10「声音と共に眠る懐かしい日」
薄透明な花びらは向こう側が透けていて、周囲にはうっすらと輝く香煙の薄衣をまとっているみたいだった。実体のあるものではなく、まるで夢か幻を形に留めたように儚い。
「やればできるじゃねえか。それが香霊花だ。サンダルウッドとレミノラの精油で調香した、記憶を呼び起こす花」
「これを、どうしたらいいの?」
「今回は嗅いだやつの望む香りそのものを記憶から呼び起こすからな。このままだと花そのものの香りが邪魔になる。次はこの花の匂いを消さなきゃならない」
「それならやったことある」
「はあ?」とフムルが調子外れの声をあげた。「お前、なんでその経験はあるんだよ。調香師が匂いを消すなんてやらないぜ、普通」
「いろいろとあったの。これ、このままやっていいよね?」
香炉に手を当てたまま、私はもう一度、魔力を込める。
香りを消すのはもう慣れたものだ。
アシュレイ様のときに感じた強い思い。あの願いを香水に宿したときの感覚はまだ残っている。それを手繰り寄せるように、香りを消す願いをかけると、身体からずず、と何かが抜き出されるような奇妙な感じがする。
どっ、と身体が急に重くなって、足元がふらついた。勝手に身体から力が抜けそうになって、咄嗟に椅子の背を持って支えにしようとしたけれど、そのままへたり込むみたいに腰を落としてしまった。
「……なにこれ、すっごい、疲れたんだけど」
「続けて二度も精香炉に魔力を注いだんだ。駆け出しには荷が重かったんだろ」
「なんで……? 前に香水に魔力を込めたときには、こんなことなかったのに」
「調香魔具を使わずに魔力を込めたんじゃ、そもそもたいして魔力が宿ってねえのさ。気休め程度の効果ならまだしも、たいして長続きはしなかったろ?」
「––––まって。この香炉を使わないと、効果は長続きしないの?」
「な、なんだよ、急に真剣な顔になりやがって」
これまで機会がなかったから、魔法を使って調香した本格的な香水はアシュレイ様のものが初めてと言って良かった。だから、あれはいわば試作品という扱いになってしまう。
今日、アシュレイ様が来たときにも、香水に異変はなかったようだから気を抜いてしまっていた。フムルが言う通りなら、あの「香りを消す香水」には魔力がしっかりと宿っていないらしい。
と、すると、遠からずあの香水の力はなくなってしまうかもしれない。
「……アシュレイ様にちゃんとお伝えしておかないと」
「誰だよ、そのアシュレイってやつは?」
「なんでもない。まずはこれを完成させなきゃ」
作業台の上に置かれた香炉には青白い花が咲いたままだ。
先ほどとはまるで違うのは、部屋に漂っていた奥深しい香気がすっかりなくなっていることだろう。
「香りを消したこの花を、どうすればいい?」
「あとはこの香水に、その香霊花を合わせて魔力で統合するだけだ」
小さく短い前脚が、ちょいちょいと小瓶を押しやった。私が試作でだいぶ使ってしまったから、補充用の小瓶の中にはもう半分ほどしか残っていない。
「蓋を開けろ。よし、次はあの香霊花を手折れ」
「え、触れるの……? うわ、ほんとだ」
言われるがままに香炉に一輪立つ青薔薇の茎を持つと、容易く手折ることができた。
「小瓶の上で、その花を握るんだ。いいか、香霊花から精油として抽出できるのは一滴だけ。こぼすなよ」
「握るって、こう?」
重なり合う花弁は手のひらで包めるほどの大きさしかない。
右手で包むようにそっと握りしめると、霜柱のように手の中で花びらがぱきぱきと砕けていく感触。
ゆっくりと、ぎゅっと握りしめていく。
絞り出された一滴の滴を、確かに感じた。
手を開く。
ばらばらになった花弁は光の粒のようにさらさらと崩れ落ちて消えてしまう。
手のひらの窪みに一滴だけ、青空のように透き通った精油が丸くなっている。
それを決してこぼしてしまわないように、そっと指先を傾ける。
精油は指の谷間に沿うようにしてすっと流れて、小瓶の口に流れ込んだ。
一瞬、小瓶の中で香水が光を放った。それはほんの瞬きで、私の見間違いだったのかもしれないとも思う。
これで本当に、望むものが出来上がったのだろうか。それはわからない。けれど身体の芯にずっしりと残る疲労感は、たしかに何かをやり遂げたのだと思える。
瓶の蓋をしっかりと閉めて調香机に置いた。
見届けると、張り詰めていた糸がぷつんと切れてしまうのが分かった。
作業台にすべり落ちるみたいに突っ伏す。
「––––やった。できたよね、たぶん」
「たぶんなわけあるか。オレサマが指導したんだぞ。成功したに決まっている」
「そうだよね。フムル……ありがとう」
顔を上げる。丸々とした身体に、ちくちくしたトゲをたくさん背負った、不思議な生き物。長い鼻がひくひくと動いている。
「フムルがいなかったら、私、どうしようもなかったと思う。助けられちゃった」
「そうだろうそうだろう。オレサマは慈悲深くて親切な精霊だからな。つまり、そんなオレサマと契約できたお前は実に幸運なのだ。わかるか?」
「うん……わかる……」
突っ伏した腕に頬を乗せると、瞼がすごく重くなってきた。
魔力の消費というのは、身体を使うのとはまた違う疲労感があって、それは耐え難いほどの眠気につながるらしい。
なんとか会話を続けよう、起きていようとは思うのだけれど、そんな意思を軽々と呑み込んでしまう眠気の大波が押し寄せている。
ああ、お風呂に入らなきゃ……いいか……明日で……。
「おい、聞いているのか! コレット! オレサマと出会えて光栄だろう!? 光栄だといえ!」
「––––おやすみ」
そういえば、とふと思う。
こうして誰かと話しながら微睡むのは、久しぶりだな、と。
賑やかなフムルの声を聞きながら、私はすとんと眠りに落ちた。




