9「青い薔薇」
藁にもすがりたい。
猫の手も借りたい。
困ったときに現れたのがハリネズミだったとしても、文句はいえない。
魔法について相談できる相手もいなくて困り果てていた私は、すっかり悩みを打ち明けてしまった。
ハリネズミは「ふうん」と頷いて、小さな耳をぱたぱたと引っ掻いている。
「とりあえず––––お前、名前は?」
「コレット、だけど」
「オレサマの名前はフムル。お前、オレサマと契約しろ」
「はい?」
一日に二度も契約を持ちかけられることがあるとは思わなかった。
「指導してやるとは言ったし、香りも先に食ったけどな、調香のイロハまで教えるのはちょいと面倒だ。もっと良い対価をよこせ」
「もっと良い対価って……フムルは、香りを食べるんだよね? もっと上質な香料とか、香水、とか?」
「分かってるじゃねえか! 俺たち精霊は香りで腹を満たすんだ。よし、お前が美味い香りを用意する。俺は精香のやり方を教える。これで契約成立だ。いいな?」
「う、うん」
頷いた瞬間、私とフムルの間に輝く紐が浮かんだ。
それは勝手に私の小指とフムルの小指に結びついたかと思うと、また叩きをする間に消えてしまった。
これも魔法、なのだろうか。
「––––よし、これで契約成立だ。そいじゃ、まずは香霊花が必要だな」
「香霊花?」
「いいか、今回、お前が作りたいのは、人間の記憶を呼び起こす精香になる」
その通り、と私は頷く。
「お前はエリックって子どもの記憶にしかない香りを再現しようとしてたが、それはお前にゃ無理だ。かなり複雑な調合になるからな。香りそのものを作るより、本人にその香りを思い出させるほうがいい。お前みたいな素人魔女にもこれならできる」
フムルは短い腕を組んで私を見上げている。どう見たって小さなハリネズミなのに、言うことはそれっぽいし、態度はかなり大きい。
「……そっちのほうが難しそうなんだけど」
「普通の調香師じゃ無理だろうな。今からやるのは魔女の調香だ。まずはオレサマの言う通りに香料を用意しろ。ほら、はやくはやく!」
急かされて、新しい調香皿を用意する。
「今回はあの上等な香水があるからな、工程がだいぶ省ける。あれに香霊花を加える。まずはサンダルウッドを粉末に」
「はい」
フムルの声には自信と経験に裏打ちされた揺るぎなさがあった。それは私に物事を言って聞かせるときの祖母に口ぶりにも似ていて、私は背筋を伸ばして返事をする。
棚に並んだ小瓶からひとつを選ぶ。中にはサンダルウッドの木片が入っている。その木片を調香皿に置いて、小型のナイフの刃を立てて、ゆっくりと削る。
「それでいい。そこにレミノラの精油を加える」
「うっ」
「どうした?」
「レミノラは、あの、この地方では栽培されていない貴重なハーブで、買う時にもかなり気合が必要だったもので……」
フムルが呆れた様子で腰に手を当てる。
「調香師が香料をケチるんじゃねえよ。どうせいつかは使うんだろ。だったら今だ。ほら、さっさと入れろ。きっかり二滴だ。いいな、三滴じゃ多すぎる」
フムルの言うことはもっともだった。その希少性から衝動買いのように奮発はしたものの、どうしてもレミノラを使うという場面も少なく、棚の中で大切に飾っているだけになっていた。
琥珀色の遮光瓶を取り、口を開ける。右の引き出しを開くと、調香用の道具が並んでいる。そこから滴羽菅を取った。
鳥の羽根軸の中に細口のガラス管がはめ込まれている。アリオールという希少な鳥の羽根で、手元は扇のように特徴的な膨らみを持っている。ガラス管の先を液体に浸してこの膨らみを押せば、ガラス管の中に吸い上げ、そこから一滴ずつを滴下することができる。
祖母から引き継いだ調香道具のために年季は入っているけれど、調香師にとっては欠かすことのできない重要な道具だ。
