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腹ペコ魔女の小さな香水店〜あなたのお悩み、香りで癒します〜  作者: 風見鶏
2nd notes 「亡き人を想う香り」

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3「人生を変える署名」



「驚くのに準備をする人間がいるとは知らなかった」

「ど、どうして平然としてるんですか!?」

「俺が持ってきたんだから当然だろう」

「そうでした! 専属契約!? 調香師の夢じゃないですか! しかも伯爵家!?」

「伯爵家に思い入れでもあるのか?」

「いえ、爵位の高い方がお給金が良いと耳にしたことがあります」

「––––そうか。まあ、その認識で構わない」

「あ、なんだか呆れられた気がします」

「……もっと重要視するところがあるんじゃないか? うちは一応、伯爵家の中でも伝統の長い名家ではあるんだが」

「お金は重要ですよ!?」

「うおっ」


 私は身を乗り出す。


「貴族さまにとっては家格ですとか伝統ですとか、あとは、ええとなんでしょうか、宮廷内の地位とか、領地の場所、とか? たぶんいろいろと重要な部分があるとは思います!」

「あ、ああ」

「ですがっ! ですけれどもっ! 私たち庶民にとっては、お給金––––! その日に使えるお金! その日の夕食と仕入れる香料を天秤にかけて頭を悩ませなくてもいいことっ、それが、重要なんです!」


 私は拳を固めて力強く宣言した。

 調香師というのは、とにかくお金がかかる仕事だ。


 良い香料は必ず高いと相場が決まっている。あれやこれやと調香の理想はあっても、香料がないために断念し続ける毎日なのだ。


「だから調香師は専属という言葉に憧れるんです。お金持ちの……それこそ貴族の専属になれば、指を咥えるしかなかったあんな香料やこんな香料がいくらでも使えるんですから。ああ、まるで夢物語……」


 これまでお金がないという理由で通り過ぎてきたいくつもの香料が思い浮かんだ。金額云々以前に、そもそもめったに市場に出てこない香料だってあった。


 悩みに悩んで手が出ず、それから何ヶ月も「やっぱり無理してでも買っておくべきだった」と歯噛みし続けたあの日々!


「そうか。では、君にとっても都合が良いわけだな。喜んでもらえるなら幸いだ」

「––––えっ?」


 アシュレイ様の顔を思わず見返してしまう。

 私の顔を、呆れたような、ちょっと戸惑ったように見ている。


「夢物語がまさに現実になるものを、君はいま握っているだろう。ほら、もう少し力を弱めろ。伯爵家当主の認可印のある正式な書状だ。皺になるのはよくない」


 私は自分の手を見下ろした。


「う」

「う?」

「うわあああああ! まだあった! 握ってました! 夢じゃないんだ!?」

「……頭が痛くなってきたな」

「ええそうでしょうね! 貴族さまはお気楽でしょうけど、こっちは人生が一変しそうなんですっ!」


 混乱。それが私のいまの状況だった。

 富籤の一等に当選したみたいに、現実味がないのだ。


 だって貴族さまに直々に勧誘されるなんて、普通はありえない。

 調香師というのは世襲制だったり、弟子を取ったりするのが普通で、専属の契約も大体が引き継がれる。よほどの才能を見せるか、新しい香りで名を売るかでもしないと、そもそも貴族さまに名を知られることすらない。

 私は改めて、まじまじと書状を見る。


 私の名前が書いてある。

 伯爵家の専属の調香師として契約する、と書いてある。


「あの、これ、本当に、間違いとかではないのでしょうか」

「間違いなく正式な書類だ。話は通っている。君がそこに署名すれば、その時から君は当家の専属の調香師となる」

「うわあ」

「そしてその時より、うちの屋敷に住んでもらう」

「うわあ?」


 え、そういうものなんですか、と思わずアシュレイ様を見返してしまう。


「あ、あの……呼ばれるたびに出仕するという形では……?」

「一等地に店や工房を構える調香師はそうだろうが、邸宅内に工房を用意して住み込む調香師も多いと聞く。きみもその方が固定費が減っていいんじゃないか?」

「うっ、それは……」


 お得意さまが何人といて店の賑わう一流の調香師であれば、邸宅に住み込むことで失うものも出てくる。けれどアシュレイ様が言外に匂わせたように、私の店は事実、黒字よりも赤字が続いていた。

 たしかにこの店を引き払って、伯爵家の邸宅にお部屋をいただけば、家賃も節約できる。けれど……。


「工房も用意する予定だ。きみが必要とする道具や材料も好きに購入して構わない」

「えっ、いいんですか!? 私の好きな香料は、た、高いですよ!?」

「いくらでも好きにしろ。ただし、きみが邸宅に住み込むことが条件だ。これは譲れない」

「……あの、どうしてそこまで住み込みに?」

「きみを他の貴族に奪われては困るからだ」

「ひゃっ」


 光に困らない昼間に見上げるアシュレイ様の容貌は、それはもうすごかった。すっと真っ直ぐな鼻梁は顔に影を作っている。鼻ってあんなに高くなるんだ。


 それに比べて私の鼻ときたらいやこれまでずっと付き合ってきてくれた鼻に不満があるわけではなくて。

 頭の中をぐるぐると関係ない思考が巡っていた。

 戸惑っている、というのがいちばん近いと思う。


「あ、アシュレイ様、落ち着きましょう! わ、私には心に決めた人が!」

「いるのか?」

「……いないです」

「ならば当家の専属調香師になることに問題はない、というわけだ」


 アシュレイ様が万年筆を取り出して私に差し向ける。


「さあ、署名を」と促す声。

 私は手を伸ばしてしまう。

 貴族さまの専属の調香師?


 私が? 

 名前を書くだけで、人生が変わる?

 これまでとは何もかも?

 憧れていた生活が急にやってくる?


 いいのか、私?

 何もかもが現実離れした白昼夢のようにすら思えてきた。

 万年筆を受け取る。すべすべと冷たくて、ずっしりと重い。


 ペン先を書状の紙面に近づけたとき––––ドアベルが鳴った。

 




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