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腹ペコ魔女のひねもす香水店 〜満たされない日々に、香りをひと雫〜  作者: 風見鶏
2nd notes 「亡き人を想う香り」

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11/25

1「請求書はいつだって現実の香り」



 この世界は匂いでできている。見慣れたものを見逃してしまうように、嗅ぎ慣れた匂いを人は嗅ぎ逃してしまうものらしい。


 日の出より早く起きることが日常になれば、朝日の美しさを当たり前のものとするし、夜に出歩く仕事をしていれば、月の美しさよりも眠気の億劫さにばかり意識が向かう。


 人は誰だって美しいものを尊いと思うはずなのに、とかく美しさというのはすぐに慣れてしまうみたいだ。とくに、匂いというのは目に見えなくて形がないから、意識して気を向けなければその美しさはなかなかわからない。

 顔の真ん中についているというのに、目よりも、耳よりも、口よりも、鼻というのはその使い方を知らない人が多い。それが勿体無い、と私なんかは思ってしまうのだけれど。


 朝、調香机の横にある窓を開けて椅子を寄せ、私は目を閉じる。

 この街は早起きだ。もうとっくに市場は開いていて、駄竜の引く荷車の車輪が石畳を噛む音に、働く人たちの威勢の良い声が賑やかに聞こえている。そういう、街の生活を形作る無数の音に耳を澄ませるのが、私は好きだった。


 それから窓辺に肘をついて、両手の人差し指で耳の穴を塞ぐ。途端に喧騒は水中のようにくぐもって、こんどは私の身体の中で静かに唸る音が聞こえてくる。

 それは嵐の日の風鳴りに鎧戸の内で聞いているような、守られた安心感がある。


 最後に目を閉じてしまって、耳を塞いでしまって、口をきゅっと結べば、自ずと嗅覚が鮮明になる。

 鼻孔を開いてすうっと肺を膨らませると、今までは目で、耳で、捕まえていた世界が、香りという輪郭で描かれているのが分かる。


 運ばれていく牧草の青く乾いた匂い。

 窯で休みなく焼き上げられるライ麦パンの香ばしさ。

 朝日によって温められた家々の壁の木板がまとっていた夜露に残った夜の残り香。


 風が吹けばそこには朝の匂いが混ざり合っている。今日の風はどこかほんのりと湿っぽい香りを含んでいて、ああ、今日は雨が降るかもしれないな、と思う。

 目で見て世界を確かめる人がいて、耳で世界を聞き取る人がいる。


 だったら私は、鼻で世界を嗅ぎ取る人間だろうと思う。それぞれに世界の捉え方が違っていて、きっとそれぞれに美しさの測り方というものがあるのだろう。

 そのとき、ふわりと際立つ朝の匂いが漂った。


 この時間、いつも階下のレストランの厨房から、朝の仕込みの匂いがあふれる。昼食のために、今日もザックが料理をこしらえているのかなと思う。


「––––今日はアリゴトかあ」


 煙の中には特徴的な香りが混ざり合っている。

 タマネギが炒められる時のすっきりとした鮮明さ。この辺りではリーキやポロネギと呼ばれる、普通の二倍も太くて厚みのあるネギの控えめな甘み。白ワインが煮立っているのが、アルコールと酸味の強い葡萄の爽やかな匂いで分かる。


 そこに白身魚とローリエやタイムなどの香草を加えて煮込むことで、甘味と酸味の溶け合ったさっぱりと胃を温める昔ながらの伝統的なスープが出来上がる。


 口に入れたら魚の身がほろほろとくずれて、煮溶けたタマネギとリーキが甘くからんで、鼻の奥からは輪郭を緩めた甘やかなスープの香りと、後味にすっきりと香草と白ワインの残り香が抜けて、いくらでも飲み干せる爽やかな味。


