6「思い出を取り戻すために」
思い出というのはいつもはどこかに隠れているのに、ふとしたきっかけで溢れ出ることがある。誰しもが記憶の紐を何かと強く結びつけていて、あるきっかけで奥深くにしまい込まれた記憶が引っ張り出されるのだろう。
一度見たことを忘れない人がいる。一度聞いた声を忘れない人もいる。
私の場合は、それは香りだ。
いつの間にか石畳を流れるほどに強い雨が降り出していた。
雨の日の、石畳と土に染み込んだ水の埃っぽく湿った匂い。それは花や香木のような芳しさはないけれど、どうしてか懐かしさを感じさせる心地よさがある。自分の中に染み込んで、過去の思い出を引っ張る匂いは、その香りの良し悪しよりも大切なものを含んでいる。
日暮れまでエリックを待って店を開けていたけれど、この雨の中では夜に子どもが出歩くとも思えなくて、店を閉めてレストランにやってきた。夕食を準備する気力も湧かず、そんな日は外食に頼るのも仕方がないと自分に言い訳を立てている。
夜のレストランには雨をものともしない活気があった。窓から漏れ聞こえる絶え間ない雨音に、酒を片手に賑わう笑い声が混じり合っている。壁際の二人がけの席で、私はぼうっと店内を眺めている。
「今日の料理はあんまりだった?」
「えっ? あ、そんなことないよ。今日も美味しかった」
ほとんど反射的に返事をした。
いつの間にかザックがそばに寄っていたことに気づかなかった。
「それならよかった。でもどうかした? 元気ない?」
ザックがしゃがんで、私の顔を覗き込む。
男の人というのは、どうしてこうも背が高いのだろう。ザックがしゃがんでようやく、椅子に座っている私と視線が同じくらい。
心配してくれているザックの気遣いよりも、そんなことが気になってしまう自分に、なんだかまた嫌気がさした。
なんでもない、と咄嗟に答えようとして。
私を見つめるザックの柔らかな表情に、不思議と引き結ぼうとした口が解けた。
「……ちょっと、お客さんへの対応を失敗しちゃって」
「なるほど。僕もよくある。あとから気にしてずっと反省しちゃうやつだね」
「そう! そうなの! ああ、もっと上手くできたはずなのにっ」
心の中でずっとモヤモヤしていたものが、言葉という形にすると途端に胸を押しつぶすみたいに大きくなった。胸を押さえるべきか頭を抱えるべきか迷うくらい。私は頭を抱えるほうを選んでテーブルに肘をついた。
「もっと思いやりのある言葉をかけるべきだったし、あんなに簡単に無理だなんていうべきじゃなかったのに」
「無理難題を持ちかけられたの?」
「……普通に考えたら、無理、かな」
「じゃあ答えは変わらないわけだ。伝え方が良くなかったの?」
「伝え方も良くなかったんだけど」
私はそこで言葉を止める。
本当に無理なのだろうか?
私が悩んでいる理由はそこにもある。
普通に考えたら無理。これは間違いない。けれど、普通でない方法だったら、どうか。ずっとそう考えてしまう自分がいた。
アシュレイ様にそうしたように、エリックの望みを叶える魔法の香りを調香できないのか、って。
やり方は分からない。
だってやったことがない。
できるのかも分からない。
だって魔法のことすらよく知らない。
私は私の持つ魔法の力について学ぶ方法がないのだ。こんな時に祖母が、両親がいてくれたら、と思う。
私は次にエリックが来たとき、どんな顔を向ければいいのか。ただ謝って、私にできたかもしれないことを知らんぷりをしたまま、またあの小さな背中を見送ればいいのか。それで、正しいのだろうか。
「コレットがどんなことで悩んでいるのか、僕はよく分からないんだけどさ。聞いてくれる?」
子どもに言い聞かせるような優しい声音に、私は顔を上げた。
ザックは目尻の下がった瞳をやや細めて、かがむようにして私の顔を見上げる。
「いま、何かをするべきかしないべきか、それで悩んでるでしょ?」
「な、なんでわかるの」
「コレットの顔に書いてある。これは僕の勝手な意見だから、聞き流してくれていいんだけど。らしくないよ、やらないことを悩むなんて」
ザックは悪戯っぽく微笑んだ。
「長い付き合いじゃないけど、それでも僕にわかることがある。コレットは、まっすぐ夢中で突き進んで、壁に当たってひっくり返ったって諦めない人だ。なのにまず進むかどうかで迷うなんて、コレットらしくないんじゃない?」
「……わあ。すごい勝手な意見」
「そうでしょ」とザックは自慢げに頷いて。「怒ったかな?」
「ううん」と私は首を左右に振って。「すっきりしたかも」
どうしてこんなに悩みを解決するのが上手いのだろう、と私は感嘆していた。
「ザックって、占い師とか、相談役とか、そういう仕事を始めた方がいいと思う。繁盛するよ、絶対。私が保証する」
「魅力的な転職先だね。でもいまはここで料理を作るのに手一杯だ。しばらく悩み相談の顧客はコレットだけにしておくよ」
「悩みを聞いてくれてありがとう。私、ちょっとやりたいことができたから、店に戻らなきゃ」
私は食事の代金をテーブルに置いて立ち上がる。
頭の中のモヤが晴れると、とにかく調香机の前に座りたくなった。どうすれば良いのかなんて見当もついていないけれど、手を動かしたい。
「あっ、今日の兎肉の煮込み、すごく美味しかった。お肉もほろほろだし、鼻に抜けるシナモンの香りが抜群だった! ごちそうさま!」
「それ、隠し味––––」
ザックの声を後ろに置いて、私はレストランを飛び出した。
外套のフードをかぶる間も惜しい。
髪の毛がざっと雨に打たれて、顔に水滴が滴り落ちる。
階段を上がって店に駆け込む。
そうだ、悩むってことは、私はそれをやりたいと思っているからだ。
行動したいのにやっちゃいけないと思う気持ちが身体と心を堰き止めてしまって、それが苦しかったのだ。
びしょ濡れのまま店を通って、居間のコート掛けに外套を放り投げる。
調香部屋に駆け込んでランタンに火を灯した。
まぶたにこびり付いているものがある。
あの子、エリックの泣き顔だ。
望みは不可能だと突きつけられて、それを自分でも認めるしかないとわかっている顔。そしてその不可能を無遠慮に、気安く言いつけてしまったのは、私だ。
このままじゃ、私はあの顔をいつか忘れてしまう。
どれほど忘れたくない、忘れられないと思っていたって、目で見た記憶は薄れてしまう。今こうして後悔している気持ちさえ、数ヶ月もすれば煙のように流れてしまう。
忘れることで自分の悔いをなかったことにするなんて、私は嫌だ。もし失敗したままだとしても、私は私の後悔を忘れたくない。
作業用のエプロンを首から下げて、腰で結ぶ。調香机に座る。濡れた髪もそのままに後ろでひとつにまとめて、頬を叩く。
エリックのために、香りを作ろう。
その香りは私の記憶に深く結びつく。そうすれば忘れることはない。
私は私の失敗を忘れない。
だから、この調香はあの子のためでもあって、同時に、私自身のためでもある。
「……いなくなってしまった人の香りを、あの子にもう一度、届ける」
それは、亡き人と再会できる香り。
そんなことができるのか分からずとも、私は自分の力を、魔法を注ぎ込みたい。
「––––ごめんね、おばあちゃん。約束、破ります」
目を閉じて呼吸を落ち着ける。
また開く。
その時にはもう、頭の中には香料とその配合のことだけを考えている。




