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花の香りが部屋に満ちている。
部屋の中央に据えた作業台の上では、使い込まれた蒸留器が火にかけられていて、薔薇の花びらの香りを濃縮した貴重なひとしずくを生み出している。その一滴ずつがフラスコに溜まっていくのをじっと見つめるのが、私にとって至福の時間だ。
四月の雨が五月の薔薇を美しくするように、咲き誇った薔薇の花びらを集めて、精製水を用いて蒸留することによって、上質なローズ・ウォーターが作られる。
ローズ・ウォーターの精製は、香水を調合するための香料を扱うよりも気楽だけれど、ふた籠の薔薇の花びらの金額を思い出してしまうと、背中がそわそわしてくる。調香に使える薔薇の品種は限られていて、鮮度も重要になる。とにかく高いのだ。
開いた窓にかけられたカーテンがそよそよと揺れている。
薔薇の香りと入れ違うように鼻をくすぐるものがあって、意識する前に鼻がくんくんと動く。
「––––むっ。お肉の焼ける香ばしさに、シナモンの甘さとローズマリーのすっきりした香り……今日の日替わりはスパイスミートパイか……」
職業病、と言うと格好はつきそうだけれど、気になる匂いをつい嗅いでしまうのは幼いころからの悪癖だった。
人前でも構わず何でも嗅いでしまうせいで、何度祖母に叱られただろう。それでも治らないのだから、この世界に私の興味をそそる匂いが多すぎるのが悪いんだ、ともう開き直っている。
私は立ち上がって、春の陽気が斜めにすとんと降り注ぐ窓に歩み寄る。
通りに面した二階からは、連なる街並みが見下ろせた。
太陽が中天にかかり始めた晴れた日に、普通の人が家に籠るわけがない。緩やかに曲がる石畳の道を行き交う人波の端っこに、今日もまた列が出来ていた。その行列を蛇の身体に例えるなら、頭はちょうど私の部屋の真下になる。昼時の、お腹を空かせた街人たちが、今日もまた階下のレストランに飲み込まれている。
私はちょちょっと小走りに作業台を回って、部屋を横切り、隙間を作っておいた扉を押し開いた。ソファとテーブルの並んだこじんまりとした居間は寝静まったように影が落ちていて、外の活気と比べたらまるでここだけが夜みたいだ。
部屋から顔を覗かせて、じいっと耳を澄ませる。
外扉の上につけた美しい銀細工のドアベルが鳴る音。
すみません、という呼び声。
そんな音が聞こえたら、すぐにでも駆け出そうと決めている。
けれど、わずかな期待を抱えた自分の息遣いばかりが聞こえるだけで、私はやっぱり今日も肩を落とす。また窓の前に戻って、眼下に連なる人の波を見下ろすと、腰に手を当てて首を傾げざるを得ないのだ。
人はこんなにもいるのに、どうしてひとりくらい、階段を上がろうと思わないのだろう?
階段の下には看板だって出しているのに。まったく、不思議だ。
はあ、とため息をついて。
出した分だけ息を吸えば、部屋に漂う薔薇の芳香に混じって、窓からきゅっと引き締まったスパイスミートパイの香りが私を惹きつける。
ぎゅるる、とお腹が勝手に抗議した。
祖母から引き継いだこの小さな借家で、私は香水や香り付きの石鹸、軟膏なんかを作って売っている。
『コレットの調香店』と掲げた看板は立派だけれど、街の片隅で、肩書きも後ろ盾もない調香店というのは、あまり流行るものではなかった。
祖母のころには通ってくれる常連さんも多くいたけれど、跡を継いだばかりの私には同じだけの品質を作る技量もなくて、お客さんを繋ぎ止めることができなかった。
必死に調香のために扱う花や香草、その調合の神秘にまつわる知識はこれでもかと詰め込んだけれど、お客さんはまだ戻ってこない。
社会についても知らないことばかりの私でも、店を始めてすぐに身をもって理解した真実というものがある。
––––香水じゃ、お腹は膨れないんだなあ。




