8「魅惑のハリネズミ」
「なに!? なになに、なんですかっ!?」
慌てて振り返る。白い影を長く引き伸ばしながら、部屋中を飛び跳ねている。
ソファのクッションを落とし、観葉植物の土を跳ね飛ばし、机の上に置きっぱなしにしていた本を回転させる。
部屋中を追いかけて私の首があっちへこっちへ。
それから再び香炉の中に飛び込んで、ぴたりと動きが止まった。
私は呆然としたまま見つめている。
ひょこ、と、細く長い鼻が覗いた。
周囲を確かめるみたいに左右に動いて、ひくひくと鼻が匂いを嗅いでいる。縁に両手を引っ掛けて、顔が外に出た。
黒々としてつぶらな瞳。小さな耳。鼻の周りだけが褐色で、輪郭を縁取るみたいにトゲが生えていて、それはネズミのようでいて、道端を走るドブネズミとはぜんぜん違っていて。
「––––ハリネズミだ」
黒い目と見つめ合う。
ひくひくと鼻が動いて。
「––––さまをつけろ。歳上だぞ」
「喋ったっ!」
尻餅をついて、両手足で床を蹴って後ろに下がる。
「え、空耳? 誰かいる!? い、いたずらですか!?」
「うるさい小娘だな。もっと他に言うことあるだろ。長い鼻筋が凛々しいですねとか、トゲの艶がいいですねとか」
他に誰かいるわけもなかった。この家には私しか住んでいない。わかってる。けれど。だからと言って現実を受け入れられるかは別だ。
ハリネズミの口がもにょもにょと動くたびに、男の人の声が響く。そんなことはありえないとわかっているけれど、疑いようもなく、このハリネズミと私は会話をしているのだった。
ハリネズミは短い手足をばたつかせて香炉から転がり出た。
きょろきょろと周囲を見回して「ふしゅ」と鼻を鳴らした。
「ずぼらな家だな。女っぽさもないし。すみっこ、埃溜まってるし。脱いだ服くらいは片付けろよ」
「ハリネズミって口うるさいんだ……」
「で、何のためにオレサマを呼び起こしたんだ」
「……?」
「……?」
私とハリネズミは顔を見合わせ、互いに首を傾げた。
「呼び起こして、ない、けど……そっちが勝手に出てきたの」
「呼ばれてないのにオレサマの目が覚めるわけないだろ」
「そんなことした記憶がなくて。ええと、寝てたの? どこで? というか、どちらのハリネズミ、さま?」
「はああ?」と、ハリネズミは顔を傾けた。
体は小さいのに、顔は結構、四角くて大きい。なのに手足はちょこんと小さいから、本当にぬいぐるみのようだった。
「あのな、オレサマは……あれ? なんかよく思い出せねえな……なんだっけ。寝過ぎて頭がぼんやりしてら。とにかく、あれだ、お前、魔女だよな?」
「は、はい」
「だったらお前に起こされたのに間違いねえな。どうせひよっこの世間知らずなんだろ? いいか、よく聞け」
言って、ハリネズミは二本足で立って、前脚を腰に当てて胸を張った。
「オレサマは精霊なのだ。どうだ、ありがたいだろう」
「へええ……精霊……」
頷いてみる。
精霊。
精霊?
