7「八方塞がり、白い塊」
まずは机に並んだ香料を片っ端から試していた。目的があってのことではない。
私はいま、夜の海で漂流している。陸地はどこかも分からず、月明かりすらない。とにかくがむしゃらに船を漕ぎ、目を凝らし続けるしかない。どこかに灯台の光が見えないかと、願いをかけるように。
まったく新しい香水を調合する必要はなかった。
エリックのお母さんが使っていた香水は”暁の花精”で間違いがない。これをベースにして、あとは何をどうやって加えるか、という視点があればいい。
作りたい香水には、エリックのお母さんの香りが欠けている。そしてそれを再現することは不可能だ。
だけど、それをなんとかしたい。
考えたって分からない。
考えている限り、手は止まってしまう。
だから、考えながら手を動かし続けるしかなかった。
エリックが残していった”暁の花精”の補充用の小瓶を、ベースの素材として勝手に使わせてもらう。明日、弁償するつもりだ。今はとにかく時間が惜しい。
魔法。
それはきっと願いを託す手段だ。けれど、どんな願いを託せばいいのか。
三回、魔法をかけようとしてみた。
アシュレイ様のための香水を生み出した時と同じように、集中して、香水に力を込めようとして。けれどダメだった。まるで手応えもないし、自分の中から湧き起こるものもない。あのときと何が違うのか? それさえもわからない。
何かが違うのか、足りていないのか。とにかく、これじゃだめなのだ。
毛糸を撚るようにして繋げていた集中が、ぷつっと途絶えた。
私は水中から水面に顔をのぞかせるように顔を上げて、深く息をつく。
背もたれに身を預ける。
「……わかんない」
机上は調香皿と香料で埋め尽くされていて、あらゆる香りが混ざり合っていた。
やみくもに試すだけの方法では、どうにもならない。それがはっきりとわかってしまった。
立ち上がって、窓を押し開けた。空気を入れ替えないと、匂いの区別もつかなくなっている。
夜風がそよそよと入ってきた。雨はいつの間にか上がっていた。水気を残した空気が頬にひんやりと冷たい。空にはまだ幅の厚い雲が連なっていたけれど、指で引っ掻いたような切れ間から月の光がぼんやりと滲んでいる。
「……ちゃんと、勉強しなきゃいけなかったな」
私の記憶のいちばん最初に、もう両親の姿はない。まるで空白地帯がそこにあるみたいに、ぽっこりと抜け落ちてしまっている。
ずっと祖母が私を育ててくれた。調香の全てを教えてくれた。それと魔法の扱い方の基礎的な部分だけを、私は受け継いでいる。
「扱い方を知らなければ、いつかあなたが困るでしょうからね」
魔法を人に知られてはいけないと祖母は口癖のように決まってそう言った。それから、魔法を学ぶには、ローズ・ウォーターが抽出されるように、時間と忍耐が必要だ、って。
私に少しずつ魔法の基礎を教えてくれ始めたある日、祖母は胸が痛むと言って寝床に入って、次の日、起きてくることはなかった。
今、祖母に会いたかった。魔法について、調香について、助言が貰いたかった。調香師としても、魔法使いとしても、私は半端者でしかない。
「……お茶でも飲もう。休憩して、もう一回」
折れそうになる自分の心を鼓舞するように言い聞かせて、私は部屋を出た。
誰もいない薄暗い居間を通り過ぎて、キッチンに入り、ケトルに水を満たした。それをコンロに置いて––––。
私は手を止めた。じっと耳を澄ませた。
「……?」
気のせい、だった?
コンロに火をつけようと手を伸ばして、再びその音が聞こえた。
かたかたと、硬いものがぶつかるような音。
何が音を立てているのか気になって、キッチンを出て音を探す。
窓からの風に何かが揺れているのだろうか。いや、音は調香室ではなくて、この居間から聞こえていた。
作業部屋に灯したランタンの柔らかい光が、暗い部屋に差し込んでいる。その光と影の境界にキャビネットがあって、音はそこから鳴っていた。
キャビネットの前にしゃがんで、ガラスの扉を開く。カタカタと鳴る音は大きくなっている。その正体が、目の前に明らかだった。
「……香炉の蓋が、揺れてる?」
そこに飾ってあるのは香りを焚くための小さな炉だ。よく手入れのされた古い品で、細かなヒビも入っている。祖母の遺品だった。昔はこれで香木や香油を焚いたりしたものだけれど、最近はしまいっぱなしになっていた。
その香炉の蓋が勝手に動いている。沸騰したお湯がケトルの蓋を押し上げるみたいに、不規則に揺れていたのだ。隙間が生まれるたびに、そこから薄薔薇色の光が漏れ出ている。
「なに、これ……?」
不気味とは思わなかった。そういう気配がないということもあるし、なによりこれは祖母が大切にしていたものだったから。ただ、なにが起きているのかと不思議に思う気持ちだけがある。
そのとき、揺れていた蓋が強く跳ねて、縁の弧線に合わせてぐるりと回って閉じると、ぴたりと静かになった。
私は指を伸ばして、香炉の蓋を摘んだ。
ひと呼吸。
そっと蓋を開けた時。
「––––ひゃっ!?」
白い塊が飛び出して私の頬を掠めていった。