レミノラの精油を吸い上げ、先ほど粉末にしたサンダルウッドの上に、慎重に二滴を落とした。
「……ふう。緊張した」
力加減を間違えると、吸い上げた分を一気に押し出してしまう。
滴羽管の中身を戻してから、水を吸い上げて中身を洗い流す。
それからサンダルウッドとレミノラの精油を丁寧に混ぜ合わせた。細かな木屑だったものが精油によって塊となっている。ここに蜜蝋を混ぜれば練り香水になるけれど。
「よし。香料はこれでいい。レミノラの精油があるのは僥倖だった。向こうから香炉をもってこい」
「はいはい」
居間に戻って、棚から香炉を運ぶ。普通の香炉は片手でも持てるくらいの小さなものが主流だけれど、祖母が残したこの香炉は両手で抱えるほども大きい。
香料や調香皿で埋まっている調香机の上には置く場所がなく、作業台に置いた。
「それで、どうしたらいいの?」
「灰の中に炭を埋めて、いま用意した香料を空薫するんだ」
「おばあちゃんがよくやってたっけ」
香炉の灰の上に香料を置いて直接火をつける方法と、炭を埋めてから灰を被せて、その上に陶片や小皿を置いて間接的に香りをたたせる方法がある。空薫は後者で、ふんわりと柔らかい香気が漂う手法だ。
コンロで小さな炭に火を移して、それを香炉の灰の中に埋めた。上から灰を被せてならし、その上に調香皿のまま、サンダルウッドとレミノラの精油を混ぜ合わせたものを置いた。
そのうちに熱が皿を温め、香料が香りを強めるだろう。
「それで、ここからどうしたらいいの?」
「ここからはお前の仕事だ。魔力を使って、香気と祈りを花に込める」
「……うん?」
ちっとも想像がつかない。
「こればっかりはオレサマにも説明できん。やってみろ。魔女ならできる。そういうもんだ」
「なんて投げやりなんだ……」
「魔力を祈りに込めるやり方はわかるよな?」
私は頷きを返した。
祖母に最初に教わったことだった。強く、正しい意識で効能を願い、魔力を込めることで、香水に力を宿すことができる。それはザックのために作った無香の軟膏や、アシュレイさまのために用意した香りを消す香水として形になっている。
「香炉に手を当てて、魔力とお前の願いを込めるんだ。何のために、誰のために、どんな”香り”を宿したいのか。強く願うほどに効果は強くなる」
私は言われた通り、香炉の両脇に手のひらを合わせた。すべすべと冷たい。けれど灰の中心では炭が熱を高め、調香皿からはすでにサンダルウッドの深みと甘みのある木の香りが立ち上っている。
瞼を閉じて、その香りに意識を集中した。
目には見えなくても、香りはそこに存在する。それは魔力と同じだ。魔力も目に見えない。触れることもできない。けれど意識を向けることさえできれば、身体の中に満ちている。
香炉の当てた手を通り、魔力が流れていく。
自分の意思というより、水が低い場所へ流れていくように、魔力が自らそう動いているみたいだった。
軟膏や香水に魔力を流し込んだときと同じ感じ。
必要な場所に、必要なものが埋まっていくように、私から流れ出た魔力が何かを埋めていく。
意識がすっと静まる。
音が遠く聞こえなくなる。
香炉に触れている手の感覚がなくなる。
サンダルウッドに、レミノラの軽々と明快な匂いが混ざっている。
香りと私がひとつになるような錯覚。
––––大切な記憶と結びついた香りを、思い出せるように。
エリックの、あの泣きそうな顔が脳裏をよぎった。
悲しみを少しでも和らげるために。
願いを意識する。それは魔力と共に流れていく。
途端、香りが強くなった。思わず目を開けると。
「……えっ、花?」
まるで香炉から咲いたように、一本の青い薔薇があった。




