1「スパイスミートパイの隠し味について」
ふう。今日もうっかりお腹いっぱい食べてしまった……。
私は喧騒に満ちたレストランの端っこの席でそっと頭を抱えている。
すごく不思議なのだけれど、目の前には空っぽになった食器だけがあって、誰かがそれをぺろりと平らげてしまったらしい。
下手人はもちろん私だ。しかも大盛り。
今日こそは普通サイズで我慢しようと思っていたのに。
「今日のスパイスミートパイはどうだった?」
自分の意思の弱さを嘆いていると、ザックがピッチャーを手にやってきて、私のコップに新しい水を注いでくれた。
彼の所作はいつ見ても惚れ惚れするほどで、猫のように柔らかなのに、動きのひとつひとつがはっきりしている。水を一滴もこぼすこともなくて、注ぐ水までぴたっと止まる。
「ありがとう。今日の味付けも最高だった」
「よかった。今日は俺が担当だったんだ。ちょっとスパイスの配分を変えてね」
「ローズマリーとセージを多くしたんだよね? あの爽やかさのおかげで脂が口に残らなくて後味がすっきりでもういくらでも食べられそうだった! ミートパイだからお肉の脂を楽しむものなんだろうけど、普通はやっぱり男の人向けって感じの重たい味だから、今日のはすごく新鮮だったな。それにシナモンを効かせてたよね? あの甘い香りがお肉と合わさるとぐっと味が深くなるからすごく良いと思う! あ、でも男の人はシナモンの香りってどうなんだろう、慣れてないと変に感じるかも––––ごめんなさい喋りすぎました」
私は姿勢を正して頭を下げた。
ああ、またやった。
また勝手に話してしまった。
なくて七癖、なんて言葉があるけれど、七癖もあったら私はもう生きていけない。ただでさえ明確な悪癖がふたつもあるのに。
気になる匂いはすぐに嗅いでしまうのと。
香りに関わる話になると勝手に口が動いてしまうのと。
気をつけようといつも心から反省するのに、それが全然、実を結ばないのだ。私の意思と反して動いてしまう口を拳で押さえつける。
「最近、女性のお客さんが多くなったからさ。メニューに手を加えてみようって、大将と相談しているんだ」
私の言いたいことをいっぺんに伝えたいがための早口を、ザックは気にした様子もなく受け止めてくれていて、その広い懐と性格の善良さに、私は何だか人としての格の違いを見ている気がした。
これまでは男性ばかりだったこの食堂の客層は、たしかに最近、女性がその割合を増やしている。
それがちょうど、ザックがここで働き始めたころからだという事実には気づいていないらしい。それも忙しい昼食どきを過ぎてから、ゆっくりと居座る女性が多い。今みたいに。
ちらっと店内に目をやる。
昼食どきを過ぎた頃合いだから、男性客はとっくに食事を終えて店を出ていて、テーブルにいるのは老若問わず、女性客が多い。そして一見して自分の食事や、連れ合いとの談笑に夢中なようでいて、その視線や気配がこの席に集まっているのが、びしびしと伝わってくる。
たぶん男性には備わっていない感覚機能が女性にはあって、それは視線や言葉で示さなくても、その場の雰囲気や空気を察知したり、動かしたりすることができるのだ。
「たしかにシナモンの配分は多過ぎたかもしれないな。常連のおじさんたちにも評判がイマイチだったんだ。苦手な人のためにも工夫しなきゃね」
と、ザックは少し目尻の下がった柔らかい瞳を斜め上に向けた。頭の中でレシピを思案しているのかもしれない。
見上げるほどに高い背に、まるで騎士みたいに広い肩幅。それなのに男性なら誰もが持っている荒っぽい力の気配がちっともない。
ミルクティ色の柔らかな癖っ毛がその穏やかな顔立ちにぴったりで、なんだろう、そこにいるだけでつい目で追ってしまうような不思議な人なのだ。
そのときザックがついっと目線を下げるものだから、見上げていた私の視線が絡め取られてしまった。
今さら視線を逸らすのも気まずくて、私は盗み見がバレてしまった罪悪感を誤魔化すこともできず、ひえ、っと息を呑んだ。
「話は変わるんだけど、あのハンドクリーム、まだあるかな? そろそろ使い切りそうなんだ」
「は、ハンドクリームっ。ありますっ」
ぶんぶんと頷く。
「よかった、助かるよ。あそこまで香りがなくて使い心地の良いものはないからね。仕事のときにも安心して使えるんだ」
自分の作ったものを褒めてもらえる喜びっていうのは、ちょっと他に例えようがない。じんわりと胸の奥が暖かくなって、ついふにゃふにゃの笑顔を浮かべてしまいそうな頬に何とか力を入れる。
「気に入ってもらえたなら嬉しい。あとで持ってくるね」
「ありがとう。それじゃあ代金もそのときに」
そのとき、すみません、と幼い声が響いた。
ザックは私に「それじゃ」と微笑みを置いて、声の元へ向かう。それは母と娘の二人がけのテーブルで、小さな女の子が照れた様子でザックを見上げていた。
ザックはその場に膝をついて、女の子へ陽だまりみたいに暖かい笑みを向け、たどたどしい注文に頷きを返している。
はあ、と感嘆するような声が漏れ聞こえて、私は視線を向けた。
隣のテーブルに座っていた中年の女性が、ハッと私の顔を見返した。自分でも知らず知らずに漏れていたらしい。
私が「わかります」と頷くと、女性も「そうでしょう」と頷きを返す。
言葉にしなくたって通じ合うのが女という生き物なのだ。
普通ならそこでそれぞれの人生に戻っていくところだけれど、女性はふと私の方に顔を寄せてきて、ねえ、と囁いた。
「あなた、調香師さんなの? それとも香りものを扱ってる商人さん?」
「ええと、はい、調香師のほうです」と私は頷いた。この距離だから、ザックとの会話が聞こえていて当然だ。「このレストランの二階でお店をやってるんです」
「あの方が使っているハンドクリームって、売ってもらえるの? ああ、いえ、決してそういうことじゃないんだけれどね。わたしも仕事柄、ほら、手が荒れるから、そんなに良いものならぜひ頂きたいと思って。香りがないのよね? 本当に? それが重要なの。仕事柄ね」