「……もうちょっとないのか。驚いて頭を床に擦り付けるとか、感動して泣き出すとかさ」
「精霊って、あの、お伽話の精霊?」
誰しもが知っているお伽話の数々には、必ずと言っていいほどに「精霊」が出てくる。道に迷った旅人を助けてくれる風の精霊とか、枯れた井戸を復活させるために水の精霊を探しに行くとか。
かつては自然と生活に密着した精霊信仰が特に篤かったらしいけれど。今ではすっかり、そういうものは迷信とされている。
もし公然と精霊を信じている、なんて口にしたら、ひそひそと陰口を叩かれたり、ちょっと変わった人みたいに思われてしまうだろう。
「幻覚、じゃないよね。私、本当に精霊と話してる……?」
「魔女が精霊を疑っちまうなんて世も末だねえ。呆れて腹も空いてきちまうよ。おい、このオレサマを見ても納得できないのかよ」
「いやあ……ここまではっきり見えてたら、もう信じるしかないというか」
そもそも私自身が魔女なのだ。魔女も精霊も、普通の人からしたら同じくらいに胡散臭いはず。
その私が精霊を疑うのもおかしい話だ。精霊という存在を否定する理由もない。
「そっか、精霊なのか。じゃあ、精霊さんはお願いとか叶えてくれるの?」
「メシ」
「え?」
「腹が減った。メシをくれ」
ぐううう、と。ハリネズミのお腹が鳴った。
「……精霊ってさ、もっと神秘的なものかと思ってた」
「そういうのは気取ってるやつに任せな。なんかないのかよ、食い物。オレサマ、腹ペコなんだが」
「もう、なんかすっきりしないなあ。ちょっと待って。買い置きのビスケットがあるから」
立ち上がってキッチンに向かおうとする。けれどハリネズミはまったく別の方向を向いていた。灯りの照らす先、私の調香部屋に顔を向けて、ひっきりなしに鼻をひくひくさせている。
「––––におう。におうにおうにおうっ! なんだオレサマの歓迎準備が整ってるのか!? そういうことは先に言えってのによ!」
「あ、ちょっとっ!?」
びゅん、と床に降りたかと思うと、ハリネズミは弾むみたいに作業部屋に駆け込んだ。慌てて追いかけた部屋に入ると、ハリネズミが調香机に上がって、調香皿に顔を突っ込んでいるところだった。
「なにしてるの!」
「––––うーん、イマイチな香り。こっちは……ぱっとしねえなあ。散らかってるのよ、味が。腹ペコだから食べちゃうけどさ。ついでにこっちも味見」
呆然を立ち尽くす私の前で、ハリネズミの精霊は、片っ端から調香皿を舐め取っていく。それも、精油や香木の粉末などの香料は避けて、私が調合した香水の試作ばかりを選んでいる。ぺちゃぺちゃと水音が鳴っている。
「香水を食べてる……じゃなくて! それはだめ! 待って! こら!」
ハッと意識を引っ張り戻して、机に駆け寄った。
ハリネズミがついに”暁の花精”の小瓶を掴んで両手でラッパ呑みをしようとしていたので、慌てて奪い返したのだ。
「おい! なんだよ! いちばん良いやつ! ようやくメインディッシュなのに!」
「私の調合した香水は前菜にしかならないって!?」
怒ってはみたけど、自分で言っててちょっと悲しくなった。
事実、”暁の花精”は完璧に調和された歴史に残る一級品の香水だ。それを片手間に加工しただけの香水を、私の作品だと胸を張るわけにはいかなかった。
ハリネズミは私が取り上げた小瓶を恨めしそうに目で追っていたが、「まあ良いけどよ。腹もちっとは膨れたし」とぼやいて、自分の周りに広がっている調香の道具と香料を改めて見回した。
「んで? その香水をいじって、なにを作ろうってわけだ? 魔法の残り香がするけど……なんだよ、ぜんぜん上手くいってねえじゃんか。まともに精香もできねえのか、お前」
「精香、ってなに?」
「精霊に香りを捧げて、その対価に願いを宿す魔法に決まってんだろ」
「……初めて聞いた」
「はあ? 調香の魔女だろ、お前。それが精香のひとつもできねえって? 教わってねえのかよ」
「……教わる前に死んじゃったから」
「重っ。話が急に深刻すぎる。悪かったって」
ハリネズミが短い前脚で鼻を掻いている。
「ってことはお前、何かを作ろうとして散々に失敗してたってわけか」
「うっ。そこまではっきり言われると……これでも前に作ったときは成功してますし……」
「それがこの有様か?」
ハリネズミが机の上を見回す。
散らかった調香道具に、片っ端から引っ張り出した香料の小瓶や缶で雑然とした様子は、傍目に見たって調合がうまくいっているようには見えない。
私は言葉に詰まってうつむく。
ハリネズミに言い返す言葉もなかった。
「––––たく、しゃあねえな。先に対価の香りも食っちまったし、オレサマが指導してやる。で、なにを調香しようとしてたんだ?」




