつにいいけど……?」
「ありがとう。ちょっと待ってね」
その行為に調香の意味はないけれど。
市販の補給用の小瓶ではなく、お母さんの使っていた香水瓶にその香りがあることには、きっと意味が宿ると思った。
香水瓶と小瓶の栓を両方とも開けて、手早く中身を移した。蓋を戻して、それをエリックに手渡す。
「これを、嗅いでみてくれる? きっとお母さんのことを思い出せるはずだから」
「……どうせ変わらないんだろ? でも、俺のために用意してくれたことには礼を言うよ」
「小生意気だなあ」思わず笑ってしまう。「これは特別な香水なんだからね」
小首を傾げながら、エリックは香水瓶の栓を抜いて、その先を指で塞いで逆さにした。指も入らないほどに口の狭い香水瓶の先端から、指先に香りが移る。
その指で手首を撫でて香りを移すエリックの動きは女性的な仕草で、きっとお母さんがそうしていたのを見て覚えたのだろう。
エリックは手首に鼻を寄せて––––そのとき、エリックの周囲に青い光の粒子が舞い散ったように見えた。
窓からは朝の光が降り注いでいて、空気中に浮かんでいる塵を照らしている。
光を背負ったエリックの背後に、私は幻影を見ている。
身軽なワンピースドレスに身を包み、金色の波打つ髪を肩から胸に流した女性が、エリックに柔らかな視線を向けていた。目尻の下がった目元はエリックによく似ていて、右の目の下に黒子が二つある。
その姿は青白く透き通っていて、それが現実のものではないことが見てわかる。彼女はエリックの後ろ姿を、愛おしげに見守っている。
「––––かあさんだ」
エリックがふと呟いた。手首に鼻を寄せて目を見開いている。
その目が不意に細められ、ぎゅっと強く閉じた。
「かあさんの、匂いだ。かあさんに抱きしめてもらった時の、あの匂いだ」
声は震えていた。香水瓶を握り締め、それを抱くようにぎゅっと胸に押し当てる。
その後ろで、女性が––––エリックのお母さんが膝をついて、背後からそっとエリックを抱きしめている。エリックの顔に頬を寄せて、柔らかな笑みで、そして少しだけ悲しげに、エリックの頭を撫でている。
それは私だけが見ている幻覚なのだろう。エリックは気づく様子もない。
声をかけたかった。振り向いて、互いに笑みを交わして欲しかった。でもそれが実体のない幻であるということは、わかっていた。
「……ごめん、かあさん。俺、ちゃんとお別れのあいさつができなかった……ごめん」
こぼれ落ちるような言葉は、やがて震える涙の声で乱れていく。
手首に鼻を押し当てながら、エリックは「ごめんなさい」と繰り返した。
その身体を抱きしめながら、エリックのお母さんはただ首を左右に振っていた。
しゃがんでいるその足の先が、明るい光に溶けるように薄れつつあるのに気づく。
このまま見送っていいのだろうか、と悩んだとき、身体は勝手に動いていた。
私はエリックの前にしゃがんで、香水瓶を握るエリックの手に、自分の手を重ねた。
一目でもいい。
一瞬でもいい。
これが香水に宿った魔法が作り出した幻覚でもいい。
エリックに、お母さんの姿を見せたい。
それは私の願いだった。
エリックの手と香水瓶の中にある私の作った”精香”に、魔力を込める。自分の中にどれくらいの魔力が残っているのかは分からない。多くはない。そのすべてを込めた。
「エリック、振り返って」
私の言葉よりも先に、エリックは自分を抱きしめる存在に気づいたようだった。
振り返る。
エリックの瞳が見開く。
お母さんとエリックが、たしかに視線を交わした。
「––––かあさん?」
「––––」
言葉は無かった。お母さんの姿はさらさらと光の粒子となって薄れつつあって、それは朝日の中に溶けて流れていく。けれどたしかに、お母さんは笑っていた。
穏やかで、優しくて、何よりも大切な人を見守る瞳で、エリックに言葉以上のものを与えていた。
「––––俺、忘れないから! 声も、顔も! かあさんの匂いも! 絶対に、忘れないから!」
エリックの声は届いただろうか。
光の中に微笑みを残して、お母さんの姿はついに見えなくなった。
静けさと、朝日の眩しさと。そこになんの余韻もないけれど、私たちはそこにたしかにいた人の姿を、いつまでも探していた。