 思わず目を開けて、口の中にあふれた唾液を飲み干した。

 料理人ってすごい調香師かもしれない、と思う。私はお腹の空く美味しい料理の香りを調香することができるだろうか? うん、いつか試してみたいな。


 思わず、しばらく居座って美味しい匂いを楽しんでしまった。いけないいけない、とかぶりを振って、思いを断ち切るように窓を閉めた。こんなに美味しい匂いを嗅いでいたら調香に集中できないし。


 調香机の横に設置した棚から小瓶をひとつ、それから小ぶりの香扇を取り出した。貴族の貴婦人方が使うような装飾の美麗なものではなくて、木組の骨に布を張った簡素なものだ。


 布地には申し訳程度に薔薇と蔦の刺繍が施されているけれど、あまり見られたものじゃない。淑女の嗜みだから一応、と思って自分で針と糸を通してはみたものの、自分が淑女とは程遠いということが分かっただけだった。


「……まあ、ね。使えればいいし。うん」


 ずいぶん頑張ったと自分では褒められても、人前で持ち出すほどの勇気はなく。こうして部屋で使うばかりだ。

 小瓶の中には、先日、アシュレイ様に調香した「香りを消すための香水」が入っている。アシュレイ様が同じものが欲しいとおっしゃったときに比較し、調香できるようにするための予備でもあり、私自身、これって便利かも、と気に入って使うためのものでもあった。


 香扇を広げ、小瓶から二滴、布部分に垂らす。本来であれば、香水を染み込ませた扇を仰いで風を送れば、部屋にふんわりと香りを漂わせることができる。自分に向けていればどこでも長く、自分だけが香りを楽しめる。


 けれどこの特別な香りには私の魔力が込められていて、その風を送れば、部屋の香りを無臭にすることができると気づいたのだ。扇でぱたぱたと仰ぐだけで、先ほどまで部屋に残っていた美味しい料理の香りが––––ちょっと名残惜しい気もするけど––––すっかり消えている。


 意図しない香りを消せるというのは、調香に集中する上で非常に助かる利点だった。アシュレイ様のために作った香りだけれども、私にとっても価値のある香りになっている。

 小瓶と扇を片付けて、作業机の上に置いていた何通かの封筒を取る。レターナイフで封を開けて目を通して、私はふうとため息をついた。


「……誰かのせいにしたいけれど、私の顔しか思い浮かばない」


 請求書である。


 調香をするのに欠かせないのは香料で、そういうものは薬草市場で買うばかりではなくて、専門のお店に手配を頼むものも多い。そういう希少な香料ほど、当然だけれど値段も高いもので。


 特に先月は、宮廷で流行っているというムスクやアンバーといった香料を試したくて仕入れたし、ローズ・ウォーターのために薔薇の花弁も手配してもらった。


 どれも必要だったのだと言い訳はしたいけれど、請求書はすんとした無関心な顔で金額だけを訴えてくる。

 とはいえ、普段はここで頭を抱えてやりくりに苦心するところだったけれど。幸いにも、支払いの目処はもう立っていた。アシュレイ様が即金で支払ってくれていたおかげだ。ただ、それを本当に使っていいものかは悩ましい。


 今回、私がローズ・ウォーターを精製するために仕入れた香料は、貴族の方々が常用するものと比べればふたつもみっつも格は落ちる。


 それを説明はしたのだけれど、あの日、アシュレイ様は手持ちの袋をそのまま置いて帰られたのだ。断る隙もなく、貴族の方が置いていったお金を突っ返す勇気もなく、私はそれを受け取った。


 私が魔法によって作った香水ではあるけれど、その付加価値を考えたとしても、明らかに貰いすぎだった。

 相応しいと思える以上の金貨銀貨の重みをどうしたものかと、今でも部屋の隠し金庫にしまっている。


「……やっぱり、まずはちゃんと価格を決めて、精算して、お釣りはお返ししなきゃ。うっ、でもそうなると今月の支払いが」


 請求書の金額と、自分の魔法に対する原価計算の誘惑に頭を悩ませていると、店の扉に取り付けたベルが鳴るのが聞こえて、私は椅子を蹴倒しそうになりながら部屋を飛び出した。




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