5「その後悔の取り消し方」
「––––聞き捨てならないな」
低く、それでいて水面のように穏やかな声は、不思議と店内に響いた。その声に魔法でもかかっているのか、あるいはそうして声音ひとつで人を操ってしまうのが貴族というものなのか、私と男の子は自然とアシュレイ様に顔を向けた。
アシュレイ様は壁に背を預けて腕を組んだまま、男の子に視線を落としている。
「お前の目の前にいる調香師は、俺が出会った中で最も優れた腕を持っている」
「じ、じゃあ、なんで作れないんだよ! 同じ匂いじゃないんだ! こいつ、分かってないんだ!」
「お前、名は?」
「––––は?」
「俺は名を訊いてるんだ」
「……え、エリック」
「エリック。お前もいつかは人を使う立場にもなるんだろう。お前には礼儀が欠けている。感情的に自分の都合を押し付けることに利はない。それとも、そうした大人の振る舞いを求めるにはまだ早かったか?」
「は、馬鹿にするなよっ、俺はッ!」
とエリックは顔を赤くして怒鳴ろうとした。
けれどアシュレイ様が表情ひとつ変えずに見つめていることに気づくと、ぐっと堪えてみせた。それから目を閉じて深呼吸をすると、私に向き直った。
「……悪かった。あの黒い兄ちゃんの言うとおり、礼儀がなかった」
「えっ、わ、き、気にしないで! 大丈夫」
思わずエリックとアシュレイ様を交互に見てしまう。アシュレイ様はもう我関せずという感じで、腕を組んだまま目を閉じていた。その瞳がわずかに開いて、視線が合う。私は慌ててエリックに顔を戻した。
「そ、それで、エリックは、これがお母さんの匂いと違うと思うんだよね?」
先ほどまでと打って変わって、エリックは静かに頷いた。
「母さんの匂いは、もっと、柔らかかったんだ。暖かくて、落ち着けて……この匂いじゃない」
「これがお母さんの使ってる香水で間違いはないんだよね?」
「いつも使ってるのを見てたよ。でもっ」
「あのね、匂いが違うのは、実は当然なんだ。香水って、つける人によって香りが変化するの」
「どういうことだよ……? 香水ってみんな同じ匂いをつけるもんだろ?」
「香水をつけた瞬間はね、香水が持つ匂いだけが香るんだ。でも、人には人それぞれの匂いもあって、時間が経つと混ざり合うの。例えば汗をかいたり、体温が高かったりするだけでも香りは変わってしまう。だから、香水が違うんじゃないんだ。この香水をお母さんがつけることで、お母さんの匂いになるんだよ」
エリックはぽかんと私を見つめ返していた。
私としては分かりやすく伝えたつもりだった。けれど納得した様子も、反論する様子もなく、むしろ進む道も帰る道もわからなくなってしまったことに気づいたみたいな顔だった。
「じゃあ、この香水は、母さんの匂いじゃないってこと?」
「ええと、そう、だね。お母さんがつけないと、お母さんの匂いにはならない」
「母さんの匂いは、作れない?」
「それは、難しいかもしれない」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
「え? ううん……人の匂いを香水で再現するには、か。そうだね、まずはお母さんと一緒に来てくれたら」
––––あ。
そのとき、エリックが浮かべた表情に、私はようやく事情を理解した。
エリックは顔を歪めて、唇を噛むようにして感情をこらえていたのだ。
自分の馬鹿さ加減に気づいてしまうとき、いつも自己嫌悪に陥る。
どうしてこんなこともできないのか。
どうしてそんなこともわからないのか。
それに気づく要素はあったはずなのに。気が回らなかった。思考が停止していた。エリックの言葉がなにを意味するのか、理解できていなかった。
「かあさん、しんじゃった」
ぽつりとエリックが言った。
「––––ごめんなさい。私、あの、お悔やみを」
「……いい。謝られることじゃない。いいんだ。分かった。ちゃんと言ってもらえてよかった」
「待って、違うの。それは」
「おれだって分かってた。人の匂いを作るなんて無理だって、父さんも言ってたから」
エリックはすとんと肩を落としていた。
先ほどまで気負っていたものをすべて手放してしまったみたいに力のない姿に、私はかける言葉を見つけられないでいた。
「……騒いでごめん。おれ、帰る」
待って、という私の声は、虚しく響くだけだった。意思がこもっていないからだ。もし本当にエリックを呼び止めても、その続きとなる言葉はない。私が今できることは、言い訳以外には何もなかったのだ。
だからエリックが足を止めるわけもなくて。店を飛び出していく背中をただ見送ることしかできなかった。
ドアベルが鳴り響いている。それはだんだんと音を小さくして、ほどなく店内には無音だけが残った。
「気にするな、と言っても無理だろうな」
アシュレイ様の声は先ほどと変わらなかった。労りや心配の柔らかなものはこもっていなくて、だからかえって、私にはそれが嬉しかった。
もし私の心に寄り添うような言葉をかけられたら、私は自己嫌悪で地面にめり込みたくなっていただろうから。
「願いがいつも叶うわけじゃない。この世の中は思い通りにいかないことばかりだ。それはあの子どもも分かっているさ」
「……私は、配慮のないことを言ってしまいました」
「自分の知らないことまで配慮などできないだろう」
「よく考えもせずに、無理だ、と」
「よく考えれば答えは変わったのか?」
「––––っ、それは」
芯を貫くような言葉に、私は口籠もる。
アシュレイ様の言うとおりだ。よく考えてもきっと答えは変わらない。
こうして後悔するのは、きっと独りよがりなことだ。もっと言い方があったとか、もっと早く気づいていればとか。仮定の後悔をしてしまうのは、胸に残る後味の悪さをどうにかしたいと思う自分のわがままなのかもしれない。
「己の後悔をなんとかしたいと考えたとき、人は行動に移すものだ。自分が間違っていたと認めて、今度はその間違いを取り戻そうと躍起になる」
アシュレイ様は私に話しかけるというより、世間一般の常識を読み上げるみたいに、平坦な声で言う。
「あの少年にも、何かしらの後悔があるんだろう。自分の間違いをどうにかしたいと考えて、自分なりに方法を考えた。しかしそれはうまくいかないと分かった。そうやって繰り返すしかない」
アシュレイ様が身体を起こし、カウンターに歩み寄った。
「もし、きみがいま後悔を抱えているなら、自分にできることを考えてみたらどうだ? 方法があるにせよ、なきにせよ、機会はもう一度あるだろう」
「……あ、香水瓶」
アシュレイ様が手にしたのは、カウンターに置かれたままの香水の瓶だった。
エリックにとってはお母さんの形見だ。このまま置きっぱなしにはしないだろう。取りに戻ってくるはずだった。
「こちらの話をまたの機会にしよう。心ここに在らずでは、契約もまともにならないしな。改めていうがこれは正式な申し出だ。よく考えておいてくれ」
懐から出した契約書をカウンターに置いて、アシュレイ様は店を出て行った。
再びドアベルが鳴って、それが静かになると、店内にはしんとした、腰の落ち着かない沈黙が広がった。
私は立ちすくんだまま扉を見つめている。厚く長く空の下端にかぶさっている雲から、やがてひとつふたつと雫が落ちてきた。窓がカタリと鳴るほどの風が吹いて、窓に水滴が細い線を引いて打ち付けられる。ぽつぽつと降り始めた雨はすぐに勢いを増して、窓はすぐに水滴に覆われてしまった。
あっという間に薄暗くなった店内に残って、私はエリックが香水瓶を引き取りに来るのを待った。
もし来たときには、と何度も仮定を繰り返した。
どんな言葉をかけよう。どんな風に謝ろう。あるいは、調香師として、どう振る舞おう。
どの仮定にも満足のいく結末はなかった。私の言葉は中身もなく空っぽのまま雨音に掻き消されるだけだった。
私に、できることはなかった。どれほど言い訳をしたって、今は亡き人の––––私自身の知らない香りを調香する方法は存在しない。
日が暮れるまで待ったけれど、結局、エリックは来なかった。
そのことにほっとしてしまう自分がいて、それが腹立たしかった。




